穐吉敏子

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穐吉 敏子
1978年
基本情報
出生名 同じ
生誕 (1929-12-12) 1929年12月12日(96歳)
出身地 中華民国の旗 中華民国 遼陽
学歴 バークリー音楽院卒業
ジャンル ジャズ
職業 ピアニスト
作曲家
編曲家
ビッグバンドリーダー
担当楽器 ピアノ
活動期間 1952年 - 現在
レーベル ワーナーミュージック・ジャパン
共同作業者 ルー・タバキン

穐吉 敏子(秋吉 敏子、あきよし としこ、英: Toshiko Akiyoshi、1929年12月12日[1] - )は、ニューヨーク在住の日本人ジャズピアニスト、作曲家、編曲家、ビッグバンドリーダー。娘はミュージシャンのMonday満ちる。

来歴

1955年
左から夫のチャーリー・マリアーノ、エディ・マーシャル、龝吉、ジーン・チェリコ。1961年1月26日、東京放送テレビ(現・TBS)のホールにて[2]。
1964年7月10日から16日にかけて、東京、大阪、京都、名古屋、札幌で「第1回世界ジャズ・フェスティヴァル」が開催された。龝吉は日比谷野外音楽堂で行われたJ・J・ジョンソン・オールスターズのコンサートにピアノで飛び入り参加した[3][4]。写真は左から龝吉、J・J・ジョンソン、ソニー・スティット、クラーク・テリー。

満洲(現、中国東北部)遼陽[1]に日本人の両親の元に生まれた。小学1年生のときに3年生が弾く『トルコ行進曲』に魅せられ、小学1年生でピアノを習い始める[5]。1941年、大連の弥生高等女学校に入学して、母とともに大連に移った[6]。大連では、大連音楽大学の楊孝毅にピアノを習った[7][注釈 1]。敗戦後に両親の故郷である大分県に引き揚げ、別府の駐留軍向け娯楽施設「ツルミダンスホール」でジャズピアニストとして演奏を開始[9][10]、レコード収集家の福井参郎の自宅でテディ・ウィルソンのスウィート・ロレインを聞き、本当のジャズを知る[11][12] 。その後17歳で福岡に移り、山田竜太郎バンドのメンバーとなる[13][14]。福岡では電気蓄音機でレコードを聴き、即興も含めて採譜し、実際に弾いてみるという作業を繰り返し、クラシックの言葉とは違うジャズ語を学んだ[15] 。

1948年夏に上京して松井八郎に師事し、イチバン・オクテット、ブルー・コーツ・オーケストラ、ゲイ・スターズ、シックス・レモンズなどのバンドに参加[16]。1950年には来日中のレス・ブラウン楽団のピアニスト、ジェフ・クラークソン(Geoffrey Clarkson)にジャズ・ピアノの在り方や奏法について教わった[17][18]。1952年、自らがリーダーとなるコージー・カルテットを結成[19]。

1953年11月、ノーマン・グランツが率いる「J.A.T.P」(Jazz At The Philharmonic)の日本公演の一員として来日していた、ジャズ・ピアニストのオスカー・ピーターソンに見出されたのを契機に、グランツのプロデュースの下で、J.A.T.P公演で来日していたハーブ・エリス(ギター)、レイ・ブラウン(ベース)、J. C. ハード(ドラム)と共にデビューアルバムのため、同月13・14日の2日間に渡り、ラジオ東京(現:TBSラジオ)のスタジオにてレコーディングを行い、これが翌1954年、アルバム『トシコズ・ピアノ』として、グランツ自身のレコード・レーベルである「NORGRAN RECORDS」から発売される(原盤番号:MGN-22[20]。後の1956年にグランツ自身は新たに「ヴァーヴ・レコード」を立ち上げそこでも発売、2025年現在同レーベルにてCD及び音楽ダウンロードによるサブスクにて販売されている)[21]。

