磨磐村山城

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磨磐村山城(マバンソンサンジョウ)とは、中華人民共和国の吉林省延辺朝鮮族自治州図們市長安鎮に位置する山城の遺跡である。旧称は城子山山城。

延吉市から東におよそ10km離れ、豆満江の支流である海蘭江(中国語版)とブルハトン川(中国語版)の合流点の北にある山上に位置し[1]、遺跡の最高地点は海抜388mである[2]。2017年に磨磐村山城は国家考古遺跡公園(中国語版)に選定された[3]。

歴史、遺構

磨磐村山城は13世紀初頭に金から独立して大真国(東夏)を建国した蒲鮮万奴が拠点とした「南京」に比定されている[4][5][6][7]。磨磐村山城の初期の遺跡は渤海時代に区分され、磨磐村山城を渤海国の初期の王都である東牟山城だと推定する説のほか[8][9]、高句麗によって建設された城塞が修復をされながら金代に至るまで使用されていた説がある[6]。また、歴史学者の池内宏は、16世紀後半の文禄の役においてオランカイの居住地に侵入した加藤清正が火を放った「オランカイの都」が磨磐村山城だと主張した[10]。

磨磐村山城を囲む城壁の周長は約4454m[11]、あるいは4549m[2]で、高さは最大約3mであり、自然石を積み上げて築かれた城壁は地形に合わせた不規則な楕円形を形成している[11]。北側に設けられた2つの門は甕城と前面に張り出した城壁によって防御が強化され、南と西にも門が置かれているものの、丘陵の稜線上にあるために侵入は困難である[4]。西門の外側には補助的に設置された城壁によって甕城に似た空間が作られ、この場所をモンゴル軍が攻城の足掛かりとした「飛櫓」と考える説もある[4]。城内には宮殿の跡と考えられている区域のほか、数か所の居住区域が確認されている[4]。

城内は天然のガリによって東西南北中央の区域に分けられ、中庭、大型建築物の跡、小型の住居の跡、排水溝、灰坑などの遺構が発見された<ref name="kao">。城内からは宋代、金代の遺物のほか、高句麗時代、渤海時代の瓦が出土している[6]。日本人によって[6]1909年に実施された調査で遺跡から青銅製の箱蓋が出土し、吉林省博物館の調査では2種の銅印が発見された[7]。いずれの出土品にも東夏の年号である天泰が刻まれ、銅印にはそれぞれ「南京路勾当公事之印」「南京行部」の文が刻まれていた[6]。

脚注

  1. ↑ 臼杵 2015, p. 101,139
  2. 1 2 冯恩学; 安文荣 (2023). “磨盘村山城早期遗存研究”. 考古 (9): 115-120. ISSN 0453-2899.
  3. ↑ “第三批国家考古遗址公园立项名单公布:共32个,含海昏侯国”. 澎湃新闻 (2017年12月3日). 2017年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月4日閲覧。
  4. 1 2 3 4 臼杵 2015, p. 104
  5. ↑ “东夏国南京城破城之门遗迹被发掘-中国社会科学网”. www.cssn.cn. 2025年9月13日閲覧。
  6. 1 2 3 4 5 「延辺朝鮮族自治州概況」執筆班 1984, p. 224-225
  7. 1 2 中国国家文物事業管理局 1986, p. 232
  8. ↑ 卢成敢; 包艳玲; 安文荣 (2025). “磨盘村山城早期遗存辨识及东牟山研究”. 北方文物 (3): 56-62. ISSN 1001-0483.
  9. ↑ 王禹浪; 吴博 (2022). “近二十年来渤海早期王城东牟山山城再研究”. 哈尔滨学院学报 (1): 6-13. ISSN 1004-5856.
  10. ↑ 池内宏「加藤清正等の咸鏡道經略」『文禄慶長の役 別編』 第1、東洋文庫、1935年、245-246頁。2025年10月23日閲覧。
  11. 1 2 臼杵 2015, p. 103

参考文献

  • 臼杵勲『東アジアの中世城郭 女真の山城と平城』吉川弘文館、2015年。 
  • 「延辺朝鮮族自治州概況」執筆班 著、大村益夫 訳『中国の朝鮮族 延辺朝鮮族自治州概況』むくげの会、1987年(原著1984年)。 
  • 中国国家文物事業管理局 編 著、鈴木博 訳『中国名勝旧跡事典』 1巻、ぺりかん社、1986年。