発心院

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発心院(ほっしんいん)は、大和国の興福寺にあった子院の一つ。大乗院の門徒に属する学侶の坊舎で、室町時代中期以降、大和の国人古市氏が代々子弟を入れた。江戸時代には玉林院と称し、慶応4年(1868年)の興福寺一山の復飾によって廃絶した。跡地は現在の奈良市高畑町のうち、春日大社一の鳥居の東南にあたる。

概要

大乗院の庭園を描いた『南都大乗院林泉真景』(宮崎豊広写、1893年)

興福寺の学侶が住した坊舎の一つで、『大乗院寺社雑事記』が大乗院門徒の坊々を書き並べた箇所にその名が見える[1]。史料ではしばしば龍花院と組にして扱われ、「龍花院之内発心院」あるいは「龍花院方発心院」と記される[2][3]。

法相宗の教学をめぐる談義がたびたび催され、坊に伝わる聖教が正本として貸し出された[4]。閻魔講や報恩講も営まれ、維摩会には屏風を出している[4][5]。代々受け継いだ舎利を蔵し、その数は数百粒に及んだという[6]。

沿革

鎌倉時代

発心院を号した興福寺別当が知られる。法務大僧正実信は発心院と号し、摂政基通の子で、康元元年(1256年)10月17日に58歳で没した[2]。ただしその没年を康元2年とする記録もあり、没月日・享年・父を近衛基通とする点は一致しながら年号のみが異なる[7]。なお康元の年号が用いられたのは康元元年10月5日から康元2年3月14日までで、同年3月14日に正嘉へ改元されている[8]。嘉元元年(1303年)の維摩会講師をつとめた良信も「後発心院」と号した[9]。

実信の忌日にあたる10月17日は、15世紀の大乗院でも「発心院御忌日」として営まれている[1][9]。鎌倉期の別当を祀る営みが室町期まで途切れていないことになる。

古市氏の坊として

15世紀半ば以降、発心院には古市氏の縁者が続けて入った。前大乗院門主の経覚は、発心院については古市に由緒があると書きとめている[10]。坊主懐実の入院も、古市氏が重ねて願い出たため経覚が折れる形で決まった[11]。

1455年(享徳4年)閏4月、坊務は古市胤憲の子である宜胤(禅実房)に命じられた[2]。1458年(長禄2年)、宜胤が世俗の事務を引き受けず、坊務を代官の長実(禅観房)に預けたままにしていたところ、長実が坊領の年貢を収めるばかりで修理を怠ったため、宜胤の母吉岡尼が経覚に訴え出た。経覚は宜胤に坊務を執らせ、坊舎を引き渡させている[12]。この長実は禅観房と号し、因幡公とも呼ばれた。1463年(寛正4年)6月16日に没している[13]。

1465年(寛正6年)、宜胤の甥にあたる澄胤が14歳で門徒に加わり、宜胤の弟子となった[3]。澄胤は1475年(文明7年)に古市氏の家督を継ぐため坊を出るが、その後も発心院を宿として奈良に滞在している[14]。のちに坊主となった覚胤(禅乗房)は胤栄の猶子で、実父は伝法院坊主の源春律師であった[15]。1486年(文明18年)には覚胤の母が、無沙汰の続いていた越田尻荘の切米を30貫で買い取り、発心院に寄進している[16][17]。

坊務と礼物

坊務を命じる権限は大乗院の側にあり、退院を命じられた例もある[18]。坊主が代わるたびに坊務替の礼物が門跡へ納められた。1466年(文正元年)に宜胤が没した際、尋尊は毎度千疋が慣例であり、近ごろは実弘が千疋、懐実が七百疋、宜胤が千疋であったとして、これを古市氏に伝えている[19]。請求先が坊にいる僧ではなく後ろ盾の家であったことを、幡鎌一弘はこの坊と古市氏の関係を示すものとみている[18]。

一方、後住を選ぶ権限は古市氏の側にあり、選ばれた後住は古市氏に礼二百疋を納めた。幡鎌は、これらを古市氏が発心院を家の財産の一部と捉えていた証左と評価する[18]。

