第二丁卯
明治10年代の第二丁卯福井 1994, p. 490.
明治10年代の第二丁卯[1]
基本情報
建造所 イギリスの旗 イギリス、ロンドン[2]
運用者 長州藩
 大日本帝国海軍
艦種 砲艦[3]
艦歴
進水 慶応2年(1866年)[4]
竣工 慶応3年(1867年)[2]
就役 慶応4年5月(1868年6月から7月)、長州藩が購入[2]
明治3年4月9日(1870年5月9日)、献納
最期 1885年4月3日、坐礁破壊[4]
要目
長さ 122 尺 6 寸[5] (37.15 m)、または、120尺[2](36.36m)
幅 22 尺 4 寸 (6.79m)[5]、または、21尺[2](6.36m)
吃水 前部:8 尺 (2.42 m)[2]
後部:8 尺 (2.42 m)[2]
ボイラー 角缶×2基[6]
主機 横置直動式レシプロ[6]
推進 1軸[6]
出力 60馬力 (45 kW)[3](IHP)[2]
帆装 3檣トップスル・スクーナー[3]
速力 全速:8ノット、平均:6ノット[2]
燃料 炭団:75,000 斤[2]
航続距離 燃料消費:15,000斤/日[2]
乗員
  • 75名(士官8名、下士14名、兵53名)[7]
  • 1873年10月定員:65名[8]
  • 1874年時総員:57名[9]
  • 1883年2月定員87名[10]
兵装
  • 64ポンド・アームストロング前装施條回転砲×1門[2]
  • 40ポンド・アームストロング後装施條回転砲×1門[2]
  • 20ポンド・アームストロング2輪側砲×2門[2]
  • 12cm臼砲×1門[2]
  • 1883年時[11]
    64ポンド・アームストロング砲×1門
    40ポンド・アームストロング砲×1門
    320ポンド・アームストロング砲×2門
その他 船材:木[12]
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第二丁卯(だいにていぼう[13]、旧仮名:だいにていばう[12])は日本海軍の軍艦[14]。元は長州藩の発注した三檣スクーナー型木造汽船[13]。

丁卯は十干十二支のひとつで、幕末では慶応3年(1867年)に当たる[13]。この年にイギリスで建造された長州藩の軍艦が後の「第一丁卯」と「第二丁卯」となる。長州藩では建造年で命名する決まりがあったため、第一と第二を付加して区別したと思われる[13]。

艦型

第一丁卯は姉妹艦[12]。機関は同一である[6]が、1874年(明治7年)の『公文類纂』によると船体寸法に差違がある[5]。多くの文献で船体寸法は第一丁卯と同一としており[12]、主なその値は以下の通り。

排水量は第一丁卯と同一で125トンとする文献が多い[14][3]。『幕末の蒸気船物語』によると、船体寸法に対して明らかに小さいという[16]。兵装については砲8門としている文献が多い[14]。

艦歴

長州藩は1866年にグラバーと「第二丙寅丸」を15万ドルで売却して砲艦2隻(「第一丁卯」、「第二丁卯」)を計25万ドル(ここから2万ドル値引きさせたという)で建造する契約を結んだ[17]。

建造時の仮称は「アソンタ 」(ASONTA[4]) と称し、イギリス・ロンドンで建造、慶応4年5月(1868年6月から7月)に長州藩が購入[2]、「第二丁卯丸」と命名された[4]。

明治3年4月9日(1870年5月9日)に政府に献納、5月8日(6月6日)に品川沖で受領した。これにより兵部省所管となり艦名は「第二丁卯(艦)」とされた[4]。7月(8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために各港に小艦隊が派遣されたが[18]、「第二丁卯」と「千代田形」は品川に留まり、同地の警備を行った[19]。明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた[20]。5月(6月から7月)、「日進」「東」「乾行「第二丁卯」「龍驤」「富士山」「第一丁卯」で小艦隊を編制する[18]。真木長義中佐が「日進」「甲鉄」「乾行」「第二丁卯」の4艦の指揮をとった[21]。11月15日(12月26日)に六等艦と定められた[4]。

明治5年2月(1872年3月前後)から翌年1月まで測量任務に従事している[4]。3月10日(4月17日)、「第二丁卯」は測量艦に指定された[22]。4月14日(5月20日)、西海巡幸のための測量と回航が命令され、4月24日に品川を出港した[23]。5月18日(6月23日)時点で中艦隊は「日進」「孟春」「龍驤」「第一丁卯」「第二丁卯」「雲揚」「春日」「筑波」「鳳翔」の9隻で編制されていた[18]。7月1日(8月4日)、「第二丁卯」は巡幸の警備から除かれ長崎に滞在し、西海の測量を命ぜられた[24]。

1873年(明治6年)1月12日、「第二丁卯」は測量艦を止め[25]、艦隊に再編入された[18]。3月7日、艦隊から除かれ[18]、主船寮所轄となり、以後修理が行われた[26]。