1954年7月、伊勢佐木町のクラブ「モカンボ」で、ハナ肇が音頭を取り、井出忠と沢田駿吾が世話役に加わって実現した伝説的なジャム・セッションに参加[22][23]。最初のコージー・カルテットのドラマーでもあった清水潤の出所祝いに[24]、ハナ肇が、秋吉も通っていた有楽町のジャズ喫茶「コンボ」の常連に声をかけ実現した[25]、この「第3回ミュージシャンのためのジャム・セッション」の音源は、1970年代に発掘され、秋吉が「お兄ちゃん」[注釈 2]と呼んで慕った守安祥太郎がピアノで参加したセッションを中心とする第1集・第2集[注釈 3]、秋吉が参加したセッションを中心とする第3集・第4集までレコードが制作された[28][29][注釈 4]

1955年、父親が死去[30]。アメリカで発売されたレコードが評判になったこともあり、ボストンのバークリー音楽院(Berklee College of Music、現バークリー音楽大学)へ奨学生として受け入れられることが決まる。1956年1月10日、留学のため26歳で単身アメリカへ出発した[31][32][注釈 5] 。バークリー音楽院に入学する初めての日本人となった[34]。

途中経由地のロスアンゼルスで降りて、日本駐留経験のあるアメリカ人の知人の案内でジャズクラブで飛び入り演奏をしたり、また別のクラブで出演していたマイルス・デイビスに紹介されたりといった寄り道をしつつも[35]、1月15日の午前2時にボストン空港に降り立った龝吉は、校長のローレンス・バークやジャズクラブ「ストーリーヴィル」の経営者であり秋吉のマネジメントを担当するジョージ・ウェインに迎えられ、ホテルで昼まで休んだ後、学校に寄り、夜には教師のバブ・シェアとジョージ・ウェインに連れられてストーリーヴィルに入った[36][37]。ストーリーヴィルではバド・パウエルのライブが行われていた。ドラムを叩いていた旧知のエド・シグペンが龝吉の姿を見つけ、「どうだい、ワン・ステージやれよ」と声をかけた。龝吉はパウエルと代わり、夢中で演奏したという[37]。同年、ストーリーヴィルからアルバム『ザ・トシコ・トリオ』を発表[38]。

学生時代は、自分と同じようにプロミュージシャンとして学校で学ぶ仲間でトリオを作り、週4日ストーリー・ヴィルに出演。また夏休み中などは、長期に出張してシカゴの「ロンドン・ハウス(英語版)」やニューヨークの「ヒッコリー・ハウス」などの有名クラブで演奏し、また「ニューポート・ジャズフェスティバル」をはじめとする各地のジャズフェスティバルにも出演して、そのライブ録音が発売されるなど、米国での評価を高めていく。[39][40][41]

1959年、バークリー音楽院を卒業。音楽院で教師をしていたアルト・サックス奏者のチャーリー・マリアーノと結婚してニュージャージー州リオリア(英語版)に居を構え、秋吉がリーダーで活動していたトリオに、共同リーダーとしてマリアーノを加えた「トシコ=マリアーノ・カルテット」を結成、ニューヨークを拠点に活動を始める[42][42][43]。1960年には、オリジナル曲「ロング・イエロー・ロード」の録音を行っている[44][45]。

1962年春頃、マリアーノがスタン・ケントンのオーケストラに引き抜かれてバンドを去り、秋吉はチャーリー・ミンガスに誘われてミンガスのグループに加入するが[46][47]、ミンガスの気難しさとグループの雰囲気の悪さから、夏のニューポート・ジャズフェスティバルの後で退団を決める。その後も、クラブ「ファイブ・スポット(英語版)」でのセッションや同クラブ取り壊し前のオープン・リハーサルと、10月の「タウンホール・コンサート」には参加したが、ケントン楽団を退団したチャールス・マリアーノとバンドを再結成して活動していた[48][49][50]。ファイブ・スポットのセッションには、アメリカに到着したばかりの渡辺貞夫(秋吉の奔走もありバークリー音楽院に奨学生として迎えられた)も参加している[51]。

