袁継忠

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袁 継忠(えん けいちゅう、938年 - 992年)は、北宋の軍人。本貫は振武軍[1]。

経歴

父の蔭官により右班殿直に任じられた。宋の太祖趙匡胤が潞州の李筠の乱を平定し、北漢を討つにあたって、継忠はいずれも参戦した。乾徳年間、宋軍が後蜀を征討すると、継忠は大将の劉廷譲の麾下に属した。後蜀が平定されると、継忠は知雲安軍となった。嘉州監軍・蜀州監軍を歴任した。開宝年間、宋軍が南漢を討つと、継忠は先鋒壕砦をつとめた。南漢が平定されると、継忠は功により供奉官に転じ、隰州白壁関に兵を駐屯させて守った。継忠は北漢に侵入して、3つの砦を落とし、将校2人を捕らえ、生口・馬・牛・羊・鎧・武器1万あまりを鹵獲した。近隣に駐屯する主将が功績なく譴責を受けることを恐れて、継忠に打ち明けた。継忠は獲得したものをこの将に分与した。都巡検の郭進とともに忻州と代州の地を攻略し、天平軍巡検に任じられた[1]。

太宗が即位すると、継忠は閤門祗候となり、梅山洞の反乱軍を撃破した。また唐龍鎮で辺境の部族を巡邏した。太宗が北漢に親征すると、継忠は参戦して鷹揚軍を破り、先頭に立って敵陣を陥した。遼軍が代州の境に侵入すると、継忠は兵を率いてこれを撃退した。功により通事舎人に転じ、高陽関に兵を駐屯させて守った。崔彦進とともに遼軍を長城口で破り、数万人を捕殺し、太宗に称賛された。ときに継忠に自ら功績を評定するよう勧める者があったが、継忠は答えなかった。趙保忠が入朝して夏州など5州の地を献上すると、綏州刺史李克憲が従わなかったため、継忠が派遣されて太宗の命を伝え、李克憲を率いて入朝した。継忠は西上閤門副使に任じられた。田仁朗とともに兵を率いて河西諸州を平定し、葭蘆川で西方の反乱軍を破った。継忠は引進副使となり、定州に兵を駐屯させて守った[2]。

雍熙2年(985年)、継忠は西上閤門使に転じた。雍熙3年(986年)、大将の田重進が遼に遠征すると、継忠は定州路行営馬歩軍都監となった。軍を率いて飛狐を奪取し、霊丘を下し、蔚州を平定し、遼将の大鵬翼を捕らえて献上した。軍を返すと、継忠は殿軍をつとめ、その行列は整然としていた。定州に到着すると、田重進は降兵のうち期日に遅れて到着した者を斬ろうとしたが、継忠が降兵を殺すのは不祥であると諭したため、みな救免された。継忠は判四方館事となり、播州刺史を遥領し、もとのまま定州に兵を駐屯させた。大将の李継隆が易州静塞軍の騎兵を麾下に属させ、その妻子を城中に養った。継忠は静塞軍の兵に城を守らせるよう進言したが、李継隆は聞き入れなかった。やがて遼の侵入があり、城が陥落すると、静塞軍の兵の妻子たちはみな捕らえられた。李継隆は静塞軍の兵たちが自分を恨んでいると疑い、諸軍に分属させようとした。継忠は静塞軍の軍額を昇格させ、俸給で優遇するよう諫めた。李継隆は継忠の言に従った。継忠は自ら請願して静塞軍を麾下に属させた[3]。

遼の騎兵が大挙してやってきて、唐河の北に駐屯すると、宋の諸将は城壁を固めて待ち受けようとした。継忠は城中の兵が手をこまねいていると、敵に深入りされて他州が侵略されると説き、自分が先頭に立って戦うと宣言した。継忠の率いる静塞軍が先頭に立って突撃し、遼兵を潰走させた。淳化元年(990年)、継忠は引進使に転じ、鎮定関・高陽関の両路に兵を駐屯させて守った。淳化3年(992年)、病にかかり、開封に召還され、死去した。享年は55[4]。

家族

脚注

  1. 1 2 3 宋史 1985, p. 9004.
  2. ↑ 宋史 1985, pp. 9004–9005.
  3. ↑ 宋史 1985, p. 9005.
  4. ↑ 宋史 1985, pp. 9005–9006.
  5. ↑ 宋史 1985, p. 9006.

伝記資料

  • 『宋史』巻259 列伝第18

参考文献

  • 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。