細井和喜蔵

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細井和喜蔵(1923年2月、満25歳)

細井和喜蔵(ほそい わきぞう、1897年5月9日ー1925年8月18日)は日本の小説家。ルポルタージュ『女工哀史』によって知られている。

人物[1]

細井和喜蔵は、明治末から大正期にかけて、労働者、とりわけ女工の生活を記録し、評論、小説、詩、戯曲として発表した作家である。彼の代表作『女工哀史』は、女工の採用、労働条件、職場環境、寄宿生活、教育、恋愛、心理、小唄、労働運動などを扱い、近代日本の基幹産業のひとつであった繊維産業を支えた女性労働者の現実を描いたルポルタージュ文学作品として発表当時から広く知られ、今日まで読み続けられている。

和喜蔵は、労働者や職場環境を外部から観察して描いたのではない。自ら機械職工として働き、現場で得た経験を執筆の基盤とした。少年期には京都府の丹後ちりめん産地で織物業に従事し、その後は大阪と東京の大規模な紡績・織布工場を渡り歩いた。機械事故による手の負傷、失業、夜学への通学、組合活動、関東大震災での被災と避難を経験した。女工でもあった妻としをとともに工場で働き、生活を支え合った経験も、作品世界に深く結び付いている。

文学活動の期間は短い。現在確認できる最初期の詩は1921(大正10)年、代表作『女工哀史』の刊行は1925(大正14)年7月である。和喜蔵は同年8月、28歳で死去した。しかし、その数年間に詩、小説、記録、随筆、評論、戯曲を数多く残した。死後には長編小説『工場』『奴隷』、戯曲・小説集『無限の鐘』が単行本として刊行された。『女工哀史』は刊行後ベストセラーとなり、現在も岩波文庫などを通じて読み継がれている。

来歴

出生と幼少期[2]

細井和喜蔵は1897(明治30)年5月9日、京都府与謝郡加悦町加悦奥64番地で生まれた。加悦町は現在の京都府与謝野町の一地域であり、丹後ちりめんをはじめとする織物産業と深い関係を持つ土地である。

祖母うたは1851(嘉永4)年生まれ。母りきは1878(明治11)年生まれで、うたの実娘である。父市蔵は1869(明治2)年、京都府天田郡上夜久野村字板生の松原家に生まれた。市蔵とりきは1897(明治30)年5月に婚姻届を出し、市蔵はうたの戸籍に婿養子として入籍した。

ただし、市蔵とりきの関係は、和喜蔵の誕生以前にすでに破綻していたと考えられる。1898(明治31)年7月、市蔵とりきの離縁が届けられ、市蔵はうたの戸籍から除かれた。その後、りきは消息不明となったが、京都市内などで水商売に携わっていたとされている。和喜蔵が6歳になった1903(明治36)年、りきは加悦の家に戻り、和喜蔵らと同居を始めたが、同年11月、満24歳で入水自殺した。

父との別離と母の自殺は、幼い和喜蔵から早くも家庭の安定を奪う出来事であった。のちの作品には、貧困、家族の崩壊、親子の関係、女性の苦難、死と自殺の問題が繰り返し現れる。これらをすべて作者の私生活へ単純に還元することはできないが、和喜蔵の人生経験と作品世界が深くつながっていたことは見逃せない。

和喜蔵は1904(明治37)年4月、加悦遵道尋常小学校に入学した。当時の尋常小学校課程は義務教育であったが、1909(明治42)年3月、5年生の学年末に小学校を中退させられた。満年齢で10歳、数え年では13歳の春である。彼の著書『女工哀史』の自序には、「十三の春、機家の小僧になって自活生活に入った」とある。ここから和喜蔵の労働生活が始まった。

丹後から大阪へ[3]

和喜蔵は1909(明治42)年春、すぐ近くの地主兼丹後ちりめん織物業者「駒忠」で奉公を始めた。翌1910(明治43)年3月、祖母うたが亡くなり、その後、和喜蔵は「駒忠」から隣接する三河内地区のちりめん業者「扇忠」へ移った。さらに間もなく実家近くで操業準備を進めていた丹後電気会社で勤め始めた。