1963年2月、トシコ=マリアーノ・カルテットを率いて2度目の来日を果たす。この時、秋吉は妊娠しており、母親の元への里帰り出産という意図もあったが、夫婦で日本に永住することも視野に入れていた。日本では、バンドでツアーし、アルバム『イースト&ウェスト』の録音を行い、日本人ミュージシャンとの交流も行った[52][53]。チャーリー・マリアーノは、父親の病気や音楽教育のプロジェクトであるスタン・ケントン・クリニックの仕事もあり、バンドとして企画されていたツアーを終えた後、一旦アメリカに帰国する[54][55]。8月19日、麻布の愛育病院で女児を出産、生まれた曜日と将来への願いを合わせ「マンデイ満ちる(Monday満ちる)」と名付けた[55]。短い産休の後、日本に戻ったチャーリー・マリアノに日本人メンバーを加えたトシコ=マリアーノ・カルテットを結成したり、ワークショップ・コンサートを開いたりするなど活動を続け[56][57]、1964年3月には4大ドラマー[注釈 6]競演の日本ツアーに参加し、4月から5月にかけてはヨーロッパツアーでフランス・デンマーク・スウェーデンを回っている[58][59]。日本に戻って、7月にはマイルス・デイビスも参加して日本の5都市で行われた「世界ジャズ・フェスティバル」に参加、10月の東京オリンピックの開催中には、ステージ背景に日本舞踊を影絵のように透写して見せながら演奏する新しい試みのコンサートを行うなどした。しかし、日本での演奏活動は家族で永住を決断するに足るものではなく、チャーリー・マリアーノはアメリカで仕事をするため帰国してしまう[60][61]。

1965年2月に秋吉も娘を連れてアメリカに戻り、チャーリー・マリアーノと共同代表であったカルテットは解消し、別にトリオを結成してクラブ「ハーフ・ノート(Half Note Club)」へ出演するなどしていた[62]。夏のニューポート・ジャズフェスティバルの後、スタン・ケントン・クリニックの仕事をチャーリー・マリアーノと共に受け、ネバダ大学やユタ大学など西部の大学を回って音楽を教え、教師の仕事にやりがいを感じていた[63][64]。11月、チャーリー・マリアーノの前妻が疾走し、残された4人の子供をチャーリーが引き取ることになり、秋吉もボストンで子供たちの面倒を見なければならない状況になったが、秋吉はこれを拒否する。2人は別居状態となり、数年後には離婚が成立する[65][66]。

別居後は、不定期にスポットで入る仕事をこなすも、家賃や生活費を工面するのに苦心し、日中できる音楽以外の仕事探しやコンピュータプログラマ養成校への入学まで考えるが、移転オープンしていたファイブ・スポットのクラブオーナーからピアノソロの仕事を打診され、12月よりミンガスと交代で、バンド演奏のつなぎの演奏を定期的に行うことが決まる[67][68][69][70] 。生計の目途が立ち、ジャズ一筋に生きることを再決意した上で、娘の養育について、秋吉の働く時間やスケジュールに合わせてニューヨークでベビーシッターを雇うのは難かしく、経済的にも無理があったので、1966年初めに娘を独り日本に送り出し別府の姉に預けた[71][72][73] 。