1874年(明治7年)4月4日、第二丁卯は艦隊に編入された[18][27]。6月30日時点で中艦隊は「雲揚」「日進」「春日」「龍驤」「東」「鳳翔」「第二丁卯」で編制されていた[18]。9月18日、「第二丁卯」は艦隊に編入された[28]。

1875年(明治8年)4月13日、「第二丁卯」は艦隊から除かれ[18]、測量艦に定められ、水路寮所轄となった[29]。5月4日、「第二丁卯」と「雲揚」は対馬、朝鮮の海路研究のために同地派遣とされ、「第二丁卯」は5月16日に長崎を出港した[30]。

同年の江華島事件発生の際には、「雲揚」や「春日」などと共に釜山沖に派遣されていた。江華島での直接の交戦には参加していない。10月18日、「孟春」と「第二丁卯」は中牟田倉之助少将を指揮官として、居留民保護のために釜山回航が命令され、11月13日に「第二丁卯」は長崎港を出港した[31]。12月22日、朝鮮から長崎港に帰着した[32]。

なお10月28日、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官は中牟田倉之助少将、西部指揮官は伊東祐麿少将が任命され[31]、「日進」「春日」「浅間」「第二丁卯」「孟春」「千代田形」「肇敏丸」「快風丸」は西部指揮官所轄となった[31]。

1876年(明治9年)2月9日、測量艦「第二丁卯」は常備艦とされ[33]、2月18日に朝鮮測量のため長崎を出港した[33]。5月28日、品川に帰着した[34]。

1877年(明治10年)に起きた西南戦争では[4]2月16日、「第二丁卯」に神戸回航が命令され、18日に品川を出港した[35]。その後、下関の警備に従事、また日奈久攻略に参加した[4]。12月8日から横浜港に碇泊していた[36]。

1878年(明治11年)6月19日、横浜港を出港し、帆走訓練やその他の訓練を行い東京湾各地に回航した[36]。天覧に供する為に7月7日、横浜に帰港した[36]。8月14日、修理のために横須賀に回航され、16日横浜に戻った[36]。10月18日、品川に回航され、同地で各種訓練や砲撃演習を行った[36]。12月18日、横浜に移動し、18日・19日は宮津沖で艦隊訓練を行った[36]。

1879年(明治12年)5月3日、横浜港から横須賀湾に回航され、同地で水雷試験と修理を行い[37]、5月29日に横浜港へ回航された[37]。6月3日、横浜港を出港、天候不良のために同日下田港に避泊、9月7日に下田を出港し、9日に兵庫港に入港した[37]。6月11日、兵庫発。6月13日、下関港着、6月16日、下関を出港、6月17日に釜山浦に到着した[37]。7月31日、(食糧購入のために[注釈 1])対馬西泊湾に回航、8月4日に釜山浦へ戻った[37]。9月16日、釜山浦発。翌日に長崎港に入港し、同地で定用品を購入した[37]。10月9日、長崎を発し、各地に寄港し10月17日に兵庫港へ入港した[37]。10月22日、兵庫を発し、途中紀州二木島、天候不良で網代港に寄港し、10月28日に横浜港に帰港した[37]。

1880年(明治13年)6月14日、横須賀港に回航され、同地で錨を交換し、翌日に横浜港へ戻った[37]。6月16日、横浜発、故「清輝」艦長葬送があり同艦乗員を運送のために横須賀に寄り、同日品川に到着した[37]。6月18日、品川を発し、横浜に戻った[37]。10月12日に横浜を出港、横須賀港に回航し艦の点検を行った[38]。10月15日、横浜に回航[38]。その後、帆走訓練のために横浜を出港し、10月18日に浦賀着、翌日に館山湾に回航した[38]。10月27日、館山湾を出港し下田港に入港。11月5日、下田から網代に回航。その後、真鶴島へ向かい、横浜に帰港した[38]。

1881年(明治14年)3月28日から4月6日まで横須賀造船所で修理を行った[39]。4月18日、横濱港を出港し、帆走で観音崎沖まで航走し同地で自差習性、同日館山湾に入港した[38]。5月16日、館山湾を出港し、横浜港に帰港した[38]。6月29日、修理カ所の検査のため横須賀へ回航[38]。7月22日から1882年(明治15年)4月5日まで横須賀造船所で修理を行った[40]。また9月6日から横須賀造船所で修理を行った[41]。

1882年(明治15年)10月12日「扶桑」「金剛」「比叡」「龍驤」「日進」「清輝」「天城」「磐城」「孟春」「第二丁卯」「筑波」の11隻で中艦隊が再度編成された[42]。

1883年(明治16年)3月2日に修理完成[43]。6月7日、浦賀を出港し、中国・九州沿岸に向かった[44]。6月9日、兵庫港着。6月15日、小豆島に回航した[44]。6月16日、小豆島を発し、岡山湾の略測を行い同日小串に到着した[44]。6月27日、小串を発し、尾道、門司、唐津、伊万里、田助を経由し、7月10日に大村湾に到着、同地の略測を行った。7月17日、大村湾発、時津、大村、大串、顎の浦、佐世保を経由し、8月2日長崎港に入港した[44]。9月5日長崎発、鹿児島、袴腰、鹿児島(再訪)、門司、兵庫を経由し、10月10日に立江へ到着した[44]。四国沿岸航海のために10月14日に立江発、鹿島、須崎、宇和島、佐賀関、三カ浜、厳島、広島、小根島、井ノ浦、小豆島、兵庫、鳥羽を経由して、11月12日品川に帰着した[44]。