1910(明治43)年末、和喜蔵は加悦を去った。12月31日早朝に加悦を発ち、福知山まで歩いて同地で一泊、翌1911(明治44)年1月1日、福知山から汽車に乗り、大阪駅に着いた。大阪では、西成郡(現在の大阪市此花区)伝法町にあった、祖母うたと関係があった人物の息子の職工住宅に身を寄せた。

同年2月18日、和喜蔵は西成郡伝法町の内外綿会社第一紡織工場に入社した。しかし、入社3日目に機械事故に遭い、左手の小指を負傷した。その後、内外綿会社の指定下宿である船曳へ移り、けがの回復を待った。

工場の機械は、後の和喜蔵の文学において、単なる生産手段ではない。労働者の身体を傷つけ、生活を拘束する存在として描かれる。この早い時期の負傷は、そうした認識を支える直接の体験であった。

1912(大正元)年夏、和喜蔵は内外綿会社第一紡織工場を辞めた。その後、内外綿会社西宮工場、現在の尼崎市にあった大阪合同紡績神崎工場、大阪市内の東洋紡績三軒家工場を短期間のうちに転々とした。当時、大阪府城東村にあった鐘淵紡績(カネボウ)にも応募したが、指の傷と書類の不備を理由に採用されなかった。

1913(大正2)年、和喜蔵は内外綿会社第一紡織工場へ戻った。ここで工場勤めを続けながら、大阪府立西野田職工学校夜間部に通い始めた。昼間の労働と夜間の学習は、和喜蔵の自己形成に大きな意味を持った。十分な学校教育を受ける機会を失った少年は、職工として働きながら知識を求め続けた。のちに文学を志し、労働問題を論じ、長大な記録をまとめる力を得た背景には、こうした夜学での学びと、熱心な読書があった。

1916(大正5)年6月、和喜蔵は堺市の大浜公園 で失恋を理由に自殺を図ったが未遂に終わった。警察署への留置中、文学を目指す決意を固めたという。死を選ぼうとした経験と、そこから文学へ向かう決意は、和喜蔵の創作の出発点を象徴する出来事と考えられる。同年12月には帰郷して家督相続の届出をし、戸主となった。翌1917(大正6)年には徴兵検査を受けたが、小指の傷のため丙種合格となり、兵役は免れている。

徴兵検査の後、和喜蔵は東洋紡績四貫島工場に入社した。同工場では1918(大正7)年ごろ、テーラーの科学的管理法に基づく綿糸紡績作業の標準動作が導入されていた。1919(大正8)年ごろ、和喜蔵は同工場で使われていた標準動作書を無断で持ち出し、後にこれを東京の紡織会社に売り込んでいる。

1919(大正8)年3月、友愛会大阪伝法支部の発会式を兼ねた労働問題演説会が、伝法町の永楽座で開かれ、和喜蔵も参加している。講演者の一人は賀川豊彦であった。友愛会は、後の日本労働運動史で重要な役割を担う組織であり、和喜蔵はこのころから労働運動の言葉と人脈に近づいていった。

東京での労働[4]と学習

1920(大正9)年2月、和喜蔵は初めて東京へ行き、東京モスリン紡織亀戸工場に入社した。同じ加悦町字加悦奥出身で、すでに幹部社員であった永井米蔵を頼っての就職であった。東京モスリン紡織は後に大東紡績となる。和喜蔵はここで約2年間働いた。

同年4月には、岐阜県出身の女工であった堀としを(高井としを)も東京へ出て、同じ亀戸工場で働き始めた。としをは後に和喜蔵と結婚し[5]、和喜蔵の死後には『わたしの女工哀史』を残した。ただしとしをの父親に結婚を反対され、彼らの関係は事実婚のままで終わった。和喜蔵の人生と執筆活動を考える際、としをの存在は非常に大きなものであった。二人はともに工場で働き、ともに生活し、関東大震災後にはそろって兵庫県川辺郡へ避難した。そして、貧困の中で和喜蔵が本格的な執筆に向かう時期をともに過ごし、支え合った。

