芙蓉部隊
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芙蓉部隊(ふようぶたい)とは、大東亜戦争(太平洋戦争)末期の日本海軍において、三個飛行隊(戦闘八〇四飛行隊、戦闘八一二飛行隊、戦闘九〇一飛行隊)により編成された進攻夜間戦闘機隊。
「関東空部隊」として発足した当初、自らで「芙蓉部隊」(もしくは「芙蓉隊」)と称し、沖縄戦における菊水作戦中に正式な部隊名として呼称されるようになった[1]。美濃部正少佐が指揮を執り、美濃部の方針により特攻を拒否し、敵飛行場や敵艦船に対する夜襲を主戦法としたとされる[2][3][4][5][6]。しかし、特攻そのものは否定しておらず[7]、決定的な戦機到来の暁には特攻する覚悟であり[8][9]、実際に複数回の特攻出撃を行い[10][11]、芙蓉部隊隊員の4人が特攻による戦死で連合艦隊司令長官から感状を授与されている[12]。芙蓉部隊隊員の多くも、自分達が特攻隊の編成から外されたという認識は無く[13]、部隊の一部が「夜鴉特攻隊」と称して特攻の訓練を行っていたなど[14][15]、部隊の実態については異聞がある[13]。
特徴

部隊の名称は、富士山の別名“芙蓉峰”からとった芙蓉隊、後に芙蓉部隊が用いられた。これは部隊の根拠地となった静岡県志太郡静浜村(現・焼津市)の藤枝基地(現・航空自衛隊静浜基地)から富士山がよく見えたことにちなんで美濃部少佐が命名したものである。第三航空艦隊長官寺岡謹平中将の揮毫による隊旗も作られた[2]。芙蓉部隊所属の搭乗員は、フヨウの花の色である薄紅色のマフラーを着用していた[16]。 編制上の芙蓉部隊(関東空部隊)は第三航空艦隊に所属し、1945年2月1日から4月19日まで「関東空部隊」の名前で指揮官は関東海軍航空隊司令、4月20日以降は 「芙蓉部隊」の名前で第一三一海軍航空隊に所属し、指揮官は一三一空司令であった。発足時は戦闘九〇一飛行隊、戦闘八一二飛行隊は131空所属、戦闘八〇四飛行隊は北東海軍航空隊所属で、3月15日に戦闘804も131空に編入された。3月31日より美濃部を指揮官とする鹿屋部隊(戦闘901、戦闘804、戦闘812の一部)と戦闘812飛行隊長を指揮官とする藤枝部隊(戦闘812、戦闘901・戦闘804の錬成員)に分けられた。4月20日以降、美濃部を指揮官とする「鹿屋(岩川)芙蓉部隊」と戦闘812飛行隊長(後に座光寺一好少佐)を指揮官とする「藤枝芙蓉部隊」に分けられた[1]。実質的な指揮は戦闘901飛行隊長(3月5日から131空飛行長)の美濃部正少佐が行っていた。 副官の徳倉正志大尉は芙蓉部隊の部隊名が決まると『芙蓉部隊の歌』という歌を作っている[17]。
芙蓉部隊の搭乗員は特色のあるフヨウの花の色で染められたマフラーをしていた。これは、のちに芙蓉部隊が進出した岩川基地近郊の、芙蓉部隊士官らが将校クラブとして利用することになった開業医院の川崎邸で[注 1][18]、芙蓉部隊の黒川上等兵曹が川崎の妻女に対して「搭乗員のマフラーをフヨウの花の色に染めてほしい」と依頼している。妻女は歌人で花の色にも詳しかったことから、フヨウの花は白と薄紅色があるので薄紅色に染色しようと提案するなど[19]、黒川の依頼を快諾しボランティアでマフラーの染色を請け負っている。数が大量であったため妻女ひとりではさばききれず、東京から疎開してきていた長女(夫は大本営参謀)や医院の看護婦までが手伝った[20]。芙蓉部隊搭乗員の首で風にたなびくフヨウの花の色のマフラーは、夜目にも美しく見えたという[16]。
夜襲
対敵空母
美濃部は1944年(昭和19年)、第九三八海軍航空隊の飛行隊長としてオーストラリア領ニューギニア(現・パプアニューギニア)のラバウルにいたときに、マラリア治療のため入院していた野戦病院で、精神障害で入院していた美濃部の教官時代の教え子の操縦員と再会「私は飛行機に乗れますよ、教官、私を退院させて下さい。零式水上偵察機に250 kg爆弾を積み、20 mm機銃4丁付けて攻撃したい」との訴えを受けている[21]。この教え子は、従軍看護婦が、会話中の美濃部にわざわざ手信号で「頭が狂ってる」と伝えたほど[22]正気を失って、看護婦の手を煩わしていたが、この発狂した教え子が[23]、幻の中で描いていた攻撃方法が美濃部に強烈な印象を与え[24]、美濃部はこの攻撃方法を「画期的な発想」と考えて、後の芙蓉部隊に繋がる夜襲戦法を決心するきっかけとなった[25]。
しかし、攻撃するにしても鈍足の水偵では敵戦闘機の群れを突破できずに撃墜されるに違いなく、美濃部は敵戦闘機の追撃をかわすため零式艦上戦闘機の活用を思い立った。零戦に夜間飛行能力に長けた水上機搭乗員を乗せて夜襲をかければ天下無敵になると考え、南東方面艦隊に進言することにした[26]。美濃部が退院した頃には、九三八空は3機の水偵を残すのみとなっており、戦局打開策が必要となっていた。美濃部は「南東方面艦隊に水上機搭乗員100余名、夜間飛行、洋上航法、爆撃、空戦も可能、うち飛行1000時間超えの熟練操縦員50名が残存。零戦には10日もあれば転換可能。水上機搭乗員をもって敵侵攻兵力を叩くべきである」と南東方面艦隊司令部に進言したが、この時は一蹴されてしまった[27]。進言を却下された美濃部であったが、夜襲作戦を実践するため、指揮下の九三八空の水上機を爆装させ、敵の背後に当るニュージョージア島の二ヤイ飛行場への夜襲を命じた。この夜襲は成功し、無警戒に灯火を付けたままの滑走路に駐機する大型中型機5機を爆撃して無事帰投することができた[28]。美濃部はこの成功で再度司令部に水上機搭乗員の零戦への転換を上申したところ、逆転で採用が決定した[29]。トラック島竹島基地で零戦5機を受領し、水上機搭乗員からの選抜者18名が1週間で零戦操縦をマスターしたがトラック島空襲で計画は頓挫する[30]。
1944年2月には軍令部航空参謀源田実大佐に夜襲部隊の編制を直談判し、第三〇一海軍航空隊戦闘316飛行隊の飛行隊長に任じられることとなったが[31]、その際に美濃部が考案していたのは、零戦の爆戦により、アメリカ軍機動部隊に夜襲をかけるというものであり、具体的には、サイパン島に55機の零戦で進出し、「連日18機で未明600キロの哨戒・探索を行う」「9機4群の夜襲隊で、発艦前の敵空母を攻撃する」というものであった[32]。(美濃部考案の敵空母への夜襲特攻戦術の詳細は#計画参照)この作戦は美濃部が戦闘316の飛行長を更迭されたため実現しなかったが[33]、第一航空艦隊第一五三海軍航空隊戦闘901飛行隊の飛行隊長として戦ったレイテ島の戦いにおいても、指揮下の零戦や夜間戦闘機月光を、アメリカ軍機動部隊への索敵攻撃に投入しており[34]、海軍省功績調査部に「今次数度の戦闘において丙戦(主に夜間戦闘機のこと)訓練と用法により新しき戦闘方策を樹立せるを実証せり。即ち、敵空母に対し未明発艦前の敵飛行機を甲板上に破壊し、爾後わが昼間戦闘を有利にす」と報告するなど、敵空母への夜襲に強い拘りを見せていた[35]。そして芙蓉部隊編成後も、戦闘316や戦闘901の指揮官時と同様に、美濃部考案の敵空母に対する夜襲を試みていたが、それが実現することはなかった[36]。(芙蓉部隊による敵空母攻撃の詳細については#艦船攻撃を参照)
美濃部が、頑迷な日本海軍上層部に対し、航空機による夜間攻撃の有効性を説き続け、合理的思考と創意工夫で、日本海軍内でも特別な夜襲隊を運用していたなどという主張もあるが[37]、全くの事実誤認である。美濃部が夜襲部隊を構想する以前から、日本軍の航空作戦は夜間に集中するようになっており、航空機での夜間攻撃は日本軍の普遍的な戦術となっていた[38]。アメリカ軍が日本軍航空機の夜襲に悩まされるきっかけは、ガダルカナルの戦いの際の、日本軍の夜間攻撃機である通称「ウォッシングマシーン・チャーリー(洗濯機チャーリー)」であり、アメリカ軍兵士は、夜間に同期をずらしたエンジンで、独特のけたたましい騒音を鳴らしながら来襲する日本軍攻撃機を、洗濯機の騒音になぞらえて「ウォッシングマシーン・チャーリー」と名付けて恐れ、その騒音や爆撃への警戒で睡眠を殆ど取ることができず、対策に苦慮したアメリカ軍は夜間戦闘機の開発を急ぐこととなった[39]。
日本軍航空機の夜襲は機動部隊にも行われるようになり、アメリカ海軍の公式報告書でもアメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥が、1943年12月の時点で「南太平洋および中部太平洋における日本軍の攻撃航空活動の90%以上が夜間に行われた。」と報告している。そのため、アメリカ軍は夜間戦闘能力の強化に注力しており、アメリカ海兵隊は1942年11月16日にチェリー・ポイント海兵隊航空基地で、アメリカ海軍は1943年4月1日にクォンセットポイントで夜間戦闘機部隊を就役させ、1943年5月8日にはセントシモンズ島海軍レーダー訓練学校を開校して夜間戦闘の専門家を多数育成し、日本軍航空部隊の夜襲に備えていた[40]。このアメリカ海兵隊と海軍の夜間戦闘能力向上策は、早々に効果を発揮し、 ロッキードPV-1の夜間戦闘機型を配備したアメリカ海兵隊夜間戦闘機隊VMF(N)-531が、1943年10月31日の夜間に機上レーダーにより一式陸上攻撃機を撃墜している[41]。
美濃部が戦闘316で敵機動部隊への夜襲を画策していたサイパンの戦い時点では[42]、既に各空母に夜間戦闘機が配置されており、日本軍は航空機による夜襲を何度も行ったが、全て撃退されている。中でも空母「エンタープライズ」配属の夜間戦闘機隊VF(N)-103はマリアナ作戦中に一夜で3機の日本軍機を撃墜する活躍を見せており、同作戦で日本軍の夜間攻撃でのアメリカ軍艦船の損害は殆どなかった[43]。その後も、アメリカ海軍とアメリカ海兵隊はレーダーと夜間戦闘機を駆使した夜間戦闘能力を向上させていったが[44]、美濃部を含む日本軍側は、アメリカ軍とのエレクトロニクスの格差を最後まで理解することはなく、有効な対策を講じることはできなかった[45]。
対敵航空基地
芙蓉部隊は、ジャンボリー作戦への迎撃や[46]、菊水作戦で何度も敵空母部隊への攻撃を試みたが、接触することすらできず[47]、菊水作戦途中から芙蓉部隊は沖縄の敵航空基地攻撃を命じられるようになった[48]。(詳細は#特攻命令#4月参照)美濃部は日本軍の制空戦闘機(甲戦)では制空権の確保は困難になったと考えており[49]、それを補うために地上で敵戦闘機を撃破すべきと考えた、これは、アメリカ軍の爆撃機B-24やB-29により、日本軍が大量の航空機を地上で撃破され戦力を消耗したことが最適例だと指摘しているが[50]、美濃部自身もフィリピンの戦いで多数の指揮下の戦闘機を爆撃で撃破された痛い経験に基づくものであった[51]。そこで、 「夜間戦闘機といえども対大型機局地邀撃に非ずして専ら侵攻企図を有せるものなり」と、夜間戦闘機(丙戦)の戦闘目的を空戦ではなく「夜間特に黎明期銃爆撃に依り敵制空隊の漸減」と定めた[47]。敵飛行場を攻撃するのは夜間戦闘機(丙戦)であり、日の出前1-2時間前に丙戦で敵飛行場に攻撃をかければ、当日昼間に作戦従事予定の敵作戦機が「飛行準備不如意」の状態で滑走路上に並んでいるはずであり、そこを銃爆撃すれば敵は十分な迎撃ができず、一方的に敵航空戦力の漸減が図れるはずと美濃部は想定している。これが劣勢な日本軍航空部隊がアメリカ軍航空部隊を斃せる「唯一の手段」であり、芙蓉部隊の丙戦が黎明攻撃で敵飛行場を制圧したのち、昼間に航空部隊主力が作戦行動すれば「極めて有効なる作戦主動性」を把握できるとも美濃部は考えた[52]。戦後しばらく経過してから、美濃部が「夜戦部隊はゲリラ的な戦法こそ有効」と、少数機によるゲリラ攻撃を主張していたなどと[53]根拠なく言われることがあるが、戦時中の美濃部の理想は敵夜間戦闘機対策として、できうる限りの大兵力を同時使用して敵の応援の暇を無くそうというものであった[54]。
美濃部が日本軍戦闘機の空戦能力を低く評価していたのは、上記の戦闘316飛行隊の指揮官時代の痛い失敗に基づいていた。美濃部は当初「水上機パイロット出身者は零戦で訓練すれば、空中戦もすぐに上達する」などと楽観的に考えていたが[55]、実際に訓練させてみると殆ど上達が見られなかったので「そんなに短期間で空戦訓練ができるわけがない」と当初の楽観的な見通しを改めており[56]、「戦闘機の任務は空中戦だけではない」として[56]、本来は空戦の訓練を行っていた甲戦の零戦の搭乗員に対しても、空戦の訓練を行わないこととし、「専ら侵攻企図を有せる」夜襲に特化した訓練を行っていた[57]。そのため、芙蓉部隊の戦闘機搭乗員は敵戦闘機に対する空戦技術を殆ど持たなかった[58]。芙蓉部隊と同様に美濃部に特訓を受けた戦闘316飛行隊は、最新型の零戦52型で編成されていたのにも拘わらず、テニアン島のアメリカ軍艦載機に対する迎撃戦で一方的に撃墜されて全滅しており[58]、戦闘316飛行隊と同様に芙蓉部隊の搭乗員の空戦技術が乏しいと自覚していた美濃部は、戦艦大和による海上特攻の際、第五航空艦隊司令部からの戦艦大和の護衛任務の要請を拒否したこともあった[59]。
芙蓉部隊の訓練度
芙蓉部隊の訓練は美濃部が考案したものであり、作戦の主体である夜間に身体をならすため「猫日課」と称して昼夜を逆転させた生活を送らせていた[60]。午前0時に起床、1時に朝食、6時に昼食、11時に夕食、午後4時に夜食として、電灯使用を制限して夜目の強化を促した。夜間洋上航法訓練では、黎明-薄暮-夜間の順で定点着陸訓練から、太平洋へ出ての洋上航法通信訓練を行った。時間と燃料が十分にないため、指揮所に基地の立体模型を作って夜間の進入経路を覚えさせ、図上演習を繰り返し実施した。薄暮・夜間飛行訓練を行うときは可能な限り見学させ、「飛ばない飛行訓練」に努めて練度向上をはかった。座学も重視して、飛行作業の合間に講義が頻繁に行われた。特に雨天時は搭乗員を集めて集中的な講義を実施した。講義の内容は航法、通信、夜間の艦艇の見え方、攻撃方法などの戦術、飛行機の構造、機材等についてであった[61]。搭乗員の訓練は効率を第一にして実用的なことのみ徹底して教えたため[62]、訓練時間を通常の約1/3にまで短縮することに成功したという主張もあり[63]、美濃部自身も「特攻部隊の3倍の厳しい訓練であった」[64]や「航空部隊幹部も若年パイロットに対し我が隊のような教育をどれほどしたであろうか」などと自画自賛している[65]。しかし訓練の中には、搭乗員に暗闇を凝視させて夜間視力を強化するといったものもあったが[66]、暗所視や暗順応は、医学的に訓練などで向上することはなく[67]、訓練中の事故も多く、多数の殉職者を出している[68]。
美濃部の徹底した夜間飛行訓練を行い、やっと離着陸ができるようになった経験の浅い搭乗員でも、往復約1,700 km、約5時間にも及ぶ夜間飛行が可能となるまで鍛え上げたとされる[69]。その結果、1945年1月の段階では、戦闘九〇一飛行隊で夜間作戦を支障なくこなす操縦技術を有するA級操縦員は28名中3名(10.7%)に過ぎなかったが[70]、3月の段階では戦闘九〇一飛行隊のA級操縦員は52人中15人(28.8%)、芙蓉部隊全体でも126人中34人(26.9%)と搭乗員数が急増したのにも関わらず練度が上がっている。これは、同時期の第一航空艦隊、第三航空艦隊、第五航空艦隊のA級操縦員平均割合15.8%を大きく上回り、同時期に編成された第三四三海軍航空隊のA級操縦員227人中54人(23.7%)をやや上回っていた[71]。しかし、練成を要するD級と判定された芙蓉部隊の操縦員については126人中62人(49.2%)と半数近くにも上っており、同時期の第一、三、五航空艦隊の平均40.7%を大きく上回り、第三四三海軍航空隊に至っては227人中22人(9.6%)で芙蓉部隊の約1/5の水準であるなど[72]、一部のA級操縦員を除けば、芙蓉部隊の平均的な夜間飛行能力はむしろ低かった。
また、単座機を除き複座以上の機種では、操縦員だけがA級でも偵察員が準A級でなければ夜間作戦は困難であり、操/偵を合算したA級搭乗員で見ると、芙蓉部隊は226名中60名(26.5%)に対し、第一、三、五航空艦隊の平均は16.8%、第三四三海軍航空隊263人中64人(24.3%)と操縦員と同様に芙蓉部隊の割合が高いが、操縦員単独と比較するとその差は少なくなっている。それに対しD級搭乗員の割合は、芙蓉部隊226人中115人(50.8%)と操縦員平均値よりさらに悪化しており、第一、三、五航空艦隊の平均47%、第三四三海軍航空隊263人中33人(12.5%)とも格差がある[73]。従って、美濃部の猛訓練によって、芙蓉部隊の隊員の夜間戦闘の技能が極めて高かった[74]とか、中には日本陸海軍全航空部隊中最高クラスであったなどという主張は[75]、当時の記録からは全く確認できず、夜間飛行能力と同様に、芙蓉部隊の平均的な夜間作戦能力は低かった。
美濃部の考案したとされる「猫日課」と称する昼夜逆転訓練[76]が芙蓉部隊独特であるというのも全くの事実相違で、昼夜逆転の生活は他の部隊でも行われており[77][78]、例えば、練習機白菊で特攻出撃した白菊特別攻撃隊は、夕刻の午後5時に起床し、暗くなるのを待って離陸降爆訓練を連日行っていたなど[79]、芙蓉部隊独自のものではなかった。また、沖縄戦が佳境に入った頃には、各部隊の夜間操縦能力は向上しており、白菊特別攻撃隊の高知空(菊水白菊隊)では、操縦も未熟な訓練生でも1か月間訓練すると、全員が夜間出撃し洋上飛行が可能な水準まで達していたなど[80]、夜間洋上飛行での出撃は各部隊で行われるようになった[81]。
特攻
「芙蓉部隊天号作戦々史」に芙蓉部隊が特攻に反対した根本理由が記されている。
- 1つに、若い搭乗員が特攻の編制を成し、司令、飛行長、隊長を編制より除きたる点に有り。
- 2つに、特攻隊は精神の極致なれども戦技訓練に関心少きため終局の勝利者にあらず、軍人なれば腕を磨き精神を極養するは死に至るまでの修養なり、これ戦力培養上不可欠なり。
- 3つに、特攻は戦機に乗じ臨機必死隊を出すべきものにして常用するは戦闘の邪道なり、芙蓉隊は対機動部隊先制制圧隊に対して決号策戦時、必死者の編制は成しありたり。(行っていた)
- 人曰くフィリピン島戦時の峠を見たる時、今や日本に資材不足、燃料不足、搭乗員若年にして従来の攻撃にては勝算なし、特攻攻撃こそ唯一の必勝の鍵なりと。我らはその精神は採るべきは勿論なれども、上下挙隊(部隊総員挙げ)死を賭して研究訓練する所、何事か成らざらん、特攻攻撃にて片付けるは上層幹部責任逃避なり。[7]
このように芙蓉部隊は特攻を完全否定するものでは無く、敵の本土上陸作戦を迎え討つべく特攻を準備しており、美濃部自身がこれを直率する搭乗割になっていた[8][9]。
計画
芙蓉部隊は対敵機動部隊の戦術として美濃部考案の特攻戦術を採用している。この戦術は「敵の戦闘機隊が十分な行動ができない未明に、まず芙蓉部隊機が敵空母甲板上の敵機を銃撃ロケット弾で攻撃し、発艦前に打撃を与え雷爆特攻機をもって撃滅戦を行い、最後に黎明銃爆特攻隊で搭乗員諸共敵空母甲板上に特攻し、敵空母甲板上の艦載機を一掃する」というものであった[82]。
美濃部考案の対機動部隊特攻戦術は、1945年2月17日にジャンボリー作戦で関東近海に来襲した第58任務部隊を攻撃するために実行されたが、この日に特攻出撃を命じられた河原政則少尉によれば、指揮所に行くと自分の名前が出撃者名簿の中にあり、特攻機出撃前と同様に並べられた別れの盃(別杯)を前にして美濃部から「機動部隊を見つけたら、そのままぶち当たれ」と命じられたという[83]。鞭杲則少尉によれば「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」と命じられたのちに別盃を交わしている[注 2][84]。沖縄戦のさいにも、別杯をかわした特攻出撃が行われたが[11]、芙蓉部隊による機動部隊への攻撃は全て空振りに終わっており、美濃部が考案した機動部隊への特攻戦術は一度も実現することはなかった[36]。
また、沖縄戦が始まると、芙蓉部隊はそれまで駐屯していた藤枝基地に訓練隊を残して、主力は最前線となった鹿屋基地に前進したが[85]、この後は藤枝基地が後方基地となり、新人を訓練して、随時要員を交代させるというシステムを確立している[86]。その訓練隊は「夜鴉特攻隊」と称され[87][88]、美濃部の考案した特攻訓練が行われていた。第十二期海軍甲種飛行予科練習生出身で、月光にも乗ってB29邀撃戦に参加した藤本光男は、その後に藤枝基地に移って、彗星で「猫日課」の過酷な訓練に明け暮れていたが[89]、その訓練は「帝都防衛」を任務とした特攻を想定したもので、藤本はその訓練の様子を「夜の訓練を終えると明るくなってくる。明け方・夕暮れ・夜間の3つに分けて、毎日の訓練。これだけの訓練をやって、ようやく腕前も一人前になったなと思ったら「あとは死ね」だから。」「急降下は、敵艦に体当たりする特別攻撃を意識した訓練でしかない。『帝都防衛』とは、九十九里や駿河湾にやってくる敵艦の撃沈。特攻要員と自覚した」と振り返っている[90]。藤本はそのまま藤枝で終戦を迎え、秋田県特別攻撃隊招魂祭実行委員会が主催して毎年開催されている「秋田県特別攻撃隊招魂祭・昭和の日記念祭」では1993年から特攻隊員の生き残りとして追悼の言葉を述べている[91]。
沖縄戦での日本軍の敗北が明らかとなり、連合軍による日本本土上陸(ダウンフォール作戦)の可能性が高まると、美濃部は「芙蓉部隊決号作戦計画」という最後の特攻・自爆作戦を考案している。その作戦計画によれば、美濃部が直卒する24機の特攻機が「敵は上陸前に、必ず機動部隊の猛攻を加えてくる。まず、爆装の索敵攻撃隊を出して敵艦隊を捕捉する。その通報を受けてやはり爆装の攻撃隊が発進し、爆弾を海面でスキップさせて敵艦の舷側にぶつける肉薄の反跳爆撃を敢行したのち、全弾を撃ちつくして艦艇に突入。空母がいて甲板上に飛行機がならんでいれば、滑りこんで誘爆で破壊する」と特攻攻撃を敢行するというものであった[92]。特攻出撃する機体については通常の爆装のほか、主翼の燃料タンクまでに火薬を詰め込んで、特攻したときの破壊力を増大させることまで美濃部は構想していた[93]。そして残された整備兵などの地上要員については、第五航空艦隊から出されていた日向市富高への撤退命令を美濃部は「笑止」と一笑に付し、「基地に地雷や空雷(航空機用の爆弾やロケット弾を樹上にぶら下げたもの[94])を敷設し、敵が上陸すれば一兵たりとも後退戦法はとらず、最後は付近住民と共に、全員が敷設した地雷、空雷で自爆し敵上陸軍と刺し違える」という地元の住民も巻き添えにした自爆作戦を敢行させる計画であったが[95][注 3][96]、終戦により実行されることはなかった。
拒否

