羽中田 昌
名前
カタカナ ハチュウダ マサシ
ラテン文字 HACHUDA Masashi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1964-07-19) 1964年7月19日(60歳)
出身地 山梨県甲府市
身長 167cm
体重 56kg
選手情報
ポジション FW
ユース
年 チーム
1980-1982 山梨県立韮崎高校
監督歴
年 チーム
2008-2009 カマタマーレ讃岐
2012 奈良クラブ
2015-2017 東京23FC
2018 ブリオベッカ浦安
2022-2023 山梨学院高校
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

羽中田 昌(はちゅうだ まさし、1964年7月19日 - )は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者およびスポーツエッセイスト。JFA 公認S級コーチ(2006年取得)。

来歴

甲府市丸の内で家具商を営む羽中田家の次男として生まれる[1]。6歳上の兄の影響で小さいころからサッカーに親しみ、甲府市立春日小学校(現:甲府市立舞鶴小学校)3年時にサッカー少年団が設立されるとこれに入部してサッカーに熱中するようになった[1]。少年時代から切れ味鋭いドリブル突破が持ち味のフォワードとしてプレーし、小学校5年生の時に湯田少年団の一員として全国サッカー少年団大会(全日本少年サッカー大会の前身)に出場[1]。翌年には春日少年団の一員として同大会に出場し、2年連続で優秀選手に選ばれ全国的に名前が知れ渡るようになった[2]。

地元の甲府市立西中学校へ進学したが、全国中学校サッカー大会の予選を兼ねた最後の大会で保坂孝を擁する韮崎市立韮崎東中学校に敗れ、全国大会への出場は成らなかった[3]。

中学卒業後は山梨県立韮崎高等学校へ進学し、横森巧の指導の下で1年時からレギュラーとして第59回全国高等学校サッカー選手権大会でベスト4、2年時の第60回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝に貢献し優秀選手に選出された。この当時には1学年上の大柴剛、保坂と共にH₂Oトリオとしてマスコミから注目された[4]。

しかし、1982年3月、高校選抜のヨーロッパ遠征直前に腎臓病を患い選手キャリアの中断を余儀なくされた[4]。3か月の入院生活の後も運動を禁じられたため静養生活が続き、チームも羽中田の3年時は夏の高校総体出場を逃し、かろうじて冬の選手権への出場権を獲得したのみだった[4]。同年12月、医師から「1試合15分以上はプレーをしない」ことを条件に復帰が認められると[5]、迎えた第61回全国高等学校サッカー選手権大会では、2回戦の旭高校戦と準決勝の守山高校戦にそれぞれ15分間の出場[6]。決勝の清水東高校戦では相手の3点リードで迎えた後半15分から途中出場を果たし[5]、後半26分に保坂とのパス交換から2点差に追い上げるゴールにつなげると、その直後にはハーフウェイライン付近からのドリブル突破でスタンドを沸かせた[5][7]。

復帰を果たしたものの依然として腎臓病を抱えていたこともあり、高校卒業後はサッカーとは無縁の大学を志望、あるいは読売クラブや三菱養和SCのようなクラブチームで体調を考慮しながらプレーを続けたいと希望していた[5]。しかし1983年夏、浪人中にオートバイ運転中の事故で脊髄損傷を負った結果、下半身不随となりサッカー選手としてのキャリアが断たれた[5][8]。

リハビリテーションを経て、1986年から9年間山梨県庁に勤務[8]。1993年のJリーグ開幕でかつて高校サッカーで戦った選手たちが脚光を浴びるのに触発され、サッカー指導者への道を志し、1995年にバルセロナに渡る[8]。

2000年に帰国後は主にテレビのサッカー中継やスポーツ誌などで解説者として活動。BS朝日『SOCCER2002』の司会を務め、スカイパーフェクTV!のサッカー中継番組で主に海外サッカーの解説を担当する傍ら、暁星高校サッカー部のコーチとして指導に当たった[8]。

2006年9月、日本サッカー協会・S級ライセンスを取得[8](身体障害者としては史上初)。2008年から2009年までカマタマーレ讃岐の監督を務めた。

2011年4月、山梨県韮崎市の「サッカーのまちづくりプロジェクト推進委員会」と単年度契約を結び、母校である韮崎高等学校サッカー部のコーチに就任した[9]。

2012年1月、関西サッカーリーグ1部に所属する奈良クラブの監督に就任したが、第9節のディアブロッサ高田FC戦が行われた同年6月30日に成績不振を理由に辞意を表明[10]。同年7月3日付けで辞任が発表された[10]。