東京モスリンでは1920(大正9)年8月、待遇改善を求めるストライキが始まった。1921(大正10)年夏には、「労正会」という組合の結成に加わり、和喜蔵は争議の勝利に貢献した。その体験の一部は『女工哀史』にも記録されている。和喜蔵にとって労働組合は、抽象的な政治課題ではなく、賃金や待遇の改善、男女工の生活を守るための具体的な行動のための組織であった。

1921(大正10)年9月、和喜蔵は日本労働学校に入学し、第一回卒業生となった。同校は友愛会の鈴木文治らによって設立された。学校での学びは、大阪の夜学で培った機械工学の基礎の上に、労働問題、社会、文化、文学を考える枠組みを与えた。和喜蔵は、単に自身の経験を語るだけでなく、工場労働を社会問題として提示し、文学の新たな主題として論じるようになる。

1921(大正10)年ごろ、和喜蔵は作家・劇作家である藤森成吉を訪ね、後に『女工哀史』となる執筆計画の目録を見せた。藤森は後年、同書の岩波文庫版に寄せた文章などで和喜蔵に言及している。作家を志す若い職工が、工場で得た経験をもとに、この時期から体系的な記録へ具体的にまとめようとしていたことがわかる。

文学活動の開始[6]

1922(大正11)年3月、和喜蔵は東京モスリンを辞めた。前年の労働争議には勝利したものの、組合幹部間の党派争いの中で排斥され、長年の工場労働による病気も重なったためと自ら認めている。和喜蔵は退職後、妻としをの支えもあり文学活動に専念することにした。

現在確認できる和喜蔵の初期作品には、すでに女工と工場の主題が明確に表れている。1921(大正10)年10月、雑誌『新組織』に詩「女工生活の歌」を発表した。1頁の短い詩ながら、後に『女工哀史』で展開される問題意識を示す作品とされている。

1922(大正11)年2月には、『種蒔く人』に短編小説「死と生と一緒」を発表した。末尾には1921(大正10)年12月4日の日付が記されている。紡績工場で働く共稼ぎ夫婦を主人公とし、妻が病弱な子を産み、夫が不慮の死を遂げる筋立てである。貧困と労働、夫婦生活と子ども、工場労働が結び付く構図は、和喜蔵の創作世界の重要な一面を示している。

同年5月には「婦人運動者の近眼」と「或る機械」を『種蒔く人』に発表した。「婦人運動者の近眼」は、紡績工の談話を基にした文章である。「或る機械」は8頁の小説で、機械を題材とする。和喜蔵は機械を、近代化の象徴として賛美するのではなく、働く人間の生活と身体を規定するものとして描いた。

1922(大正11)年6月、『婦人公論』に「紡績工女の歌ふ小唄――社会問題としての女工唄の考察」を発表した。女工たちがうたう小唄を採集し、その内容と背景を解説した文章である。これは民謡や流行歌への関心にとどまらず、女工の感情、生活、職場の現実を、彼女たち自身の言葉から探ろうとする試みであった。和喜蔵は後に「工場民謡の発達」も新聞に連載しており、工場で生まれる歌を社会的、文学的資料として重視した。

同年7月には『婦人公論』に「地獄の底に呻く女工の群れ」を発表した。副題に「『今日は帝劇・明日は三越』の御婦人へ」とある。これは加悦から大阪へ出た時期を扱う唯一の詳細な自伝である。都市の消費文化を享受する読者に向け、女工たちの労働と生活の実態を突き付ける構成となっている。

同年には、小説「指を喰ふ機械」を『小説倶楽部』に発表した。また、長詩「世界の幸福」を『淑女画報』に掲載した。『婦人公論』には10月、「工場に動く三つの愛」を掲載した。これは後に『女工哀史』の「女工の心理」に組み入れられる「女工の恋愛観」「近親愛」「友愛」に対応する内容であった。12月には「工場悲劇 誘拐されて死の魔窟へ」を「細田喜一」名義で発表し、後の『女工哀史』で女工募集を扱う部分の初出となった。

1923(大正12)年1月、和喜蔵は陀田勘助、三輪猛らと詩誌『悍馬』を創刊した。同月の『労働週報』には、原稿の発表先を得ることの難しさを述べる短文を寄せた。和喜蔵はこのころ、すでに精力的に執筆活動を行っていたが、職工出身の新人作家が発表媒体を確保する困難に直面していた。