美濃部は遺稿などで「特攻は本人の意思で行うことがあっても他から命令するのは冷酷、非情な軍隊指揮で死刑宣告に等しい人格否定で自分には出来ない」と戦時中に考えていたと主張し[97]、戦後になってからは、美濃部の主張に基づき、芙蓉部隊は特攻を採用しなかった部隊として紹介されることも多い[2][98][99][100][6]。
芙蓉部隊の指揮官である美濃部が特攻を拒否したとして、次のようなエピソードが紹介されることが多い。
1945年(昭和20年)2月下旬、千葉県木更津市の木更津基地(現・陸上自衛隊木更津駐屯地)において日本海軍の会議が開催された。その会議の冒頭に、連合艦隊もしくは第三航空艦隊の参謀より、教育部隊を廃し、白菊や赤とんぼなどの練習機も含めた全員を特攻に投入するという説明があった[101][注 4]。研究会に参加していた美濃部は、会議参加者のなかでは一番の若輩にもかかわらず「全力特攻と言いますが、特に速力の遅い練習機まで駆り出しても十重二十重のグラマンの防御網を突破することは不可能です。特攻のかけ声ばかりでは勝てません。敵の弾幕を突破するような手段を考えなければなりません。フィリピン戦では敵は300機の直援戦闘機を準備していました。今度も同じでしょう。」と説明した参謀に反論したと主張している[103]。意外な反論を受けたある参謀は「必死尽忠の士が空を覆って進撃するとき、何者がこれをさえぎるか! 第一線の少壮士官が何を言うか!」と怒鳴りつけた。特攻以外に何の策も持たない司令部に激高した美濃部は、抗命罪も覚悟のうえで「今の若い搭乗員のなかに、死を恐れる者は誰もおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義がいります。しかも、死にがいのある戦功をたてたいのは当然です。精神力一点ばかりの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。同じ死ぬなら、確算のある手段を講じて頂きたい」[104]、「私のところ(芙蓉部隊)では総飛行時間200時間の零戦パイロットでも皆夜間洋上進撃可能です。劣速の練習機が何千機進撃しようと、昼間ではバッタの如く落とされます」「2,000機の練習機を、(特攻に)狩り出す前に此処にいる古参パイロットが西から帝都に進入されたい、私が箱根上空で零戦で待ち受けます。一機でも進入出来ますか。艦隊司令部は、芙蓉部隊の若者達の必死の訓練を見て戴きたい」と反駁したと主張している[105]。他に、「2,000機の練習機を特攻に狩り出す前に赤とんぼまで出して成算があるというなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と反論したとする資料もある[106][107]。
ただしこの会議については、戦後直後に美濃部がまとめた報告書『芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日』では、第三航空艦隊の研究会となっており[108]、美濃部と親交があり芙蓉部隊関連の著作を多数執筆している作家渡辺洋二も同様に記述しているが[109]、戦後しばらく経って執筆した美濃部自身の遺稿では、連合艦隊主催の作戦会議に変わっており[110]、美濃部の遺稿を出典とする著作物も遺稿の記述を踏襲している[111][112]。出典によっては、開催日もばらばらであり、『芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日』によれば「2月己」[113]、美濃部の遺稿と、美濃部の主張を出典とする資料では「2月末」[114][111][112]、渡辺洋二や学研によれば「2月下旬」[115][116][117][118]、戦記作家豊田穣によれば「硫黄島にアメリカ軍が上陸した頃」[119]、草柳大蔵、元ロイター通信東京支局長デニス・ウォーナーによれば「3月はじめ」となっている[120][121]。また、美濃部の遺稿ではこの会議で参謀が「敵沖縄進行の迎撃戦は、菊水作戦と呼称、全力特攻とする」との説明をしたとされているが[122][123]、「菊水作戦」という作戦名が初めて登場したのは、第1機動基地航空部隊(第五航空艦隊)4月3日発「1KFGB天信電令作第39号」のなかの「5.本作戦ヲ菊水1号作戦ト呼称ス」であり、2月-3月に開催されたとされるこの会議時点では「菊水作戦」という作戦名は決まってもいなかった[124]
同様に美濃部が反論した人物についても出典によってばらばらであり、美濃部の遺稿によれば連合艦隊主席参謀黒岩少将という名前の人物で、美濃部は黒岩が主張する「戦場も知らぬ狂人参謀の殺人戦法」に怒りを覚えたと強く批判しているが[125][126]、当時の連合艦隊参謀や日本海軍将官に黒岩なる人物は実在しない[127]。美濃部の遺稿では黒岩は終戦時に航空事故で死亡したとされているので、当時連合艦隊首席参謀で終戦時に事故死した神重徳大佐(事故死で少将に特進)の偽名とする意見もあるが[111]、美濃部の遺稿では、ほかの海軍将官や高級士官が実名で批判されており、黒岩が神の偽名とすれば、なぜ神だけ偽名を使ったか不明である[111]。他にも美濃部の遺稿では、黒岩なる人物は特攻兵器桜花を開発許可したときの軍令部第一部部長とされているが[128]、桜花が軍令部から開発許可されたときの第一部長は中沢佑少将であり[129]、終戦時に事故死したということはない[130]。他にも、美濃部が反論したのは連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将とするもの[131][121]、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将[132]とするものや、第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将が会議後に美濃部の肩を叩いて、「お前のやり方でやれ」と美濃部を支持したとするものもある[133]。美濃部の遺稿を出典とした後年の出版物等では、美濃部が主張する黒岩少将という人物が実在しないので、航空参謀[134]、進行の参謀[135]、連合艦隊のある参謀[136]、首席参謀[137]、(特攻を)迫る幹部[138]、非合理な作戦を命ずる上官たち[139]、上官[140]、階級以外にとりえのない戦わざる軍人の群れ[141]、並み居る幹部などと曖昧に匿名にしていることが多い[142]。
美濃部の主張についても資料によって異なっている。美濃部が終戦直後にまとめた芙蓉部隊の公式報告書『芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日』によれば、研究会の席で居並ぶ三航艦司令部の司令や飛行長に対して、美濃部が行ったのは特攻に対する主張ではなく、「この(作戦機の)秘匿に対して不眠不休の熱意と責任感があるのか? 如何なる妙戦法も机上だけでは成立しない」という敵攻撃により地上で撃破される作戦機が多かったことから、作戦機の秘匿についての主張であったが、司令や飛行長は悠然と煙草をくわえて特に反応もなかったので、美濃部は三航艦幕僚や各指揮官らに対して「我は航空の権威者なりと自負せし不忠者ばかりなり」と怒りを覚えたが、口に出しての反論はしていない[143]。豊田穣が、美濃部の生前に出版した著書の記述によると、会議に出席していた第一航空艦隊司令長官大西中将が美濃部の意見を聞いて「美濃部少佐、君はここにいる指揮官のなかでは一番若いように思われるが、その若い指揮官が特攻を忌避する態度を示すようでは、皇国の前途は案じられるがどうかね?」と訊ねたのに対し[144]、美濃部が「いや、長官。私は特攻を拒否すると言っているのではありません。特攻の命令が下ればいつでも部下を出します、しかし、現在わが芙蓉部隊の現況をみるに、古い搭乗員は着艦訓練もとっくに終わり、夜間航法、夜間攻撃も可能です。しかし、若い搭乗員は、鹿児島から沖縄へゆく航法もろくに出来ない程度です。指揮官としては、ベテラン搭乗員は予定通り、夜間の進攻制圧と特攻の直援に使用し、若い搭乗員は今しばらく腕を磨かせたいと思うのです。」と要望し、その要望に対し連合艦隊参謀長の草鹿は納得したが、すでに部下を特攻に出していた航空隊指揮官らの反感のあるなかで、直属の上司となる三航艦司令長官寺岡も美濃部を支持したという[145]。芙蓉部隊員河原正則少尉の戦後の手記でも美濃部は豊田の著書と同様に「わたしは特攻の命令が下ればいつでも部下をだします、しかし、現在の芙蓉部隊の搭乗員は、夜間攻撃において十分戦果をあげうる技量を持っています。計画通り夜間の進攻制圧と特攻直掩に使用させていただきたいと思うのです」と特攻を強く拒否する主張をしたわけではないとしている[146]。美濃部と口論となった参謀が主張したとされる、“空を覆って進撃する「必死尽忠の士」”についても、美濃部自身の回想も同じ遺稿のなかで、機数が2,000機であったり[105]、4,000機であったりと記述が一定していない[147][148]。
芙蓉部隊内においても、戦時中にこの美濃部の特攻拒否発言を聞いたという証言はなく、古参の隊員たちが美濃部の口から特攻を否定した発言を聞いたのは、硫黄島の戦いに先立つアメリカ軍のジャンボリー作戦への迎撃で、美濃部から特攻を命じられた後、続いて「第二御盾隊」の部隊名で特攻出撃させるといったデマが部隊内に蔓延した際に[149]、美濃部が慌てて打ち消したときのただ1回のみであった[150]。(美濃部の特攻命令と特攻否定宣言については#特攻命令で後述)芙蓉部隊から戦後の航空自衛隊まで美濃部の下で働いた海兵第73期卒で航空自衛隊幹部学校の校長となった藤澤保雄は「自分たちが特攻隊ではないと線引きされた記憶はないし、そんなこと当時公言したら大変なことでしたよ」と芙蓉部隊が特攻を除外されたとする事実はないと回想し、他にも元隊員の小田正彰、平松光雄らは口々に「自分たちは特攻隊だと思って毎日過ごしていた」と当時を振り返っている[151]。実際に、芙蓉部隊では連合艦隊司令長官名で全軍に布告する感状が6名の戦死者に授与されているが、そのうち4名までが特攻で戦死したとして賞されたものであった[152]。また、美濃部は訓練中に「貴様ら、うまくやれないと、特攻隊に入れるぞ」と隊員に檄を飛ばしたり[153]、頻繁に開催していた座学や討論会の場で「この戦法が成功しなければ特攻に切り替えるぞ」と脅していた[154]。
勉強会もしくは会議後に、主催の連合艦隊や第三航空艦隊司令部などが藤枝の芙蓉部隊の夜間訓練の様子を視察し、その視察結果によって、芙蓉部隊は希望通り、異例の判断で特攻編成から「奇跡的に」外されたと美濃部は主張しているが[99][155][156]、沖縄戦での日本海軍作戦機の総出撃機数は、特攻機より通常作戦機のほうが遥かに多く、沖縄戦における海軍航空隊出撃機の延べ機数は、特攻機1,868機に対し、制空戦闘機3,118機、偵察機1,013機、通常攻撃機3,747機、通常作戦機合計7,878機(含芙蓉部隊)である[157]。実例として、芙蓉部隊も出撃した4月27日(零戦8機 彗星20機 合計28機出撃)には、芙蓉部隊以外の通常航空作戦機として、芙蓉部隊と同じ飛行場攻撃に天山艦上攻撃機4機、陸軍重爆撃機5機、艦船攻撃に26機、偵察・哨戒3機、合計38機(除偵察機35機)が出撃しており、芙蓉部隊が例外であったという事実はない[158]。
航空戦記で多数の著作があるノンフィクションライター神立尚紀によれば、戦後になってから美濃部の様に、「自分は特攻に反対した」「自分の部下からは特攻隊員を出さなかった」と公言する佐官クラスの旧軍人も少なからずいたが、それらの佐官がされたのは、特攻の「命令」ではなく、その前段階の「諮問」に過ぎず、その段階で、特攻を上回る成果を挙げることができるということを上層部に認められたため、正式な特攻命令は出なかったと推定している。いずれしても、日本海軍という組織は、正式な「特攻命令」が下されれば、それを「拒否」することができるような甘い組織ではなかったと指摘している[159]。日本海洋調査会代表で元朝日新聞編集委員の作家土井全二郎[160]は、美濃部の「特攻拒否」宣言について「かなり伝説化され、いくつかの戦記物で引用されているのは、そこに一種の爽快感を覚えるからであろうか」と指摘している[161]。
装備
艦上爆撃機彗星



芙蓉部隊は、零式艦上戦闘機の最新型である五二型と急降下爆撃機彗星一一型、一二型の水冷エンジン搭載型を使用した[162]。一二型はダイムラー・ベンツ(現・ダイムラー)社製水冷エンジンDB601Aをライセンス生産した当時最新鋭のエンジンであったアツタ三二型を搭載していたが、ニッケルの不使用など材料の品質低下や、熟練工の徴兵で起こる工員の技量低下、軍需省による生産ノルマ強化などが重なり[163]、アツタ三二型の生産は停滞した。日本海軍は前線では旧式化した九九式艦上爆撃機の代わりに、基地航空隊の主戦力として彗星を大増産することを計画したが、アツタの生産数頭打ちで、彗星の生産も伸び悩んでいたことから、1943年10月3日「発動機生産ノ状況ヲ考慮シタ現用機装備発動機変更二関スル打合覚」によって、彗星に比較的供給に余裕があり出力の若干高い空冷エンジンの金星六二型を装着して生産されることになった[164]。海軍航空本部は彗星のエンジンを空冷型に換装すれば、折角の高性能機が性能劣化すると事前に予想しており、空母で運用する艦上爆撃機や、夜間戦闘機といった優先度の高い部隊には引き続き飛行性能に優れる水冷型彗星を配備、多少の性能低下は目をつぶっても数が必要な基地航空隊に空冷型彗星を配備することに決めている[165]。空冷型彗星製造に移行した愛知航空機(現・愛知機械工業)に代わって、水冷型彗星は広島県呉市の第11海軍航空廠で終戦まで生産され[166](第11海軍航空廠生産分だけで430機)、既に日本海軍の空母艦隊は戦闘力を喪失していたので、夜間戦闘機用途として夜間戦闘機部隊に集中的に配備された[167]。
水冷型彗星が芙蓉部隊に配備された経緯については、美濃部の主張によれば、芙蓉部隊の装備機材について航空本部へ相談に出向いた際、水冷型彗星が扱いにくく事故も多いことから、誰も使いたがらずに[168]、各基地に野ざらしで省みられず、200機が放置されている状況である[169]ことを聞きつけ[170]、「殺人機」と呼ばれて嫌われている[171]こと知りながら、訓練や整備を工夫すれば使いこなせると考えて[172]、美濃部は「それを下さい」と要求し、配備が決まったとのことであるが[173]、実際は小園安名大佐率いる、帝都防空が主要任務の第三〇二海軍航空隊などと同様に、夜間戦闘機隊として優先的に配備されたもので、美濃部が主張するように野ざらしで放置されていた機体[174]を押し付けられたという事実はない[165]。逆に、海軍航空本部から「使える戦力」として期待された芙蓉部隊は、この後も水冷型彗星の優先補充を受け、美濃部自身も著書で感謝するほど厚遇されていた[175][176]。
302空や横須賀海軍航空隊は、彗星の操縦席の後部に斜銃を装備させてB-29の迎撃に投入していたが[177](詳細は#彗星夜戦参照)、のちに、斜銃を搭載した夜間戦闘機型彗星は彗星一二型戊として製造されることとなり[178][179]、芙蓉部隊にも第11海軍航空廠で生産された後期生産型の彗星一二型戊が多数配備された[180]。優先的に斜銃を装備した水冷型彗星を配備された芙蓉部隊であったが、美濃部は水冷型彗星を戦闘機としての運用することを考えていなかったので、わざわざ斜銃を外して爆撃機として運用していた。しかし、沖縄上空でアメリカ軍の夜間戦闘機に一方的に撃墜される機が増加したので、やむなく斜銃を再装備した夜間戦闘機型彗星を作戦に投入している[181]。
彗星の可動率
水冷型彗星の運用はアツタエンジンの整備能力が重要ながら、空冷エンジンを主に扱う日本軍整備兵が水冷エンジンの整備技術に乏しいことが、水冷型彗星の可動率低下の大きな原因となっていた[182]。しかし、水冷エンジンの整備に習熟した整備兵がいれば水冷型彗星の可動率は決して低いということはなく[166]、美濃部も整備兵の技術向上のため製造元の愛知航空機に自ら出向き、整備員に直接指導してもらうため、熟練技術者を藤枝に派遣してもらうよう工場長に直談判し、愛知航空機側も美濃部の依頼に対して熟練技術者の派遣を快諾している[183]。異例の工場技術者による整備の直接指導により芙蓉部隊の整備員の技術は向上し、可動を彗星70%近く、零戦80%にまで上昇させたと美濃部自身は主張している[184]。米国戦略爆撃調査団は戦後の調査で、太平洋戦争末期の日本軍に対し「適切な整備・修理システムの開発に、日本空軍が失敗した」と評し、前線地域での日本軍の航空機稼働率について、実際は50%以下であったと分析していたが[185]、このように、満足に一定の機体を揃える事が出来ない当時の日本軍の中で、整備力に優れていた芙蓉部隊は驚異的な存在になっていたという指摘もある[186]。美濃部も可動率について「当時他の部隊は50%-60%に対し70-80%の高率」と記し、実際に海軍から表彰を受けたとも主張している[187][188]。
美濃部の自著等での主張や、戦記作家渡辺洋二の調査によれば、芙蓉部隊の水冷型彗星の可動率は70%~80%であり、他の航空隊を大きく凌駕していたということであったが[189][190]、芙蓉部隊で、可動機数が資料等で確認できる日で算出すると、可動率は35%から57.5%程度であり、出撃翌日の集計であるなどの特殊要因はあるが、美濃部や渡辺が主張する70%~80%には及ばない[191][192][193][194][195][196]。また、美濃部も自著に書いている通り[188]、1944年後半以降は水冷エンジンの整備に熟練した整備員も増えており、水冷型彗星の可動率60%以上を維持していた航空隊もいくつかあった[166]。上記の米国戦略爆撃調査団の調査によれば、沖縄戦中の日本本土における作戦機の可動率は60%とされており[197]、水冷型彗星の可動率は他の日本軍航空機より著しく低かったなどということはない。なかには、阪神地区でB-29を迎撃していた第三三二海軍航空隊(332空)の水冷型彗星のように、1945年5月に着任した水木泰少尉が、2か月間でB-29を2機撃破する戦果を上げていた間、配備されていた7機の彗星は全く故障もせずに作戦に従事していたような部隊もあった[198]。
また、芙蓉部隊では可動と判定されても、機体不良で離陸できない機や、飛行途中に発動機等が不調で引き返したり不時着したりする機体が続出している。芙蓉部隊最大の出撃となった菊水四号作戦時の4月27日~4月30日に芙蓉部隊は延べ66機が出撃したが、合計19機が出撃できなかったか引き返しておりその比率は28.8%に及んでいる[199][200][201]。7月27日~7月28日にはさらに悪化し、合計32機の出撃機のうち、出撃不可、引き返し、不時着機は合計14機にも上り、総出撃機数に対する割合が43%という高い比率になっている[202][203]。
美濃部は指揮官自ら、部隊の機体の調子に常に気を配っており、芙蓉部隊隊員に「ちょっとでも身体の具合が悪いか、機材不調なら帰ってこい。なんど引き返してもいい」と常々言っており、決して無理はさせなかった一方で、ある日にエンジン不調という理由で帰ってきた機のエンジン音を聞き、美濃部は正常と判断すると、一度帰還した搭乗員を夜明け前の空に再び送り込んでいる。その搭乗員は任務を終えて無事に帰還することができたが、後に「あのときほど指揮官(美濃部)がうらめしく、怖かったことはない」と述べているなど厳しさも見せている[204]。厳しさは整備士にも向けられており、戦後に戦記作家の渡辺洋二が、芙蓉部隊の元隊員に美濃部の印象を聞いて回ったが、その際、肯定的な評価が多い中で「地上員(整備士等)には厳しかった」という評価があった[205]。美濃部自身も、芙蓉部隊の公式報告書『芙蓉部隊天号作戦々史』で、ある整備少尉が機体の電池の点検を怠ったのに、機体に異常なしと報告したことにに対して、三日三晩絶食のうえに、全作戦機約70機の電池整備を一人でするように命じたというエピソードを記述している。美濃部はこのパワーハラスメントまがいの指導によって、整備少尉は芙蓉部隊の隊風を感知するところ大であった。とも記述している[206]。
零式艦上戦闘機
零戦については、最新型の52型の中でも、空戦能力向上のために防弾装備を強化し、武装面では両主翼に従来の九九式二〇ミリ機銃1挺に加えて、三式十三粍固定機銃を1挺ずつ追加した重武装、重装甲型の零戦52型丙型を配備されていた[207]。しかし、芙蓉部隊の戦闘機搭乗員は、前述の通り美濃部の方針によって空戦の訓練を行っておらず、敵戦闘機に対する空戦技術を殆ど持たなかったので、折角の零戦52型丙型ではあったが、もっぱら敵艦船や敵飛行場への銃撃を行うこととなった[208]。美濃部の構想通り、沖縄戦当初、零戦はアメリカ軍航空基地へ低空侵入しての機銃掃射を行っていたが、効果があまりなかったのにも拘わらず損害が続出したため5月には任務継続不可能となり[209]、1945年5月5日以降は機銃弾を満載しての艦船や潜水艦への索敵攻撃任務に回されている[210]。美濃部が夜襲部隊を編成しようと考えたきっかけは、前線のラバウルで「夜間飛行に慣れている水上機の搭乗員を零戦に乗せて夜襲をかければ効果が大きい」と思い付いたことであったが[211]、その発想は沖縄戦中盤前に挫折することとなった[209]。
爆弾

使用した爆弾でも、ロケット噴射により推進するロケット弾の仮称三式一番二八号爆弾、爆発し傘上に破片を降らせるクラスター爆弾の三号爆弾、内蔵されている光電管が地上20mまで落下すると、光電管から発射された電光が地上に反射し、それを信管が受信し空中で爆発して爆風や破片で周囲に被害を与える三一号光電管爆弾など、特殊爆弾を積極的に採用した[212]。これらの新兵器はまだ信頼性が低く、美濃部から部隊配備の申し出を受けた海軍航空技術廠は「実験段階で安全管理方式に未解決点がある」と正式配備を渋ったが、美濃部は「特攻まで出しているときに何が安全管理だ。多少の危険は覚悟のうえだ。」と強引に部隊配備を認めさせている[213]。なかでも新兵器三式一番二八号ロケット爆弾を、艦船攻撃、潜水艦攻撃、敵夜間戦闘機攻撃など多様な任務で使用している。本来空戦用に作られたものだが、芙蓉部隊の熟練搭乗員であった河原政則中尉によれば「爆弾は当てにくいが、これはよく当たった」という[214]。芙蓉部隊は二八号ロケット爆弾のなかでも、対潜水艦用に外殻を厚くし炸薬量を増量している改良型を使用したが、それでも炸薬量はわずか850グラムに過ぎず、命中箇所次第では小型艇に致命傷を与えることが期待できる程度の威力しかなかった[70]。ロケット爆弾は芙蓉部隊の特色として特筆されることも多いが、途中から使用頻度が減少し、終戦時点では全く在庫はなかった[215]。
ロケット爆弾は対艦船、対夜間戦闘機での任務に使用され[216]、芙蓉部隊の主任務となった飛行場攻撃では、従来の60㎏や250㎏陸用瞬発爆弾もしくは新兵器の光電管爆弾を使用しての急降下爆撃を行った。当初美濃部は彗星搭乗員に、日本海軍の基準通りの[217] 高度600mないし800mでの投弾を指示していたが[218]、敵対空砲火で甚大な損害を被ると、美濃部は敵対空砲火が濃密な高度2,000m以下での攻撃を諦めて、高度4,000mで敵基地周辺に侵入後急降下し、高度3,000mで投弾するという、急降下爆撃の投弾高度としては高い高度での不正確な爆撃戦術に切り替えざるを得ず、日本海軍の研究により定められた急降下爆撃の基準投弾高度[217] からの正確な攻撃は早々に困難となっている[219]。
岩川基地




芙蓉部隊は鹿児島県囎唹郡月野村と岩川町(現・曽於市)にあり施設の一部は隣接する松山村(現・志布志市)にもあった「秘密基地」岩川基地を本拠地としたのも特徴とされる[220]。名称こそ岩川基地であるが基地の大部分は通称八合原(はちごうばる)と呼ばれる月野村にあり[221]滑走路の一部が岩川町にもかかっていた。大隅町誌によれば岩川基地は地元住民の間では「岩川飛行場」、「八合原基地」[222]とも呼ばれていた。ちなみに岩川という地名は「いわがわ」であり「いわかわ」ではない[223]。
岩川飛行場建設開始
岩川基地は、日本海軍が1944年5月に飛行場建設を計画、その発表がなされた5月7日に、対象の約40戸の地権者に対して[224] 40日あまりで立ち退きしなければ住居を焼き払うといった海軍の恫喝により、総面積530町歩(約526ヘクタール)の土地が強制収用され、海軍の技術士官の指揮で、大林組が元受けとなり、地元や関西の土木業者の協力のもと構築が進められた[225]。全国から集まった数百名の土工の他、近隣の福山小学校の生徒による軍事教練としての勤労奉仕や、老若男女約500人が常時工事に動員されるなどの地元の住民の献身的な協力もあり、1944年9月には付近を流れる菱田川からすくってきた砂利を押し固めて舗装した(一部金網)滑走路や[226]、指令室や分厚い竹筋コンクリートで覆われた地下発電所などが完成して、航空機の発着が始まった[224]。岩川基地は軟弱地盤で30cm厚のコンクリートを敷く必要があったが、その後もコンクリートは十分に確保できず、1,300mの滑走路のうち、ごく一部の140mしかコンクリート舗装できなかった[227]。滑走路の砂利の部分には芝生が張られることとなったが、近くの陣ノ丘の芝を剥いだので、陣ノ丘はすっかり禿山になってしまったという。その剥いできた芝生を、動員された住民に近隣の国民学校、女学校の児童・生徒も加わって滑走路の砂利の上に張っていった[228]。
12月には近隣を流れる菱田川から取水し浄化して水道水を供給する上水道施設や炊事場や地下弾薬倉庫なども完成して、年明けには常時航空機が飛来し、付近の森影や横穴式の地下壕に構築された航空機格納庫に収められている[229]。1945年5月の芙蓉部隊進出前、岩川基地は不時着用の滑走路が一本あるだけだったとか[230]、未完成で放置されていたなどといわれることもあるが[231]、全くの事実相違で、既に1945年年初の時点で岩川基地は各種設備の整った本格的な飛行場としての体を整えていた[229]。
元々岩川基地周辺は、太平洋戦争の開戦後に食料増産の目的から原野を開墾してできた農地であり、海軍に収用された526ヘクタールのうち、飛行場用地として使用されたのは130ヘクタールに過ぎず、残り約400ヘクタールについては、引き続き食料増産の目的のために農耕地として使用された[232]。これは飛行場を偽装する目的もあったとされている[233]。
日本軍は本土決戦も見据えて、全国各地に特攻機出撃用基地として、アメリカ軍から発見されないような「秘匿飛行場」を造成する計画を立てた[234]。1945年4月から整備に着手し全国約40カ所に造成する計画であったが[235]、岩川基地もそのうちのひとつに選ばれて、佐世保鎮守府の第3214設営隊に対して、鎮守府長官より4月25日付発令第187号命令「岩川海軍基地特攻用秘匿基地造成二協力セシムベシ」が命じられ、第3214設営隊は岩川に進出している[236]。難工事であった岩川堤谷の地下トンネルも1945年5月上旬には完成したが[237]、兵舎の建築は後回しとされていた[238]。
芙蓉部隊が命令により使用開始
岩川基地は、上記の通り不時着飛行場として放置されていたのを美濃部が発見し、美濃部の指導によって芙蓉部隊用秘密基地として整備された[239][231]とか、美濃部が第5航空艦隊設営隊の手を借り、美濃部流の偽装術で基地化したなどとの主張もあるが[240]、美濃部の遺稿にもそのような記述はなく根拠不明である[241][242]。事実としては、特攻用「秘匿飛行場」として整備工事が開始されたのが4月25日であり、その後に、美濃部が小川次雄大尉と岩川基地を初めて視察したのが1945年5月9日[243][244]、第五航空艦隊から芙蓉部隊の岩川基地への移動が命じられたのが5月13日であり、岩川基地の「秘匿飛行場」としての整備工事は、芙蓉部隊とは全く無関係に進行していた[245][246]。しかし、この佐世保鎮守府の特攻用「秘匿飛行場」整備命令も、芙蓉部隊戦時日誌に「岩川視察」と記録された5月9日より前から、極秘裏に美濃部が岩川に目を付けており、正式に視察する前に、美濃部が第五航空艦隊に手を回して、芙蓉部隊専用「秘匿飛行場」として整備工事を命じさせたなどと想像する者もあるが[220]、美濃部の遺稿にもそのような記述はなく根拠不明であるうえ[247][248]、岩川基地には、芙蓉部隊と並行して西条海軍航空隊から、練習機白菊で編成された分遣隊(指揮官:今井隆久大尉)が特攻隊として進出してきており[249][250]、日本軍が岩川基地を芙蓉部隊専用基地としてではなく、特攻用の「秘匿飛行場」としても使用する意図は明らかであった。
芙蓉部隊は、第五航空艦隊による5月13日付の命令で岩川基地を使用することとなったが[245][246]、美濃部は、ダバオや藤枝基地で地上で多数の航空機(確実なもののみで、戦闘第901飛行隊長のときにダバオで5機[51][251]、芙蓉部隊編成後に藤枝で10機[252] の合計15機)を敵の空襲で撃破された反省により、岩川基地を敵に発見されないような秘密基地とするつもりであった。ただし、飛行場主要設備はすでに完成していたので、美濃部が手配した飛行場整備作業は以下とされる[253]。
- 広大な山林中に三角兵舎の建築[253]。兵舎は当初は大迫の谷間に建築される予定でありながら[238]、完成が遅れていたが[254]、芙蓉部隊の進出に伴って、秘匿のために建築地を山林の中に変更した。完成するまでは、既に完成していた露出地域の兵舎か[255]、近隣の民家を間借りして寝起きすることとなったが[256]、終戦までには兵舎の完全秘匿化は間に合わなかった。兵舎の他にも、倉庫や事務所や便所や烹炊所といった地上に露出していた多くの建物を、爆撃目標除去のために取り壊し中に終戦となった[257]。
- 炊事、事務所、会議室、武器倉庫用の横穴防空壕用地等周辺住民との交渉[253]。地下発電室、横穴式の航空機格納庫、岩川堤谷の地下トンネルなどの主要地下設備は事前に完成しており、司令部は5月最初に完成していた地下トンネルのなかに設けられたが、地下発電所により電気には事欠かなかったものの、空調装置までは整備できず、トンネル内で執務していた美濃部たちは2時間おきに全員がトンネルから出ての深呼吸が欠かせなかったという[237]。
- 滑走路、飛行機秘匿の為の膨大な樹木・芝草の買い入れ[253]。飛行場主要設備は事前に完成しており、美濃部は主に滑走路を牧場に見せかけるカモフラージュを行うこととした。周辺の農家では農作業の役用に1戸あたり2-3頭の役牛を飼育していたので[232]、その牛を滑走路上に放牧し、日中は常に作業員10名ほどを配置して、移動式の小屋4棟と移動式の樹木10数本を設置したり、草を刈って滑走路に散布するなどのカモフラージュを行っている。機体は着陸後にガソリンを抜き、林の中に引き込んだ上、樹枝で偽装を施した[258]。偽装用の樹枝や葉は日にちが経つと枯れて変色し、常に青々とした新鮮なものを準備するため、付近の農民に2万円(当時)を支払って収集を依頼するほどの拘りようであった[259]。
- 警備、保安管理[253]。
これらは5月15日から22日までの8日間の突貫作業で行われた[260]。主に第3214設営隊が作業を行ったが、ほかにも松山海軍航空隊から応援に駆けつけた海軍飛行予科練習生や、地元の住民も勤労奉仕として手伝っている[261]。この滑走路秘匿のカモフラージュについても、美濃部は「(芙蓉部隊が)独り偽装隠蔽を行い」などと、あたかも岩川基地独自のもののような主張をしているが[262]、全くの事実誤認であり、陸軍航空隊は、1944年10月から開始されたフィリピンの戦いで、第4航空軍指揮下のマリキナ飛行場において、飛行場の守備兵が雑草を刈り集めて滑走路一面に敷きつめるという擬装を岩川基地に先駆けて行っていた。マリキナ飛行場の場合は岩川基地よりも手が込んでいて、雑草が4~5時間で変色してしまうため、毎日新しい雑草を刈り集めていた。そのおかげでマリキナ飛行場は、いつも青々とした野原のように見えていたという[263]。また、日本本土の他の「秘匿飛行場」でも同様な滑走路秘匿のカモフラージュは行われており、岩手県奥州市水沢に造成された陸軍の「秘匿飛行場」である小山飛行場においても、滑走路を秘匿するため、移動式の家屋や鉢植えなどが滑走路に置かれるなど、岩川と同じようなカモフラージュが行われている[264]。
美濃部は作業に際して隊長の中森技術大尉とはよく会話を交わしたが、隊長以外の下士官以下の設営隊員と会話を交わすことは全くなく、のちに、設営隊員は内地人ではなかったのではないか、などと回想し[265]、設営隊員は朝鮮半島から徴用された土工であり、酷使されていたという推測もあるが[266]、第3214設営隊組織図では、小隊長まで日本人で構成されており、同隊戦時日誌によれば、軽症の病気は数名あったが、重病やケガで受療を要した隊員は1名もおらず、衛生状態は良好であったとされており酷使されていたとは言い難い[267]。
昼間の飛行場秘匿に加えて、夜間の灯火管制にも細心の注意を払い、離着陸を誘導する係員には指向性カンテラを持たせて離着陸機を誘導したが、味方を識別するため、あらかじめ飛行高度と進入方向を定めておき、それ以外の高度や方向からはカンテラの光が見えないように工夫した[268]。そのため、少しでも進路がずれると着陸灯を見失い、被弾してどうにか帰投してきた作戦機が飛行場周辺の地面に激突して少なくはない数の機体と搭乗員を失っている[269]。
付近の住民も協力的で、滑走路のカモフラージュ作業を積極的に手伝っている[270]。付近住民とのふれあいで芙蓉部隊隊員を一番喜ばせたのが末吉高等女学校の女学生との交流であり、手作りの日の丸の鉢巻きのプレゼントを受けたりしている[271]。ただし、芙蓉部隊が広く近隣住民と接触していたということはなく、飛行場に隣接する農耕地で引き続き農業を営んでいた地元農民のなかには芙蓉部隊のことを知らず、戦後しばらく経ってからも、岩川基地から深夜に出撃していた芙蓉部隊機を特攻機と誤認していたものもあった[272]。
秘密基地の虚実
芙蓉部隊が岩川に移ったころには、アメリカ軍の爆撃機や戦闘機は我が物顔で南九州の日本軍飛行場、市街地、住宅などを攻撃していたが、岩川基地の秘匿に腐心していた美濃部は、多数の戦闘機を擁しながら敵機の迎撃を禁じていた[273]。それまでの苦い経験により、美濃部は基地隠匿に関しては一切の妥協を排しており[274]、1945年8月6日に、沖縄から出撃した爆撃機A-26と戦闘機P-47が岩川の市街地を襲撃し、岩川駅や覚照寺に機銃掃射を加え、市街に焼夷弾を投下し、被弾した国民学校で助教師が死亡するなど市民に多数の死傷者が生じたが、その時も美濃部は戦闘機搭乗員の迎撃出撃の懇願を却下し[103]、1か所あたり12門の九六式二十五粍高角機銃が設置された防空陣地2か所合計24門[275][276][注 5][188] には、超低空で飛行してくる敵機にすら絶対に発砲するなと命令していた[277]。爆撃や機銃掃射の被害を被った岩川周辺の住民らは、美濃部の作戦方針など知る由もないので「戦闘機隊なのになぜ上がらないのか」「逃げ隠れしているのか」と不満を抱かせることになったが[273]、岩川が秘密基地であったからこそ、大規模な空襲を受けず、結果的に岩川を守った。という意見もある[278]。
美濃部は遺稿で岩川基地を「完全秘密基地として世界に例がない」とか「この飛行場を上空から発見されないようにしたのは、戦史に特筆すべきことながら、特攻宣伝に狂奔した大本営からは無視され、国民から知られていない」などと自賛し[279]、美濃部の主張を元にして、最前線にありながら、ついに終戦までアメリカ軍を欺きとおしたとか[280]、アメリカ軍が血眼になって岩川基地を探していたとなどという意見もあるが[281]、滑走路は隠したつもりでも、地上に露出していた兵舎や倉庫や事務所といった多数の建造物については、海軍第3214設営隊が爆撃目標除去の為に取り壊しに着手していたが、芙蓉部隊の863人[282] をはじめ、海軍第3214設営隊隊員など海軍要員が3,100人も居住している中で、一部の基地露出建造物を民間に譲渡したこともあり、軍民交差居住の状態で取り壊しは進まず、終戦までには間に合わなかったなど、完全に秘匿できていたとは言えないような状況であった[257]。また西条海軍航空隊の特攻機白菊は機体が大きく隠匿することはできなかったので、地上に露出して駐機されており、実態は全く隠れていなかった[249]。
アメリカ軍は、岩川基地をかなり早い時期から継続的に偵察しており、芙蓉部隊が進出してくる前の1945年3月時点で、建設中(符号u/c under constructionの略)の岩川基地を空撮して詳細な位置や概要を把握し、目標番号2511番とナンバリングまでしており[283]、終戦時点では完成し稼働している飛行場(符号a/f airfieldの略)として完全に把握していた[284]。これは、他の「秘匿飛行場」も同じような状況で、日本軍が苦心して造成し、カモフラージュした「秘匿飛行場」の多くは、岩川基地と同様にアメリカ軍からは丸見えであったことが、戦後の研究で判明している[234]。
しかし、結果的に岩川基地は終戦まで1回の空襲も受けなかった。これを以て岩川基地が九州の基地で唯一地上での損害がなかったと言われることもあるが[285]、戸次川の河川敷の竹林を利用して構築された大分の「秘密基地」である戸次基地も、偵察機彩雲で編成された偵察第11飛行隊が使用していたが、終戦まで空襲を受けていない[286]。また、上記の通り、1945年8月6日には、岩川基地近隣の都城市と岩川市街地に来襲し、住民に多数の死傷者が出ているが[287]、義烈空挺隊も出撃した熊本の健軍飛行場も、近隣の飛行機工場や市街地は爆撃されたが、飛行場は被害を受けていない[288][289]など、岩川基地が唯一という事実はない。
歴史
編成まで


