紀円意

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円意(圓意、生没年不詳)は、中世の祇園社(現在の八坂神社)の僧。紀氏の一族で、顕玄の子、顕秀の父にあたる[1][2]。「祇園執行系図」(建内家蔵)によれば、父の勅勘により、子の顕秀とともに祇園執行には就けなかったとされる[3]。

系譜

野地秀俊の「紀氏一族略系図」では、行円―賢円―顕玄―円意の父子関係が示される。[1]。

母は寛円の娘とされる。『八坂神社文書』所収の「社僧系図」には、行円の子隆円、その子寛円の下に「女子」が記され、「圓意母」と注記されている[4]。

父の勅勘と執行への不就任

「祇園執行系図」(建内家蔵)によると、父の顕玄は承元2年(1208年)に後鳥羽上皇の勅勘を蒙った。その後、顕玄の子である円意と、その子の顕秀は、いずれも祇園執行になることができなかったとされる[3]。

馬上鉾の相伝

「馬上十二鉾相伝系図」では、顕玄・円意・顕秀・顕承・顕尊と続く相伝の系統に位置づけられる。この系図は、祇園会における馬上鉾の相伝を示す史料であり、高原美忠『八坂神社』にも掲載されている[5][6]。

同名の記録と人物の区別

寿永3年の「大法師円意」

寿永3年(1184年)3月付の「感神院所司解写」には、連署者の一人として「大法師円意」の名がある。この文書は、軍勢による社頭・社領への侵害などを訴え、その停止を求めたものである。現存する本文について、刊本の編者は江戸時代の写しであると注記している[7]。

この同名の人物を円意に比定する場合、その活動は平安時代末期にさかのぼる[7]。

弘安年間の「沙弥円意」

『八坂神社記録』には、弘安元年(1278年)9月23日、讃岐国林田郷・梶取名内の新開田を祇園社へ寄進した「沙弥円意」が記される。翌弘安2年(1279年)5月5日には、この寄進に関係して、晴増法眼の門弟が天神供・常燈を相承して勤める旨の院宣が下されたとある[8]。

脚注

  1. 1 2 野地秀俊「「社僧」再考―中世祇園社における門閥形成―」『佛教大学大学院紀要』第26号、1998年、1–15頁、特に15頁「図1 紀氏一族略系図」。
  2. ↑ 下坂守『祇園祭千百五十年記念 中近世祇園社の研究』法藏館、2021年、10–12頁、特に11頁「執行系図」。
  3. 1 2 「祇園執行系図」(建内家蔵)
  4. ↑ 八坂神社社務所編『増補 八坂神社文書』上巻、臨川書店、1998年復刻第2刷、642頁、第840号「社僧系図」。Dropbox所収PDFの755ページ。
  5. ↑ 八坂神社社務所編『増補 八坂神社文書』上巻、222–223頁、第240号「馬上十二鉾相伝系図」。円意の記載は223頁(Dropbox所収PDFの326ページ)。
  6. ↑ 高原美忠『八坂神社』学生社、1972年、204頁「馬上十二鉾相伝系図」。Dropbox所収PDFの206ページ。
  7. 1 2 八坂神社社務所編『増補 八坂神社文書』下巻1、臨川書店、1998年復刻第2刷、10–18頁、第1267号「感神院所司解写」。円意の名は17頁(Dropbox所収PDFの88ページ)、文書の日付は13頁(同84ページ)。
  8. ↑ 『八坂神社記録』2、臨川書店、198頁「社家条々記録」(Dropbox所収PDFの238ページ);同3、18頁「祇園社記」第1(同70ページ)。

参考文献

  • 「祇園執行系図」(建内家蔵)。記載内容は依頼者提供情報による。原本・翻刻未照合。
  • 野地秀俊「「社僧」再考―中世祇園社における門閥形成―」『佛教大学大学院紀要』第26号、1998年、1–15頁。
  • 下坂守『祇園祭千百五十年記念 中近世祇園社の研究』法藏館、2021年。
  • 高原美忠『八坂神社』学生社、1972年。
  • 八坂神社社務所編『増補 八坂神社文書』上巻・下巻1、臨川書店、1998年復刻第2刷。
  • 『八坂神社記録』2・3、臨川書店(『増補 續史料大成』)。

関連項目