同年2月には『種蒔く人』に随筆「電車に乗った夢の中で思った事」を掲載し、労働文学について語った。3月には「女工と淫売婦に就いて」を発表し、女性労働をめぐる問題に踏み込んだ。同作は後に『芸術戦線 新興文藝二十九人集』にも収録された。さらに『解放』に「紡績女工募集の裏表」を発表した。これは『女工哀史』の女工募集を扱う部分に相当する。

詩誌『鎖』には、1923(大正12)年7月に「作業機械」、12月に「そのボオル盤」「おくりもの」を発表した。「作業機械」は、疲れた職工の腕を奪う機械を描く。「そのボオル盤」では、ボール盤に指を食いちぎられた3人の機械への復讐が描かれる。「おくりもの」では、飽食する株主に、機械で削がれた生肉をふるまおうとする激しい諷刺が扱われている。これらの作品は、和喜蔵が工場災害と資本・労働の対立を、詩的表現としても追求したことを示す。

1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起きた。和喜蔵ととしをは東京で被災し[7]、約1週間後に東京を離れ、兵庫県川辺郡多田村へ避難した[8]。二人は同地の猪名川染織所に就職し、多田神社近くに下宿した。しかし、多額の送金が郵便局経由で届いたことで警察の聞き込みがあり、それを気にして年末には同じ村内の矢問へ移っている[9]。

『女工哀史』の成立[10]

和喜蔵は1923(大正12)年7月ごろ、『女工哀史』を起稿したとしている。ただ、1921(大正10)年には執筆計画を藤森成吉に示しており、1922(大正11)年から1923(大正12)年にかけて発表した記録・評論も、同書の各章に直結している。そのため、『女工哀史』は短期間に一挙に書かれたものではなく、工場経験、資料、女工の談話、小唄の採集、雑誌発表、構想の積み重ねを経て形成されたと考えて間違いない。

1924(大正13)年1月下旬、和喜蔵ととしをは多田村から二人で東京へ戻った。和喜蔵は東京で『女工哀史』の執筆を続け、4月には原稿全体をまとめ上げた。

同年2月13日付の朝日新聞「学芸だより」は、「細井和喜蔵氏、六百枚の研究『女工哀史』を携え神戸から帰郷」と報じた。記事は「神戸」としているが、和喜蔵が当時いた場所は同じ兵庫県内の多田村であった。この報道からも、原稿がすでに完成に近づいていたことがうかがえる。

完成原稿は1924(大正13)年4月、藤森成吉に示された。藤森の斡旋で、和喜蔵は改造社の山本実彦に紹介され、原稿買い切りの条件で出版が決まった。雑誌『改造』は同年9月号、10月号、11月号に『女工哀史』の一部を掲載した。掲載量は順に58頁分、24頁分、20頁分で、好評を得た。

和喜蔵は1924(大正13)年の秋、『改造』に掲載された分を含め、原稿全体の推敲を行った。『女工哀史』を一段落させた後には、小説『奴隷』『工場』、戯曲『無限の鐘』『親』『発明恐怖の頃』などの構想を練り、執筆を始めた。

『女工哀史』表紙。デザインは柳瀬正夢。1925年。

1925(大正14)年5月12日、和喜蔵は『女工哀史』の自序を書き終えた。7月10日、単行本『女工哀史』が改造社から刊行された。初版第一刷は3000部であった。7月23日には、本郷三丁目の燕楽軒で『女工哀史』出版祝賀会が開かれた。

同書は刊行後、急速に読者の支持を得た。刊行1年後の1926(大正15)年夏には、第26刷に達したことが雑誌『改造』9月号の広告に示され、ベストセラーとして認識されていた。和喜蔵は長い作家生活を送ることなく亡くなったが、『女工哀史』は存命中に最大の成功を収めた作品となった。