1966年は渡米10周年ということもあり、自主興行のコンサートを開催することを思い立ち、実現に向けて準備を始める[74][75]。また、住居をニュージャージーから、日本人の画家達も住んでいたマンハッタンの今でいうソーホー(Soho)の倉庫街に移った[76]。地方のホリデイ・インのカクテル・ラウンジでの仕事や、高級ホテルのラウンジでのピアノ演奏の仕事など宿泊費・食費付きの実入りの良い仕事で資金を貯め、ジャズ・クラブの仕事も、ファイブ・スポットがクラブを閉鎖した後は、グリニッジ・ヴィレッジのクラブ「ヴィレッジ・ゲイト(英語版)」上階のトップ・オブ・ザ・ゲイトと呼ばれるスペースでソロピアノの演奏を続けた[77][78]。春にはテキサスとアトランタのジャズ・フェスティバルに参加[79]、夏には、ジャズ・クリニックの仕事を独りで受けて西部の大学を回り、ジャズ音楽界で女性演奏家がプロとして活動する上で直面する困難や煩わしさについて考えさせられた[80][81]。1967年に入り、クラブ「ハーフ・ノート」での仕事で、後に秋吉と結婚するルー・タバキンに出会い、そのテナーサックスの演奏に感銘を受けている[82][83]。

コンサート準備のため、ホテルのラウンジ回りの仕事は半年で止め、在米の日本企業の駐在所を回って手売りで少しづつチケットをさばき、 新曲やプログラムの準備、衣装やポスターの手配を進めた[84]。1967年10月7日にニューヨークの「タウンホール(ザ・タウンホール)」でコンサートを開催、秋吉のリサイタルとしてソロ、トリオおよびビッグ・バンドの編成で日本民謡を編曲した作品を中心に演奏がなされ、ニューヨークの各紙記事で絶賛された[85][86][87]。当日は、幸か不幸か当時のニューヨーク市長のリンゼイがニューヨーク市の文化紹介週間(英語: the Cultural Showcase Fortnight)における「ジャズの日(英語: Jazz Day)」と定め、市内各地で無料コンサートなどジャズ関係の催し物が同日に多数行われた[88]。コンサートにはチャーリー・マリアーノも参加し、また観客としてチャールス・ミンガスも聴きに来ていて、「僕は君が天才だと思う」と誉めてくれた上で、「一度に全部、聴衆に与えてはいけない」という忠告を残した[89][90]。秋吉は、コンサートの興奮と終わった後の脱力感から、3日間酒を飲み続けたという[91][92]。

タウンホールコンサートで好評を得た後も、良い仕事が急に増えるということはなく、ホテル住まいやソーホーのロフトを又借りする生活からグリニッジ・ヴィレッジ西10番街のアパートに引っ越した以外は、生活が劇的に改善することはなかった[93][94][95]。秋吉がそのサックスとフルートの演奏に惚れ込んだルー・タバキンは、タウンホールコンサートへの出演は都合が合わずかなわなかったが、その後パーティやバーで出会ったり、カルテットの仕事に誘ったりして、公私で付き合いが増え、1968年7月にはトップ・オブ・ザ・ゲイトでのレコード録音[注釈 7]にも参加、1969年秋に結婚を決める[96][97][98][注釈 8]。

1970年8月、大阪万博の「ワールド・ジャズ・フェスティヴァル・エキスポ’70」に出演するためルー・タバキンも加わったトシコ・マリアーノ・カルテットを率いて5年半ぶりに来日[101][102]。公演終了後、別府の姉の所に行き、娘を引き取る[103]。1971年2月にも、万博以前から企画していた来日公演を行い、各地でコンサートを開催し、2枚のレコードの録音を行った後、初のソロピアノのアルバム制作のためのレコーディングを行った[104][105][注釈 9]

ニューヨークのアパートは家族3人の生活には狭く、練習などはアップ・タウンにあるタバキンのアパートを使用していた。また、娘の養育費などもあって生計を立てるのが難しくなったので、ジョニー・カーソンの「トゥナイト・ショウ」などのテレビ番組にレギュラー出演するバンドのメンバーであり、安定した収入があったタバキンに経済的に頼らなければならない自分が情けなく、1972年7月にトゥナイト・ショウの収録がロスアンゼルスのスタジオに移るのに合わせてタバキンと共にロスに移住することになったとき、ジャズ音楽家としての将来に悲観的になって、PR用のポートフォリオや新聞・雑誌記事の切り抜きなどをすべて焼き捨ててしまった。[107][108][109]