1944年(昭和19年)1月9日、九三八空の飛行隊長としてラバウルにいた美濃部は、野戦病院に精神障害で入院していた操縦員が、水上機を爆装して敵に夜襲をかけたいと主張しているのを聞いて、のちの芙蓉部隊に繋がる、水上機操縦員による零戦での夜襲戦法を発想した[290]。退院した美濃部は早速、南東方面艦隊司令部に「水上機パイロット100余名あり。夜間飛行、空戦、爆撃、洋上航法も可能。うち飛行経歴1,000時間以上の50名が飛行機もなく涙をのんでいる。零戦への転換は10日もあれば十分。夜襲により敵進攻兵力を叩くべきである」と上申したが、この上申は却下されている[291]。この発想を諦めきれなかった美濃部は1944年1月29日に零式水上偵察機1機に60㎏爆弾4発を搭載させ、ニュージョージア島にある連合軍の航空基地「ニヤイ飛行場」の夜間爆撃を命じたところ、連合軍は単機で夜間侵入してきた零式水上偵察機を敵機とは気が付かず、夜間爆撃は成功して美濃部は自分が発想した夜襲戦法に自信を深めた[292]。
1944年2月に美濃部は再度、南東方面艦隊司令部に「零式水上偵察機による夜襲ができるのだから、ぜひ零戦で、戦闘機隊がやれないというのなら、われわれが零戦で実施してみせる」と打電したが、今回は作戦成功に基づく上申であったので、南東方面艦隊は装備機材の決定は軍令部が行うという規則を無視し、九三八空の零戦使用を認めるとする異例の決定を司令長官草鹿任一名で返信を行った。この決定に基づき、美濃部はトラック基地で零戦5機を受領し部隊訓練を始めたが、2月17日のトラック島空襲により機材が失われて計画は頓挫した[211]。
所属機を失った美濃部は、窮状を上官の第二六航空戦隊司令長官酒巻宗孝中将に訴えたところ、酒巻は美濃部に理解を示し、航空機補充のため日本本土に帰国する手配をしてくれた[293]。美濃部は戦後に記述した自伝などで、日本海軍上層部を痛罵しているが、酒巻を始め、この後も多くの上官が美濃部の主張を聞き入れ、美濃部は海軍からさまざまな支援を受けている。1944年(昭和19年)2月末に、日本に帰国した美濃部が軍令部に零戦の補給を要望しに行った際、水上機部隊に零戦を補給することは認められなかったが、軍令部航空部員源田実中佐は美濃部の考えを支持し、代わりに零戦の新しい飛行隊を編成して、美濃部がその飛行隊長になれと言って取り計らってくれた[294]。美濃部によれば、その時源田中佐に「航空機の生産が低下し、しかも陸上機パイロットの激減により、もっぱら迎撃に終始し、進攻兵力がすくなくなった。しかし、水上パイロットは、なおも人材豊富である。その夜間技量と零戦を併用すれば、敵中深く侵入して攻撃が可能である」と進言、夜襲飛行隊として艦隊所属の夜間戦闘機隊が編成されたのは、それ以降の事であるという[295]。
源田の指示で、美濃部の希望通り、分隊長をはじめ水上機搭乗員を主体にした戦闘三一六飛行隊(零戦装備)が編成された。配属機は最新鋭機の零戦五二型甲を優先的に55機を配分されることとなった[296]。美濃部は「黎明に銃爆撃特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の飛行)甲板上に滑り込み発進準備中の甲板上の飛行機を掃き落とす」という特攻戦術を考案し、戦闘三一六飛行隊で敵機動部隊に対して実践するつもりで[297]、5月のサイパン島進出に備えて、美濃部自ら陣頭指揮をとって猛訓練を実施した。しかし、美濃部は「水上機パイロット出身者は零戦で訓練すれば、空中戦もすぐに上達する」などと楽観的に考えていたが、実際は戦闘三一六飛行隊の搭乗員に空中戦技術の上達が殆ど見られなかったため[55]、所属先である第三〇一海軍航空隊の八木勝利司令と部隊の運用方針で対立[298]、八木の命令を拒否した美濃部に対し、5月24日付で第302海軍航空隊への転勤辞令が出され、美濃部はせっかく育てた戦闘316を取り上げられてしまった[299]。
302空司令の小園安名大佐は美濃部のアイデアに理解を示し、斜銃を搭載した夜間戦闘機月光で編成された第2飛行隊長に任命された。月光隊にはラバウルで小園の下で活躍した遠藤幸男大尉が分隊長として所属しており[300]、美濃部は小園の理解と支援のもとで、月光隊を遠藤に任せると、自分は零戦による夜襲部隊の編制に着手した。しかし、1944年7月4日に硫黄島と父島を襲撃したアメリカ軍機動部隊に対して、育成した夜襲部隊を出撃させたが、天候不良もあって夜襲は空振りに終わったうえ、2機を喪失、2機を大破させてしまった[301]。
やがて、マリアナ沖海戦で日本軍が惨敗し、1944年7月9日にサイパン島の戦いで日本軍守備隊が全滅しサイパン島がアメリカ軍に占領されると、翌10日には在任わずか1か月半で、第一五三海軍航空隊の戦闘九〇一飛行隊飛行隊長に異動となり、1944年9月にはフィリピンに派遣され[302]、零戦と月光を擁してフィリピンの戦いで戦った。三〇二空の月光は斜銃を操縦席後部に装備し、敵爆撃機を迎撃する運用をされていたが、アメリカ軍の艦載戦闘機多数が徘徊していたフィリピンの戦場ではこの月光の運用法は通用しなかったので、美濃部は今まで温め続けてきた夜襲戦術で月光を運用しようと考えて、戦闘九〇一の月光は斜銃を機体下部に装備し、地上や艦船を攻撃させることとしている[303]。しかし、戦果が上がらないまま[注 6][304][305][306][307]、損害が続出して、戦闘九〇一は消耗で内地での再建を余儀なくされた。戦闘九〇一は戦力再建のため第七五二航空隊に編入され、1944年11月15日内地に帰還したが、七五二空は陸上攻撃機主体の航空隊ですでに4つの飛行隊を抱え、夜間戦闘機隊である九〇一は専門外となるため編入はあくまでも形式的なもので、司令の菊岡徳次郎大佐は戦闘九〇一に関心を持たず、部隊の再建は先任の飛行隊長である美濃部に一任された[308]。
芙蓉部隊誕生
藤枝基地を根拠地とする

木更津基地は七五二空の他の飛行隊で満杯であったため、戦闘九〇一は飛行場探しから始めなければならなかったが、美濃部は自ら零戦に乗り飛行場を探して回った結果、整備途中の藤枝基地を訓練根拠地に決め、所属する第三航空艦隊司令部の許可もとった[309]。部隊再建のため、編成や機材などは軍令部作戦課と美濃部が直接交渉することとなった。機材は零戦20機がすんなりと配備されたが、他の機体については、美濃部が希望したフィリピンで使い慣れた夜間戦闘機月光は生産中止、新鋭爆撃機銀河は少数しか配備できないが[310]、艦上爆撃機彗星の水冷型なら100機は準備できるとのことであった[311]。美濃部は戦後になって、遺稿などで、他の航空隊が「取扱い微妙で飛行経験浅い若パイロットでは事故が多発する殺人機」として配備を敬遠していた水冷型彗星を、少々の犠牲は覚悟の上で選択したなどと主張しているが[312]、これは全くの美濃部のネガティブな誤解で[313]、実際は空冷エンジンへの換装で性能低下が懸念されていた彗星三三型ではなく、速度や加速・上昇性能に優れる水冷型エンジン搭載の彗星を、夜間戦闘機隊として編成されていた芙蓉部隊に優先的に配備されたものであり[167]、この水冷型彗星が芙蓉部隊の主力機となった[314]。
美濃部は人事局のリストから優秀な水上機搭乗員を指名し、その他の整備員などの地上人員も人事局から厚遇された[315]。1945年1月に、フィリピンより撤退してきた戦闘八〇四(北東空)、八一二(第一三一航空隊)が藤枝に合流し、美濃部率いる戦闘九〇一を含めた3個飛行隊と整備隊を統合した独立飛行隊が編成され、関東海軍航空隊の指揮下に入った[316]。芙蓉部隊の士官の主力となったのは海兵第73期卒の航空士官らであった。1944年4月卒の73期生は実戦経験こそ少ないが既に300時間の飛行時間を有している者も多かった[317]。先輩の71期生は581名中329名戦死し戦没率56.6%、72期生は625名中の337名戦死し戦没率53.9%と消耗が激しく[318]、芙蓉部隊に配置されることはなかったので(飛行長格で着任した66期生座光寺一好少佐は除く)73期生は隊内だけでなく、夜の街でもハバを利かせて気勢を上げることになった[317]。
所属の第三航空艦隊司令部が木更津基地と遠く離れているため、空地分離方式により、藤枝基地を管理する関東空司令市川重大佐の代行指揮を受けることになった[319]。市川は唯一の指揮下の航空隊となる芙蓉部隊がいる藤枝に司令部を移したが、市川は航空部門の出身ではなく夜間戦闘機部隊運用の知識はなかったので、3個飛行隊の飛行隊長の中で最先任であった美濃部が実質的な指揮官となった。市川は芙蓉部隊の錬成や運用に口出しすることはなく、美濃部は時折、一緒に食事をとりながら状況を報告する程度で、芙蓉部隊の指揮を一任されており、実質的な指揮官となった[320]。戦闘八一二の飛行隊長徳倉正志大尉が美濃部の副官的な役割を担い、戦闘八〇四の飛行隊長川畑栄一大尉が空中指揮を執ることとした。部隊名は美濃部が藤枝を見つけた日に、搭乗する零戦から見た富士山を思い出し、海軍兵学校の歌『江田島健児の歌』の2番の歌詞にもある富士山の別名芙蓉峰に因んで芙蓉部隊と名づけることとした[321]。この部隊名は初めは通称のようなものであったが、後に正式な部隊名として使用されることとなっている[322]。美濃部は第三航空艦隊司令寺岡謹平中将に、芙蓉部隊という部隊名使用の許可と隊旗の揮毫を願い出るため、司令部のある木更津基地に、物資不足の折であったが静岡蜜柑2箱を手土産に自ら零戦を操縦して訪れた。第三航空艦隊司令は「ダバオ誤報事件」の失態で第一航空艦隊司令を更迭されていた元上官の寺岡であったが、第一航空艦隊司令時代から美濃部を高く評価していた寺岡は「美濃部君が胡麻すりをする筈がない。副官、希望通りにするよう」と、異例の美濃部の申し出を快く了承している[323]。寺岡筆の隊旗は以後藤枝の指揮所に掲げられた[324]。
特攻命令

芙蓉部隊が藤枝で再編成と訓練に明け暮れていたころ、レイモンド・スプルーアンス中将が率いる硫黄島攻略部隊の艦船900隻、艦載機1,200機、兵士10万人が、ウルシーやサイパン島から硫黄島に向けて進撃を開始した。スプルーアンスの指揮下にある高速空母部隊の第58任務部隊司令マーク・ミッチャー中将は、硫黄島上陸に先立ち奇襲により日本軍の航空戦力を叩こうと計画して(ジャンボリー作戦)、日本軍に発見されないよう、艦載機を先行させて日本軍の哨戒艇や偵察機を排除しながら25ノットの高速航行し、日本軍に気づかれることなく東京から125マイル(約200km)、房総半島から60マイル(約100km)まで接近に成功した[325]。1945年2月16日の夜明けに悪天候下で艦載機の発艦を強行したおかげもあり、完全に奇襲に成功したアメリカ軍の艦載機は、1日中東京上空を乱舞し航空基地や工場施設を存分に叩いて、ほとんど日本軍からの反撃を受けず、32機の損失に対して350機の日本軍機の撃墜破を報告している(日本側の記録では陸海軍で150機の損失)[326]。2月10日に第五航空艦隊の司令長官に就任したばかりの宇垣纏中将は、敵大艦隊が出撃したという情報を掴んでいながら、第三航空艦隊の索敵の不首尾で、ドーリットル空襲以来の敵機動部隊の日本本土への接近と、奇襲を許して大損害を被ったことを激怒し「遺憾千万と云うべし」と陣中日誌『戦藻録』に記述している[327]。藤枝基地からも第三航空艦隊司令部からの命令で、一式陸上攻撃機1機と芙蓉部隊から川副正夫少尉の零戦が索敵に出撃しているが、どちらも未帰還となっており[320]、川副は芙蓉部隊初の戦死者となった[328]。同日には硫黄島に対する艦砲射撃も開始された[329]。
空襲の後、第三航空艦隊は索敵により第58任務部隊を房総半島沖で発見、指揮下の航空隊に攻撃を命じた。錬成途中であった芙蓉部隊にも出撃命令があったが、美濃部はかねてより温めてきた対機動部隊戦術「敵空母を発見したら、飛行甲板に体当たりして搭載機の破壊と発艦の阻止、そして火炎で味方機に敵空母の位置を知らせる」という特攻戦術を実践する好機と考えて、整備兵に徹夜での出撃準備を命じ、特別夜食として汁粉を支給させた。芙蓉部隊の出撃は翌17日となったが、この日出撃した内の1人鞭杲則少尉に「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」と命じて、別れの盃(別盃)を交わしている[84]。河原政則少尉の記憶では、指揮所に行くと、特攻は本人の志願という建前であったのにもかかわらず[330]、志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿の中にあり、美濃部は別盃が並んだテーブルを前に、河原ら特攻出撃者に「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と命じている[331]。日出まではまだ間がある暁闇に、別れの盃が並んでいる前で、美濃部と藤枝基地司令市川と一人一人握手して送り出された[332]。藤枝基地からは、暁闇の中で彗星6機と零戦1機の芙蓉部隊特攻隊は次々と特攻出撃していったが[333]、これまで夜襲隊を標榜し、散々夜間訓練を行ってきたのにも拘わらず、芙蓉部隊特攻隊出撃後まもなく朝となってしまった。しかし、悪天候によりアメリカ軍機動部隊を発見することが出来ず、出撃は空振りに終わり、午前9時には芙蓉部隊特攻隊は次々と藤枝基地に帰投した[46]。
引き返した芙蓉部隊機はアメリカ軍のF6F戦闘機とSB2C艦上爆撃機合計約20機に追尾されており、最後の零戦が着陸した直後に激しいロケット弾攻撃と機銃掃射を加えてきた。美濃部と市川は敵機の機影を見ると近くの防空壕に逃げ込んだが、帰還したばかりの隊員たちは防空壕に逃げ込む暇もなく、近くの畑や小川に架かる橋の下に逃げ込んで銃爆撃をかわすのがやっとであった[46]。芙蓉部隊は迎撃することもできず、爆弾や燃料を搭載したままであった彗星や零戦は次々と爆発炎上し、一方的に彗星7機と零戦1機を破壊された。防空壕に逃げ込んでいた美濃部は無事であったが、逃げ遅れた搭乗員1名整備兵2名が戦死し、藤枝基地も指揮所、兵舎、格納庫が破壊される大損害を被った[252]。帝都まで敵艦載機の侵入を許しながら、アメリカ軍機動部隊を攻撃すらできなかった芙蓉部隊を含む日本軍航空部隊について、美濃部は「特攻攻撃の戦術しか使えず、大本営は想像発表で誤魔化しているが、敵軍の実害はなし」と総括しているが[334]、しかし芙蓉部隊も、一度に7機もの作戦機を地上で喪失し、他に1機を空中で失ってしまい、再出撃することができなくなった[335]。こうして芙蓉部隊の初陣は思わぬ惨敗に終わった[336]。

ジャンボリー作戦で航空戦力を消耗した日本軍であったが、2月19日に硫黄島の戦いが始まると、ようやくアメリカ軍艦隊への反撃を開始した[337]。2月17日の敵空襲の後始末に追われる芙蓉部隊内で、芙蓉部隊が反撃の第一陣として、第二御盾特別攻撃隊の名称で特攻配置になるという噂が流れた。これは同じ彗星と零戦装備の第601海軍航空隊で第二御盾特別攻撃隊が編成されるという話を、隊員の誰かが勘違いして流布させたものと思われたが[338]、2月17日に美濃部が実際に特攻出撃を命じたこともあって、噂はまことしやかに広まって、芙蓉部隊隊員らは激情と不安を抑えきれず酒を飲みながら大騒ぎしたため、歓声が夜通し基地内に響き渡り、当直士官も制止できない有様となった[149]。美濃部は騒ぐ隊員らに「うちの隊から特攻は出さない。夜間作戦が出来る人間が少ないので、あとがなくなってしまう」と言明したので、騒ぎは一旦沈静化した[338]。
予定通り第601海軍航空隊で編成された第二御盾隊は、2月21日に、彗星12機、天山8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が硫黄島を支援するため、硫黄島に出撃し、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガに5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) も大破させ、護衛空母ルンガ・ポイントとLST-477 を損傷させるなど大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団からも確認できたため、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「敵艦船に対する勇敢な特別攻撃により硫黄島守備隊員の士気は鼓舞された」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電するなど、栗林らを大いに鼓舞し、ジャンボリー作戦で好き放題に暴れた第58任務部隊に対する報復ともなった[339]。梅津美治郎陸軍参謀総長と及川古志郎軍令部総長はこの大戦果を昭和天皇に上奏し、昭和天皇は硫黄島に対する特攻による再攻撃を軍に求めたが、二撃目を加えるほどの航空戦力は残っておらず、硫黄島への特攻出撃は一度きりで終わった[340]。芙蓉部隊も2月17日までの戦闘で、特攻まで命じながら敵艦と接触することもできずに航空機9機を損失し、残存機は零戦12機と彗星8機となっていたが、その中でも稼動機はわずか零戦6機、彗星3機という、高い整備能力を誇る芙蓉部隊とは思えないような惨状で[341]、再出撃どころか翌月になるまで満足に訓練することもできず[342]、芙蓉部隊の初陣は惨敗に終わったが、このときの地上で多数の航空機を撃破された痛い経験が、後の芙蓉部隊最大の特徴となった基地のカモフラージュ方法や航空機の隠蔽方法の改善に活かされることとなった[343]。
沖縄戦
準備
3月5日、美濃部は一三一空の飛行長に命じられた。今までは、藤枝基地所属3個飛行隊の最先任飛行隊長という曖昧な立場で指揮をとっているに過ぎなかったが、航空隊飛行長の肩書がつくと、航空隊の飛行機と整備科の地上指揮をとれるので、これまでと比較すると格段に権限が強化されたことになり、実質的に芙蓉部隊の3個飛行隊の指揮官となった[344]。
硫黄島の戦いが一段落すると、アメリカ軍の機動部隊は沖縄戦に先立って日本軍の抵抗力を弱体化させるため、九州地方の航空基地に攻撃をかけてきた。それを第五航空艦隊が迎撃し、激しい海空戦が繰り広げられた[345]。3月18日に開始されたこの九州沖航空戦で特攻機を含む日本軍の猛攻でアメリカ軍は空母フランクリンとワスプが大破、エセックスが中破するなど多大な損害を被ったが、日本軍も初陣の特攻兵器桜花が全滅するなど航空兵力を激しく消耗した[346]。第五航空艦隊の稼働機数は作戦開始時の1/3以下の110機に激減しており、三航艦の支援なしには航空戦を戦えなくなっていた[347]。第三航空艦隊指揮下の芙蓉部隊にも索敵の任務が命じられ、3月18日から20日かけて彗星を索敵に出撃させたが、1機の彗星が未帰還で1機の彗星が離陸直後に墜落し4名の搭乗員を失っており[348]、芙蓉部隊は開隊してから特に成果を上げることもなく、11機の航空機を損失し7名の戦死者を出すという厳しい船出となった。

1945年3月25日、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸を開始したとの情報が連合艦隊に入ると、3月20日に大本営により下令された天号作戦に基づき、連合艦隊は1945年3月25日「天一号作戦警戒」、南西諸島への砲爆撃が激化した翌26日に「天一号作戦発動」を発令した。連合軍を沖縄で迎え撃つ第五航空艦隊の稼動戦力は、九州沖航空戦での消耗で航空機50機足らずとなっていたが、「天一号作戦警戒」発令により鈴鹿以西の作戦可能航空戦力は、第五航空艦隊司令官宇垣の指揮下に入り[349]、芙蓉部隊が所属する第三航空艦隊にも、第五航空艦隊の指揮下で連合軍を迎え撃つため南九州各基地への進出命令が下った[350]。芙蓉部隊は、3月30日と31日の2日にわたり熟練した隊員らが、零戦15機と彗星25機に搭乗し、鹿児島県鹿屋基地へ進出した。引き続き訓練が必要な搭乗員らや予備戦力は藤枝基地に残り引き続き訓練を続けた。訓練拠点を維持することにより、藤枝で鍛え上げられた搭乗員と前線で消耗した搭乗員とを随時交代させるという、当時の日本軍としては他に例を見ないシステムを確立することができた[2]。海軍省人事局や海軍航空本部も美濃部を支持し、若い優秀な搭乗員を優先的に芙蓉部隊に異動させている。そのため芙蓉部隊は補充人員が定員を大幅に上回ることとなり、指揮官の美濃部が新入隊員を把握できないほどであった[351]。
美濃部は芙蓉部隊が到着した当時の状況を、第五航空艦隊は戦力が底をついており40機の芙蓉部隊の到着は大歓迎されたと記憶しているが[352]、司令官宇垣の陣中日誌戦藻録には、この日、芙蓉部隊に関する記述はなく[353]、実際は天一号作戦発令で、九州への航空戦力の増強が進められており、海軍だけで4月1日時点で300機[354]、この後も順次戦力増強が進み4月19日までに合計2,895機もの大量の作戦機が九州の各基地に進出していた[355]。さらに3月1日の大海指第510号「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」により、陸軍飛行隊第6航空軍などが連合艦隊の指揮下に入っており、陸軍作戦機1,835機も順次知覧などの九州各基地に集結中で、日本軍は陸海軍協同でかつてない航空戦力で連合軍を迎え撃つこととなった[355]。3月31日には、第五航空艦隊の宇垣、第三航空艦隊の寺岡両司令官以下の幕僚が集まり作戦会議を実施した後、宴会ですき焼きを食して気炎を上げている[356]。
3月26日、慶良間諸島にアメリカ軍が上陸した直後に第五航空艦隊は特攻出撃を開始、4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、4月1日35機、2日44機、3日74機と出撃機数は増えていき、空母1隻大破、巡洋艦2隻撃沈などの華々しい大戦果を挙げたと報じられた[357]。この戦果報告は過大であったが、実際にも輸送駆逐艦(高速輸送艦)ディカーソン撃沈[358]、スプルーアンスが座乗していた第5艦隊の旗艦重巡インディアナポリス、[359] イギリス軍正規空母インディファティガブル[360]、護衛空母ウェーク・アイランド[361] が甚大な被害を受けて戦線離脱、戦艦ネバダとウェストバージニアを含む28隻が損傷し、合計約1,000名の死傷者を被るなど連合軍の損害は大きかった[362][363]。美濃部はこの沖縄戦序盤における特攻の戦果を「見るべき成果なし」と嘯いたが[364]、大きな損害を被ったアメリカ軍は「やがてきたる恐るべき戦術……特攻の不吉な前触れ」であったと評している[365]。
4月
敵機動部隊への夜襲不発