『女工哀史』が扱った主題は幅広い。女工をどのように集めるかという募集の実態、寄宿舎に置かれた女性の生活、教育制度、恋愛や近親愛、仲間同士の友愛、女工の心理、女工小唄、工場の規律と作業、女性労働問題などである。個々の女工の悲惨を描くだけでなく、工場制度が人間関係、身体、感情、教育、移動をどのように組織したかを記録しようとした。工場の内部から見た近代社会の記録であり、同時に労働文学の重要な到達点の一つでもあった。

文学・評論の広がり[11]

『女工哀史』の刊行前後、和喜蔵は工場記録にとどまらず、文学論、通俗文芸論、科学と文学の関係、女性労働問題へと論点を広げた。

1924(大正13)年には、詩「刑場の再建――兵庫の工場より――」「織機」を『鎖』に発表した。「刑場の再建」は大震災後の復興を背景に、労働者の「刑場」が再建され、鉄鎖が以前より冷たくなったと詠む。「織機」は「乙女はお前を織る為めに老ひて、遂には死ぬる」と記し、織機と女工の生涯を結び付ける。

随筆「大阪」では、西大阪の四貫島付近を5年ぶりに訪ねた経験を書いた。雑誌の編集後記には、和喜蔵が兵庫の片田舎の工場で働き、長編を携えて上京する予定だと記されていた。

同年7月には『無産詩人』に「猪名川」を発表し、多田村での生活と上京について書いた。8月の『婦人公論』には「機械

職工の一日」を掲載した。これは「ある夏の一日」を主題にした複数の執筆者による企画の一つで、機械職工の労働の一日を描いたものである。

同年8月の『文章倶楽部』には「労働街の文学者――T石鹼工場に於ける藤森成吉氏」を発表した。藤森を取り上げたこの随筆は、労働の現場と文学者との関係を考えようとする文章である。9月の『文壇』には「プロレタリヤ芸術としての通俗もの」を載せた。和喜蔵は、通俗性を単に低く見るのではなく、民衆を動かす文学の可能性として捉え、「手当たり次第に書いて、ぐんぐん民衆を引っ張って行け」と主張した。

1925(大正14)年には、東京朝日新聞で「近代文学における工業的新分野」を4回連載した。工業と文学を結び付け、工業的題材を新たな文学領域として考察した文章である。都新聞では「工場民謡の発達」を5回連載し、女工小唄への関心をさらに展開した。報知新聞には「わが婦人労働問題の特異性――繊維工場の寄宿と教育制度」を9回にわたって連載した。繊維工場の寄宿制度と教育を、女性労働問題の中核として扱った。

同年5月には時事新報で「通俗小説の地位」を発表した。7月には『文章倶楽部』に「労働者と文学」、9月には『文芸時代』に「科学的文芸」、同月の『文芸日本』に「文芸と科学」を発表した。和喜蔵が文学を、労働と社会、科学、読者層、民衆文化との関係の中で考えていたことがうかがえる。

創作では、1925(大正14)年7月に『文芸戦線』に短編「醜女」、8月に『新人』に「パワー・ペレス」を発表した。死後の10月には『文章倶楽部』に小説「モルモット」が遺稿として掲載された。また同月の『改造』には、兵庫県多田村から東京へ移住した経緯を記す「夫婦わかれして」が掲載された。

『解放』には「いゝものは出ない」が掲載され、文末の日付は8月15日、死の3日前である。『婦人画報』掲載の「禁欲の黒衣にくるまる女工の生活」は絶筆と記され、鶴巻盛一が口述筆記をしたとされる。

『工場』表紙。デザインは柳瀬正夢。

死去と遺稿

『女工哀史』刊行の翌月、1925(大正14)年8月18日午後6時15分、和喜蔵は東京府南葛飾郡亀戸町大字柳島、現在の東京都江東区亀戸で、妻としをらに看取られながら死去した。死亡場所は博愛病院とされる。死因は肺結核と腹膜炎で、盲腸炎とする情報もある。戸籍の届出は同居者の西村伊太郎によって行われた。和喜蔵は28歳であった。

としをは同年9月9日、長男暁を出産したが、子は9月16日に亡くなった。出生と死亡の届出は友人の子として出されたため、和喜蔵自身の戸籍には記録が残っていない。和喜蔵の死は、作家として社会的な注目を得た直後であり、家族生活がようやく形を取り始めた時期でもあった。

