真念法師の墓(洲崎寺)

宥辨 真念[1](ゆうべん しんねん、出生年は不明、没年は1692年〈元禄5年〉、または1691年〈元禄4年〉の説もある)は、江戸時代初期の高野聖。その生涯の長らくにわたり四国八十八箇所の巡拝を行うとともに、それにまつわる様々な活動を行って四国遍路を広く人々に知らしめたことから「遍路の父」「四国遍路中興の祖」と云われる。土佐国の生まれとされ、遍路巡拝を行わない時には大阪の寺嶋で暮らし、自らを抖そうする頭陀と称した[2]。

概要

遍路石(延命寺)
真念が四国に建立した現存する24基の標石のひとつ。「為父母六親菩提澄吟 別島也」と記されている[3]。

四国八十八箇所を20回以上歩いて巡拝し、四国遍路について現存する初めての旅行案内書と云われる『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』と、その霊験記である『四國徧禮功徳記』を出版し、また、遍路に宿を貸す人を募り、自ら遍路屋(真念庵)の建立や標石を200基余造立をして、庶民の四国遍路が定着したとされている。

また、雲石堂寂本[4]の『四國徧禮霊場記』の作成に資料を提供した。同記には、初めて各寺の風景が描かれていて、当時の寺の様子が視覚でわかり、各札所の縁起・由緒がまとめられている。同記により四国遍路に興味を持った読者が、真念の本を持って四国遍路に出立するように意図されている。

以上の功績を遺してのち、元禄の初期に遍路巡拝の最中、讃岐国高松藩三木郡内において同郡の大町村と原村(現在の香川県高松市牟礼字大町から字原の区間)を結ぶ元結(もといむすび)峠の東側(原村側)にて倒死したとされる[5]。墓は現地の人々の手により当初は元結峠付近の丘に建てられたとされるが、のちに地域の墓地整理などの紆余曲折を経て牟礼字大町の南三昧墓地に無縁仏として置かれるも、さらにのち1980年(昭和55年)に同墓地にて発見されたことで改めて手厚い供養を行う意図の元、現在は香川県高松市牟礼字宗時の洲崎寺に置かれている。

著作

参考文献

出典・脚注

  1. ↑ 白木利幸「共同研究報告 宥辨(ゆうべん)真念と四国遍路」『日本研究』第21巻、国際日本文化研究センター、2000年3月、187-212頁、doi:10.15055/00000718、ISSN 09150900、NAID 120005681673。 より。常用漢字の表記では宥弁真念となる。単に真念とも。また、宥弁坊真念や宥弁房真念などとも呼ばれる。
  2. ↑ 『四國徧禮道指南 全訳注』稲田道彦・著より
  3. ↑ 現地の延命寺(今治市)の説明看板より
  4. ↑ 雲石堂 寂本(うんせきどう じゃくほん、1631年 - 1701年)は京都山城の人、江戸時代初期の高野山の学僧で、詩文・書画・彫刻にも優れた。
  5. ↑ 『牟礼町史』牟礼町史編集委員会・編、牟礼町発行、1993年(平成5年)3月20日発刊、P.907
  6. ↑ 一般的には『四国遍路道指南』と表記する
  7. ↑ 四国遍路の江戸時代における変化 稲田道彦(香川大学経済学部教授)より

関連項目

⌬ Phoenix Mesh CID: 未登録 IPFS未登録 📡 0ピア N=1 CRITICAL PQS D31