
白松 篤樹(しらまつ あつき、1894年(明治27年)7月21日[1] - 1941年(昭和16年)7月9日[2])は、日本の内務官僚。官選大分県知事。旧名・喜久代、1932年6月に「篤樹」と改名[3]。
静岡県出身。白松六治郎の三男として生まれる[1]。第一高等学校を卒業。1917年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し内務属となる[1][3][4]。
1920年11月、大分県理事官・内務部地方課長に就任。以後、大阪府理事官、臨時震災救護事務局事務官、大阪府地方事務官、復興局事務官・整地部施業課勤務、同局書記官・経理部会計課長、内務事務官兼同書記官、警保局図書課長、衛生局医務課長、大臣官房都市計画課長を歴任[3]。
1936年4月、大分県知事に就任。結核療養所・繭検定所・少年救護院の新設、取締船建造など、特に衛生保健関係の施策に尽力。1937年7月、眼病のため休職となった[1]。
1941年7月、死去。
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