改造社は『女工哀史』の成功を受け、和喜蔵の遺稿を刊行する方針を立て、同年11月20日には小説『工場』を刊行した。『工場』は『奴隷』の後を描く物語だが、『女工哀史』の人気を背景に、こちらが先に刊行された。ただし『工場』は、和喜蔵が脱稿したままと思われる状態で出版され、作者による十分な推敲を経ていないままであり、編集、校閲も不備なままであった。

『奴隷』表紙。デザインは柳瀬正夢。

1926(大正15)年3月13日には小説『奴隷』が刊行された。『工場』に比べると、作者による推敲の跡がより明瞭に見られる。『奴隷』は和喜蔵の幼少期、家族、労働、社会への目覚めなどを含む作品世界を展開し、のちに故郷で舞台化された際には「親」「江治のめざめ」「母の死」「女工の死」などの素材となった。

同年7月8日には、戯曲・短編小説集『無限の鐘』が刊行された。単行本として『女工哀史』『工場』『奴隷』に続く刊行で、未発表作品を中心にまとめられた。収録作は次の通りである。

『無限の鐘』表紙。デザインは柳瀬正夢。
  • 戯曲「無限の鐘」
  • 小説「或る機械」
  • 小説「死と生と一緒」
  • 戯曲「親」
  • 詩「泥沼呪文」
  • 「どん底生活と文学の芽生え」
  • 戯曲「発明恐怖の頃」
  • 「愛のテロリスト」
  • 「女給」
  • 「労働街の文学者」
  • 「或る女工の手記」
  • 雑文「地獄で笑う女の手記」

このうち「或る機械」「死と生と一緒」「労働街の文学者」以外は、未発表作品であった。「泥沼呪文」は初版初刷には収録されたが、後の刷では除かれたが、その理由の説明はどこにも見当たらない。

評価と受容

『女工哀史』は刊行直後から大きな反響を呼んだ。外部の観察者による報告ではなく、労働者自身の経験に根ざした記録として、また当時の基幹産業であった紡織工場における女性労働の現実を社会へ示した作品として、幅広い読者を得た。

1927(昭和2)年には、小説『工場』のロシア語訳『Kodzi』が、レニングラードのRabochee Publishersから出版された。翻訳者はナタリア・イサエヴナ・フェリドマン=コンラートである。和喜蔵の作品が早い時期から海外に紹介されたことを示す事実である。

1929(昭和4)年2月には、『女工哀史』が改造社文庫の一冊として刊行された。1930(昭和5)年には『工場』が平凡社の『新興文学全集』第9巻に抄録された。

戦後の1948(昭和23)年7月、改造社は『女工哀史』を改造選書の一冊として復刻した。藤森成吉はあとがきで、労農運動の資金のための刊行と記している。1954(昭和29)年には岩波書店から岩波文庫版『女工哀史』が刊行され、1980(昭和55)年には新版が出た。1982(昭和57)年には岩波クラシックス版も刊行された。

1955(昭和30)年から1956(昭和31)年にかけては、三一書房から『細井和喜蔵全集』全4巻が刊行された。全集の刊行により、代表作以外の小説、詩、評論、戯曲を含む仕事をたどる基盤が整えられた。

1985(昭和60)年には、新日本出版社から『日本プロレタリア文学集・7 細井和喜蔵集』が刊行された。

2007(平成19)年には、細井和喜蔵を顕彰する会により、没後80年と『女工哀史』刊行80年を記念して『「女工哀史」から80年――いま、和喜蔵の声が聞こえる――』が刊行された。同記念誌には、和喜蔵の短編小説、手記、随筆などのほか、和喜蔵を知る関係者らによる資料が収録された。

2018(平成30)年秋には、『奴隷』『工場』が岩波文庫として再刊され、それぞれ『小説女工哀史1 奴隷』『小説女工哀史2 工場』の題で刊行された。[12]