芙蓉部隊は鹿屋に進出して以降、連日敵艦を求めて索敵攻撃に出撃しながら敵艦と接触することすらできていなかった。戦果を挙げることができずに焦る芙蓉部隊の隊員らの面には、やはり特攻を志願すべきではなかったのかとの憂色が濃くなりつつあった[357]。自らの主張により特攻を拒否したため、芙蓉部隊の動向が各部隊から注目されていると考えていた美濃部も[366]、芙蓉部隊は実効果が特攻を凌いでこそ、その存在が許されると戦果を焦っており[364]、4月4日に彗星で偵察攻撃に出撃した海軍兵学校卒の鈴木昌康中尉と坪井晴隆飛長が、佐多岬沖で敵味方不明の潜水艦を発見し急降下して接近したが、反撃も回避運動もしなかったので味方潜水艦と判断し、攻撃せずに帰投したとの報告を聞いた美濃部は「馬鹿もの!! この時期に味方の艦艇がうろうろしているはずがない。」と決めつけると、「なぜ接近して爆撃でなくとも銃撃しなかったか」とかつてないほどの剣幕で2人を叱責、罵倒した[367]。鈴木はこの日が初陣であったのにも拘わらず洋上航法は狂いもなく正確で、操縦していた坪井は鈴木の優れた素質に感心するとともに、何の落ち度もなく無事に帰投できたのに、美濃部に罵倒されて「えっ、何で!?」と戸惑っている[368]。鈴木はこの時の美濃部の罵倒をずっと気にしており、1週間後の特攻機支援の誘導出撃で戦場に深入りして未帰還となってしまった[369]。美濃部は、鈴木が自分からの罵倒を気にして戦死したことを「ほろ苦い思い出」などと振り返り[370]、「内地しか知らない彼等には、厳しい戦場と訓練飛行海域の見境がつかなかったのか」と批判し、この罵倒を江田島兵学校出の士官に対する躾けであったと正当化したうえで、「つい荒々しい叱咤となった」と弁解している[371]。
4月5日には三式一番二八号ロケット爆弾が、彗星への搭載作業中に暴発して兵器整備員が負傷している。同日に同じ三式一番二八号ロケット爆弾を搭載して出撃した坪井と原敏夫中尉搭乗の彗星が、敵と接触できず鹿屋に帰還した際、ロケット弾を搭載したまま着陸を試みたところ、滑走路に不時着していた零戦に接触、ロケット弾が暴発して彗星と零戦が爆発炎上し、坪井と原は大火傷を負ってしまった。(原はその後死亡[372])三式一番二八号ロケット爆弾は、海軍航空技術廠が安全性に欠けると正式配備を躊躇しながらも、美濃部の決断で芙蓉部隊に配備することになったが[213]、海軍航空技術廠の懸念通り事故が続発し、美濃部は慌てて、この後、帰還する機には事故防止のため着陸前にロケット弾を投棄するように命じている[373]。
大本営は4月6日に、航空戦力を集中した大規模な特攻作戦菊水一号作戦を発令[374]、大量の特攻機を出撃させると同時に戦艦大和による海上特攻を敢行した。芙蓉部隊に第五航空艦隊司令部から、海上特攻する戦艦大和の護衛の打診があったが、美濃部は「夜間戦闘機隊を昼間の護衛に使うなんて無意味ですし、不可能です。」と拒否している[59]。芙蓉部隊は護衛を拒否したが、大和には海軍から第二〇三海軍航空隊の零戦10機と、第三五二海軍航空隊の零戦12機が交代で、3時間あまりにわたって護衛飛行をすることになり[375]、大和の出撃を知った陸軍の第6航空軍司令官菅原道大中将も、「(大和特攻の際に)南九州の第100飛行団が四式戦闘機疾風48機を投入して、奄美大島付近の制空権を一時的に掌握、協力する」と航空支援を約束し[376]、第100飛行団を主力とする戦闘機疾風41機を出撃させて、12:00から14:00にかけて制空戦闘をおこない10機が未帰還となっている[377][378]。大和は陸海軍による航空支援も空しく、圧倒的なアメリカ軍艦載機の航空攻撃によって沈没した[379]。
芙蓉部隊は、特攻機と共同で敵艦船攻撃のため、彗星8機と零戦8機を準備し、4月6日午前3時過ぎから順次鹿屋を出撃した[380]。美濃部は遺稿で「全行程が2,000km弱にも達する、レーダー装備も電波誘導もない中での困難な長距離夜間飛行であり、これは世界戦史に例のない至難な離れ業であった」などと主張しているが[381]、実態は、訓練日数の少なさから夜間の編隊飛行をすることができず、彗星は単機で出撃せざるを得なかった。零戦に至っては、搭乗員の半数が訓練不足で、夜間洋上飛行能力が不十分であったことから、単独での飛行も困難であり2機ごとに行動させることとし、さらに熟練した搭乗員の操縦する彗星が誘導するといったような有様であった。結局8機準備した彗星も2機が機体不良と搭載していたロケット弾の暴発で離陸できず、どうにか出撃した6機の彗星のうち沖縄まで到達できたのは4機に過ぎなかった[382]。零戦8機は全機離陸できたが、機体の不調で4機が途中で引き返した後[383]、2機が未帰還となり[384]、帰還して飛行時間や燃料消費などを報告できたのはわずか2機となった[385][386]。
沖縄に到達した芙蓉部隊機は、大和の海上特攻を支援のため空母攻撃を目標としていたが発見できなかったので、伊江島付近に遊弋中の十数隻の艦隊に突入し、巡洋艦に仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)を発射し3発命中、零戦が大型輸送艦に九九式二〇ミリ機銃を数百発撃ちこみ大火災を起こさせたと報告しており、ようやく戦果を挙げることができた芙蓉部隊隊員らは胸をなでおろしたが[387]、実際には該当するアメリカ軍側被害報告はなかった[注 7][388]。隊員の過大な戦果報告を妄信した美濃部は、この出撃で今後の作戦立案に大きな自信を持つこととなり[389]、「司会極めて狭小なる悪条件を克服してよく作戦目的を達成、敵陣を震駭せしめたるは功績顕著なり」とする報告書を作成している[390]。
芙蓉部隊に戦果はなかったが、菊水一号作戦で日本軍は355機の特攻機をつぎ込んで[391]、戦艦2隻轟沈を含む69隻撃沈破という驚異的な戦果を挙げたと報じている[392]。しかし、これも芙蓉部隊と同様に過大戦果報告に過ぎす、実際は駆逐艦3隻、重砲の大口径砲弾7,600トンを満載したビクトリー型弾薬輸送船 2隻[393]、戦車揚陸艦1隻撃沈、正規空母ハンコック、戦艦メリーランド大破などの34隻撃沈破であった[362][363]。宇垣も美濃部と同様に過大戦果報告を妄信してしまい、陣中日記の『戦藻録』に「諸状況を綜合するに敵は動揺の兆ありて、戦機はまさに七分三分の兼合にあり」記述するなど、戦況判断を誤って[394]、引き続き敵機動部隊への特攻攻撃にのめり込んでいくことになった[395]。日本軍の戦果報告は過大ではあったが、実際にも特攻がアメリカ海軍に多大な損害を与えたことには変わりなく、後にアメリカ海軍が大損害に耐え兼ねえて、アメリカ陸軍に対して越権行為で陸上作戦に介入しようとするなど、大きな問題も引き起こしている[396]。
目標を敵飛行場に変更

アメリカ軍は沖縄本島上陸直後に、日本軍が設営した北飛行場(読谷飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)を確保すると、ただちに航空隊を展開した。菊水一号作戦中の4月7日にはアメリカ海兵隊第31海兵航空群のF4Uコルセアとレーダー搭載の夜間戦闘機F6F-5N“夜間戦闘機型ヘルキャット”が130機進出してきたと日本軍は警戒していたが、実際には、2日後に第33海兵航空群も進出しており、合計は220機にものぼっていた[397]。沖縄戦開始の時期には、アメリカ軍の夜間戦闘能力はさらに向上しており、レーダーピケットステーションは夜間戦闘機を日本軍機の500フィート(152m)の位置まで正確に誘導することができ、夜間戦闘機は機上レーダーに頼らずとも、目視で日本軍機を攻撃することができた[398]。さらに、飛行場周辺は濃密な対空火器が配置され、日本軍航空隊の最大の障害となりつつあった[399]。
4月12日に発令した菊水二号作戦では、大本営と連合艦隊は特攻機の障害となりつつあったアメリカ軍飛行場を攻撃し、戦闘機に依る要撃阻止を図ることとし[400]、第32軍重砲隊の八九式十五糎加農砲により航空基地に制圧砲撃を加えるとともに[401]、陸軍第6航空軍の重爆撃機を主力としてアメリカ軍航空基地攻撃を行うこととした。海軍においては、第5航空艦隊の中で芙蓉部隊のみが、陸軍と協力してアメリカ軍飛行場攻撃を命じられ、これ以降、第5航空艦隊の作戦方針に従い、芙蓉部隊の主要目標は海上の艦船から一転して地上の飛行場となっていく[48]。
4月12日、第32軍独立重砲兵第百大隊第二中隊の八九式十五糎加農砲2門が、中飛行場を砲撃し大火柱を生じさせ[402]、その後、陸軍飛行隊は、サイパン基地爆撃で、B-29を地上で多数撃破し武功賞を受賞した涌谷良治中尉や木村大八少尉の所属する飛行第110戦隊と飛行第60戦隊の四式重爆撃機8機を中飛行場と北飛行場の爆撃に出撃させた。歴戦の両戦隊は、太陽も上がった早朝に大型の重爆で果敢にも低空爆撃を行って[403]、地上機4機炎上、1機爆砕、直径100m高さ300mの大爆発を含む爆発3か所、火災3か所の戦果を挙げた[404]。芙蓉部隊も陸軍の一連の攻撃のあとの夜間に航空基地攻撃に出撃したが、歴戦の陸軍重爆隊に比べて散々な目にあうこととなった。まず飛行場攻撃隊の彗星9機のうち1機が整備不良で離陸できず、2機が機体不良で引き返した。どうにか沖縄方面に向かった6機のうち、飛行場を爆撃できたのはわずか1機で、2機が飛行場に到達することができずに、洋上でアメリカ軍駆逐艦に投弾(命中せず)、3機が未帰還となった。未帰還機には美濃部が信頼していた名飛行隊長川畑栄一大尉の彗星も含まれていた[405]。唯一飛行場への爆撃に成功した飯田上飛曹、井戸上飛曹の彗星も燃料不足から種子島洋上に不時着水し、搭乗員は生還できたが、彗星は失われた[406]。
零戦隊はさらに悲惨で、単座のうえ洋上飛行に不慣れな搭乗員が多かった零戦隊は[407]、出撃前に彗星の搭乗員が近づくことをためらうような悲壮な雰囲気で入念にブリーフィングを行っていたが[408]、出撃予定の8機中2機が整備不良で離陸できず、離陸できた6機のうち3機も機体不良で引き返し、残る3機は全機未帰還となった[409]。零戦による敵飛行場や艦船への夜間銃撃構想は、美濃部が発狂した教え子から着想を得て[410]、これまで拘りをもって準備を進めてきたものであったが、アメリカ軍の夜間戦闘能力は美濃部の想像を遥かに上回るものであり、零戦隊は敵夜間戦闘機の待ち伏せを警戒して、目標がある列島線を避けて、不慣れな夜間洋上飛行をせざるを得なくなっており、零戦搭乗員にかなりの重荷となっていた[411]。他にも、日中に特攻機支援のため、電波欺瞞紙散布任務に出撃した彗星2機も未帰還となっていたが、そのうちの1機は4月4日に美濃部に叱責された鈴木の搭乗機であった[412]。この日、出撃予定であった19機中、8機が整備不良で引き返し、実際に任務に従事できたのは11機、そのなかで生還した機はたった2機で、戦闘八〇四の飛行隊長川畑を含む熟練搭乗員13名と、彗星6機零戦3機を一度に失ったが、これは芙蓉部隊の全作戦中で最大の損害となり、芙蓉部隊は戦力が回復するまで、激しい損失を被る夜襲から、一時的に敵機動部隊の索敵を主任務とせざるを得なくなった[413]。
未帰還となった川畑機を操縦していた陶三郎飛曹長は、フィリピンでは美濃部の指揮下で月光で出撃し続け、敵戦闘機の迎撃で損傷しながら生還を果たしたり、その後の出撃では敵空母への命中弾を報告するなど歴戦の搭乗員であったが[414]、このときもアメリカ軍夜間戦闘機の銃撃を浴びながらもパラシュート降下して無事であった。降下した場所は北飛行場周辺の恩納岳付近のアメリカ軍占領地域であったが、山中に日本軍残存部隊が取り残されており、陶は陸軍軍医から火傷の治療を受けると、陸軍部隊と一緒にゲリラ戦を展開した[415]。しかしアメリカ軍の掃討作戦で部隊は四散、陶も貫通銃創を受けて山中を彷徨っていると、アメリカ軍に保護された住民が大量に沖縄南部から恩納岳周辺に移動してきたので、陶はこの住民に交じって終戦まで生き延びた。その後に終戦の報が届いたが、陶は捕虜となることを拒否し、一人で山中に籠ったり、住民の厚意もあって身分を偽り仕事に就くなどして1946年2月まで沖縄で生活している。しかし、アメリカ軍の敗残兵探しが厳しくなってきたので、アメリカ軍基地から盗難した増槽を改造して作った小舟で沖縄を脱出、沖永良部島からは黒糖の密輸船で日本本土に戻り[416]、1946年7月にかつての指揮官であった美濃部宅を訪れて美濃部を驚かせている[417]。
4月15日の白昼に、沖縄を出撃したアメリカ軍戦闘機80機が鹿屋に来襲し、迎撃のため離陸しようとした紫電2機が撃墜され、地上で10機が撃破されたが、笠ノ原航空基地から出撃した零戦36機が迎撃し、アメリカ軍戦闘機1機を撃墜した。菊水3号作戦はこの来襲したアメリカ軍戦闘機の追撃という形で開始され、九州から零戦10機と陸軍戦闘機11機、台湾からは5機の海軍の陸攻が出撃、嘉手納の中飛行場、読谷村の北飛行場を陸海軍協同で襲撃したが、薄暮の中で全機が完全奇襲に成功して、銃爆撃で両飛行場を制圧している[418]。夜間には九州から海軍の陸攻8機と陸軍の重爆4機、台湾から海軍の月光3機と天山4機が出撃し、夜間爆撃に成功している[419][420]。芙蓉部隊は12日に受けた大損害により、この陸海軍協同の大規模なアメリカ軍航空基地への夜襲には参加できなかったが、同日に、戦死した川畑に代わる戦闘八〇四の新飛行隊長の石田貞彦大尉らが搭乗する彗星12機と零戦4機が藤枝から進出し、戦力が回復している[421]。芙蓉部隊は海軍省人事局に厚遇され、若い優秀な搭乗員を優先的に異動させてもらっていたが、機体についても補充は順調であり、この後も消耗のたびに戦力の補充が優先的に行われた。戦局が悪化し日本軍全体の航空戦力が枯渇していくなかでも、芙蓉部隊は岩川と藤枝で、編制定数彗星72機、零戦20機を超える数の機数を維持しており、終戦時には120機を超える機数の補充が発令されていたほどであった。美濃部は芙蓉部隊を厚遇してくれた海軍省本省人事局、航空本部、補給廠そして宇垣らを「芙蓉部隊作戦の理解と応援者」と称して感謝している[175]。
4月16日には、陸軍が第60戦隊の四式重爆撃機4機が北飛行場を爆撃、またも地上で5機撃破、10カ所火災発生の戦果を挙げて全機無事に帰投した[403]。戦力が整った芙蓉部隊も、彗星4機と零戦6機が中飛行場、北飛行場の夜間攻撃に出撃した。4月12日の大損害を教訓として、アメリカ軍の夜間戦闘機が待機していると推定される空域を大きく迂回する計画であったが[422]、また彗星1機と零戦3機が整備不良で離陸できないか、もしくは途中で引き返してきた[423]。残る彗星2機と零戦3機はどうにか沖縄に到達し、今回は全機がそれぞれ北飛行場と中飛行場の攻撃に成功、彗星2機はいずれも北飛行場に爆弾を投下し、零戦3機は両飛行場を機銃掃射した[424]。零戦のうち照沼光二中尉機は、機関砲弾が尽きるまで北飛行場を銃撃したのちに、北飛行場に特攻して未帰還となったが、その様子は地上の第32軍から確認されており、「爆発火炎7本揚り火災を生ず」との報告が送られている[422]。戦局がひっ迫するなかで、若い搭乗員が特攻によって国に殉じようという気持ちを遮ることはできず[425]、照沼は連合艦隊司令長官から特攻で戦死したとして全軍に布告されている[426]。
4月下旬になると、美濃部はソロモンで罹患したマラリアがぶり返して、寝たきりになることも多くなっており、これを問題視した第5航空艦隊司令部は美濃部の更迭を望み、交代要員の配属を人事局に申し出している[427]。4月下旬になって、南九州から列島線にかけての天候はますます悪化し、日本軍航空隊は積極的な動きがとれなかったが、芙蓉部隊は時折天候が回復した際に散発的な出撃を繰り返した。20日には彗星2機、零戦2機が敵艦隊を発見したら攻撃するという「索敵攻撃任務」で出撃予定であったが、いつもように零戦1機が整備不良で出撃できず、彗星2機と零戦1機が出撃したが、日本軍掃海艇が座礁しているのを発見したに過ぎなかった[428]。22日にも彗星6機、零戦3機が索敵攻撃に出撃したが、この日は無事に全機離陸できたものの、アメリカ軍艦船を発見することはできなかったうえ、帰路で零戦1機から「操縦桿変になる」という連絡があったのち、そのまま未帰還となってしまった。また彗星1機が陸軍の万世飛行場に不時着して大破した[429]。
22日には総攻撃を実施、偵察の彗星6機、攻撃隊の彗星3機、零戦3機の合計12機という[430]、大損害を被った4月12日以来[431]のまとまった戦力での出撃となったが、これまで整備不良により、離陸できなかったり途中で引き返す機が続出していたため、整備士が「全機可動機、故障機は一刻も早く修理」というモットーを掲げ、昼夜を問わぬ全力作業を行った結果、この日は12機全てが無事に離陸することができた。しかし、アメリカ軍艦隊を発見することはできず、全機無事に帰還したが、今回の出撃では途中で引き返した機や不時着した機はなく、ようやく整備士の努力が実を結んだ形となった[432]。出撃を繰り返しながら、何ら成果を上げることができない芙蓉部隊に対し、陸軍の重爆撃機は順調に戦果を重ね、4月20日~22日に延べ8機の陸軍重爆の夜間爆撃で、北・中飛行場に大火災3か所、炎上27か所、誘爆6か所、地上機3機撃破を報告しているが、未帰還機は0であった。(被弾機1機が着陸時に大破)[433]
芙蓉部隊の全力攻撃

沖縄のアメリカ軍飛行場は強化される一方で、日本軍も天号作戦の遂行を左右する真に重大な問題となっているという認識をしていた[434]。敵航空基地の制圧が陸軍は引き続き、第6航空軍隷下の飛行第110戦隊と飛行60戦隊の重爆撃機をもって、敵航空基地攻撃に全力を尽くすこととしたが[435]、海軍に対しての陸軍の不満は高まっていた。そのため、4月27日から開始された菊水四号作戦では、海軍も空母部隊に固執せず、輸送船団とアメリカ軍飛行場を主要攻撃目標とすることとした[436]。芙蓉部隊にも第5航空艦隊司令部より「関東空部隊(芙蓉部隊)夜戦隊を以て実施期間中に亘り沖縄陸上基地及慶良間水上機基地に対し連続銃爆撃を続行し基地利用を封止」と改めてアメリカ軍飛行場や水上機基地を主目標とするように命じられた[437]。芙蓉部隊はこれまでに、彗星と零戦を7機ずつ失い21人の搭乗員が戦死するという甚大な損失を被っていたが、24日と25日には藤枝から彗星10機と零戦4機の補充があっており、戦力が充実していた[438]。美濃部は充実した戦力で全力攻撃をかけることとし、第5航空隊司令部にも「芙蓉部隊だけでも今一度全力攻撃をかけます」と宣言している[439]。
美濃部の立てた作戦は、攻撃目標を沖縄北飛行場、沖縄中飛行場、慶良間水上機基地、伊江島飛行場の4か所とし、使用兵力は、彗星18~20機、零戦8~10機の可動機全機を投入、これを6波にわけて、27日午後9時45分から午前3時30分まで車掛かりで銃爆撃を繰り返すというものであった[440]。
【4月27日から28日の出撃】[441]。
- 第一次攻撃隊 彗星3機 彗星1機機体不良での引き返し 彗星2機帰還 彗星2機が北飛行場に爆撃成功
- 第二次攻撃隊 彗星2機 彗星1機未帰還 彗星1機帰還 目標に到達できず
- 第三次攻撃隊 彗星4機 彗星3機機体不良での引き返し 彗星1機海上に不時着 帰還機なし
- 第四次攻撃隊 彗星8機 彗星3機機体不良での引き返し 彗星1機未帰還 彗星4機帰還 彗星1機が北飛行場爆撃成功 彗星1機が中飛行場爆撃成功、彗星1機が伊江島飛行場に爆撃成功
- 第五次攻撃隊 零戦5機 零戦1機機体不良での引き返し 零戦1機燃料不足での引き返し 零戦1機未帰還 零戦1機が北飛行場銃撃に成功
- 第六次攻撃隊 彗星12機 彗星2機機体不良での引き返し 彗星2機未帰還 彗星8機帰還(うち1機敵銃撃で損傷) 彗星4機北飛行場に爆撃成功 彗星3機中飛行場に爆撃成功
芙蓉部隊の4月27日からの総攻撃で、合計34機が出撃し、彗星4機と零戦1機が未帰還となり、搭乗員9人が戦死した[442]。この損害は4月12日に次ぐ大きなものではあったが、殆ど目的の敵航空基地に攻撃すらできなかった4月12日と比べると、17機が何らかの攻撃に成功したと報告しており、美濃部が考案した戦法が奏功した形となった[417]。一方で陸軍重爆撃機は、合計7機全機が攻撃に成功、1か所大火災、他5か所炎上の戦果を報告し、敵夜間戦闘機に追撃されながらも全機無事に帰還した[443]。
美濃部は3日連続での攻撃を計画しており、4月28日にも前日と同様の作戦で出撃させたが、機数は減って3波での攻撃となった[444]。
【4月28日から29日の出撃】[445]。
- 第一次攻撃隊 彗星7機 彗星7機帰還 彗星1機が北飛行場に爆撃成功、彗星4機が中飛行場に爆撃成功
- 第二次攻撃隊 零戦4機 零戦2機未帰還 零戦2機帰還 零戦1機が慶良間水上機基地の銃撃に成功[446]
- 第三次攻撃隊 彗星7機 彗星1機機体不良で出撃中止 彗星3機機体不良での引き返し 彗星1機不時着大破 彗星2機帰還 彗星1機中飛行場に爆撃成功
総攻撃最終日の4月29日は、美濃部が考案した、敵夜間戦闘機を電波欺瞞紙と偽通信でおびき出し、おびき出された敵夜間戦闘機が燃料切れになり、降着すると思われる3時間後を狙って飛行場を攻撃する作戦を実施した。電波欺瞞紙は錫箔のロールから偵察員自らが切り出して作製したもので、各機10本ずつを風防の取っ手にぶら下げて出撃した[447]。
【4月29日から30日の出撃】[448]。
- 第一次攻撃隊 彗星2機 彗星1機爆装間に合わず出撃中止 彗星1機機体不良での引き返し
- 第二次攻撃隊 彗星1機 彗星1機機体不良での引き返し
- 第三次攻撃隊 零戦2機 零戦2機帰還
- 第四次攻撃隊 彗星10機 彗星3機機体不良での引き返し 彗星1機未帰還 彗星6機帰還 彗星6機北飛行場に爆撃成功
菊水四号作戦は芙蓉部隊の正念場の戦いとなった。4月27日~4月30日の出撃で芙蓉部隊は延べ66機が出撃し、43機が攻撃を実施、7機が未帰還、4機が大破・海没するなど航空機損失11機、搭乗員戦死・未帰還13名にも上ったが[449] 、美濃部はこの成功で、敵航空基地制圧に相当の自信を持つに至り、第五航空艦隊司令部に詳細な戦訓を報告しており[450]、芙蓉部隊の海軍航空隊内での存在感は高まっていった[451]。
その戦訓で美濃部は以下の分析と提言を行っている[452]。
- 夜間戦闘機の使命は夜間の制空であり、零戦夜間戦闘機の必要性は敵基地への奇襲兵力として絶対必要である
- 零戦夜間戦闘機の搭乗員の育成は、彗星夜間戦闘機搭乗員の育成より遥かに困難であるが、夜間戦闘機の準備を今から行っておかなければ、2~3か月後に敵基地制圧で必ずや悲鳴を挙げる時期が来る
- 芙蓉部隊は沖縄往復のみを目的とする特殊航法を採用したので、4月中は彗星延べ93機、零戦延べ60機出撃したにもかかわらず、機位を失って未帰還となったのは零戦1機のみであり、それも燃料不足の不時着であった
- 彗星夜間戦闘機の兵術的価値は絶大である、速力は列国戦闘機と遜色なく、爆装しても沖縄までの航続距離は十分で夜間飛行の操縦性も良好であった
- 零戦夜間戦闘機隊は夜間単機攻撃を敢行したので彗星に比べて損害が多かった、超低空銃撃のため対空砲火による損害や、航続距離が彗星と比べ短かったことが原因として考えられる
- 従来は2~3年かかる夜間航法を、芙蓉部隊においては、錬成2か月、飛行時間わずか180時間で可能としており、従来の教育制度を再検討すべきである、特に徹底した地上教育を重視すべきである
- 菊水作戦の特徴としては、小型機により敵基地の夜間制圧が計画的に実施可能となったことで、これは従来の戦場と極めて大きな差異を生じている、芙蓉部隊が夜間戦闘機と接触したのは菊水2号作戦のわずか1日で、菊水3号作戦のように夜間戦闘機30機あれば敵夜間戦闘機を完全に封殺できる
しかし、芙蓉部隊の戦果報告は、爆弾の投下や銃撃には成功しても、効果不明とするものが大半であり[453][454][455]、実際にどれほどの戦果を挙げているかは判然としなかった[456]。また、一時は改善した引き返し機や出撃不能機も、この総攻撃期間中で合計19機と総出撃機数の3割以上と高い比率に戻ってしまった[457][458][459]。さらに、この後の戦況は美濃部の分析より遥かに急な展開で、2~3か月後どころか翌5月には順次増強された大量の敵夜間戦闘機により[460] 芙蓉部隊は苦しめられることになっていく[461]。
5月
大損害により戦術変更を余儀なくされる