1972年7月末にロスアンゼルスに移り、旧知のレナード・フェザー夫妻の家にしばらく間借りした後、タバキンの仕事先であるバーバンクのスタジオに近い、ノースハリウッドの広い借家に落ち着いた[110][111]。車を運転できないタバキンと娘の送り迎えや、料理や裁縫などの家事に忙しくしつつも、タバキンの勧めでピアノの練習は欠かさず行っていた[111][112]。10月から12月には、2番目の姉の結婚式に出席するために日本に帰国して結婚式でピアノを披露し、ジョニー・ハートマンのコンサートにも飛び入り参加し、また京都で偉いお坊さんに仕事の継続を勧められたこともあり、ジャズを続けることに前向きになっていく[113][114][115]。

1973年春、ニューヨークに比べてジャズシーンの少ないロサンゼルスでより多くのジャズ演奏の機会を求めていたタバキンの提案で、ハリウッドのヴァイン・ストリート(Vine Street)にあるミュージシャン・ユニオンのリハーサル室を格安で借りて、タバキンがメンバーを集め、「ステート・オブ・ビーイング」と名乗る16人編成のリハーサル・バンドを結成し、毎週水曜日に集まって秋吉の作品を中心に練習するようになった[116][117][118][119]。9月には、カリフォルニアのモンタレー・ジャズ・フェスティバルのディレクターを務めていたジョン・ルイスに、フェスティバルへの出演を依頼され、ソロで参加[120][注釈 10]。リハーサル・バンドとして始めたビッグ・バンドは、練習を続けるうちに評判になり、ノースハリウッドのジャズ·クラブ「ドンテの店(Donte's)」に出演、1974年2月からはパサデナのクラブ「アイス・ハウス(The Ice House)」に定期出演が決まった[119]。5月にはウィルシャー・エベル・シアター(Wilshire Ebell Theatre)でコンサートを開催することになり、トシコ・アキヨシ=ルー・タバキンビッグバンドの名前でコンサートデビューした[122][123]。コンサートでは、同年に帰国した小野田少尉に捧げる曲として、能の鼓とフルートを組み合わせて作曲し、4月にレコーディングを終えていた『狐軍』も披露された[122][124][71][注釈 11]。アルバム『狐軍』は10月に日本発売され、3万枚を売り上げる大ヒットとなり、第8回スイング・ジャーナル・ジャズ・ディスク大賞の銀賞を受賞した[126][127]。12月にはカルテットで来日し、日本人ミュージシャンを加えたビック・バンドを結成して公演を行った[127][128]。

1975年7月26日、カルフォルニア州サンディエゴで開かれた第1回クール・ジャズフェスティバル(Kool Jazz Festival)で秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンドとして初めてのフェスティバル出演、9月19日にはモンタレー・ジャズフェスティバルに参加、1975年中は他にもロスアンゼルスのクラブ「コンサート・バイ・ザ・シー」や、ロスアンゼルス郡立ピルグリム野外劇場(現在のジョン・アンソン・フォード円形劇場)などにも出演している[129] [130][131]。また、ライブ以外でも『孤軍』に続くアルバム作品として『ロング・イエロー・ロード』、『花魁譚』を録音。1976年1月には、バンドとして日本に招待され、秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンドの本来のメンバーで日本初公演し、そのライブ録音が『ロード・タイム』として発売される[132][133]。