2025(令和7)年11月には、没後100年と『女工哀史』刊行100年を記念して、『「女工哀史」から百年 今も、和喜蔵の声が聞こえる』が細井和喜蔵没後百年記念事業実行委員会によって刊行された。同書には戯曲『無限の鐘』『親』、短編小説「死と生と一緒」「或る機械」「愛のテロリスト」、詩「女工生活の歌(紡績)」「長詩 世界の幸福」「泥沼呪文」、手記・随筆などが再録された。

また、同記念誌には、斎藤美奈子「細井和喜蔵の文学と与謝野町」、細井忠俊「細井和喜蔵とふるさと」、秦重雄「『奴隷』『工場』――いかにして一個の自覚した労働者たりうるか――」、松本満「細井和喜蔵『奴隷』『工場』岩波文庫版再刊行について」などが収録された。

顕彰と故郷

東京都青山霊園にある解放運動無名戦士墓

和喜蔵の死後、その名を記憶し、作品を地域の文化として伝える取り組みが続いた。1935(昭和10)年3月、東京都港区の青山霊園に、細井和喜蔵遺志会によって「無名戦士墓」が建立され、和喜蔵の霊が祀られた。1948(昭和23)年には碑銘に「解放運動」が加えられ、「解放運動無名戦士墓」とされた。その管理は労農救援会、後の日本国民救援会に移された。

1955(昭和30)年8月には、日本国民救援会によって和喜蔵の30年祭が東京・青山の日本青年会館で開かれた。1956(昭和31)年8月には故郷・加悦町の実相寺で「細井和喜蔵さんを偲ぶ会」が開かれ、顕彰準備会の発足が決議された。同年9月には加悦町で「細井和喜蔵を偲ぶ夕」が開催され、元妻の高井としをや山田清三郎らが講演した。参加者は和喜蔵の生家跡、母りきが入水自殺した潅漑池、母と祖母の墓を訪ねた。

1958(昭和33)年11月18日、加悦奥の鬼子母神堂境内で「細井和喜蔵 女工哀史の碑」の除幕式が行われた[13]。碑に用いられた自然石は前年、加悦町滝地区の滝川から運ばれた。以後、毎年11月末の土曜日午後に碑前祭が行われることとなり、現在も続いている。1960(昭和35)年には碑の裏面に碑文が加えられた。

1968(昭和43)年以降、細井和喜蔵祭の前夜祭では、和喜蔵の作品やそれに関連する演劇が上演された[14]。『奴隷』を基にした「親」「江治のめざめ」「母の死」「女工の死」、戯曲「無限の鐘」「発明恐怖の頃」などが舞台化された。1979(昭和54)年には『親』が第1回京都府演劇祭で上演され、第1位となった。こうした舞台化は、和喜蔵の作品が活字だけでなく、地域の演劇活動を通じても受け継がれてきたことを示している。

2025(令和7)年は、『女工哀史』刊行から100年、和喜蔵没後100年に当たった。同年11月22日、京都府与謝野町加悦奥の鬼子母神堂境内で碑前祭が行われ、文学碑の開幕式も挙行された。和喜蔵が少年期を過ごし、最初の労働に就いた加悦奥は、作品と生涯を伝える重要な場所であり続けている。

参考文献

単行本

  • 1925年7月、『女工哀史』(改造社)
  • 1925年11月、『工場』(改造社)
  • 1926年3月、『奴隷』(改造社)
  • 1926年7月、『無限の鐘』(改造社)

再刊行本

  • 1955年ー1956年 『細井和喜蔵全集』全4巻 三一書房
  • 1980年 『女工哀史』(岩波書店、岩波文庫新版)
  • 1982年6月、『女工哀史』(岩波書店、岩波クラシックス版)
  • 1985年9月 『日本プロレタリア文学集7 細井和喜蔵集』ISBN 4-406-01178-1 
    •  死と生と一緒、或る機械、女給、モルモット、奴隷、工場
  • 2007年 『「女工哀史」から80年 ― いま、和喜蔵の声が聞こえる ―』(細井和喜蔵を顕彰する会、短編小説、随筆などを掲載)ISBN978-4-900783-46-1 C0023
  • 2018年10月、『小説女工哀史1,奴隷』(岩波書店、岩波文庫)ISBN978-4-00-331352-7 C0193
  • 2018年12月、『小説女工哀史2,工場』(岩波書店、岩波文庫)ISBN978-4-00-331353-4 C0193
  • 2025年11月、『「女工哀史から百年 ― 今も、和喜蔵の声が聞こえる ―」』(細井和喜蔵没後百年記念事業実行委員会、戯曲、短編小説、詩、随筆などを掲載)ISBN978-4-909960-09-2