5月3日、沖縄本島の第32軍は八原博通高級参謀の反対にもかかわらず、牛島満司令官の決断により総攻撃を開始した[462]。第五航空艦隊司令官宇垣纏中将はその援護のため、九州及び台湾の陸海軍全航空戦力を投入することを決定し、同日菊水五号作戦を発令した[463]。菊水四号作戦で手応えを掴んでいた美濃部であったが、芙蓉部隊はその後遺症もあって可動率が低下しており、5月1日時点で彗星は20機中可動はわずか7機で可動率は35%まで落ち込んでいた。搭乗員が雨天で休息をとっているなか、整備士の尽力もあり、3日夜間の出撃までには彗星15機と零戦3機を出撃可能な状態までもってきていた[464]。
第5航空艦隊から芙蓉部隊へは、菊水四号作戦の際と同様にアメリカ軍飛行場攻撃が命じられ、美濃部は前回と同様に、アメリカ軍飛行場に車掛かりで銃爆撃を加えることを計画した[465]。
【5月3日から4日の出撃】[466]。
- 第一次攻撃隊 彗星4機 彗星1機機体不良での引き返し 彗星3機帰還(1機対空防火で損傷) 彗星3機北飛行場に爆撃成功
- 第二次攻撃隊 彗星2機 彗星1機機体不良での引き返し 彗星1機帰還 彗星1機チャフ散布に成功
- 第三次攻撃隊 零戦3機 零戦2機機体不良での引き返し 零戦1機帰還 伊江島飛行場銃撃成功
- 第四次攻撃隊 彗星9機 彗星6機機体不良での引き返しもしくは出撃断念 彗星1機未帰還 彗星2機帰還 彗星1機が北飛行場に爆撃成功
第四次攻撃隊の未帰還機は大沢少尉、宮本上飛曹の二式艦上偵察機で、鹿屋近郊まで帰還しながら墜落し両名とも戦死した[467]。陸軍爆撃隊は重爆撃機9機と双発軽爆撃機10機で飛行場夜間爆撃を敢行し、火災5か所、爆発5か所の戦果を挙げ、飛行場制圧の目的を達したと報告し、その後の出撃した陸海軍の特攻隊の援護の役割を果たしている[468]。
【5月4日から5日の出撃】[469]。
- 第一次攻撃隊 彗星4機 彗星2機天候不良での引き返し 彗星1機不時着 彗星1機帰還 彗星2機北飛行場に爆撃成功
- 第二次攻撃隊 彗星2機 彗星1機機体不良での引き返し 彗星1未機帰還
- 第三次攻撃隊 零戦2機 零戦2機天候不良での引き返し
- 第四次攻撃隊 彗星6機 彗星5機天候不良での引き返し 彗星1機帰還
5月5日0時の出撃は悪天候のため14機中10機が引き返したが、彗星2機が北飛行場を爆撃、未帰還は1機。指揮官の美濃部が全力出撃を標榜しながら[470]、機体の不調で引き返す機が続出し効果が上がらない芙蓉部隊は、翌6日は天候が回復したのにもかかわらず、機体整備に終日費やすこととなり、搭乗員らはバレーボールなどを楽しみ気分転換をおこなった[471]。中途からの帰還機が多いのは陸軍飛行隊も同様で、5月4日に制空隊と通常攻撃隊62機が出撃したが、そのうち1/3がエンジン不調などで引き返しており、第6航空軍司令官菅原道大中将は頭を痛めている[472]。
菊水四号作戦時の成功で、第五航空艦隊司令部に提言を送ったほど意気が上がっていた美濃部であったが[473]、この頃には一転して弱気になっており、大きな作戦方針の変更を余儀なくされている[474]。これまで芙蓉部隊は、美濃部考案の作戦計画の通り、零戦と彗星が、夜間、黎明に超低空で敵基地に接近、零戦は機銃で敵地上機を掃射し、彗星は低空での急降下爆撃投弾による必中攻撃を目指しており[475]、高度300mで投弾することもあったが[476]、実戦は美濃部の目論見通りとはならず、零戦による敵航空基地への夜襲は、想定外の激しい対空砲火により、損害に対して効果が乏しいと判断、美濃部が夜襲部隊編成を構想して以来もっとも拘りを持っていた零戦による夜襲は、早々に断念せざるを得なくなり[209]。彗星による急降下爆撃も、敵対空砲火が濃密な高度2,000m以下での爆撃を諦めて、一部の決死隊が低空進入して敵対空砲火を引き付けているうちに、主力は高度4,000mで敵基地周辺に侵入後急降下し、高度3,000mで投弾するという戦術に切り替えざるを得なかった[477][219]。
日本海軍航空隊の急降下爆撃の投弾高度については、横須賀海軍航空隊による「800m以上(の投弾)にては命中率著しく低下する」という急降下爆撃の投弾高度の分析をもとに[217]、海軍航空本部は「(急降下爆撃)基準投下高度を700mとし、本高度をもって訓練するを適当と認む」と、急降下爆撃基準投弾高度を700mと定め[478]、さらに太平洋戦争に突入すると、それまでの戦訓により「高度2,000mから角度45度以上の急降下で突入、高度400mで投弾」と理想的な投弾高度を引き下げていたのに対し[479]、修正後の投弾高度は明らかに高すぎた。アメリカ海軍においても急降下爆撃の投弾高度は1,000 ft(304m)から2,000 ft(609m)とされていた[480][481]。3,000mからの投弾では、海軍航空本部や横須賀海軍航空隊の分析通り正確な爆撃は困難で、命中率が高い三式一番二八号ロケット爆弾は射程500mに過ぎず、3,000mからの爆撃には使用できなかった[482]。また、アメリカ軍飛行場作業員に対する心理戦と称して、高高度からの搭載機銃による銃撃も試みているが[483]、有効射程外からの銃撃の効果は不明であった。
菊水六号作戦で、大本営は敵航空基地制圧のため、特攻機桜花を滑走路に突入させ大穴をあけて使用不能に追い込むといった奇策を講じることとし[484]、5月10日夜間から翌日黎明にかけて、芙蓉部隊彗星10機、海軍一式陸上攻撃機14機、瑞雲6機[485]、陸軍重爆撃機6機[420]、が数段の構えで中・北飛行場を爆撃、最後に桜花が滑走路に突入後、陸軍四式戦闘機疾風15機が銃撃して敵飛行場制圧を図る計画であった[486]。この作戦で、芙蓉部隊は出撃した全機が生還したが、滑走路に命中弾を与えたのはわずか1機に終わった[209]。芙蓉部隊の攻撃は失敗に終わったが、陸軍の重爆撃機と海軍の陸上攻撃機は爆撃に成功し(未帰還陸軍重爆撃機1機)、北飛行場に9か所の火災を発生させ、中飛行場滑走路全部に有効な命中弾を与えたという戦果報告を行っている。しかし、肝心の桜花は敵戦闘機の妨害のため射出できず[484]、疾風による飛行場銃撃も十分な効果を挙げることなく作戦は失敗した[486]。
美濃部は菊水四号作戦時には成功した車掛かりの波状攻撃を諦めて、10機の彗星を時間差で異方向から突入させて敵航空基地の防御網を混乱させ、使用爆弾も接地後直ちに爆発する瞬発信管と、一定時間経過後爆発する時限信管を混合し飛行場制圧の効果を上げるという新戦法を思いついた[487]。5月11日に新戦法を実践するため10機の彗星を出撃させたが、天候不良と故障機続出でいつもの通り引き返す機が続出し、沖縄まで到達できたのはわずか3機[488]、うち滑走路への命中を確認できたのはわずか1機であった[489]。5月12日の黎明に第5航空艦隊司令部より「1KFGB天信電令作第169号」が打電されたが、この命令書に軍の公式命令では初めて「芙蓉部隊」という部隊名が登場した。これまで自らは「芙蓉隊」ないし「芙蓉部隊」と呼称しながら、対外的には「関東空部隊」と呼称されてきたが、この日以降は、海軍の通達などの各公式書面や海軍功績調査部に送付される戦闘詳報にも「芙蓉部隊」と記載されるようになり、名実ともに「芙蓉部隊」が正式な部隊名となった[490]。芙蓉部隊はこの命令に基づき。種子島、屋久島の南に配置されたレーダーピケット艦の索敵攻撃を実施したが、敵ピケット艦隊とは接触できなかった代わりに彗星1機が敵潜水艦を発見して爆撃した。搭乗員は多量の油が浮くのを確認、おおむね撃沈確実と報告している[491]。(該当のアメリカ側潜水艦の被害記録なし[492])
敵空母への夜襲失敗

5月13日、旗艦の空母バンカーヒルが菊水六号作戦で出撃した特攻機により沈没寸前の深刻な損傷で脱落し、旗艦を空母エンタープライズへ移した第58任務部隊司令マーク・ミッチャー中将は、これ以上の特攻機による艦艇の損失を防ぐため、高速空母部隊を北上させて艦載機による九州の特攻機基地攻撃を行った[493]。エンタープライズには夜間戦闘機で編成されたVF(N)-90飛行隊が配備されており、エンタープライズから出撃した夜間戦闘機型F6F-5NとTBF アヴェンジャーは通常爆弾、焼夷弾、ロケット弾を使用して夜間攻撃で飛行場を攻撃した[494]。VF(N)-90飛行隊の夜間での跳梁に対して、夜間戦闘専門部隊を標榜しながら芙蓉部隊は出撃することができなかった。しかし、美濃部は、硫黄島の戦いのときと同様に、かねてから考案していた対敵機動部隊戦術を実践する好機と考え、上空に張り付いているエンタープライズの夜間戦闘機の目を盗んで、どうにか偵察任務の彗星を6機を発進させることに成功した[495]。
偵察任務の彗星のなかで甘利洋司少尉機が敵空母を発見したが、位置を打電した直後にF6F-5Nに撃墜された。甘利はミッドウェー海戦で重巡洋艦利根の零式水上偵察機4号機で「敵らしきもの10隻見ゆ」と敵機動部隊発見の打電をした偵察員であったが、その後ミッドウエー海戦での敗戦の原因のように攻められ、親しい搭乗員には「いやぁ、ミッドウエーのあとはずいぶん絞られてねぇ」と愚痴をこぼしていたが[496]、戦争中に2度も「空母発見」の再重要電を送信し海中に没することとなった[497]。しかし、芙蓉部隊はこの貴重な情報を活かすことができず、爆装した彗星2機零戦3機を攻撃隊として再びのF6F-5N目を盗んで出撃させたが、彗星2機は発進後にエンタープライズのF6F-5Nに発見され、うち1機は佐世保までF6F-5Nに追い回され、福岡まで退避して雁の巣の福岡第一飛行場に燃料不足で不時着して大破し、残り1機も搭載しているロケット弾を投棄して退避を余儀なくされた。零戦3機は無事に出撃できたが、敵空母に接触することができずに帰還している[498]。
宇垣は、第58任務部隊を攻撃するため、5月14日黎明に500kg爆弾を搭載した零戦の特攻機28機を出撃させたが、その中の6機が第58任務部隊を発見し突入した[499]。その中の富安俊助中尉操縦の零戦が、エンタープライズに雲を利用しながら巧みに接近し雲中から様子をうかがっていたが、エンタープライズが左に変針したのを確認すると、雲底から突如として現れ、曲技飛行のスプリットSのマニューバで背面飛行のまま40~50度の急角度で急降下し飛行甲板上の前部エレベーターに突入した[500]。500kg爆弾は5層の甲板を貫通し最下層で炸裂し、前部エレベーターの残骸は空中130mに吹き上げられた[501]。火災も発生したが弾薬や燃料の誘爆はなかったので13分後に鎮火した。しかし、エレベーター部分に大穴があき、飛行甲板は歪み、もはや飛行機の発着は不可能な程の深刻なダメージを被った為、16日に修理のためにアメリカに回航されそのまま終戦まで復帰することはなかった。ミッチャーはバンカーヒルに続いて旗艦エンタープライズを特攻で破壊されることとなり、旗艦を空母ランドルフへ移さざるを得なくなった[502]。
菊水六号作戦までの芙蓉部隊を含む日本陸海軍航空機によるアメリカ軍航空基地に対する夜間攻撃は、度々、大爆発や大火災などの戦果報告はあっているものの、飛行場機能に支障をきたす様な損害を与えることはできていなかった[503]。この頃には、海兵隊は夜間戦闘機を含む戦闘航空隊15、爆撃航空隊2、アメリカ陸軍飛行隊は、P-61“ブラックウィドー”を装備した夜間戦闘機隊を含む戦闘航空隊10、爆撃航空隊16を沖縄本島や伊江島の航空基地に進出させており、戦力は充実する一方であった[460]。海兵隊の夜間戦闘機を含む戦闘機部隊は、沖縄の航空基地から出撃すると、フランク(四式戦闘機)やジャック(雷電)などの日本軍新鋭機の護衛戦闘機を制しながら、多数の特攻機を撃墜していた[460]。
この頃の芙蓉部隊機は洋上航法の負担軽減と燃料節約の意味合いから高度3,000mから4,000mで飛行していたが、この高度ではアメリカ軍のレーダーには確実に捉えられ、またアメリカ軍夜間戦闘機の絶好の迎撃高度にあたり、芙蓉部隊機の損失を大きくしていた[504]。しかし芙蓉部隊の任務はあくまで“進攻爆撃”であり、夜間戦闘機部隊と言いながら空戦の訓練も十分には行ってなかったにも拘らず、アメリカ軍夜間戦闘機からの損害拡大に苛立つ美濃部は、ある日、屋久島上空でP-61を目撃したという津村国雄上飛曹の報告を聞くや、「なぜ斜銃を撃たなかった!?」と叱責している。美濃部に叱責された津村であったが、夜間戦闘機とは名ばかりで実際は攻撃機的な運用しかしていない芙蓉部隊の彗星であれば、相手が鈍重な重爆撃機ならともかく、アメリカ軍の強力な夜間戦闘機相手では返り討ちにあう確率が高いと冷静に判断して、あえて攻撃しなかっただけであった[57]。美濃部が芙蓉部隊員に指導したアメリカ軍夜間戦闘機のレーダー射撃対策は、以下の通り実効性に欠ける精神論的な運頼みのものばかりであり、美濃部自身も日本軍とアメリカ軍の科学技術力の格差もあって、レーダー対策は困難であったと述懐している[505]。
岩川基地への移動命令

第58任務部隊は旗艦のエンタープライズが撃破されると沖縄方面に引き返したので、艦載夜間戦闘機の跳梁はなくなったが、特攻に苦しめられていたアメリカ軍がその対策として、B-29を日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、九州の特攻基地攻撃の戦術爆撃に転用しており[507]、引き続き、鹿屋もほかの九州の各基地と同様に連日B-29から激しい爆撃を加えられていた[508]。B-29の戦力の75%、延べ2,000機がこの特攻機基地攻撃に振り向けられたため、一時的ではあったが、本土の大都市や工業地帯の爆撃による被害が軽減されている[509]。B-29の他にも、沖縄から出撃したB-24などの爆撃機や、硫黄島から出撃したP-51などの戦闘機も連日来襲した[510]。
海軍航空隊は第三三二海軍航空隊や第三五二海軍航空隊といった一部の戦闘機部隊が来襲するアメリカ軍爆撃機の迎撃を行なったが、海軍航空隊はB-29迎撃に不慣れであったので、B-29迎撃は陸軍航空が主力となり、陸軍戦闘機による対空特攻も行われた。4月18日に太刀洗飛行場に来襲した112機のB-29のうちの1機「ゴナ.メイカー」機に、飛行第4戦隊で編成された特別攻撃隊「回天制空隊」の指揮官山本三男三郎少尉搭乗の二式複座戦闘機屠龍が体当たりし撃墜した[511]。5月7日にも同じ第4戦隊の村田勉曹長機が「エンパイアエクスプレス」機に特攻してこれを撃墜している[512]。
陸軍の戦闘機隊がB-29を相手に特攻も交えて防空戦を戦っているなかで、海軍の第五航空艦隊の航空機の多くは、地上での機体の損害を軽減させるため、大型機を後方に下げて、戦闘機などの小型機を分散配置しており、芙蓉部隊の戦闘機も迎撃には参加せず擬装され隠匿されていたため[510]、戦力が分散していた芙蓉部隊を含む第五航空艦隊は、九州に接近してきた第58任務部隊に対して、強力な反撃を加えることができなかった[513]。同様な経過を辿った3月17日からの九州沖航空戦では、第五航空艦隊の全力反撃により5隻の空母を撃破するという戦果を挙げていたが(日本軍は空母5戦艦2重巡1不詳1轟撃沈と判断[514])、今回は反撃力の不足から、戦果はエンタープライズ1隻撃破に終わり(日本軍は特空母1炎上と判断[499])、第五航空艦隊司令部は、このままでは九州の日本軍航空基地に反撃力がないとアメリカ軍に見透かされ、本土侵攻の時期が早まりかねないと危機感を抱くこととなった[246]。
第五航空艦隊の宮崎隆先任参謀は、今回の戦闘経過を分析して以下の所見を述べている[246]。
- 今回の敵機動部隊補足攻撃の成果があがらなかったのは、敵機動部隊の発見が遅れて、しかも九州方面に来襲する可能性は低いと判断したことと、我が航空兵力が分散後退配備されており、集中使用が困難であった
- 我が戦力が分散していたので、戦果も挙がらなかったが、損害も少なかった
- 兵力の分散配備を改め、第1戦法必成上2段配備の必要があると認めて、兵力の配備基準を定める
鹿屋への空襲激化やこの度の敵機動部隊の九州接近を鑑みて、第五航空艦隊は5月13日付で以下の兵力の配置換えを命じた[245][246]。
- 昼間索敵隊 彩雲は鹿屋と松山 紫電は鹿屋
- 夜間哨戒機 飛行艇は詫間 陸攻は大部と美保と一部鹿屋
- 夜間攻撃隊 銀河と四式重爆撃機飛龍(海軍指揮下で運用)は美保と大分又は大村[515]
- 夜間戦闘機隊(芙蓉部隊を含む) 岩川または志布志
- その他 従前通り
この兵力配置換え検討以前から、岩川基地は特攻機用の秘匿基地として整備工事が進んでおり、この配置換え命令によって、西条海軍航空隊分遣隊の、神風特別攻撃隊白菊隊と[249][250]、芙蓉部隊が使用することとなり[236]、芙蓉部隊は第五航空艦隊司令部の命令に従って、鹿屋から約27kmに離れた岩川に移動した[16]。しかし上記の通り、鹿屋への空襲激化により、基地移動の必要性を痛感した美濃部が自ら候補地を物色して、不時着飛行場であった岩川に白羽の矢を立て、美濃部主導で岩川移動を第五航空艦隊に認めさせた。その証拠が、兵力配置換え命令が出る前の5月9日に、美濃部と小川次雄大尉が岩川海軍航空基地の下見をしていたことであるなどという主張もあるが[243][516]、美濃部の遺稿にもそのような記述は一切なく、根拠不明であるうえ[517][518]、戦史叢書によれば、戦力分散による反撃力低下を問題視した第五航空艦隊宮崎先任参謀の提言により、第五航空艦隊司令部が主導で行った戦力の再配置の一環で芙蓉部隊の岩川移動が命じられた。とされている[246]。
芙蓉部隊に岩川基地への移動が命じられた直後の5月15日付けの辞令で、美濃部の海軍兵学校で2期後輩にあたる座光寺一好少佐が着任することとなったが、美濃部の待遇については発令がなかったので、この異動の意図を訝しんだ美濃部は、第五航空艦隊司令部に辞令の意図を確認した。第五航空艦隊司令部からは「君はマラリアで弱っているから、しばらく休め」という答えが返ってきたため、美濃部は病気を理由に自分を外し芙蓉部隊で特攻を推進させる気ではと疑った[519]。しかしこの辞令は、美濃部がソロモンで罹患していたマラリアのぶり返しで、時折40度の高熱で人事不省になるなど[520]、床に臥すことが多くなっていることを知り、指揮能力を問題視した第五航空艦隊司令部が更迭を望み[427]、人事局も美濃部がマラリアで疲労していることをかねてから気にかけており[521]、座光寺に転勤命令を出したというのが真相であった[522]。座光寺も美濃部に藤枝に下がって休養してもらうつもりで岩川に着任したが[196]、その配慮を知らなかった美濃部は頑として聞き入れず、第五航空艦隊の参謀らを飛び越えて司令長官の宇垣に直談判し、引き続き岩川で指揮を執るのは美濃部であるということを認めてもらった。座光寺は美濃部の要請を受け入れ副官格として藤枝で「夜鴉特攻隊」の訓練の指揮を執ることとなった[523]。
敵飛行場への総攻撃に参加できず

大本営は、第32軍の沖縄南部への撤退と特攻作戦の援護のため、残された航空戦力を集中してアメリカ軍航空基地を攻撃することとし、5月24日に開始された菊水七号作戦では陸軍の義烈空挺隊による沖縄本島の飛行場への空挺特攻作戦(義号作戦)を決行した[524]。参謀本部は、義烈空挺隊輸送機として九七式重爆撃機12機、飛行場夜間爆撃機として四式重爆撃機12機、九九式双発軽爆撃機10機の投入を命じ[525]、海軍の宇垣は義号作戦を援護するため、一式陸上攻撃機17機、銀河13機[526]、それに護衛として夜間戦闘機12機(芙蓉部隊以外の所属機)の投入を決定した。義号作戦とそれに伴う夜間爆撃は、過去最大規模での沖縄のアメリカ軍航空基地への夜間攻撃となった[525]。
海軍も従来に増して航空基地攻撃に力を入れており、多数の陸上攻撃機の投入に加えて、より爆撃効果をあげるため、爆撃機に時限爆弾を搭載させて出撃させている[527]。陸軍においても、事前に陸軍大臣の阿南惟幾大将や参謀本部第1部長宮崎周一中将が鹿児島に来訪するなど、沖縄戦最大規模のアメリカ軍航空基地への夜間攻撃となる本作戦に陸海軍ともに大きな期待を寄せ、可能な限りの航空戦力が投入されることとなったが[528]、これまで航空基地攻撃を行ってきた芙蓉部隊には出撃の命令が出ることはなく、芙蓉部隊は5月15日~24日までたっぷりと時間をかけて岩川基地に移動しており、さらに美濃部は、鹿屋からの移動で疲労した隊員を労って按摩の手配をし[271]、夜には美濃部の提案で蛍狩りを酒の肴に酒宴を愉しむなど、沖縄のアメリカ軍飛行場に対する日本陸海軍航空部隊総攻撃の準備が進む中で、芙蓉部隊にとって実質的な休養期間となった[529]。
日本陸海軍は各アメリカ軍航空基地に対し、6回にも及ぶ重爆撃機と陸上攻撃機による夜間爆撃を加えたのち[503]、義烈空挺隊員が搭乗する九七式重爆撃機6機が北飛行場、2機が中飛行場に強行着陸をはかったが、7機が対空砲火により撃墜され、残り1機が北飛行場滑走路上への胴体着陸に成功した。胴体着陸した機体の中から10名~11名の完全武装の空挺隊員が飛び出してくると、アメリカ軍と激しい銃撃戦をしながら、地上にあるアメリカ軍航空機に手榴弾と焼夷弾を投げつけ、燃料集積所を破壊した。激しい戦闘により、アメリカ軍機9機が破壊炎上、29機が損傷、70,000ガロンのガソリンが焼き払われ、アメリカ兵20名が死傷したが空挺隊員は翌朝までに全員戦死した。北飛行場は修理のため翌朝8時まで使用不可となった。帰還した陸軍の重爆撃機搭乗員は、読谷飛行場が大混乱に陥り、次から次にアメリカ軍航空機が炎上していたと報告しているが[530]、重爆撃機搭乗員の報告を裏付けるように、アメリカ軍従軍記者もこの読谷飛行場の状況を「地獄さながらの混乱」と記述している[531]。中飛行場も打撃を被っており、第五航空艦隊司令部は、嘉手納飛行場は使用できないので沖合の空母に着艦せよというアメリカ軍の無線を傍受している[527]。また北飛行場で対空砲火を被弾した重爆撃機のうちの1機が高射砲に体当たりして、高射砲を操作していたアメリカ軍海兵隊員8名が戦死した[532]。
沖縄の航空基地攻撃に投入された海軍の陸上攻撃機は、伊江島の飛行場も爆撃し60名のアメリカ兵を死傷させるなど大きな戦果を上げているが[533]、この攻撃は、第八〇一海軍航空隊と第七〇六海軍航空隊で編成された出水部隊の一式陸上攻撃機6機によるもので、そのなかの竹野敦少尉が操縦する315号機と板倉保信上飛曹が操縦する133号機の緩降下爆撃による戦果であった[534]。ようやく日本軍は、一時的な効果とは言え、今まで芙蓉部隊や陸軍の重爆撃機でできなかったアメリカ軍飛行場機能に支障が出る規模の打撃を与えることに成功した。アメリカ軍もこの予想外のコマンド攻撃に衝撃を受けており[535]、米国戦略爆撃調査団報告書において「連合軍飛行場への自殺(特攻)攻撃」と紹介され「相当な成果をあげた」と評価されるなど[536]、主要な軍の公式戦史、報告書、アメリカ軍機関紙星条旗新聞、従軍記者の報告、司令官レベルの将官の伝記などに詳細に記述されている[503][531][537][538][539][540][541]。
再度の特攻命令
岩川への移動休養期間中の5月23日には、副長的な存在であった徳倉大尉に率いられた彗星15機と零戦6機が岩川に進出するため藤枝を離陸したが、相変わらず整備不良機が続出し、途中で彗星5機が不時着して岩川までたどり着けた彗星は10機に過ぎなかった。それでも、3月の最前線への前進以来最大規模の補充となり戦力の充実も図れた[542]。休養十分の芙蓉部隊も菊水七号作戦への出撃命令が出たが、上記の通り、沖縄の飛行場を巡る最大の激戦が繰り広げられていたのにも関わらず、芙蓉部隊への命令は「敵機動部隊黎明索敵攻撃」と「特攻隊発進援護」であり、アメリカ軍飛行場攻撃からは外される形となった[543]。岩川基地からの初出撃となった5月25日未明は、曇天で夜間攻撃には絶好であり、敵機動部隊の索敵と攻撃のために彗星15機と零戦4機が屋久島南方200マイルに出撃することとなった[544]。出撃する隊員の前にはぼたもちの他に、ジャンボリー作戦への迎撃で美濃部が特攻を命じた時と同じように別杯が並んでいた。美濃部は別杯を前にした搭乗員らに「攻撃はすべて命令した通り、諸君らの健闘を祈る。」と発破をかけたが[11]、美濃部が考案した対機動部隊の攻撃法とは、「黎明銃爆特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の)甲板上に滑り込んで、甲板上の敵艦載機を履き落とす」という特攻作戦であり[545]、実質的な特攻出撃を命じられた初陣の搭乗員らは、出されたぼたもちに手を付ける気になれず出撃した[11]。
出撃した彗星15機も相変わらず整備不良機が続出し、4機が途中で引き返すか出撃を取りやめたが、予備機2機が代わりに出撃し、最終的に彗星13機と零戦4機が出撃することとなった。しかし。全機敵艦隊を発見することができず、順次岩川基地に帰還することとなり、折角の義号作戦の敵飛行場制圧の効果を活かすことはできず、岩川基地からの初出撃としては空振りの感が強かったが[546]、夜明け前の着陸となったのにもかかわらず初陣の搭乗員も含めて全機無事に着陸することができ、新基地岩川が十分使用できると実証できたことが成果となった[547]。
翌5月27日未明には前夜に引き続き敵機動部隊への索敵攻撃と上空哨戒のほかに対潜掃討という多様な任務を帯びて彗星8機と零戦4機が出撃。機動部隊索敵攻撃の彗星は昨日に引き続き敵艦を発見できず帰還、その中で機位を失ったと思われる彗星1機が未帰還となった。潜水艦攻撃任務の零戦4機は、上田一飛曹の零戦が浮上中の敵潜水艦を発見、芙蓉部隊の零戦は爆装することはないため、上田は急速潜航する潜水艦に向けて20ミリ機銃を撃ちこんだが、海中の潜水艦に対して機銃で致命傷を与えることは無理であり、海中深く潜航する潜水艦に対して打つ手はなかった[547]。

