真崎堰

ウィキペディアから、無料の百科事典
真崎堰
2026年4月
真崎堰頭首工
水系 二級河川馬場目川水系
種別 かんがい用水路

テンプレートを表示

真崎堰(まさきぜき)は、秋田県南秋田郡五城目町、井川町、および潟上市にまたがるかんがい施設(用水路)である。二級河川馬場目川から取水し、約900ヘクタールの農地を潤している。江戸時代初期、地頭の真崎長右衛門(まさき ちょうえもん)によって開削されたことに始まり、地域開発の礎となった。

概要

真崎堰は、五城目町帝釈寺地内にある「真崎堰頭首工」を起点とする用水路である。その受益地は五城目町、井川町、潟上市(旧飯田川町域を含む)の3市町に及び、この地域の農地を支える水利施設となっている。古くは、統合前の複数の堰を総称して「三本堰」と呼ばれた歴史を持つ。

歴史

開削と真崎長右衛門

真崎堰の歴史は、1617年(元和3年)、秋田藩の家臣でこの地の地頭であった真崎長右衛門(季富)が、自身の知行地を開田するために馬場目川に堰を築いたことに始まる[1]。

当時、現在の五城目町・井川町付近は広大な低湿地であり、新田開発には大規模な治水と利水が必要不可欠であった。長右衛門は、一日市(ひといち)、大川、夜叉袋(やしゃぶくろ)など、後に「真崎七ヶ村」と呼ばれる地域の良田化を目指し、私費を投じて堰の建設と新田開発を強力に推進した[2]。

三代にわたる事業と三本堰

この開削事業は真崎長右衛門(季富)一代で完成したものではなく、世継ぎの政綱(正親)・政武(彦四郎)と三代にわたって脈々と受け継がれた継続事業であった[1]。

当初、この地域には真崎堰、大川堰、一日市堰の3つの取水口(堰)が独立して存在していた。これらは総称して三本堰(さんぼんぜき)と呼ばれていた[1]。後の時代、これら3つの堰が整理・統合され、現在の「真崎堰」としての形態が整えられた。この難事業を成し遂げた功績により、真崎長右衛門家は秋田藩より加増を受け、地域住民からも深く感謝されたと伝えられている[3]。

近代・現代の改修

戦後、かつての木造や石造の施設はコンクリート製の頭首工として整備された。

  • 1981年(昭和56年)度より、老朽化対策と水管理の効率化を目的とした大規模な改造工事が開始された。
  • 1984年(昭和59年)、総事業費約2億7千万円をかけ、近代的な自動開閉式水門を備えた新施設が完成した。これにより、洪水時の流木対策や魚道の整備など、環境にも配慮した現在の姿となった[2]。

施設と管理

  • 真崎堰頭首工:帝釈寺地内の馬場目川に位置する。
  • 受益面積:約903ヘクタール(五城目町・井川町・潟上市)。
  • 管理:馬場目川水系土地改良区が運用・保守を担っている[4]。

関連人物

真崎堰竣工記念碑
  • 真崎長右衛門(季富):初代開削者。江戸時代の初期に常陸国から佐竹氏に従い秋田へ入った真崎氏の一族。
  • 真崎勇助:真崎長右衛門家の末裔。明治期に地域で発生した水利紛争(水争い)の仲介役を務めるなど、農民からの信頼が極めて厚かった。現地にはそれらの功績を称えるため、当時の水利組合によって記念碑が建立されている[3]。

脚注

  1. 1 2 3 『五城目町史(近世)』
  2. 1 2 『広報ごじょうめ』第494号(1984年6月15日)
  3. 1 2 『羽州秋田 鱗勝院誌』
  4. ↑ 『馬場目川水系土地改良区の概要(202503ver)』秋田県秋田地域振興局

参考文献

  • 五城目町史編纂委員会 編『五城目町史(近世)』
  • 三浦賢童 編『羽州秋田 鱗勝院誌』
  • 『広報ごじょうめ』第494号(昭和59年6月15日発行)「ふるさと散歩 真崎堰」
  • 三浦鉄郎「八郎潟東岸平野における開発の歴史地理学的研究」『地理学評論』43-11、1970年

関連項目