能久親王妃富子

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能久親王妃 富子
宇和島伊達家 → 玉里島津家 → 北白川宮家
1896年
続柄 伊達宗徳第2女子
島津久光養女

全名 富子(とみこ)
身位 親王妃
敬称 殿下
出生 1862年10月1日
(文久2年閏8月8日)
江戸幕府・伊予国宇和郡宇和島(現:愛媛県宇和島市)
死去 (1936-03-20) 1936年3月20日(73歳没)
大日本帝国の旗 日本・神奈川県三浦郡葉山町一色北白川宮別邸[1]
埋葬 1936年3月26日
豊島岡墓地
配偶者 北白川宮能久親王
子女 北白川宮成久王
父親 伊達宗徳
島津久光(養父)
母親 生母未詳
栄典 勲一等宝冠章
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能久親王妃富子(よしひさしんのうひ とみこ、1862年10月1日〈文久2年閏8月8日〉- 1936年〈昭和11年〉3月20日)は、日本の皇族。北白川宮能久親王妃。

生涯

宇和島藩最後の藩主だった伊達宗徳(のちに侯爵)の次女。後に旧薩摩藩国父の島津久光(のちに公爵)の養女となる。

1886年(明治19年)7月10日に北白川宮能久親王と結婚。能久親王の信頼も厚く、日清戦争が始まった1894年(明治27年)には明治天皇のご機嫌伺いに広島の大本営へ遣わされた。 翌1895年(明治28年)に台湾征服戦争に出征した能久親王が、台南で10月28日に病没したため、富子妃は満33歳で未亡人となった。

1901年(明治34年)10月20日、宮地厳夫掌典が奉持する御霊代とともに、装甲巡洋艦浅間に乗艦し渡台し、24日午前10時に基隆港に到着した[2][3]。盛大な奉迎の中台北入りして台湾総督官邸に滞在し[4]、10月27日の台湾神社鎮座式に参列[4]。翌10月28日(能久親王の命日)の例大祭で玉串を捧げて拝礼した[5]。

神社創建に際し、次の和歌を献じた。

このしまの あらむかぎりは かがやかむ 名もたかさごの[注釈 1] 神のみいつは

—北白川宮大妃富子(『臺灣神社誌』[6]より)

10月30日にも再度同神社に参拝し[7]、11月4日には、台南の北白川宮御遺跡所(のちの台南神社)にも参拝している[8]。また渡台にあたり、10月26日付で慈善金5000円を下賜した[9]。

能久親王との間にもうけた一子成久王が北白川宮を継承したが、能久親王にはこのほかにも5人の側室との間に10人の子女があり、富子妃はその教育にも力を傾けた[10]。中には、死後、親王の実子であると確認された上野正雄伯爵や二荒芳之伯爵もいた。子女との関係は円満で、親しく一堂に会しては四方山話を楽しんだ[11]。また義理の娘(嫁)となった成久王妃房子内親王(北白川宮妃)や恒久王妃昌子内親王(竹田宮妃)も、富子大妃を「おたたさま」と呼び慕った[11]。

子女教育も一段落ついた1923年(大正12年)4月1日、最愛の成久王を留学先のフランスで自動車事故で失うという悲劇に見舞われる。その悲しみからか以後は葉山の別邸でひっそりと過ごすようになった。

1926年(大正15年)秋、再度渡台。10月28日(例大祭)に台湾神社[12]、10月30日に台南神社[13]、そして11月1日に再度台湾神社へ参拝[12]したのが数少ない表立った行動だった。

1936年(昭和11年)3月19日午後10時30分、突如呼吸困難に陥る[14]。肺うっ血の様子であったが、手当の甲斐なく20日午前3時にチアノーゼを呈し、午前11時に不整脈の触診も困難となって危篤となる[14]。同日午前11時40分、葉山の北白川宮別邸にて薨去した[14][1]。満73歳、数え年75歳。

同年3月26日午前8時50分、亡骸は高輪の北白川宮家を発ち、豊島岡墓地で葬儀が行われた[15][16]。

栄典

勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1888年(明治21年)11月1日 勲一等宝冠章[17]
1889年(明治22年)11月29日 大日本帝国憲法発布記念章[18]
1890年(明治23年)5月22日 日本赤十字社名誉社員章[19]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[20]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[21]
1928年(昭和3年)11月10日 大礼記念章(昭和)[22]

参考文献

  • 中村秋人『名媛と筆蹟』博文館、1909年12月。全国書誌番号:40071861。  (NDLJP:853217)
  • 台南神社社務所 編『台南神社誌』台南神社社務所、1928年3月。全国書誌番号:88090397。 (NDLJP:1907486)
  • 臺灣神社社務所 編『臺灣神社誌』(9版)松崎貞吉、1935年8月。全国書誌番号:21580953。 (NDLJP:3460493)

脚注

注釈

  1. ↑ 「たかさごの」は、本来は「まつ」「尾上」に掛かる枕詞。また日本における台湾の古い異称(高砂国)。

出典

  1. 1 2 昭和11年宮内省告示第4号(『官報』第2764号「告示」1936年3月23日)(NDLJP:2959244/2)
  2. ↑ 『官報』第5492号「宮廷録事」1901年10月22日(NDLJP:2948791/5)
  3. ↑ 臺灣神社社務所 1935, p. 47(NDLJP:3460493/46)
  4. 1 2 臺灣神社社務所 1935, p. 49(NDLJP:3460493/47)
  5. ↑ 臺灣神社社務所 1935, p. 54(NDLJP:3460493/50)
  6. ↑ 臺灣神社社務所 1935, p. 56(NDLJP:3460493/51)
  7. ↑ 臺灣神社社務所 1935, p. 83(NDLJP:3460493/66)
  8. ↑ 台南神社社務所 1928, p. 41(NDLJP:1907486/47)
  9. ↑ 明治34年台湾総督府告示第116号(『官報』第5513号「告示」1901年11月16日)(NDLJP:2948814/2)
  10. ↑ 中村秋人 1909, pp. 32–33(NDLJP:853217/30)
  11. 1 2 中村秋人 1909, p. 33(NDLJP:853217/30)
  12. 1 2 臺灣神社社務所 1935, p. 85(NDLJP:3460493/67)
  13. ↑ 台南神社社務所 1928, p. 30(NDLJP:1907486/33)
  14. 1 2 3 『官報』第2764号「宮廷録事」1936年3月23日(NDLJP:2959244/5)
  15. ↑ 昭和11年宮内省告示第5号(『官報』第2765号「告示」1936年3月24日)(NDLJP:2959245)
  16. ↑ 『官報』第2765号「宮廷録事」1936年3月24日(NDLJP:2959245/6)
  17. ↑ 『官報』第1605号「叙任及辞令」1888年11月2日。
  18. ↑ 『官報』第1928号「宮廷録事」「彙報 - 大日本帝国憲法発布記念章送付」1889年11月30日。
  19. ↑ 『官報』第2068号「彙報 - 陸海軍 - 日本赤十字社録事」1890年5月24日。p303
  20. ↑ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
  21. ↑ 『官報』第1764号「叙任及辞令」1918年6月20日。
  22. ↑ 『官報』第685号「叙任及辞令」1929年4月15日。

外部リンク