バンドの共同リーダーとして作曲、編曲、指揮と活躍し、1976年度のタウンビート誌批評家投票の「注目すべきタレント」セクションにおいて、ビック・バンドとアレンジの両部門で1位を獲得[134]。6月には、水俣病の事件をテーマに、謡曲『隅田川』に想を得て作曲し、観世流家元観世寿夫とMonday満ちるも参加した3楽章からなる大作『ミナマタ』を含む、アルバム『インサイツ』を録音、レコードは11月に発売され、文化庁の「昭和51年度芸術祭」参加作品となり、スイングジャーナル誌の第10回ジャズディスク大賞の金賞受賞、翌年度のダウンビート誌のベスト・アルバム・オブ・ジ・イヤーにも選ばれている[135][136][137]。また、アルバム『ロング・イエロー・ロード』は、ステレオ・レビュー(Stereo Review)誌のベストジャズアルバムに選ばれ、第19回グラミー賞のビッグ・バンドによるベスト・ジャズ・パフォーマンスの部門にノミネートされた[138][139]。

1976年は、ビッグ・バンドの活動の他に、12年ぶりにピアノトリオ・アルバム『デディケイションズ』をディスコメイト社から発売、同社とはプロデューサー契約を結び、タバキンのコンビ・アルバムのプロデュースも行っている[140][141]。

1977年も作曲、コンサート、録音と多忙に過ごし[142]、5月にビッグ・バンド随伴では2度目の来日ツアー、6月29日にはバンドのニューヨーク・デビューとなるニューポート・ジャズ・フェスティバルでの演奏を行い、満座に近い観客を前に苦しいニューヨーク時代を回顧して涙する[143][144]。ダウンビート誌の国際批評家投票で「注目すべきタレント」セクションにおいて、前年に引き続き、バンドとして1位となり、個人では作曲・編曲の両部門で首位を獲得、また読者人気投票においても、ビッグ・バンド部門2位、作曲部門5位、編曲部門3位となり、一般聴者の間でも人気となっていた[143][145]。11月にはソニー・クリス・カルテットとして来日公演予定で直前に急逝したソニー・クリスの代役として、タバキンと共にカルテットを率いて急遽来日し、追悼演奏会に切り替えて公演を行う[146]。

1978年3月、カンザスシティで開催されたウイメンズ・ジャズ・フェスティバルでトリを務め[147]、4月には、パシフィック・コースト・カレッジエイト・ジャズ・フェスティバルで、ユナイテッド航空のミスで譜面を紛失するアクシデントに見舞われながら、市販の学生向けの不完全な譜面で切り抜け[148]、8月にはニューヨークのクラブ『ビレッジ・ゲート』に出演し、シカゴでジャズ・フェスティバルに参加した後、初めてのヨーロッパ公演に赴き、オランダのラーレン・ジャズ・フェスティバルとベルギーのミッデルハイム・ジャズ・フェスティバルに出演した[149][150]。秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンドは、この年のダウンビート誌の読者人気投票でビッグ・バンド部門で1位に選出され、また秋吉個人としても編曲部門で1位、先に発表された国際批評家投票でも両部門で3位以内に入っていた[151]。

また、ピアノを練習する時間がないので、ビッグ・バンドでピアノをフィーチャーしたものを作らないと言っていた秋吉であったが、トリオを結成してアルバムの制作やロサンゼルスの『ホンコン・バー』へ出演するなど、カルテットを組んで活動するタバキンと同様に、ビッグ・バンドの外でも活躍していた[152][149]。

1979年1月には、新譜アルバム『塩銀杏』を日本で発表すると同時に、ビッグ・バンドとして3度目の来日を果たし、全国9都市で10公演を行う[153][154]。大分公演では観客に秋吉の母の姿もあった[154]。9月にはビッグ・バンドで再び来日して東京で1回限りの公演を行った後、大幅にメンバーを入れ替えた上で、10月下旬から2週間にわたるヨーロッパ・ツアーに出かけ、北欧・東欧圏を含めた6か国12都市を巡演し、ベルリン・ジャズ・フェスティバルにも出演した[155][156]。この年のダウンビート誌の読者人気投票でビッグ・バンド部門で2年連続の1位、秋吉個人では編曲部門1位、作曲部門2位で、批評家投票でも初めてビッグ・バンド部門で1位に選ばれる[142][157]。