菊水八号作戦は5月27日から開始された。28日、悪天候を押して芙蓉部隊の彗星2機が沖縄に到達、1機が三十一号光電管爆弾を北飛行場に投下、全機生還した。5月下旬には、すでに沖縄戦は末期的状況に入りつつあり[547]、連合艦隊の指揮下で特攻や敵航空基地攻撃を行ってきた陸軍飛行隊第6航空軍が、すでに沖縄への航空作戦に予定以上の航空兵力を投入し、これ以上沖縄に航空兵力を投入しても、兵力を無駄に消耗するのみと判断して、連合艦隊司令長官が豊田副武大将から小沢治三郎中将に交代した際を見計らって連合艦隊の指揮下から脱して、決号作戦準備のため航空戦力の温存を図ることにした[548]。5月28日に芙蓉部隊と時を同じくして、第6航空軍は伊江島飛行場を4機の双発軽爆撃機で攻撃したが、これが陸軍による沖縄の敵航空基地への最後の航空攻撃となり、この後は陸軍重爆撃機は効果の薄い敵航空基地攻撃を諦めて、沖縄の地上部隊へ補給物資の空中投下任務を命じられている[549]。この空中投下により沖縄の地上部隊の手元に届いた補給物資は少なかったが、兵士らにわずかではあるが希望を与える効果はあったという[550]。
現実的判断で沖縄に見切りをつけた陸軍に対し、艦船のほとんどを失った海軍は、地上戦が中心となる本土決戦には消極的で、沖縄での航空決戦を継続していくこととしている[551]。このころには、沖縄での航空決戦を主導してきた軍令部1部長兼大本営海軍部参謀富岡定俊少将も、「沖縄でアメリカ軍に大打撃を与えて和平交渉の場に引きずり出す」という沖縄航空決戦による「一撃講和」は困難になったとは認識していたが、敵の消耗を企図する出血作戦として、枯渇していた航空戦力では効果の薄い特攻、通常攻撃による艦船攻撃、敵航空基地攻撃に航空戦力を投入し続けることとした[340]。芙蓉部隊も未帰還機が増える一方でありながら、この後も海軍の方針に従って、効果が望めない沖縄への出撃を継続している[277]。
6月
食事内容改善要求
1945年6月の雨期に入り芙蓉部隊の食事内容が急速に悪化、昆布、アラメ、ヒジキのオンパレードになった。岩川基地に同居していた中間練習機の特攻隊である西条海軍航空隊には特攻食が支給されており、芙蓉部隊隊員との差別待遇を認識した美濃部は、「全海軍が心を合わせ、火の玉となって沖縄戦に臨んでいるのではないのか?」と激怒し、「必死純忠の士を遇するに粗食をもってす。」から始まる、抗議と食事内容の改善要求の檄文を関係各先に打電させた[552]。美濃部の抗議を受けた連合艦隊、第五航空艦隊、佐世保鎮守府は調査団を派遣したが[553]、待ち受ける美濃部は「調査団が居る間は昆布とあらめ料理にせよ」と指示、調査団がこれを見て帰ると、ほどなく潜水艦乗組員用の最高級の食材を満載した貨物列車が岩川駅に到着した。その貨物目録のなかには牛肉の大和煮、紅鮭、サンマ、イカ、ニンジン、ゴボウなどの罐詰やコーヒーや紅茶といった嗜好品の他に、当時の日本では贅沢品であったコンビーフも大量に入っていた。そのほかに岩川の地元民からの差し入れも多く、ふんだんな鶏卵のほか、牛1頭が運び込まれ食卓にビーフステーキが並んでみんなで舌鼓を打ったこともあった[554]。また、兵舎として農家を間借りしていた隊員は、その農家の手料理を振舞われた[555]。美濃部の尽力や、自分の食糧を辛抱しても差し入れを続けた地元農民の献身的な奉仕によって[556]、岩川基地の芙蓉部隊隊員は、一汁一菜の粗食の兵食に耐えている特攻隊員もいるなかで[557]、同じ芙蓉部隊隊員で、負傷が癒えて久々に岩川に復帰した坪井晴隆飛曹長が「えらいごちそうが出るな」と喜んだ[552]ほどの美食となった。
美濃部は藤枝にいた頃は、物資の補給について疎く、日本国内の窮状を認識していなかったため、基地主計課下士官が、物資不足のなかで基地のありったけの砂糖を集めて、美濃部らを労うために汁粉を作ったが、出された汁粉が砂糖不足で甘くなかったので「こんなものが飲めるか」と怒鳴って突き返して下士官を男泣きさせたことがあり、後々まで悔やんでいたことも[558]、隊員たちの待遇改善に対する配慮に繋がった。この食料事情悪化について美濃部は、岩川の基地整備に尽力してくれた 佐世保鎮守府3214施設隊 が海軍通常の食料基準よりも劣悪な処遇を受けており、芙蓉部隊も混同されて同じ扱いを受けたのが原因と推測している[553][559]。美濃部の尽力による食事の改善で、隊員の活気も盛り上がり、美濃部は「海軍への不信も消えた」「食べ物の恨みは恐ろしい」と振り返っている[553]。
飲酒については比較的容認されており、隊員たちは出撃前に大宴会を開き、前後不覚になるまで深酒して二日酔いの状態で出撃することもあったという[560]。二日酔いでまともな操縦もできずにあやうく未帰還となるところであった河原正則中尉は「俺は一生酒は飲まないことにする」と搭乗員の宮崎兵曹に誓ったが、宮崎は「その一生はあと何日ぐらいでしょうかな?」と笑って返し、結局河原は禁酒できなかった[561]。また、上記の通り、義烈空挺隊を含む日本陸海軍航空隊が沖縄のアメリカ軍飛行場を総攻撃していたときも、美濃部の提案で蛍狩りをしながら酒宴を楽しんでいたこともあった[529]。しかし、肝心の酒については、藤枝ではビールなども飲めたが、岩川には匂いのきつい芋焼酎しかなく、閉口する隊員もいた[562]。また、芙蓉部隊の士官は海軍兵学校の第73期生が中核を占めていたが、その73期生を中心に隊員は夜の街でも大いにハバを効かせて気勢をあげていた[563]。
菊水作戦終了

5月31日に芙蓉部隊は後方の藤枝基地から彗星9機と零戦2機の補充を受け、戦力は彗星37機、零戦16機と充実した。藤枝から着任する隊員は、熱海温泉でゆっくり静養などをしたのちに岩川に進出してきているが、前線で疲労困憊しながら連日戦っている他の日本陸海軍航空隊搭乗員と比較すると、芙蓉部隊は搭乗員が例外的な待遇を受けられる航空隊であった[523]。戦力が充実した芙蓉部隊は、美濃部の独断により6月1日付で機構改革を行った。従来の戦闘八〇四、八一二、九〇一という飛行隊の枠を撤廃し、彗星隊を『坂東隊』『相模隊』『時宗隊』に再編成し、零戦隊を『人龍隊』に統合している[564]。
6月に入って沖縄は梅雨入りし天候はすぐれなかったが、天候がわずかに回復した6月3日に菊水九号作戦が発令された[565]。芙蓉部隊には、九州沖合でのアメリカ軍艦隊に対する索敵攻撃任務が命じられ、3日~8日に出撃を繰り返していたが[566]、すべて空振りに終わったのに対して、離着陸時にぬかるむ滑走路に脚をとられて彗星1と零戦1が大破してしまった[567]。一度して芙蓉部隊はアメリカ軍艦隊に接触することすらできなかったため、第5航空艦隊司令部は、まだアメリカ軍艦隊は沖縄本島の南方に位置するものと判断、芙蓉部隊による捕捉攻撃は困難と判断して、芙蓉部隊を従来のアメリカ軍飛行場攻撃に戻した[568]。
6月8日未明、部隊は彗星10機で伊江島飛行場にむけ出撃、故障や天候の悪化による帰還機が続出し、突入できたのはわずか4機であったが、戦果として三か所に火の手が上がったとの報告があった。美濃部はその報告を聞いて「燃料集積所に命中したのではないか」と推定している[569]。6月9日夜にも続けて彗星10機が伊江島飛行場攻撃、零戦6機がアメリカ軍艦隊への索敵攻撃に投入されたが、彗星は相変わらず整備不良機が続出、4機が引き返す羽目となり、残る6機のうち馬場飛曹長・山崎大尉の搭乗機は、奄美大島付近でアメリカ軍夜間戦闘機2機を発見したが、これを振り切ると伊江島飛行場まで無事に到達し爆撃に成功した。この日は天候もよかったことから芙蓉部隊としては珍しく、じっくりと戦果確認を行うことが出来「命中弾大火災誘爆中」との詳細な戦果報告を送った後、無事に岩川基地に生還した。他2機も伊江島飛行場への爆撃に成功し、うち1機も火災発生の戦果を報告している[570]。一方で受けた損害も甚大で、残る3機は対空砲火等により撃墜されて未帰還となり、一夜で受けた損害としては3番目に大きいものとなった[571]。零戦隊は相変わらず奮わない結果に終わり、6機のうち1機が離陸に失敗し掩体とローラーに激突し大破[572]、1機が離陸後整備不良で引き返し、残る4機もアメリカ軍艦隊と接触することなく帰還し、零戦1機を失いながら空振りに終わった[573]。
6月10日夜、夜間制空に7機が出撃、うち1機の彗星夜戦(一二戊型)がアメリカ軍夜間戦闘機を発見した。発見した中川義正一飛曹の戦後の証言によれば、この夜間戦闘機は双発のP-61ということであるが[574]、戦時中の報告書では「単発夜戦」となっており[575][576]、実態ははっきりしない。2機のアメリカ軍夜間戦闘機を発見した中川機は、高度差100mで機銃掃射をしながら突っ込んでくるアメリカ軍夜間戦闘機とすれ違った。中川機はすぐさま反航、2機のうち1機を捕捉し、20㎜の斜銃を撃ち込むと、その1機はクルクルと回って落ちていくように見えた。中川は確信を持てなかったので「敵夜戦と空戦1機撃破の見込み」と控えめな報告をしたが、報告を聞いた美濃部は撃墜したと決めつけて、ここに日本夜間戦闘機の戦史上では稀となる、アメリカ軍夜間戦闘機撃墜の戦果が記録された[577]。しかし、アメリカ軍の記録では、同日のP-61損失は戦闘・非戦闘いずれもなく[578]、中川の記憶も機種が変わるなど曖昧でありはっきりしない。芙蓉部隊においては、彗星を夜間戦闘機と称してはいたが、搭載機関砲による射撃訓練を行っておらず[368]、芙蓉部隊の彗星の空戦能力は無いに等しかったが、この戦果を報告した中川はフィリピンにおいて、夜間戦闘機月光で白昼にP-38を撃墜したり[579]、B-24を同じ月光の体当たりで全損に追い込むなど、個人的に空戦技術に優れた搭乗員であった[580]。
6月11日夜から梅雨のため天候が崩れて、芙蓉部隊は出撃を見合さざるを得なくなっている。その間、芙蓉部隊員らにとって長い休息となったが、漫然と休んでいたわけではなく、11日から16日にかけて、「写真資料判読」「航法」「会敵処理」などの座学に勤しんでいる。鹿屋に進出した当初は多くの熟練搭乗員を擁していた芙蓉部隊も、戦闘により多くの戦死者を出していたので、このころには乙飛18期生や甲飛12期生などの未熟な搭乗員の比率が増えて、芙蓉部隊全体の熟練度も低下しており、指導する美濃部の語気も荒くなっていた。また、芙蓉部隊の機体の大半は露天掩体にカバーをかけただけの雨ざらしの状態で駐機していたので、梅雨空で雨に打たれる彗星や零戦の整備に整備士の苦労は増すばかりであった[581]。芙蓉部隊が機体の整備と未熟な搭乗員の育成に明け暮れている中でも、日本軍機は悪天候下で作戦を続けており、6月16日の夜20時30分に沖縄本島南端の500m沖合を航行していた駆逐艦 トゥィッグス (駆逐艦)に、日本軍雷撃機が、夜間飛行にもかかわらず海面を嘗めるような超低空で接近、至近距離で魚雷を投下すると、自らもトゥィッグスの艦首上空を一旦飛び越したのちに反転して体当たりし、これを撃沈するという戦果を上げている[582]。
6月21日、菊水十号作戦が発動され、芙蓉部隊は白菊と零式観測機が行う夜間特攻の援護のため、美濃部は可動機全機を投入しての総攻撃の実施を決めた。美濃部の作戦計画は、彗星10機による2波のアメリカ軍飛行場攻撃、彗星6機と零戦8機による3波のアメリカ軍艦隊への索敵攻撃というものであったが、天候悪化により、彗星のアメリカ軍飛行場攻撃隊4機が出撃中止、出撃したうち1機が天候不良で、さらにいつも通りの整備不良2機も引き返した[583]。残った3機がアメリカ軍飛行場にどうにか到達したが、伊江島飛行場に達した島崎順一上飛曹・千々松普秀中尉搭乗機はP-61に撃墜され未帰還となり[584]、残る2機が中飛行場と伊江島飛行場への爆撃に成功した[585]。整備不良で引き返した2機のうち米倉稔上飛曹・恩田善雄一飛曹搭乗機が志布志湾に墜落、機体は米倉と一緒に海没し、村上明二飛曹・布施己知男中尉搭乗機も岩川飛行場着陸時に機体が中破してしまった。一方、2機は爆撃に成功したといっても効果は不明であり、3機の彗星を失ったが、戦果らしきものはないという結果に終わった[586]。索敵攻撃隊はもっと悲惨で、零戦全機は出撃中止、彗星6機は全機離陸は出来たものの、また1機が整備不良で不時着、残る5機もアメリカ軍艦隊を発見することなく、出撃は全くの空振りに終わった[587]。
こうして、芙蓉部隊の支援作戦は失敗したが、特攻機白菊は、 リパン (艦隊曳航船)と中型揚陸艦 LSM-59に曳航された駆逐艦バリーを攻撃し、バリーと[588] LSM-59に命中した。LSM-59は直ちに沈没し10名のアメリカ兵が死傷した。白菊1機が命中したバリーも翌日の6月22日に沈没した[589]。 また、付近にいたLSM-213にも命中し、13名の死傷者を生じさせ、これを大破除籍に追い込むなど[590]、練習機白菊での特攻は美濃部から「昼間なら二千機[591](もしくは四千機[592])進撃してもバッタのように叩き落とされる」と酷評されていたが、美濃部が、芙蓉部隊だけが成し遂げた「世界戦史上例のない至難な離れ業」などと自賛していた[381]、レーダーや電波誘導のない目視での大距離夜間攻撃を、芙蓉部隊より短期間で育成された教育課程を終えたばかりの搭乗員が、白菊で成し遂げて戦果を挙げている[注 8][593]。アメリカ軍も、通常は戦力とはならない未熟な搭乗員が操縦する練習機が、困難なはずの夜間攻撃で戦果を挙げていることに対して警戒を強めていた[594]。
6月22日未明に零戦6機が索敵攻撃には出撃したが、敵を発見できずに帰還した。これが、芙蓉部隊の菊水作戦における最後の出撃となった[595]。
沖縄戦終結

6月23日未明に、第32軍司令官牛島満大将と参謀長の長勇中将が、沖縄本島南部摩文仁村(現・糸満市)の司令部壕内で自決し、沖縄における日本軍の組織的な抵抗は終わった[596]。3ヶ月間で特攻機1,895機[597] 通常作戦機1,112機[598] を失った天号作戦は終わったが、芙蓉部隊の沖縄に対する夜間爆撃は続行された[595]。沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、アメリカ軍の公式記録上では艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが[599]、その大部分は特攻による損害で[600]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている[601]。
6月25日にも21日と同様に、第5航空艦隊司令部より、再度特攻隊支援のためのアメリカ軍夜間戦闘機とアメリカ軍飛行場の制圧が命じられた。美濃部は同様な任務で前回失敗しているため、今回は全力出撃を計画した[602]。美濃部の作戦計画ではまず、制空隊として零戦4機がアメリカ軍夜間戦闘機の制圧に出撃、その後にアメリカ軍飛行場を爆撃してアメリカ軍の夜間戦闘機を誘い出すため爆装した2機の彗星が出撃、その後相次いで2機の制空任務の彗星と、伊江島飛行場を爆撃する6機の爆装した彗星が出撃するというものであった[603]。
25日19時23分に出撃した制空隊零戦4機は種子島沖や佐多岬沖で30分間の哨戒飛行を行ったが、アメリカ軍夜間戦闘機とは接触できず帰還、陽動攻撃の彗星2機のうち1機が北飛行場に爆撃成功した。その後出撃した制空・爆撃任務の彗星8機のうち、またもや整備不良機が続出し。3機が出撃することができず、1機がエンジン不調、1機が天候不良で引き返した。しかし残った3機はいずれも沖縄に到達し、2機が伊江島飛行場、もう1機が目標外であった中飛行場への爆撃に成功した。前回失敗時と同様、整備不良機が続出し、実際に沖縄に到達できた機は限られたものの、今回は4機が爆撃成功を報告することができたが[604]、沖縄近海へ突入できた特攻機十数機はいずれも攻撃に失敗し[605]、芙蓉部隊の陽動の甲斐なく戦果を挙げることはできなかった[606]。
1945年の梅雨は特に雨量が多く、6月26日から7月初めにかけては毎日雨が降り続き、岩川基地の未舗装の滑走路はぬかるんで出撃は不可能となった[607]。出撃できない芙蓉部隊は座学に勤しみ、特にロケット弾の「27号爆弾」について知識を深めた。この頃、ようやく山林中の兵舎がある程度揃ってきて、農家に間借りしていた隊員が兵舎に引っ越してきたが、兵舎は山林内に立てられていたため湿気がひどく[608]、また安普請であったため、新築だったのにも関わらず雨漏りも酷く[609]、隊員はカビに悩まされるようになった。出撃のため飛行服を着ようとすると、ちょっとの間で飛行服全体にカビが繁茂し、隊員はカビをどうにか拭ってからでないと飛行服を着れない有様だった[610]。このような状況で、隊員の心は荒む一方であったため、美濃部は岩川基地に慰問団を呼んで、隊員の心を少しでも和ませることとした[611]。
本土決戦準備
7月
敵軍の迎撃強化で戦果挙がらず

7月2日に台湾から出撃した海軍の陸攻2機が、伊江島飛行場を夜間爆撃して大火災4か所の戦果を報告し無事に帰還した。台湾の第七六五海軍航空隊は、所属の陸攻と月光にて芙蓉部隊と同様に沖縄のアメリカ軍航空基地を夜間攻撃してきたが、航空戦力の枯渇によりこの7月2日が最後の航空基地攻撃となった[612]。陸軍飛行隊はすでに5月28日でアメリカ軍航空基地攻撃を止めており[548]、7月3日以降、沖縄アメリカ軍航空基地へは芙蓉部隊のみが攻撃を継続することとなったが、日本軍の攻撃が手控えになったことより、沖縄のアメリカ軍航空兵力の増強は加速化し、マリアナや硫黄島から飛来するアメリカ軍機も含めて、日本本土へのアメリカ軍機の来襲はほぼ連日の日課となった。特に7月10日以降は空前の激しさで、7月の約1か月間で日本本土に来襲したアメリカ軍機は延べ20,000機を数えるに至っている[613]。
この時期になると各飛行場に夜間戦闘機が配備されており、芙蓉部隊の最大の敵が対空砲火から夜間戦闘機に変わっていた[614]。機上レーダーが試作に止まっていた日本軍に対して、アメリカ軍の夜間戦闘機は機上レーダーなどの、現在の電子戦闘の原型を成す装備を整えており、芙蓉部隊は鍛えた目と勘だけを頼りに戦わなければならなかった[615]。特にP-61は、夜間や悪天候下で敵機を探知・撃墜することを最初から目的に設計された、アメリカ初の夜間戦闘機であり、20mm機関砲4門と12.7㎜機銃4丁を装備する重武装で、中型爆撃機並みのサイズ感ながら、その優れた性能でヨーロッパ戦線でも太平洋戦線でも圧倒的な存在感を示していた[616]。
度々、敵の夜間戦闘機に苦杯を舐めさせられていた芙蓉部隊は、6月から敵夜間戦闘機狩りの出撃を行っていたが[617]、7月3日にF6Fの夜間戦闘機型F6F-5Nの迎撃などで2機の彗星を失うと、夜間戦闘機狩りの出撃を行うこととした。4日には彗星4機と零戦3機が、18試6番27号ロケット爆弾や28号ロケット爆弾といった、空対空爆弾である三号爆弾をロケット爆弾化した新兵器を装備し出撃したが、夜間戦闘機と遭遇することなく帰還した[618]。翌5日には零戦3機は引き続き夜間戦闘機制圧に出撃したが、彗星4機は艦船攻撃任務のために斜銃を装備せずに出撃した。すると、皮肉にもP-61は艦船攻撃任務の彗星と遭遇し、彗星は艦船攻撃用に装備していた18試6番27号ロケット爆弾をP-61に発射し、戦果を確認できないままに退避した[181]。美濃部は、7月5日に敵夜間戦闘機への対策をまとめていた。そこには、現時点で実行が可能な、蛇行操縦、高度変更、航路選択といった受動的な対抗策が並んでいたが、それに加え、通信の欺瞞、彗星への機上レーダーとホーミング装置の装備、幻惑弾の使用といった[619]、現在の日本軍の技術水準では困難な対策も提案されていた。
7月15日夜に悪天候を冒して6機が出撃したが会敵せず、18日に10機が出撃するも、夜戦と故障、悪天候に阻まれ、3機のみが沖縄に到達した。うち北飛行場へ光電管爆弾を投下した彗星は、2か所の小火災発生を報告したが、彗星2機が未帰還となった。北飛行場で小火災を発生させる戦果を挙げた川口次男上飛曹、池田秀一上飛曹の彗星が伊江島飛行場に近づくと、北飛行場が攻撃されたにもかかわらず、まったく灯火管制もせずに夜空に煌々と輝いていた。池田はその光景を見ると、「野郎……ナメテヤガル」と爆撃を成功させたのにも拘わらず、まったく警戒すらにされていないことに怒りを感じたが、操縦員の川口も同じ思いを抱き「機銃掃射するぞ」と伝声管で池田に伝えてきたため、池田も「舐められたものですな~やりましょう!」と同意し、彗星はそのまま反転して、高度30mで伊江島飛行場に接近し銃撃を行った。さすがにそのときは灯火が消えたが、川口と池田の彗星が伊江島から離脱するや、すぐに灯火が灯された。その光景を見た川口と池田は「ナメテヤガル、もう一度やったろか!」と激高、再度彗星を反転させると、伊江島の南から侵入して銃撃を敢行し、再度伊江島の灯火が消えるのを確認してから帰投している[620]。
伊江島に寄り道をした川口と池田の彗星は、岩川に到着した頃には燃料をほとんど使い果たしてしまい、指揮所からの「着陸マテ」の指示にもかかわらず強行着陸を試みたが[621]、着陸時にぬかるんだ滑走路で車輪がめり込んで損傷し、池田が負傷した[622]。秘匿性には秀でていた岩川基地であったが、肝心の滑走路は、コンクリートで舗装された部分はごく一部で[227]、残りの殆どの部分は軟弱地盤に近くの菱田川からすくってきた砂利を押し固めただけのものであり、雨が降るとぬかるみ[226]、もともと主脚が弱いのが欠点とされていた彗星[622] 多数が離着陸時に大破して失われている。アメリカ軍は、日本軍航空戦略に対する評価で「日本軍の飛行場が粗末なものであったことも、作戦中の損失率を高くした要因のひとつであった。日本軍は連合軍ほどには舗装滑走路を重要視していなかった」「日本本土でさえ、陸軍飛行場で舗装滑走路をもっていたのは全体の50%にも達していなかった」と未舗装の粗末な滑走路が、日本軍航空戦力の大きな制約要因になったと分析しているが[623]、岩川基地もアメリカ軍がいうところの「粗末なもの」の一つであった。
宇垣司令長官の岩川基地視察

7月23日、第五航空艦隊司令官宇垣が岩川基地を視察に訪れる。宇垣と美濃部は乗馬してから基地内を回ったが[注 9][249]。宇垣は、基地の巧みな秘匿状況に感心し、芙蓉部隊の活躍を褒め、美濃部の統率も高く評価している一方で、西条海軍航空隊の白菊が地上に分散して置かれていることには懸念を示している[624]。美濃部は夜間戦闘機の活用を宇垣に訴えた。宇垣も昼間に制空権を確保できない現状を鑑み「同意を表する所なり」としている[625]。宇垣は第五航空艦隊の特攻兵力が枯渇し、練習機や水上機といった機体まで特攻に出撃させていたにもかかわらず、芙蓉部隊には優先的に彗星や零戦といった第一線機を補充することを許可したり、芙蓉部隊の食事の改善の手配をしたり、座光寺着任時には美濃部の直談判に応え、美濃部の地位を保障する辞令を発令するなど、美濃部に様々な支援を行っているが[注 10][519]、美濃部自身には、何度も出頭し宇垣と面談しているのに、やさしい言葉ひとつかけてもらったこともないという記憶しなかった[626]。岩川基地の視察は、宇垣と美濃部がお互いに乗馬が得意であったので、馬に乗って巡回したが、轡を並べて会話しているうちに、美濃部は宇垣が父親が息子を案ずるように語り掛けてくれていると感じ胸が熱くなっている。宇垣は美濃部に「この辺は米軍上陸の矢面となろう。この地は君に委ねる。多くの部下を抱えて大変だろうが、よろしく頼む。もう再び会うことはないかもしれんなぁ」と語りかけたのに対して、美濃部はようやく宇垣が芙蓉部隊を高く評価していたことを認識し[627]、宇垣の思いやりが心の奥までしみこみ「ご心配をおかけします。未熟者ですが精いっぱいやります」と答えるのが精一杯であった[628]。宇垣は、3月21日に神風特別攻撃隊 梓隊銀河24機のウルシーへの出撃を見送った際に[注 11]「吾も亦何時かは彼等若人の跡追ふものと覚悟しあるに因る」と、必ずあとから行くと心に決めていた[629]。
宇垣の視察後の7月23日と25日にも芙蓉部隊は敵機動部隊の索敵攻撃に出撃したが、敵機動部隊を発見することはできなかった。帰路に大野実中尉の零戦が潜水艦の潜望鏡を発見し、僚機とともに急速潜航する潜水艦に機銃掃射し損傷させたと報告したのが唯一の戦果となった[630]。(23日、25日両日に該当のアメリカ側潜水艦の被害記録なし[631])。
天候が回復した7月27日夜から28日にかけて、美濃部は可動全力を以て、アメリカ軍飛行場、アメリカ軍艦隊、アメリカ軍潜水艦などに対して総攻撃を計画した[632]。
【沖縄アメリカ軍飛行場攻撃隊】[633]
- 北飛行場攻撃隊 彗星8機 彗星1機機体不良で出撃断念、彗星2機機体不良・彗星1機天候不良での引き返し 彗星4機帰還 彗星4機北飛行場に爆撃成功
- 伊江島飛行場攻撃隊 彗星8機 彗星5機機体不良・彗星1機天候不良での引き返し、彗星2機帰還 彗星1機伊江島飛行場に爆撃成功
【九州東方海上アメリカ軍艦隊・潜水艦索敵攻撃隊】[634]
- 索敵攻撃隊 彗星4機 彗星3機機体不良での引き返し 彗星1機不時着 帰還機なし
- 索敵攻撃隊 零戦8機 零戦1機機体不良で出撃断念、零戦1機天候不良での引き返し、零戦1機不時着 零戦5機帰還
- 対潜水艦掃討隊 零戦4機 零戦4機帰還
芙蓉部隊は、菊水四号作戦時における4月27日~28日のアメリカ軍飛行場波状攻撃時を上回る[635]合計32機を投入したが、相変わらず整備不良で出撃できなかったり、出撃しても引き返したり不時着する機が続出、合計14機にも上り、総出撃機数に対する割合が43%[636][637]という惨状であった。それでも、飛行場攻撃隊の一部がアメリカ軍夜間戦闘機の哨戒をすり抜け飛行場に到達したが、引き続きアメリカ軍飛行場は灯火管制すらしておらず[638]、警戒も薄かったので、合計5機が爆撃に成功している[639]。機体不良や天候不良で引き返した彗星のうち5機が、岩川ではなく鹿屋に着陸していたが、逆にアメリカ軍夜間戦闘機の襲撃を受けてしまい[640]、2機の彗星が爆発炎上、1機が大破し合計3機を失ったが、搭乗員は機を離れており幸いにも人的な被害はなかった。しかし、この出撃で芙蓉部隊は彗星4機と零戦1機を失ってしまった[641]、また成果も17機が何らかの戦果を報告した菊水四号作戦時には[417]遠く及ばなかった。
翌7月29日には11機で敵機動部隊索敵攻撃、3機で伊江島攻撃を実施したが、雲が低くまで垂れこめ視界不良であったため、全機帰還することとなった。そのうち佐久間秀明中尉、長山舜一二飛曹が搭乗する彗星は、視界を失い洋上に不時着した。操縦していた長山は行方不明となったが、偵察員の佐久間は岸まで泳いで生還し、美濃部からは「お前、足あるか?」と冗談で迎え入れられた。ほかにも1機が着陸時に大破、この日も攻撃することもなく2機を失い[642]、28日~29日の2日間で十分な成果も挙げないまま合計6機の彗星を失っている。7月末には、美濃部が手配していた芸能慰問団が[643]岩川を訪れ、落語、漫才、寸劇を披露したが、戦局の重圧に押しつぶされた隊員らの顔に笑顔はなく、その様子を見た美濃部は、勝算なき戦いで部下を犠牲にする無意味さ罪深さを実感し、自分の軍隊指揮の限界を思い知らされている[644]。美濃部自身も、7月上旬に岩川に視察に訪れた実兄の軍令部参謀太田守少佐から、総理大臣鈴木貫太郎らが終戦交渉を極秘裏に進めているという話を聞いて考えが大きくぐらついていた[645]。
8月
岩川空襲
実兄の話や部下の様子を見て「誰かにたすけてほしい」との弱気も心に抬頭していた美濃部ではあったが[644]、宇垣と同様に、これまで戦死していった多数の部下を「いずれ後からいく、それまで待ってくれ」と送り出しており[646]、戦争が最終局面に至った8月に入っても引き続いて、悪天候でなければ沖縄飛行場攻撃、対潜掃討、索敵に十数機を出撃させていた。しかし、隊員たちの間にはすでに絶望感が蔓延しており、隊員の一人であった坪井は「あぁ、何とか俺たちの命でもって勝てないものだろうか」「我々が死ぬから何とかこの戦いに勝たせてほしい」と神頼みのような切実な思いを抱くようになっていた[647]。
8月6日には、沖縄から出撃した爆撃機A-26と戦闘機P-47が近くの都城市を爆撃したが、そのなかの一部が岩川にも来襲し、岩川駅に機銃掃射を加え市街に焼夷弾を投下し、被弾した国民学校で助教師が死亡するなど住民に死傷者が出た[648]。この攻撃はのちのオリンピック作戦準備のための南九州一帯への攻撃の一環であったが[649]、岩川基地がアメリカ軍に発見されていないと誤認していた美濃部は、岩川基地を秘匿するためとして戦闘機搭乗員からの出撃の懇願を却下しており、空襲の被害を被った周辺住民たちは芙蓉部隊が多数の戦闘機を擁しながら「逃げ隠れしているのか」と不満を抱いていたという[650]。その後も南九州一帯には、アメリカ軍の陸海軍機多数が来襲したが、日本軍戦闘機による迎撃が低調であったため、アメリカ軍戦闘機は、民家や鉄道や車両などを執拗に機銃掃射をしている[651]。
7月30日以降の芙蓉部隊の戦闘詳報は残っておらず、戦後まもなくに作成された「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」「第5航空艦隊作戦記録」などの報告書や、当事者の記憶で終戦までの芙蓉部隊の動きを追うしかないが[652]。8月中に芙蓉部隊が挙げた顕著な戦果として、P-61を撃墜したと主張している中川によれば、彗星で索敵任務中に、鹿児島から霧島方向に侵攻中のB-24とB-29の3機編隊に遭遇し、250㎏の三号爆弾を投下、全機撃墜の戦果を挙げたということである[653]。しかし、この戦果は、戦後作成の公式記録には記述されておらず[654] 、アメリカ軍の記録でも、1945年8月中に日本本土上空で撃墜されたB-24の記録もなく、真偽不明である[655][656]。
8月に入って出撃も低調になっており、20機を超す大規模出撃は7月28日以降行うことができなくなっていた[657]。8月1日には、アメリカ軍飛行場攻撃に12機の彗星、潜水艦掃討任務で4機の零戦が出撃したが、戦果も損失もなし。5日、6日、7日にも少数機がアメリカ軍艦隊に対する索敵攻撃任務に出撃したが、全て空振りに終わっている[658]。8月8日にはアメリカ軍飛行場攻撃に少数機の彗星が出撃したが、出撃する搭乗員の顔には死相が浮かんでおり、美濃部も心配していた。その美濃部の心配通り。出撃した彗星のうちで、清水武明少尉・中野増雄上飛曹の搭乗機が「伊江島飛行場、大火災」と打電したのち未帰還となり、中飛行場に爆弾を命中させた深堀三郎上飛曹・浜名今朝二飛曹機は岩川まで帰還したが、霧のため着陸に失敗し台地に激突し、計2機の彗星が失われ、4人の搭乗員は全員戦死した[659]。なお、戦後になって美濃部は遺稿で、清水・中野機1機の爆撃により伊江島飛行場で揚陸直後の600機の航空機を撃破したなどと主張しているが[660]、伊江島飛行場がそのような大打撃を受けたという事実は全くなく、引き続き活発に活動しており、攻撃同日、伊江島に配備されていたP-47戦闘機隊は32機で熊本の緑川鉄橋を爆撃、8月10日と12日にも伊江島飛行場から多数のP-47が出撃して、宮崎の各地をナパーム弾で爆撃したり機銃掃射をするなど縦横無尽に暴れまわっていた[661]。
本土決戦に備えた特攻作戦立案と準備