奈良における古市氏の拠点

衆徒の春日講の頭役は、古市氏が発心院で勤めるのが例となっていた[20]。学侶や六方衆の寄合の場ともなり、頼母子講も催されている[16]。1481年(文明13年)には古市澄胤が前夜から泊まり込んで大博打が行われ、尋尊は寺門の作法としてどうかと記した[14]。連歌や蹴鞠の会も開かれ[21]、合戦に際して胤栄が軍勢を率いて発心院に着陣したこともある[22]。

戦国時代から近世

古市氏が1579年(天正7年)に没落したのちも、後住を決める権限は古市氏に残った。1591年(天正19年)に坊主の善勝房が没して跡を継ぐ縁者がいなくなると、『多聞院日記』の記主英俊は、古市藤鷹の縁者にあたる深円房を相続の弟子とするよう勧め、これが容れられた[4]。翌年、跡式を深円房に譲ることに古市藤鷹が同意し、礼二百疋が納められて、12月に譲状が渡されている[4][23]。

江戸時代には坊の名が玉林院に改まっている。「興福寺領朱印幷坊舎知行之事」は山ノ上方の列に「玉林院」を挙げ、割注で旧名が発心院であることを示す。同じ体裁で「慈眼院〔初 千手院〕」「妙音院〔初 下松院〕」が並んでおり、改称した坊をこの形で書き分けている[24]。松尾芳樹も、発心院を高畑山ノ上にあった子院で玉林院ともいい大乗院方に属したものとする[25]。天正9年(1581年)の裏書はなお「山之上発心院」であるから、改称はそれ以後、朱印帳の作成以前にあたる[25]。江戸時代の知行高は86石7斗であった[26]。奈良町では上清水町や西新在家に家地子を有し、西新在家の一画は「発心院屋舗」と呼ばれた[27]。元禄11年(1698年)の西新在家の家数27軒のうち、北側2軒が発心院領であった[28]。これらは家地子を納める町の呼称であって、坊そのものの所在ではない[27]。後陽成天皇に仕えて道光法親王を生んだ古市胤子が1644年(正保元年)に南都へ下ったときには、発心院がその宿坊となった[23]。住持には古市氏の血を引く者が続き、1697年(元禄10年)には善性房が77歳で没している[3]。1757年(宝暦7年)には聖護院門跡が大峯入りの途次に発心院へ滞在した[29]。

所在

春日大社の一の鳥居(奈良市)

近世の呼称は「山ノ上」で、現在の奈良市高畑町にあたる。宝暦7年の聖護院門跡の下向を記した記事は滞留先を「山ノ上発心院」と書き、江戸期の朱印帳も玉林院を山ノ上方に分類している[29][24]。松尾芳樹は所在を高畑山ノ上とする[25]。『奈良井上町年代記抄』の註は、跡地を春日大社一の鳥居の東南、荒池の東北にあたる「四軒寺」の一部としている[29]。大雨で荒池の水が「発心院門前南三間程南」まで溢れたという記録もあり、門前が池の増水の及ぶ距離にあった[28]。

廃絶

発心院が個別に廃絶したのではなく、興福寺が一山まとめて寺でなくなった。慶応4年(1868年)3月、新政府による神仏分離の実施が興福寺に伝えられ、同年4月13日、興福寺は一山復飾願を提出して即日許容された。僧はみな新神司と称して春日社に奉仕し、寺は一時廃寺となる経過をたどった[26]。復飾後に僧が名乗った新姓の一覧には「穂積(玉林院)」が挙がっており、江戸時代の玉林院は堂上出身の学侶が住む坊になっていたとみられる[30]。