1980年1月、チャールズ・ミンガス追悼のために作曲し、前年9月の日本でのコンサートでも披露された曲『フェアウェル・トゥ・ミンガス』を含む、ビッグ・バンドによるアルバム『フェアウェル』の録音を行う[158]。2月、全米発売が遅れた旧作のアルバム『孤軍』が、グラミーのビッグ・バンド部門ベスト・ジャズ・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞にノミネートされる[159][160]。7月、ニューポート・ジャズ・フェスティバルのプログラムの一部として、「トシコ・アキヨシ&フレンズ」と題されたコンサートがカーネギー・ホールで開催され、第1部ではディジー・ガレスピー、カーティス・フラー、フィル・ウッズ、ジョージ・デュヴィヴィエ、ジャック・ディジョネットの旧知のトップ・ジャズメンとのジャム・セッション、第2部ではビッグ・バンドで演奏し、公演のもようはラジオで生中継された[161][162][163]。8月、タバキンと自主レーベル「アセント・レコーズ」を設立[164][165]。手始めに、アルバム『フェアウェル』と、ディスクメイト・レコードで秋吉プロデュース・シリーズの1つとして製作されたタバキンのトリオ・アルバム『ブラック&タン・ファンタジー(黒と茶の幻想)』をアセントから通信販売という形で発売した[164][166][167]。トシコ・アキヨシ=ルー・タバキン・ビッグ・バンドのアルバムは、RCAビクターが制作・日本発売、親会社のRCAがアメリカで発売という流れが基本であったが、バンドの人気が高まってもRCAはレコードの再プレスを行わず、アメリカで増える需要に十分応えることができなかったので、その状況を改善するための決断であった[140][164][168][169][注釈 12]。9月から10月に、日本ツアーを行い、10月4日には第16回大分県芸術祭への特別参加として大分県立芸術会館で"里帰り"公演を行い、特別感謝状を授与されている[171][172][173]。この年のダウンビート誌の読者人気投票でバンドとしてビッグ・バンド部門で1位、個人として作曲・編曲部門で1位となり、個人では国際批評家投票の結果(ビッグ・バンドで1位、作曲・編曲部門は2位)を上回る人気を得た[174][175]。

1982年にはニューヨークへ戻り、1983年に秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキンを結成、自らの作編曲で通算30年にわたって活動を続け世界的に名声を馳せた。その評価と人気を示すものとしてアメリカのジャズ専門誌ダウンビートでは秋吉とルーのビッグバンドは批評家投票で1979年から5年連続、読者投票では1978年から5年連続で共に1位を獲得している。

グラミー賞では計14度ノミネートされるが未受賞に終わっている。これは2026年時点で歴代13位タイの記録である[176] 。

1996年度に、著書『ジャズと生きる』執筆などの功績により、第9回音楽執筆者協議会賞ポピュラー部門最優秀賞を受賞[177]。

1999年4月に、ワシントンD.C.でソロコンサートを行ったが、この時 デュピュイトラン拘縮という難病の進行により左手の小指が動かなくなっていた。 5月に左手の手術を受け、半年間リハビリに励む。右手にも症状が出ているが、トレーニングを欠かさず悪化しないように気を付けているという。[178]

2003年12月29日、ニューヨークのジャズクラブバードランドでの演奏を最後にオーケストラを解散した。

2004年6月-7月にはNHK人間講座で講師を担当。2005年1月27日、米国を拠点にピアニスト、ビッグバンドリーダーとしてジャズ発展に寄与した功績が認められ、朝日新聞文化財団の朝日賞(04年度朝日賞)を受賞[179]。東京・日比谷の帝国ホテルで開かれた受賞祝賀パーティーでは、木更津甚句に想を得た「ザ・ヴィレッジ」、「ヒロシマ そして終焉(しゅうえん)から」の最終楽章「ホープ」、「鞠と殿さま」の3曲を、ソロで演奏した。2006年12月、キャリアにおいて初となるシングル「HOPE 希望」を発表。現在はソロなどで活動中。 2025年9月に来日公演。9月9日、東京第一生命ホールでカルテットコンサートを開催(95歳)