芙蓉部隊は出撃を繰り返しており、8月9日には7機の彗星がアメリカ軍飛行場攻撃に出撃したが、戦果は不明で1機が未帰還となった[662]。8月12日にも機数は不明であるが、芙蓉部隊はアメリカ軍飛行場攻撃に出撃し、藤井健三中尉と鈴木晃二上飛曹搭乗の彗星1機が伊江島飛行場に到達したが、既にアメリカ軍は7月に入ってから、芙蓉部隊の単独攻撃となっていた飛行場に対する航空攻撃を全く脅威とはみなしておらず、警戒どころか灯火管制すらしていなかったので[620]、この日もアメリカ軍飛行場は灯火管制をすることもなく、全面的に照明をともしており眩いばかりであった。藤井と鈴木は「向こうはあかあかと電気をつけているのに、こちらはコソ泥のように攻撃にいくのか」「なめやがって」と7月に伊江島を銃撃した川口と池田と同様な憤りを覚えながら急降下して250kg爆弾を投下したが、軽く見られたのか、数本の探照灯が機体を照らしただけで、対空砲火すらまばらであった[659]。
一方で特攻もこの頃には芙蓉部隊と同様に夜間攻撃が主体となっていた。終戦間近のこの時期で来襲する特攻機の機数は激減していたが、アメリカ軍艦隊は警戒を緩めておらず緊張感が持続しており[663]、アメリカ海軍水兵は夜間に絶え間なく続く戦闘配置命令でほとんど夜寝ることができず疲労困憊していたなど、全く警戒していないアメリカ軍飛行場とは対照的となっていた[664]。同じ12日には、芙蓉部隊と同様に特攻ではなく通常攻撃任務に従事してきた海軍航空隊第九三一海軍航空隊の天山4機が20時45分に、バックナー湾に停泊している戦艦ペンシルベニアに夜間攻撃をしかけて魚雷を命中させている。ペンシルベニアは艦尾に30フィートの大穴があき、上甲板に海面が迫る程大量に浸水し、3つのスクリューのうち2つが破壊されるという深刻な損傷を被った[665][666]。また20名の戦死者と10名の負傷者が出たが、負傷者の中には第1戦艦戦隊司令官のジェシー・B・オルデンドルフ中将も含まれていた[667]。的確なダメージ・コントロールで沈没は逃れたが、沖縄戦における通常攻撃機での夜間攻撃最大の戦果となった。翌13日には夜間攻撃の特攻機が、同じくバックナー湾に停泊中の攻撃輸送艦 ラグランジ に命中、ラグランジは大破し、101名の死傷者を出す甚大な損害を被っている[668]。特攻機に対する夜間攻撃対策としてアメリカ軍は各艦艇に、灯火管制と煙幕の展張を命じており、また、夜間の特攻機はアメリカ軍の対空機銃から発射される曳光弾を辿ってアメリカ軍艦艇を攻撃してくるため、各艦個別の対空射撃を禁止するほどの徹底ぶりであった[669]。
8月14日にも芙蓉部隊は4機の彗星が沖縄に出撃したが、雲が厚く、ようやく雲の切れ間を発見して降下すると、飛行場ではなく物資の揚陸地点であった。彗星は揚陸地点の物資の山に250kg爆弾を投下し帰還したが、1機が未帰還であった。(未帰還機搭乗員の官姓名不明)この彗星が芙蓉部隊最後の未帰還機となった[670]。
美濃部は戦後に、決号作戦(本土決戦)準備を進める軍に対して、軍高官は「もはや戦いの名目もない狂者の戦」を続けるよりは全員切腹して天皇にお詫びすべきであった、と強く非難の思いを抱いていたと主張しているが[671]、美濃部自身も切腹することはなく、日本本土決戦のために「芙蓉部隊決号作戦計画」という最後の特攻・自爆作戦を考案している[672]。
- 索敵隊 彗星6機 洋上600kmの未明索敵
- 接触誘導隊 彗星6機を2機ごと3群にして出撃、敵艦隊を接触し、照明弾により攻撃隊を誘導
- 攻撃隊 彗星6機 零戦12機 反跳爆撃後、敵艦に機銃掃射し、最後には敵空母飛行甲板に特攻して誘爆させる[673]
- 特攻機は美濃部が直卒、機体は通常の爆装のほか、主翼の燃料に火薬を詰め込んで、破壊力を増大させる[93]
- 地上要員は、第5航空艦隊司令部からの撤退命令は無視し一兵たりとも後退は許さず、基地に大量の爆薬を設置し[674]、全員が敷設した大量の爆薬で、地元住民も巻き添えにして自爆し、敵上陸軍と刺し違える[95]
美濃部はこの特攻作戦を1人で作成し、周囲に話すことななかった。ある日美濃部は、全隊員を集合させると「長男はいるか?」と質問したが、これは特攻隊員の名簿作りのためであった[675]。また、不時着した際の負傷が癒えてようやく復帰した池田上飛曹は、頻繁に美濃部に「池田くん、大丈夫かね~」などと身体を心配されるような言葉をかけてもらっていたので恐縮していたが、これは池田を特攻編成に加えることができるか探っていただけであった[676]。
終戦
徹底抗戦を決意

1945年8月15日、ポツダム宣言受諾を伝える昭和天皇の玉音放送が放送され、多くの国民や兵士が終戦を知った。芙蓉部隊は岩川と藤枝で対応が分かれ、藤枝では指揮官の座光寺が全隊員に放送を聞くように命令し、隊員は指揮所前に集合して放送を聞いている。岩川は藤枝のように統率がとれておらず、指揮所前に整列して放送を聞いた隊員がいた一方で[677]、指揮官の美濃部は一部搭乗員と図上演習をしており放送を聞いていなかった[678]。美濃部は玉音放送の内容を新聞電報で知ったが、本当に終戦が昭和天皇の意思であったのか疑っていた[679]。そのような状況で、懇意にしていた三〇二空司令小園が、玉音放送後に全軍に打電した「赤魔の謀略に翻弄されたる重臣閣僚等は、上聖明を覆い奉りて、前古未曽有の詔勅の渙発を拝す」「日本は神国なり、絶対不敗なり、必勝の信念に燃ゆる我等実施部隊員が、現態勢を確保して、醜敵の撃滅に団結一致せば、必勝は絶対に疑いなし、各位の同意を望む」との徹底抗戦決起を促す檄文[680] を受信すると、「やはり思った通りだ! この詔勅は陛下のご本意ではないのだ」と小園の檄文を妄信し、「三〇二空が立つのなら呼応する」という電文を全軍に向けて打たせている[681]。その後、全搭乗員を集めると「座して神州が汚されるのを見るより、むしろ武人の節を全うして死のう。指揮官の意思に従う者はついてこい!」と訓示している[682]。情勢を冷静に見極めていた副官の徳倉は、徹底抗戦を主張する美濃部を「(抗戦は)止めた方がいいですよ、もうアカンでしょう。」と諫めたが[683]、「指揮官は相談相手すらいない孤独なもの」と考えていた美濃部が聞き入れることはなかった[684]。その後も第五航空艦隊司令部からは何の指示もなく、美濃部は「頼りにならぬ司令部」と非難しているが[685] 玉音放送後、美濃部を評価・支援してきた第五航空艦隊司令の宇垣は、中津留達雄大尉以下11機の彗星を連れて終戦後の私兵特攻に出撃し死亡しており、第五航空艦隊司令部も混乱を極めていたのを美濃部が知る由もなかった[686]。
玉音放送後も第五航空艦隊隷下の各部隊は自衛警戒を主とする作戦を継続した。徹底抗戦を決心した美濃部は、8月16日に高知海軍航空隊が発した「南方に敵機動部隊らしきもの見ゆ」との報を受けると、戦闘準備した彗星12機、零戦8機を出撃させたが、敵艦隊は発見できなかった[687]。この敵艦隊発見は誤報であったが、芙蓉部隊と同様にこの報告を受けて出撃準備をしていた宿毛基地の特攻艇第一二八震洋隊で爆発事故が発生し、23隻の震洋が誘爆、特攻隊員26名、基地隊員111名の合計137名が爆死した。爆発の威力は凄まじく、兵舎として利用していた民家4軒は全壊、周囲の十数戸の民家も爆風で傾いていた[688]。この誤報の責任を重く感じた高知空司令の加藤秀吉大佐は、副官らが自決しないよう軍刀や拳銃を取り上げたにもかかわらず、井戸に飛び込んで自決してしまった[689]。芙蓉部隊は17日にも20機の彗星と零戦を戦闘準備させたうえで、南九州沖に索敵攻撃に出撃させているが、この日もアメリカ軍との接触はなく全機無事に帰還している[654]。終戦の詔勅が出ているにもかかわらず出撃を命じたことについて美濃部は、第五航空艦隊などの上級司令部からの指示がないなかで、捕虜や降伏の方法についての定めがない日本軍の戦陣訓の伝統に縛られたせいであったと著書に記述している[690]。
藤枝の「夜鴉特攻隊」においても、8月17日に三〇二空の戦闘機が決起を促すビラを撒いていき、隊員らのなかに抗戦の空気が流れつつあったが、指揮官の座光寺はそんな隊員らの様子を見て、士官らを士官室に集めるや拳銃を上に向けて2~3発発射し「ともかく戦争に負けた。このさい軽挙妄動は禁物である。連合軍がどのような措置をとるかは分からないが、子孫にわれわれの精神を受け継がせよ。きさまたちが海軍の伝統をけがすような行動に出たら、即刻射殺するぞ!」と訓示した。この座光寺の強い意志で、藤枝の芙蓉部隊隊員は終戦を受け入れ、復員作業を開始している[691]。座光寺は、残務整理中の隊員たちを慰労するため、芸能慰問団を呼ぶなどのきめ細やかな心遣いも見せて、藤枝基地の戦後の残務整理作業は粛々と進められた[692]。
座光寺の厳格な指揮で統制の取れていた藤枝に対して、岩川基地は全く統制が取れておらず、美濃部から徹底抗戦の意を伝えられて「いよいよ決戦なので、下着から飛行服まで新しいものに新調した」と回想する隊員がいる一方で[693]、多くの隊員が終戦の事実すら知らなかったという証言もあり、徹底抗戦を決意したはずの美濃部が、芙蓉部隊の隊員らに「現存する飛行機の装備品一切を取り外し、機体番号を削り取って消せ」という命令も下している。命じられた隊員らは「裸の飛行機で突っ込めというのか!?」「どこかに機銃を隠しておこうか」などと不平不満を抱きつつ、整備員と搭乗員が協力してやすりやこてを使って機体番号を削り取り、機銃などの装備品を撤去する作業を行うなど、指揮官の美濃部が動揺する中で、部隊も混乱を極めていた[694]。
徹底抗戦を断念
第五航空艦隊の司令官は宇垣が私兵特攻で死亡後、前連合艦隊参謀長の草鹿が後任となり、8月17日に正式に補職された。第五航空艦隊には連合艦隊から参謀副長菊池朝三少将が、終戦の詔勅が出たいきさつを説明にきたが、第五航空艦隊幕僚らは納得しなかったため、草鹿は第五航空艦隊参謀長の横井俊之少将に、直接、東京の海軍省まで事情を聞きに行かせて、第五航空艦隊幕僚や現場指揮官に説明させることにし、横井が東京から戻って来る8月18日に、草鹿は美濃部ら現場指揮官を司令部に招集した[695]。このときに美濃部は大恩ある宇垣が特攻、フィリピンで美濃部を評価してくれた大西が割腹自決したことを知って愕然としている[696]。他にも、特攻に関係した将官・高級士官の自決が相次ぎ、陸軍航空本部長寺本熊市中将が「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」と遺書を残して自決、他にも前第4航空軍参謀長で陸軍航空審査部総務部長隈部正美少将[697]、航空総軍兵器本部の小林巌大佐、練習機『白菊』特攻隊指揮官、高知海軍航空隊司令加藤秀吉大佐、芙蓉部隊と同様に主に沖縄近海の艦船や飛行場へ通常攻撃を行って特攻支援をしていた陸軍の飛行第66戦隊の指揮官藤井権吉中佐、飛行教官として多数の特攻隊員を訓練し、軍令部参謀として大西と一緒になって特攻主体の本土決戦を準備していた国定謙男少佐[698] など、航空関係だけで58名が自決がしており[699]、前海軍次官で終戦時軍事審議官だった井上成美大将は、戦後に続いた将官・高級士官の自殺を「責任の地位にある者が自殺するのは、当人の自己の生涯は飾れ満足かも知れないが、これが自殺流行の風潮となり、誰も今後のことを顧みなくなるのは国家の大きな損失である」と憂いている[700]。
8月18日、美濃部は自分で零戦を操縦して大分飛行場の第五航空艦隊司令部に出頭した。横井は集まった美濃部ら部隊指揮官らに、東京の海軍本省で聞いてきた詔勅が出たいきさつを説明した。特に横井が「自分はいかになろうとも国民の命を助けたい」との昭和天皇の御前会議での発言を朗読すると、それまでいきり立っていた指揮官らもがっくりと頭を垂れて、すすり泣きやむせび泣く声が室内に充満した[701]。草鹿は、横井が一通り説明を終わると「いったん陛下が戦争をやめよ、といわれれば私はそれに向かって全力をあげざるを得ない。われわれは戦うも戦わざるもひとつに大命のままである」「自らの思うところに従い行動するということならば、まずこのわたしを血祭りにあげて、しかるのちことをあげよ。いけないと思ったら即座にやれ」と身を挺して諭した[注 12][696][702][703][704][705]。草鹿は会議参加者に酒をふるまい、みんなで乾杯して大きな混乱もなく会議は散会となった[706]。

美濃部は、この第五航空艦隊の会議に勅使として参加していた軍事審議官井上成美大将から、会議後にひとりだけ呼ばれて、直々に「君の部隊はこれまでよく戦った。今になって降伏とは腹にすえかねよう。しかし、聖断が下った今、若い者が多く大変であろうが自重してもらいたい」と声をかけられたと主張しているが[707][注 13][708]、大分で開催された第五航空艦隊の8月18日の会議に井上が参席していたという事実はなく、終戦直後の8月16日の昼から米内光政の海軍大臣留任のため、軍事参議院で意見調整するなど奔走したのちも、東京の海軍省と[709] 起居していた水交社を往復し[710]、8月21日には、緑十字機でマニラに飛び、ダグラス・マッカーサー司令部と終戦事務処理の打ち合わせしてきた杉田主馬書記官から海軍省内で報告を受けていた[711][注 14][712]。井上が九州入りしたのは、終戦事務を進めていた第五航空艦隊で一部混乱が生じていたことを懸念した海軍大臣米内が、井上に9月10日付官房第409号で第五航空艦隊の査閲を命じる訓令を出してからであり[713]、井上はこの訓令により、空路で九州入りすることにしたが、すでに日本の空は進駐軍の管制下で、飛行許可を取るため進駐軍に接収された横須賀基地に出向いて、井上自らが得意のキングズイングリッシュで手続きを済ませている[714]。井上は9月14日に海軍の零式輸送機で第五航空艦隊司令部のある大分に飛び[700]、その後24日まで松山、美保を廻り、終戦事務の査閲を行っている[715]。査閲のさいに井上は美濃部ら各指揮官と面談し、統制ある終戦処理を推進して帝国海軍の有終の美を飾るよう説いている[713]。
第五航空艦隊は、芙蓉部隊に不穏な動きがあるとは認識しておらず[716]、むしろ、一番気にかけていたのは、特攻機桜花などで特攻作戦を推進した第七二一海軍航空隊(通称神雷部隊)の動きであった。事実、司令の岡村基春大佐は、玉音放送の日に自ら航空機を操縦して大分に飛び、第五航空艦隊司令部に抜刀せんばかりの勢いで乗り込んできていた[717]。しかし、会議の日の岡村は、8月15日以降殆ど食事もとっておらず憔悴しきっており、草鹿や横井の説明に異を唱えることはなかった。神雷部隊桜花隊の湯野川守正大尉は、場合によっては草鹿を射殺しようと拳銃をしのばせていたが、草鹿は湯野川を呼び止めると「どのような事態がこようと、軽挙妄動はいかんよ。歯を食いしばって堪えるのだ。これから辛い時代が始まるが、すべては君たち若い者にかかっている。たのむよ」とあやすような口調で言って聞かせた。湯野川は声あげて泣きながら「実は私は、長官のお命をいただく覚悟で参りました。のぼせあがっておりました。私にも数十人の部下がおりますが、私がかならずまちがいのないように掌握いたしますから、その点どうか安心ください。」と答えている[718]。この湯野川とのやり取りは草鹿も記憶しており、ほかに大きな混乱もなく会議は散会となっている[706]。岡村は松山基地に戻ると「大命に従う。自重せよ」と言葉すくなに訓示し、神雷部隊は粛々と終戦を受け入れた。岡村はこののちも多くを語ろうとせず、終戦から3年経過した1948年7月13日に海軍航空基地のあった茂原駅付近で鉄道自殺をとげている[719]。
岡村と同様に、常に指揮官先頭を標榜し、沖縄戦では全力決戦死闘で指揮官である自らも先頭に立って散華し、天皇や国民に詫びるべきと考えていた美濃部ではあったが[110]、草鹿と横井の説得で他の指揮官同様に抗戦を諦め、岩川に帰り芙蓉部隊隊員を集めると「戦争は終わった。負けた!」と徹底抗戦断念を告げた[708]。その場にいた搭乗員の坪井は、司令部出頭前からは美濃部の態度がコロッと変わったように見え[720]、他の抗戦を焚きつけられていた隊員からも「今さらそんなこと言われても……」「戦わせてください、死ぬ覚悟はできているんです」と猛烈な突き上げを受けることとなった。美濃部は騒ぐ隊員らを大喝で鎮めると、泣きながら日本の軍隊は天皇陛下の軍隊であると説得し、最後は「陛下の御聖断が下された以上、その聖慮に沿い、矛を納める……あくまで戦わんとする者は私を斬っていけ」と草鹿が美濃部らを諭したときと同じように身を挺して隊員をなだめた[721]。美濃部も多くの日本軍指揮官と同様に「いずれ後からいく、それまで待っていてくれ」との戦死した部下との約束[722]を果たすこともなく、終戦を受け入れ、その後は、男泣きする隊員たちをその場に遺し、自分も張り詰めた気持ちが切れたとして、寝床に転がり込むと、それから1日半以上も寝ていた[723]。
合同慰霊祭の開催
草鹿らの説得で降伏を受け入れた芙蓉部隊に8月20日には司令部から復員の命令が届いたが、進駐軍に対する不穏な行動を抑止するため、「24時間以内に基地から2km圏外に離脱し、隊員はすみやかに復員せよ」という急なものであった。公共交通機関は麻痺状態にあり命令は実現困難であったので、美濃部は隊員たちに部隊の飛行機を用いて復員することを許可した。司令部の許可もなく、アメリカ軍への機体引き渡しの際にひともめすることが懸念されたが、これが美濃部にできる隊員らへの唯一のはなむけであった[724]。部隊の飛行機による復員は、神雷部隊などでも行われており、既に軍の組織は崩壊し、軍の規律もないに等しいことを現していた[725]。復員をする隊員らには、とりあえず1年間の生活費として200円が支給された[726]。
8月21日の朝に鹿屋に進出以来初めてとなる合同慰霊祭を開催、慰霊祭が終わった後で美濃部が最後の訓示を述べた。「この戦争は敗れた。だが10年たてば、ふたたび国を立てなおす可能性が出てくるかも知れない。この間、自重し、屈辱に耐えてがんばってもらいたい。10年ののち、ここにもう一度集まろう」、訓示の後、正午に零戦と彗星が引き出され発進準備を進めたが、皆がなかなか出発しようとしないなか、美濃部や残留者が「早くいけ」と急き立てた。美濃部は最後の1機が見えなくなるまで空に向けてゆっくりと帽子を振り続けた[727]。各機は通信機などの装備を外して、故郷が同じ方向の人間を乗れるだけ詰め込んで(本来2名乗りの彗星には4名搭乗)、最寄りの飛行場で順次降ろしながら、最後の搭乗員の最寄りの飛行場で機体を焼却する手筈となっていたが[728]、なかには焼却されず、終戦直後で物資不足の折に、乗り捨てられた零戦や彗星の部品や鋼板を付近の住民が引きはがして持っていき、最後は子供の遊び道具になってしまった機もあったという[729]。この帰路飛行において、零戦1機と彗星1機が墜落、また部隊支援の松山航空隊の予科練習生は航空機ではなく列車で帰らされたが、道中で事故に遭遇し、終戦を迎えても7人の隊員らが無残な死を遂げている[730]。
美濃部は復員の零戦と彗星を見送ったのちに、残務整理のため残した十数名と、高千穂山中の農家の離れ家に1年分の武器、弾薬、食料等を運び込んでいる[731]。美濃部は草鹿らの説得で一旦は抗戦は諦めたとしながらも、進駐してきた進駐軍兵士が乱暴狼藉をはたらいたときには、この農家の邸宅の一角にある離れ家をアジトとして進駐軍に抵抗する計画であった。しかし、翌日に第五航空艦隊司令部が「第五航空艦隊幹部は原隊に復帰せよ」という命令を出したため、美濃部らはわずか1日でアジトを撤収させられ、進駐軍への抵抗を諦めて岩川に戻る羽目になった[732]。さらには、美濃部は復員の際に一部を除いて幹部士官まで勝手に復員させてしまっていたが、士官は戦後処理業務を行う必要があり、第5航空艦隊が原隊復帰をラジオで連日呼びかけて、一旦故郷に帰った芙蓉部隊士官は鉄道等で岩川まで引き返す羽目となってしまった[704]。
戦後