1943年に刊行された『奈良井上町年代記抄』の註は発心院を「今なし」と記すが[29]、実際の廃絶はその75年前にあたる。

脚注

  1. 1 2 『大乗院寺社雑事記 第2巻』、辻善之助 編・校訂、角川書店、1964年
  2. 1 2 3 『大乗院寺社雑事記 第1巻』、辻善之助 編・校訂、角川書店、1964年
  3. 1 2 3 『奈良県史 第11巻』、奈良県史編集委員会 編、名著出版、1993年
  4. 1 2 3 4 『多聞院日記』第1巻・第4巻・第5巻、三教書院、1935年-1939年
  5. ↑ 『大日本仏教全書』124(興福寺叢書 第2)、仏書刊行会、1922年
  6. ↑ 『大乗院寺社雑事記 第3巻』、辻善之助 編・校訂、角川書店、1964年
  7. ↑ 松園裕『牡丹と藤 — 摂家門跡家よりみた興福寺史』第1巻、1994年
  8. ↑ 国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」。
  9. 1 2 『大乗院寺社雑事記 第6巻』、辻善之助 編・校訂、角川書店、1964年
  10. ↑ 『史料纂集』[第10]第1(経覚私要鈔)、続群書類従完成会、1971年
  11. ↑ 『史料纂集』[第10]第2(経覚私要鈔)、続群書類従完成会、1973年
  12. ↑ 『史料纂集』[第10]第4(経覚私要鈔)、続群書類従完成会、1977年
  13. ↑ 史料研究の会 編『大乗院寺社雑事記総索引』上巻(人名篇)、臨川書店、1988年
  14. 1 2 『大乗院寺社雑事記 第7巻』、辻善之助 編・校訂、角川書店、1964年
  15. ↑ 『大乗院寺社雑事記 第10巻』、辻善之助 編、三教書院、1935年
  16. 1 2 『大乗院寺社雑事記 第8巻』、辻善之助 編・校訂、角川書店、1964年
  17. ↑ 海老澤美基「一五世紀大和の女性たち — 『大乗院寺社雑事記』の分析を通して —」『総合女性史研究』第12号、1995年5月、1-18頁
  18. 1 2 3 幡鎌一弘「近世寺僧の「家」と身分の一考察 — 興福寺の里元を手がかりに —」『ヒストリア』第145号、大阪歴史学会、1994年12月
  19. ↑ 『大乗院寺社雑事記 第4巻』、辻善之助 編・校訂、角川書店、1964年
  20. ↑ 『大乗院寺社雑事記 第11巻』、辻善之助 編・校訂、角川書店、1964年
  21. ↑ 石井倫子『風流能の時代 — 金春禅鳳とその周辺』、1998年
  22. ↑ 『大乗院寺社雑事記 第5巻』、辻善之助 編・校訂、角川書店、1964年
  23. 1 2 前嶋真吾「奈良文化財研究所所蔵『古市氏由来幷古市新城之絵図』について」『奈良学研究』第16号、帝塚山大学奈良学総合文化研究所、2014年、79-108頁。
  24. 1 2 「興福寺領朱印幷坊舎知行之事」(『大日本仏教全書』第119冊、仏書刊行会、1922年、464-470頁)。
  25. 1 2 3 松尾芳樹「六角堂能満院工房と律僧憲海」京都市立芸術大学、2015年。
  26. 1 2 泉谷康夫『興福寺』吉川弘文館、1997年。ISBN 4-642-06655-1
  27. 1 2 村井古道『奈良坊目拙解』綜芸舎、1977年
  28. 1 2 『日本歴史地名大系 第30巻 奈良県の地名』平凡社、1981年。
  29. 1 2 3 4 高田十郎 編『奈良井上町年代記抄』桑名文星堂、1943年
  30. ↑ 永島福太郎『奈良文化の伝流』目黒書店、1951年。

参考文献

  • 幡鎌一弘「近世寺僧の「家」と身分の一考察 — 興福寺の里元を手がかりに —」『ヒストリア』第145号、大阪歴史学会、1994年12月
  • 泉谷康夫『興福寺』吉川弘文館、1997年。ISBN 4-642-06655-1
  • 村井古道『奈良坊目拙解』綜芸舎、1977年
  • 高田十郎 編『奈良井上町年代記抄』桑名文星堂、1943年
  • 前嶋真吾「奈良文化財研究所所蔵『古市氏由来幷古市新城之絵図』について」『奈良学研究』第16号、帝塚山大学奈良学総合文化研究所、2014年、79-108頁
  • 「興福寺領朱印幷坊舎知行之事」(『大日本仏教全書』第119冊、仏書刊行会、1922年)
  • 松尾芳樹「六角堂能満院工房と律僧憲海」京都市立芸術大学、2015年
  • 永島福太郎『奈良文化の伝流』目黒書店、1951年
  • 『日本歴史地名大系 第30巻 奈良県の地名』平凡社、1981年

関連項目