細井和喜蔵について書かれた記事、研究、本など

  • 1980年 高井としを著『わたしの「女工哀史」』((株)草土文化、細井和喜蔵の妻による回顧がある)
  • 1990年 E. Patricia Tsurumi著『FACTORY GIRLS Women in the Thread Mills of Meiji Japan』(Princeton University Press)ISBN0-691-03138-X
  • 2007年 細井和喜蔵を顕彰する会編『「女工哀史」から80年 ― いま、和喜蔵の声が聞こえる ―』(細井和喜蔵についての研究、関係者らによる思い出などを掲載、転載)ISBN978-4-900783-46-1 C0023
  • 2015年5月、和久田薫著『「女工哀史」の誕生 ― 細井和喜蔵の生涯 ―』(かもがわ出版)ISBN978-4-7803-0769-6 C0321
  • 2015年 高井としを著『わたしの「女工哀史」』(再刊行、岩波書店、岩波文庫)ISBN978-4-00-381161-0 C0136
  • 2018年1月、小田康徳著『川西の歴史今昔 猪名川から見た人とくらし』(神戸新聞総合出版センター、細井和喜蔵と妻としをが猪名川染織所で働いていたころの考察がある)ISBN978-343-00978-4 C0021
  • 2025年6月、石田陽子著『不屈の人 物語「女工哀史」』(岩波書店、細井和喜蔵の妻であったトシヲを主人公とした創作) ISBN978-4-00-061702-4
  • 2025年11月、細井和喜蔵没後百年記念事業実行委員会編『「女工哀史から百年 ― 今も、和喜蔵の声が聞こえる ―」』(細井和喜蔵についての紹介、論文、詳細な書誌、最新の年譜を掲載)ISBN978-4-909960-09-2

脚注

  1. ↑ 松本満「解説」、『奴隷―小説・女工哀史1』、岩波文庫、第523頁
  2. ↑ 細井忠俊「細井和喜蔵とふるさと」、『「女工哀史」から百年 今も、和喜蔵の声が聞こえる』、第65頁
  3. ↑ 細井和喜蔵、「地獄の底に呻く女工の群」、『婦人公論』1922(大正11)年七月号、『「女工哀史」から百年 今も、和喜蔵の声が聞こえる』第266頁
  4. ↑ 玉川寛治「細井和喜蔵が働いていた東京モスリン亀戸工場のこと」、『「女工哀史」から80年 ― いま、和喜蔵の声が聞こえる ―』 第22頁
  5. ↑ 高井としを 『わたしの「女工哀史」』、(株)草土文化、1980年、第54頁
  6. ↑ 秦重雄「『奴隷』『工場』を読む―いかにして一個の自覚した労働者たりうるか―」(『「女工哀史」から百年 今も、和喜蔵の声が聞こえる』所収)第312頁
  7. ↑ <高井としを 『わたしの「女工哀史」』 第56頁
  8. ↑ 小田康徳 『川西の歴史今昔 猪名川から見た人とくらし』 第180頁
  9. ↑ 高井としを著『わたしの「女工哀史」』 第62頁
  10. ↑ 秦重雄 前掲論文 第314頁、第317頁、第319頁、第323、第326頁
  11. ↑ 秦重雄 前掲論文 第324頁
  12. ↑ 松本満、「細井和喜蔵『奴隷』『工場』再刊の経過と反響」、『「女工哀史」から百年 今も、和喜蔵の声が聞こえる』第339頁
  13. ↑ 杉本利一「和喜蔵顕彰覚え書き」、『「女工哀史」から80年 ― いま、和喜蔵の声が聞こえる ―』第36頁
  14. ↑ 杉本利一 前掲論文 第45頁

関連項目

外部リンク