受賞歴

他多数

音楽

秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンド

アルバム

秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンド

秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキン

ソロ・トリオ 等

コンピレーション

チャールズ・ミンガス

鈴木良雄

オムニバス

シングル

DVDオーディオ

  • ラストライヴ・イン・ブルーノート東京 - Last Live in Blue Note Tokyo(2004年)

テレビ出演

文献

著書

  • 『ジャズと生きる』岩波書店〈岩波新書〉、1996年10月。ISBN 4004304679。 
  • 『私のジャズ物語―ロング・イエロー・ロード NHK人間講座』 日本放送出版協会、2004年 ISBN 4141891045
  • 秋吉敏子『エンドレス・ジャーニー』祥伝社、2017年。ISBN 978-4-396-61634-2。 

参考文献

エピソード

  • 横浜のクラブ『モカンボ』では、ジャズギタリストとして活動していた植木等と共に演奏していた時期もある。また、ハンプトン・ホーズが進駐軍の将校として来日していた際にもセッションをしたことがある。
  • 穐吉がニューヨークへと渡った後、後任のピアニストとしてモカンボに入ったのが桜井センリである。
  • 渡米直後に行ったライブで、偶然演奏していたポール・チェンバースのベースを聴き、「アメリカのベーシストは皆こんなにうまいのか」と驚愕した。

脚注

注釈

  1. ↑ 楊は、日本に留学して武蔵野音楽大学を卒業し、助手を務めた後、中国に帰国していた[8]。
  2. ↑ 「お兄ちゃん」は守安のあだ名[26]。
  3. ↑ 守安がピアノで秋吉がベースで参加した1曲も含まれている[27]。
  4. ↑ 1998年発売された「完全版(完結編)」のCDには、さらに秋吉のレコード未収録のセッションが追加されている
  5. ↑ 55年末に横浜から船で出発予定だったが、体調不良で延期し、翌1月に羽田からパン・アメリカン航空で渡米した[31][33]。奨学金を得ての留学であったが、渡米資金捻出のために福山ピアノ社のラザールのピアノを売りに出している[33]。
  6. ↑ マックス・ローチ、フィリー・ジョー・ジョーンズ、シェリー・マン、ロイ・ヘインズ[58]
  7. ↑ トップ・オブ・ザ・ゲイトの秋吉敏子 - Discogs
  8. ↑ タバキンは1940年生まれ、秋吉はタバキンのことを「シャーロック・ホームズ」や、家では「ルーちゃん」と呼んでいる[98][99][100]。
  9. ↑ ソロ・アルバムの発売は1975年[106] 。
  10. ↑ ジョン・ルイスとは、ニューヨークでワインコレクター同士として意気投合し、家族ぐるみで親しくしていた[121]。
  11. ↑ 富樫雅彦は日本のジャズについての考察で、『孤軍』からは和洋折衷を感じると評している[125]。
  12. ↑ 1981年からは新ジャズ・レーベル「JAM(Jazz America Marketing)レコード」がメイン・アーチストとしてトシコ=タバキン・ビッグ・バンドと契約し、アメリカでのアルバム販売を担っている[167][170]。

出典

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  2. ↑ 『スイングジャーナル』1961年3月号、スイング・ジャーナル社、86-87頁、「東京のトシコ・マリアノ」。
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  183. ↑ 鈴木良雄 / My Dear Pianists~チンさんと6人のピアニスト - CDJournal
  184. ↑ “Long Yellow Roadジャズ伝説・穐吉敏子の94年”. NHK. 2024年5月12日. 2024年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2024年5月12日閲覧.

外部リンク