2015年、関東サッカーリーグ1部に所属する東京23FCの監督に就任した[11]。

2018年よりブリオベッカ浦安の監督に就任した[12] が、同年9月に成績不振により監督を解任された[13]。

2022年3月、山梨学院高等学校サッカー部の監督に就任した[14]。羽中田によればブリオベッカ浦安の監督退任後は指導者の第一線から退く考えだったが、韮崎高校時代の恩師でもある総監督の横森から誘いを受け、監督就任を決めたという[15]。第101回全国高等学校サッカー選手権大会でチームを指揮した後、2023年1月に監督退任が報じられ[16]、2月28日付で同校を退職した[17]。

人物

甲府市在住である羽中田が、越境通学(当時の甲府市は総合選抜制度であった)となる韮崎高校へ進学した理由は、ライバルの保坂孝から勧誘があったためである。保坂は大型FWとして羽中田と同様に嘱望され、高校進学の際には東京都の帝京高等学校から勧誘をうけていた。なお、保坂は羽中田が誘いを断れば帝京へ進学する予定だったという[18]。 FCバルセロナのソシオ(会員)であり、また地元クラブのヴァンフォーレ甲府が解散の危機にあった際には「ヴァンフォーレ甲府の支援を求める会」の発起人にもなった。

漫画家の塀内夏子は、1983年の高校選手権決勝での羽中田のプレーをテレビで観戦し、自身の作品『オフサイド』の主人公・熊谷五郎のモデルにしたと語っている[19]。

所属クラブ

指導歴

監督成績

年度チームリーグ順位勝点試合数勝分敗得点失点
2008讃岐四国優勝40141310624
20092位361412025610
2012奈良ク関西1部2位註149351127
2015東京23関東1部

著書

単著

訳書

脚注

  1. 1 2 3 中尾 1985、122頁
  2. ↑ 中尾 1985、123頁
  3. ↑ 中尾 1985、124頁
  4. 1 2 3 中尾 1985、125頁
  5. 1 2 3 4 5 中尾 1985、126頁
  6. ↑ “高校サッカー史上最大の歓声を集めた「消えた天才」の壮絶人生”. 現代ビジネス. 講談社. p. 2 (2019年1月3日). 2022年12月30日閲覧。
  7. ↑ “高校サッカー史上最大の歓声を集めた「消えた天才」の壮絶人生”. 現代ビジネス. 講談社. p. 3 (2019年1月3日). 2022年12月30日閲覧。
  8. 1 2 3 4 5 “高校サッカー史上最大の歓声を集めた「消えた天才」の壮絶人生”. 現代ビジネス. 講談社. p. 4 (2019年1月3日). 2022年12月30日閲覧。
  9. ↑ 「羽中田さん母校・韮崎高コーチに」『山梨日日新聞』2011年4月7日付朝刊、第2版、第13面。
  10. 1 2 3 “羽中田昌監督・武井雅之コーチ 辞任のお知らせ”. 奈良クラブ (2012年7月3日). 2012年7月14日閲覧。
  11. ↑ “監督就任のお知らせ”. 東京23FC (2014年12月8日). 2014年12月8日閲覧。
  12. ↑ 『羽中田 昌氏 監督就任のお知らせ』(プレスリリース)ブリオベッカ浦安、2017年12月4日。2017年12月7日閲覧。
  13. ↑ 『羽中田 昌 監督 解任のお知らせ』(プレスリリース)ブリオベッカ浦安、2018年9月5日。2018年9月7日閲覧。
  14. ↑ “羽中田新監督「たくさんのことを学ばせてもらった」。逆転勝ちの山梨学院が山梨第1代表として関東大会へ”. ゲキサカ (2022年5月13日). 2022年12月28日閲覧。
  15. ↑ “40年前に選手権で一世を風靡…山梨学院・羽中田昌監督が指揮官として再び選手権へ”. ゲキサカ (2022年11月13日). 2022年12月28日閲覧。
  16. ↑ “羽中田監督(山学高サッカー)退任”. さんにちEye 山梨日日新聞電子版. 山梨日日新聞社 (2023年1月11日). 2023年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月15日閲覧。
  17. ↑ “3/3ブログスタートの日 やっほー!”. 車椅子のサッカーコーチ&人生コーチ・羽中田昌のオフィシャルブログ (2023年3月3日). 2023年12月15日閲覧。
  18. ↑ 中尾 1985、124-125頁
  19. ↑ “第85回全国高校サッカー選手権大会特集:インタビュー:塀内夏子さん”. J's GOAL. 2012年4月21日閲覧。[リンク切れ]

参考文献

関連項目

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