田重進
経歴
その体格は雄偉で、武勇と力量があった。後周の顕徳年間、重進は応募して兵卒となり、趙匡胤の麾下に属した。顕徳7年(960年)、趙匡胤の遼に対する遠征に従い、陳橋の変が起こって引き返すと、重進は御馬軍使に転じた。功を重ねて瀼州刺史となった。太平興国4年(979年)、北漢に対する征討に従い、凱旋すると、功績により天徳軍節度使を遥領した。太平興国6年(981年)、侍衛歩軍指揮使に任じられた。太平興国8年(983年)、静難軍節度使を遥領した。太平興国9年(984年)、黄河が滑州韓房村で決壊すると、重進は修築の夫役を統率し、決壊箇所を塞いだ[1]。
雍熙3年(986年)[2]、北征の軍が発せられると、重進は兵を率いて飛狐城下に進出し、袁継忠の計を用いて、飛狐南口に兵を伏せ、遼の将の大鵬翼とその監軍馬贇・副将何万通ならびに渤海軍3000人あまりを捕らえ、数千人を斬首し、1万人ほどを捕虜にした。北に40里追撃し、飛狐・霊州などの城を下した。蔚州に進攻し、牙校の李存璋らが遼の将の蕭啜理を殺し、耿紹忠を捕らえ、蔚州の官吏や民衆を帰順させた。曹彬の軍が敗れると、重進は軍を統率して定州に駐屯し、定州駐泊兵馬都部署をつとめた。雍熙3年(986年)、軍を率いて遼の領内に侵入し、岐溝関を攻め落とし、守城の兵1000人あまりを殺し、牛馬や輜重を鹵獲して凱旋した。雍熙4年(987年)春、彰信軍節度使を遥領した[1]。
淳化3年(992年)、真定尹・成徳軍節度使に転じた。ほどなく京兆尹・永興軍節度使となった。淳化5年(994年)、知延州に任じられ、復還鎮。至道3年(997年)、死去した。享年は69、侍中の位を追贈された[1]。
子女
- 田守信(六宅使)
- 田守吉(閤門祗候)[3]
脚注
伝記資料
- 『宋史』巻260 列伝第19
参考文献
- 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。