明治天皇の福岡行幸の護衛艦として横須賀港から神戸港に回航中、1885年(明治18年)4月3日に三重県安乗崎で座礁、破壊された[1][4]。 同日付で「第二丁卯」は中艦隊から除かれた[45]。

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ↑ 原文では「食用品事件ニ付」と書かれている

出典

  1. 1 2 福井 1994, p. 490.
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 #機関史(1975)上巻pp.460-461
  3. 1 2 3 4 5 造船史明治 1973, p. 129.
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.10
  5. 1 2 3 #M7公文類纂13/管轄(1)画像21-22、所管艦船
  6. 1 2 3 4 #機関史(1975)別冊附表2-1(表3)、我海軍機関発達大体年表
  7. ↑ #機関史(1975)上巻pp.460
  8. ↑ 海軍制度沿革10-1 1972, pp. 153–155.
  9. ↑ #M7公文類纂13/管轄(1)画像35
  10. ↑ 海軍制度沿革10-1 1972, pp. 156–158.
  11. ↑ #M7公文類纂13/管轄(1)画像47
  12. 1 2 3 4 5 浅井 1928, pp. 23–24、丁卯 ていばう teibô
  13. 1 2 3 4 片桐 2014, pp. 202–203.
  14. 1 2 3 近世帝国海軍史要 1975, p. 883.
  15. ↑ 『日本海軍史』第7巻pp.224-225
  16. ↑ 元綱 2004, pp. 141–142.
  17. ↑ 杉山伸也『明治維新とイギリス商人』89、94ページ。なお、同書では「第二丁卯」は「アサンタ」となっている
  18. 1 2 3 4 5 6 7 8 海軍制度沿革4-1 1971, p. 7.
  19. ↑ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年7月。
  20. ↑ 海軍制度沿革8 1871, p. 33.
  21. 1 2 #M1-M9海軍省報告書画像17、明治4年5月。
  22. ↑ #M1-M9海軍省報告書画像25-26、明治5年3月。
  23. 1 2 #M1-M9海軍省報告書画像26-27、明治5年4月。
  24. 1 2 #M1-M9海軍省報告書画像30、明治5年7月。
  25. 1 2 3 #M1-M9海軍省報告書画像36-37、明治6年1月。
  26. 1 2 #M1-M9海軍省報告書画像38-39、明治6年3月。
  27. ↑ #M1-M9海軍省報告書画像51-52、明治7年4月。
  28. 1 2 #M1-M9海軍省報告書画像56-57、明治7年9月。
  29. 1 2 #M1-M9海軍省報告書画像63-64、明治8年4月。
  30. ↑ #M1-M9海軍省報告書画像64-66、明治8年5月。
  31. 1 2 3 #M1-M9海軍省報告書画像68-70、明治8年10月。
  32. ↑ #M1-M9海軍省報告書画像72-73、明治8年12月。
  33. 1 2 #M1-M9海軍省報告書画像77-78、明治9年2月。
  34. ↑ #M1-M9海軍省報告書画像80-81、明治9年5月。
  35. ↑ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像20-24、明治10年2月
  36. 1 2 3 4 5 6 #M11.7-M12.6海軍省報告書画像40、第二丁卯艦航泊表
  37. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 #M12.7-M13.6海軍省報告書画像33(pp.56-57)、航泊表第二丁卯
  38. 1 2 3 4 5 6 7 #M13.7-M14.6海軍省報告書画像32、艦船航泊表、第二丁卯艦
  39. ↑ #M13.7-M14.6海軍省報告書画像19-20、海軍艦船修復
  40. ↑ #M14.7-M15.6海軍省報告書画像21-23、部内艦船修復
  41. ↑ #M15.7-12海軍省報告書画像17、部内艦船修復
  42. ↑ #海軍制度沿革4-1(1971)p.8、明治15年10月12日丙第84号。
  43. ↑ #M16海軍省報告書画像21、艦船修理
  44. 1 2 3 4 5 6 #M16海軍省報告書画像25-26、艦船航海、第二丁卯艦
  45. ↑ #海軍制度沿革4-1(1971)p.8。
  46. ↑ #M1-M9海軍省報告書画像14、明治3年8月。
  47. ↑ #M1-M9海軍省報告書画像29-30、明治5年6月。
  48. ↑ #M1-M9海軍省報告書画像44-45、明治6年11月。
  49. 1 2 #M1-M9海軍省報告書画像49-51、明治7年2月。
  50. ↑ #M1-M9海軍省報告書画像61、明治8年1月。

参考文献

関連項目

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