黄線でおおよその位置を図示。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成
第五航空艦隊司令官の草鹿は、総理大臣の東久邇宮稔彦王から鹿屋に進駐してくるアメリカ軍との折衝のため、鹿屋連絡委員会委員長に任じられた[733]。終戦間もない9月3日に、鹿屋に第5空軍副司令ノーマン.デルバート.シリン大佐[734] を団長とする先遣隊が到着し[735]、草鹿は他の委員会のメンバー(鹿屋連絡委員会は外務省、内務省、大蔵省等の主要官庁や鹿児島県庁からの出向者等で構成)と先遣隊を出迎えたが[736]、アメリカ軍からは真っ先に「カミカゼボーイはどうしているか?」と特攻隊員の動向を懸念するような質問があった。そこで草鹿が「カミカゼボーイは私が解散させた。……おれがやめろと一言いえば、ひとりもでてきはせぬから、その心配はいらぬ」と説明すると、アメリカ軍側は安心し、円滑に接収交渉が進んでいる[737]。
山中のアジトを撤収させられた美濃部らは岩川駅のそばにあった呉服店の別宅を借りて残務整理を行っていたが、そこにラジオ放送で引き返してきた多くの元隊員が合流したので、とりたてて何かすることもなく毎日ブラブラと過ごしており、美濃部が元隊員らと暇つぶしに将棋をする姿がよくみられたという。こういった状況であったため、集まった元隊員らも各自の都合で再度岩川から引き上げることが許可され、多くの元隊員は再び故郷に引き返していった[738]。士官は一度、美濃部の勇み足で作戦機で故郷に帰らされた後[739]、また呼び戻されていたため[704]、結果的に岩川と故郷を二往復する羽目となった。残った美濃部と芙蓉部隊幹部らで接収準備を進めていたが、10月になって海軍より元隊員らに給料20か月分を退職金として支払うように指示があった。しかし、復員時に新住所を把握できていなかった隊員も多く、退職金支給手続きが進まなかったので、美濃部はやむなく、解散した芙蓉部隊名で元隊員らに連絡先等の通知を求める新聞広告を出している[726]。
美濃部は遺稿で、同じ岩川基地に駐屯していた西条空土井大佐から、基地の戦後処理を丸投げされたと批判し、残留した30人の隊員に基地を警備させていたなどと主張しているが[740]、実態は、美濃部らが呉服店の別宅で残務整理していた頃、岩川基地は無管理状態で物資はおろか武器も放置してあり、放置されていた物資を横領するため、多くの人が岩川基地に押し寄せていたが、それを咎める者は誰もいなかった。地元のある少年は、何度も岩川基地に遊びに行っていたとのことで、基地に放置されていた彗星で遊んだり、父親と放置されていたバッテリーを持って帰ったりしていたが、ある日友達2人と基地の地下施設に入った際、放置されていた手榴弾の暴発で瀕死の重傷を負い、どうにか一命はとりとめたものの、終生に渡って苦しめられる後遺症が残った。岩川基地の無管理と芙蓉部隊による武器放置により、人生に重大な影響を及ぼされた男性は「私の人生と戦争は切り離すことができない。戦争がなければ、一生の傷を負うことはなかったと思うときがある」と振り返っている[741]。
進駐軍への岩川基地の引き渡しは、鹿屋からはかなり遅れて11月15日に行われた。その間、上記の様に岩川基地は略奪されて、わずかに残っていた彗星も子供の遊び場になっている有様だった[742]。この頃、持病のマラリアのぶり返しに苦しみ、生きる目標がなくなり自暴自棄になっていた美濃部は[743]、軍用機を隊員らの復員のために私的流用したことが発覚したら、アメリカ軍の接収係官を殺害した後自決しようと画策し、白装束のつもりで、官給品のパラシュートを材料に私的流用して、岩川市内の洋服店で白無地の下着からワイシャツまでを仕立ててもらい、腰には軍刀を下げてアメリカ軍大尉の接収係官に応対した[744]などと遺稿で主張しているが[745]、実際には、滑走路の殆どが未舗装で[746]、泥濘に脚を取られて大破する作戦機も続出している岩川基地の現状を[622]、「降着に際しては確認の上実施するを要す。なお大型機の降着は、めり込む恐れあり」などと親切に和文・英文両方で注意喚起した引渡目録を準備するなど[747]非常に協力的で、接収はスムーズに進んだ。アメリカ軍も、戦争中の詳細な航空偵察写真で、岩川基地がすでに鹿屋などほかの海軍航空隊基地と同様に「符号a/f(完成した飛行場、airfieldの略)」[284] かつ「Medium bomber airfield(中型爆撃機飛行場)」[748] と詳細に把握していたので、接収はあっさりと終わり、美濃部は拍子抜けしたまま、岩川基地の軍用機、兵器、機械・備品一式と腰に下げていた軍刀を差し出している[749]。
進駐軍は岩川を使用することはなく[750]、海軍に強制立ち退きさせられていた地権者たちは月野村長の尽力により他村に移住していたが[224]、ようやく戻ってくることができて、新たな集落が形成され平穏な生活が戻った[751]。海軍が買い取っていた土地については国有地となり、競馬場を造るという計画もあったが最終的には耕作を希望する農家に農地や宅地として払い下げられ、発電所や通信室があった地下壕などの一部破却を免れた施設で往年が偲ばれるだけになった[752]。
美濃部は戦後に、戦没者遺族対策や農業など職を転々としたのち、旧海軍の伝手を頼って航空自衛隊に入隊、空将まで昇進後退官し、日本電装学園学園長を61歳となる1976年まで勤めた[753]。その後、美濃部が終戦時に「10年後に集まろう」と呼びかけた岩川基地跡地に、1977年になって戦死した隊員を慰霊する「芙蓉之塔」が建立され、除幕式と記念式典が開催された[754]。参加者は指揮官の美濃部、副官の徳倉ら元隊員38名と遺族21名の他に、山中貞則衆議院議員、大隅町長以下役職員、海上自衛隊鹿屋基地司令他自衛隊員、建設業者関係者、農業協同組合関係者など各界から246名で、上空に自衛隊機が飛来するなど盛大なものとなった[755]。
芙蓉部隊の練成基地であった「藤枝基地」は「静浜基地」と改名され、航空自衛隊の初級操縦教育を行っている。1980年基地内に、元芙蓉部隊隊員一同により芙蓉部隊記念碑が建立された(1996年に黒御影石にて再建)。芙蓉の名は今も第11飛行教育団第2飛行教育隊のコールサイン「FUYO」として受け継がれている[2]。
損害
航空機
芙蓉部隊は終戦までに、出撃回数81回延べ786機が出撃、戦闘による未帰還機は零戦16機、彗星37機合計53機(沖縄戦のみの損失、かつ出撃し未帰還もしくは自爆した機数のみで地上で撃破された機や離着陸時に大破した機は含まず)[756]、出撃延べ機数に対する損失率は6.7%、死者105名[757]、敵を殆ど発見できなかった索敵任務を除き、飛行場攻撃や特攻機誘導などの戦闘任務だけでは、延べ341機の出撃で37機を喪失し損失率は10.9%となっている[477]。沖縄戦における同期間内の日本海軍の通常攻撃機(艦船、地上攻撃を含むすべての攻撃、爆撃機)で、記録の残っている2,148機の出撃に対する未帰還機数は231機で損失率は10.8%となっているが、この出撃機数のうちの大半は日中の出撃機であり、夜間攻撃の芙蓉部隊と比較するとより激烈な迎撃を受けていたが、芙蓉部隊の戦闘未帰還率はこの日本軍通常攻撃全体の未帰還率とほぼ同じ水準であった[758]。未帰還機数には含まれていない地上で撃破された機や離着陸時に大破した機を含めると、芙蓉部隊は岩川での部隊定数の70機(彗星45機、零戦25機)を遥かに超える機数を損失しており[759]、継続的な特攻出撃こそしなかったものの、多数の航空機を失った[544]。
- 沖縄戦途中時点の芙蓉部隊配備機数と損失機数一覧表(1945年5月15日まで)[756]
| 零戦 | 彗星 | 合計 | |
|---|---|---|---|
| 1944年12月 | 5機 | 12機 | 17機 |
| 1945年1月 | 14機 | 8機 | 22機 |
| 1945年2月 | 7機 | 3機 | 10機 |
| 1945年3月 | 9機 | 35機 | 44機 |
| 1945年4月 | 15機 | 40機 | 55機 |
| 1945年5月(15日まで) | 10機 | 7機 | 17機 |
| 配備機合計 | 60機 | 105機 | 165機 |
| 作戦損失 | 21機 | 27機 | 48機 |
| 戦闘外損失(うち修理可能機) | 18機(13機) | 43機(27機) | 61機(40機) |
| 総損失(うち修理可能機) | 39機(13機) | 70機(27機) | 109機(40機) |
| 残存機数(うち藤枝基地) | 20機(6機) | 45機(14機) | 65機(20機) |
※作戦損失は地上で撃破された機数を含む
芙蓉部隊の主力戦力であった彗星は、沖縄戦の特攻で零戦につぐ機数が投入されたが、それでも日本海軍各航空隊の合計で140機の損失であったのに対し[760]、上表の通り、芙蓉部隊は単独の航空隊で、作戦内外で大量の機体を喪失しながら、指揮官の美濃部自身も自認していたように、航空本部に異例なほどに厚遇されて機体の補充は順調であり[175]、なおかつ、補充の機体も、第11海軍航空廠で生産された新型の夜間戦闘機型彗星一二型戊や[178]、重武装重装甲の零戦52型丙型を優先的に補充されたうえ[207]、332空で全く故障もせずにB-29を撃墜破する戦果を上げ活躍していた彗星一二型戊を、7機全機取り上げて芙蓉部隊に配備するなど[176]、特攻戦力の枯渇で練習機白菊まで投入した第五航空艦隊の他の航空隊と比較すると[761] 非常に恵まれた状況であった。また、芙蓉部隊は航空本部からは夜間戦闘機隊という認識で、彗星については優先的に高速性能に優れる水冷型彗星を配備されていたが[167]、帝都防衛のために彗星を夜間戦闘機として使用していた第302空は6機~9機の稼働機数しか配備されていないなど、他の彗星夜間戦闘機を運用している航空隊と比較しても配備機数や補充機数は非常に多かった[762]。
人員
人的損失については、芙蓉部隊の慰霊碑「芙蓉之塔」に英霊として祀られているのが、搭乗員92人、整備員13人の合計105人とされている[763]。戦死率については、美濃部が詳細を把握している彗星夜戦隊の搭乗員(岩川に配属された者のみ)で、全160名の搭乗員中戦死61名で戦死率は38%[764]、零戦夜戦隊に至っては詳細な人数は不明ながら戦死率は60%と非常な高率となっている[765]。これは、特攻に反対した指揮官として知られた岡嶋清熊少佐が率いて、沖縄戦で連日激しいアメリカ軍戦闘機と空戦を繰り広げた第203海軍航空隊戦闘303飛行隊の戦闘機搭乗員89名のうち38名戦死(戦死率43%)や、特攻隊として編成された第二〇五海軍航空隊の103名の特攻隊員中戦死者35名(戦死率34%)などと比較しても非常な高率となっており[766]、特攻隊よりも人的損失の比率が高かったという指摘もある[767]。さらに、この中には4月以降に藤枝で事故などで殉職した兵士は含まれておらず、芙蓉部隊全体ではもっと多大な死傷者を出している[768]。芙蓉部隊の元整備兵慎田崇宏も、自分たちが大きな戦果をあげた代償で、ほかのどの部隊より大きな損害を被ったと述懐している[769]。
戦果
芙蓉部隊は多大な損害を被りながら終戦まで戦い抜き、根拠は不明ながら、特攻を凌駕するような数多くの戦果を挙げて、特攻を推進する軍上層部から戦果を秘匿されたとの主張もあるが[770]、実際の戦果については、艦船攻撃ではアメリカ軍の損害記録などで客観的に確認できる戦果はなく、飛行場攻撃においてもダメージを与えたのかは判然としない[771]。
艦船攻撃


大きな損害と引き換えに挙げた総合戦果は、潜水艦1隻撃沈[772](この戦果を挙げたとされる5月12日にアメリカ軍に該当の被害記録なし[773])、戦艦1隻撃破、巡洋艦1隻撃破、大型輸送船1隻撃破[2](戦艦撃破については芙蓉部隊の戦闘詳報には記録なく[654]、アメリカ軍にも該当の被害記録なし[注 15]。巡洋艦、大型輸送艦についても芙蓉部隊が撃破したと報告した4月6日にアメリカ軍に該当の被害記録なし[774])、敵機夜戦2機撃墜(うち6月10日に撃墜したとされるP-61の1機については該当するアメリカ軍の損害記録なし[578])、飛行艇1機炎上、テント1個炎上を報告している[654]。
以上の通り芙蓉部隊による艦船攻撃の戦果で、アメリカ軍の被害記録で確認できるものは一つもない。これは美濃部自身がソロモンでの夜間戦闘の戦果確認飛行で、敵艦隊を攻撃する友軍攻撃隊の様子を観察し、激しい弾幕の中で突入する搭乗員が、照明弾や曳光弾などの限られた光源しかなく、音も自機のエンジンの爆音でかき消された闇夜の戦闘の中での戦果確認は困難を極めることを痛感させられていたが[775]、美濃部はその困難な状況で判定した攻撃機の搭乗員による過大で不正確な戦果報告が、そのまま公式の戦果報告として採用されるのを批判的な目で見ておりながら[776]、芙蓉部隊の戦果判定も、攻撃隊搭乗員の戦果報告に基づいたためである[777]。美濃部は攻撃隊搭乗員の目視戦果確認を信頼したうえに、なおその数倍の戦果を挙げているはずと考えていたが[778]、これは芙蓉部隊と同様な、夜間、黎明出撃が多数行われた台湾沖航空戦にて、攻撃隊搭乗員から報告されてきた戦果を「下から報告してくるのを現場を見ていないで値切れるか」と鵜呑みにし過大な戦果発表をした大本営と同じ姿勢であった[779]。
美濃部が芙蓉部隊を編成した最大の目的はアメリカ軍機動部隊に対する夜襲であったが[47]、芙蓉部隊による公式戦果報告ベースでも空母に対する戦果はなかった[654]。アメリカ軍機動部隊に対する戦術として美濃部が考案していたのは「敵制空隊の行動不如意の未明期に殺到し甲板待機の飛行機を銃撃ロケット爆撃により必中弾を以てせば飛行機なき母艦と化すは必至なり」であり[780]、敵の戦闘機の行動が「不如意」になるはずの未明から夜間にかけて出撃し空母を攻撃して、敵が混乱している間に離脱し[781]、最後は芙蓉部隊で銃爆特攻隊を編成して、機体もろとも敵空母に体当たりするというものであった[780]。
美濃部は戦後になって、さも日本軍が夜間攻撃を軽視し、自分が航空機による夜襲作戦の推進者であったかのような主張を繰り返しているが[782][775]、これは全くの事実相違で、美濃部が夜襲部隊を構想する遥か前から、日本軍の航空作戦は夜間に集中するようになっており、上記の通り、アメリカ軍はガダルカナルの戦いでの「ウォッシングマシーン・チャーリー」から始まり[783]、ソロモン諸島でも、日本軍攻撃機による集中的なアメリカ艦隊への夜間攻撃の洗礼を浴び続けていた[784]。日本軍攻撃機によるアメリカ軍空母への夜襲はときに戦果を挙げることもあり、トラック島を空襲のさいには、日本軍雷撃機の夜間雷撃で正規空母イントレピッドに魚雷1発を命中させ長期の戦線離脱に追い込んでいる[785]。
そのため、アメリカ軍は夜間戦闘能力の強化に注力しており、上記の通り、チェリー・ポイント海兵隊航空基地、クォンセットポイント、セントシモンズ島海軍レーダー訓練学校などの夜間戦闘の研修施設を次々と作って、夜間戦闘の専門家を多数育成していた[786]。マリアナ作戦時には、各空母に4-6機の夜間戦闘機を配置するとともに[787]、正規空母エンタープライズと軽空母インディペンデンス(硫黄島の戦いのときは正規空母サラトガ)に夜間戦闘機の専門部隊を配置、夜間戦闘専門の空母群である第7夜間空母群を編成して万全の夜間防空体制を整えており[788]、日本軍は航空機による夜襲を何度も行ったが、全て撃退されている。中でも空母エンタープライズ配属の夜間戦闘機隊VF(N)-103はマリアナ作戦中に一夜で3機の日本軍機を撃墜する活躍を見せており、同作戦で日本軍の夜間攻撃でのアメリカ軍艦船の損害は殆どなかった[789]。
このように、マリアナの戦い時点で、美濃部の「敵制空隊の行動不如意の未明期」という想定は机上の空論に過ぎなかったが、日本軍はアメリカ軍空母部隊への夜間攻撃を諦めておらず、台湾沖航空戦においては、特別航空部隊T攻撃部隊を編制した。このT攻撃部隊は、夜間や荒天などアメリカ軍の迎撃が困難と思われる状況でも、アメリカ軍機動部隊を攻撃できるように、夜間でもアメリカ軍艦隊を捕捉可能な機上レーダー(三式空六号無線電信機)を装備した特別機を30機以上配備し、陸海軍の精鋭爆撃機搭乗員を集めて、アメリカ軍のレーダーを避けるため、夜間でも100m以下の高度で飛行できるような猛訓練も行うなど周到な準備をしていたが、戦いが始まると、日本軍の想定以上にアメリカ軍機動部隊の夜間戦闘能力は高く、日本軍は多大な損害を被ったのにもかかわらず、アメリカ軍空母はほぼ無傷であった[779][790][791]。
アメリカ軍空母部隊の夜間戦闘力は強化され続け、アメリカ海軍第58任務部隊の58機の夜間戦闘機隊は、沖縄戦前哨戦の1945年3月18日から沖縄戦途中の1945年5月25日の間に91機の日本軍機を夜間に撃墜し、日本軍の夜間攻撃を撃退し続けた[792]。そして芙蓉部隊も、1945年5月13日ににエンタープライズから鹿屋基地を攻撃されたときに、どうにか夜間攻撃で反撃を試みたが、出撃した直後からエンタープライズのVF(N)-90の夜間戦闘機に発見され追い回されて、出撃した2機の彗星のうち1機が不時着するなど[491]、美濃部のアメリカ軍機動部隊に対する夜間攻撃作戦の実効性は乏しく、第3艦隊司令のウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督は、芙蓉部隊を含む日本軍機によるアメリカ軍艦隊に対する夜襲を「それほど激しいものでも正確なものでもなく、よく訓練されたアメリカ軍の航空隊にとっては深刻な脅威ではなかった」と振り返っている[792]。
芙蓉部隊は、他の航空隊も行っていたチャフの投下以外には[447]、特に有効なレーダー対策を行っておらず、長距離進撃のための燃料節約や、未熟な偵察員もしくは単独で飛行する零戦夜間戦闘機のために、なるべく航法の負担を軽減する目的で、高度3,000m~4,000m前後での飛行を原則としており、レーダーに容易に発見される可能性が高かった[793]。これは、特攻機がアメリカ軍機動部隊やレーダーピケット艦のレーダーをかわすため、超低空飛行の継続による進入や[794]、真っ直ぐに目標には向かわず、他の方向に向かっているふりをしながら、直前で急角度で方向転換して、目標のアメリカ軍機動部隊に突入するなどの航法を駆使していたのとは対照的であった[795]。
美濃部が芙蓉部隊隊員に指導していたのは、敵にレーダーで発見されないための航法ではなく、発見されてから敵機のレーダー射撃を回避するための方法であった。その指導内容も、上記の通り、実効性に欠ける精神論的な運頼みのものばかりであり、日本軍とアメリカ軍の科学技術力の格差もあって、レーダー対策は困難であったと美濃部自身も述懐している[483]。そのため、芙蓉部隊は偵察任務以外でまともにアメリカ軍機動部隊に接触できたことはなく[654]、アメリカ軍機動部隊の位置をある程度特定して攻撃に出撃したのも、2月17日ジャンボリー作戦への迎撃で美濃部の命令により特攻出動したときと、5月13日に九州を強襲した第58任務部隊への反撃の2回しかない。2月17日の出撃の際は、攻撃隊がアメリカ軍機動部隊を発見できなかったどころか、逆にアメリカ軍艦載戦闘機と爆撃機に追尾を許して、藤枝基地を攻撃され基地と航空機に多大な損害を被り、第58任務部隊攻撃の際は上記の通り、エンタープライズの艦載夜間戦闘機に追い回されて、アメリカ軍機動部隊に近づくことすらできなかった[796]。
飛行場攻撃

先のレイテ島の戦いでは、陸軍の第4航空軍(司令官:富永恭次中将)が、アメリカ軍が飛行場の整備に手間取っている隙を巧みについて、飛行場や基地や司令部に航空機による夜襲をかけてかなりの戦果を挙げていた[797][798]。沖縄戦においても、陸軍の第6航空軍(司令官:菅原道大中将)が、沖縄上のアメリカ軍飛行場の整備・増強を妨害するため夜襲をかけており、沖縄の飛行場を攻撃した陸軍の爆撃機・攻撃機(戦闘機は除く)は延べ194機となった[420]。海軍も九州と台湾の基地から延べ222機(戦闘機は除く)を出撃させている。しかし、芙蓉部隊は上述の通り、あくまでもアメリカ軍機動部隊を主目標としており、当初は飛行場攻撃には参加していなかったが[47]、陸軍からアメリカ軍飛行場への対応が消極的と批判された第五航空艦隊司令部が、菊水2号作戦のさいに芙蓉部隊に飛行場攻撃を命じたのがきっかけとなり[48]、その後、戦果の挙がらない艦船攻撃から、アメリカ軍飛行場を主任務としたのは、4月の月末が近づいてからとなった[799]。
芙蓉部隊で飛行場攻撃に出撃した述べ機数は293機(制空任務の零戦夜間戦闘機も含む)となって、出撃述べ機数だけで見ると芙蓉部隊が最大とはなるが、出撃機数が増加したのは沖縄戦の中期(5月)以降であり、アメリカ軍の航空基地が、日本軍機による執拗な攻撃に悩まされていた4月の中旬から月末までには、芙蓉部隊は殆ど参戦できていなかった。アメリカ軍の記録によれば、読谷飛行場は4月中旬以降には15日、17日、20日、21日、26日、27日、28日、29日の計8日に渡って日本軍から空襲されたが、この間の芙蓉部隊が飛行場攻撃に参加したのは28日と29日のわずか2日に過ぎなかった[800]。
飛行場攻撃の戦果としては、陸軍第6航空軍は熟練の重爆撃機搭乗員が多く作戦に従事したこともあって[403]、1回の出撃で、地上機4機炎上、1機爆砕、直径100m高さ300mの大爆発を含む爆発3か所などと詳細な戦果報告を報じていたのに対し[801]、芙蓉部隊の戦果報告は大火災発生などとはっきりしないものばかりであった[660][注 16][69]。戦後しばらく経ってから美濃部は自分の著書で、8月8日の伊江島飛行場攻撃では、未帰還となった彗星1機の爆撃により「戦後米軍資料によれば揚陸直後の600機炎上」という大戦果を挙げたなどと主張しているが[802]、アメリカ陸軍の沖縄戦公式戦史『United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle』では、義烈空挺隊による損害以外で、地上で撃破されたアメリカ軍航空機(アメリカ海軍・海兵隊航空機も含む)の記録はなく、伊江島飛行場がそのような大損害を被った記録もない[注 17][803][804][805]。沖縄戦で陸軍航空隊と海兵隊航空隊を統一指揮していた第10軍戦術航空軍の戦時日誌によれば、砲撃、爆撃などあらゆる要因で地上撃破されたアメリカ軍機は1945年4月に6機[806]、5月にも6機[806]、6月以降は0機となっている[807]。伊江島飛行場に配備されていた第318戦闘機航空隊 の戦闘記録でも、日本軍による空襲の記述があるのは、芙蓉部隊が休息していた5月24日の義号作戦に伴う空襲のみとなっている[808]。
また、芙蓉部隊について1979年から永年の間取材を続け、美濃部ら多数の芙蓉部隊元隊員に直接取材、多くの資料の提供も受けて、自らの多くの著書に芙蓉部隊について記述し、その集大成として『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』を執筆した作家の渡辺洋二は[809] その著書で[注 18][802]、渡辺によれば、沖縄戦当時、嘉手納飛行場で作戦に従事していたアメリカ海兵隊航空隊VMF-322 の戦時日誌の、4月27日に嘉手納飛行場が日本軍の砲撃によりF4Uが1機大破、他3機損傷したという記録を、砲撃というのはアメリカ軍の誤認で、実際には芙蓉部隊の戦果であったとし「芙蓉部隊と美濃部流戦法は確固たる足場を築くに至ったのだ」と評価している。その根拠として、4月27日~28日の段階で、第32軍のカノン砲は鹿屋飛行場砲撃を止めていたなどと主張しているが[810]、第32軍は4月6日から飛行場砲撃任務を継続し4月16日に全滅した独立重砲兵第百大隊第2中隊に代えて、4月20日に北・中(読谷・嘉手納)飛行場砲撃のため、十五糎加農砲2門を幸地に、高射砲2門を棚原に配置して、アメリカ軍の被害記録がある27日まで健在であったかは不明ながら、4月下旬まで飛行場への砲撃を継続したとの記録が残っており[404]、芙蓉部隊の連続夜襲がどの程度、アメリカ軍にダメージを与えたかは判然としない[811]。
アメリカ海兵隊嘉手納基地の沖縄戦公式戦記においても「午前2時25分にカデナの飛行場が砲撃され、4つのテントが破壊され、海兵隊員1人が負傷した。砲撃は戦闘を妨害することはほとんどなかった。」と嘉手納飛行場の損害は、日本軍の砲撃による損害の記録のみであり[812]、アメリカ軍の記録上で嘉手納飛行場に芙蓉部隊が打撃を与えたという記録は確認できない。義烈空挺隊に攻撃されて、一時的とはいえ使用不能となる損害を被った読谷飛行場でも、沖縄戦当時に同飛行場で作戦に従事していたアメリカ海兵隊航空隊VMF-311 の公式戦記において、日本軍による航空攻撃の記述があるのは義号作戦に伴う空襲と義烈空挺隊との戦闘のみであり、伊江島や嘉手納と同様に読谷飛行場でも芙蓉部隊の戦果は確認できない[813]。
このように、飛行場攻撃においても艦船攻撃と同様に客観的に確認できる戦果のなかった芙蓉部隊であったが、逆に藤枝基地で11機[252][814]、鹿児島でも3機以上[640]の合計11機以上の航空機を敵の飛行場攻撃で失っている。また、美濃部はフィリピン戦での戦闘第901飛行隊長のときにも、ダバオで幾度も敵の空襲を受けて少なくとも5機以上の航空機を地上で失っている[51]。

また、芙蓉部隊の彗星による夜間飛行場攻撃が、アメリカ軍にとって特別な脅威となっていたなどという主張もあるが[815][816][817]、沖縄戦おけるアメリカ陸軍公式戦史『United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle』やアメリカ海兵隊公式戦史『Okinawa: Victory in the Pacific』等の公式戦史や公式報告書、アメリカ軍指揮官クラスの軍人の回顧、アメリカ軍機関紙星条旗新聞、ほか従軍記者による報道等で、芙蓉部隊不参加の5月24日~5月25日の義号作戦と同作戦に伴う夜間爆撃以外で、日本軍航空機によるアメリカ軍飛行場への夜間攻撃についての具体的な記述はほとんどない上に[531][538][540][541][803][813][818][819][注 19][820][821]、沖縄に展開していた第10軍戦術航空軍は、日本軍が本土決戦準備の戦力温存策をとり、芙蓉部隊以外の出撃機数が減少した1945年6月には、沖縄周辺での戦闘空中哨戒任務よりも、南九州、宮古島、八重山列島への攻撃任務や、阻止線を前進させての奄美上空での戦闘空中哨戒任務など防御よりは攻撃的な任務が激増し[822]、アメリカ軍航空基地は、ほぼ芙蓉部隊のみが攻撃するようになった7月中旬には[620]、灯火管制すらしていないなどほとんど警戒をしておらず[659]、アメリカ軍が日本軍航空機による飛行場への夜間爆撃を特別に警戒していたという事実はなく[注 20][823][824][825][826]、さらに、その中で芙蓉部隊の彗星を個別に脅威と認識していたなどという事実はない [注 21][827]。これは機数が減少したとは言え、アメリカ海軍が特攻機による夜間攻撃対策として、灯火管制などの警戒態勢を終戦まで洋上の艦船に維持させていたのとは対照的である[663][664]。
彗星は、フィリピンの戦いで、クラーク・フィールドがアメリカ軍によって奪還された際に、空冷エンジンの33型がほぼ無傷で鹵獲されており、鹵獲日本軍機をテストしていたTAIU により詳細に分析されているが[828]、アメリカ軍における彗星の一般的な評価は、「高速で軽快な急降下爆撃機ながら、燃料タンクの防弾装備が不十分で脆弱」であった。しかし、急降下爆撃により、軽空母プリンストンを撃沈し[829]、正規空母フランクリン[830](アメリカ軍の記録上は“JUDY”とされているが、命中した爆弾は2発なので攻撃したのは銀河の可能性も高い[831])を大破したことや、特攻機専用型43型が製造されるなど、特攻機としても投入され、正規空母エセックスや[832]、正規空母バンカーヒル(実際は零戦2機による[833])を大破するなど、飛行場爆撃ではなく対艦攻撃により、連合軍艦船に多大な損害を与えたことでも知られている[834][835][836][837][838][839]。そのためアメリカ海軍は彗星を「ジュディは戦争中に両軍が製造した空母攻撃機の中で最速(300ノット弱)で最高高度を飛行した。より優れたパイロットの操縦であれば、はるかに恐るべき機体となっただろう」と、機体性能については高く評価しながら、操縦するパイロットが未熟で十分な実力が発揮できなかったと評価していた[840]。
芙蓉部隊側の記録でも、沖縄のアメリカ軍飛行場に夜間戦闘機の進出が進むと、夜間戦闘機に接触し、あげくに撃墜される機が激増している。10回にも及んだ菊水作戦中の芙蓉部隊出撃機で、故障などで引き返さずに戦場まで到達できたのはわずか延べ117機、うち5月28日からの菊水8号作戦までは、戦場まで到達した芙蓉部隊機のうちアメリカ軍夜間戦闘機と接触した機数は8機で接触率は8.4%、夜間戦闘機に確実に撃墜されたと確認された機数は1機に過ぎなかったが、6月3日からの菊水9号作戦と6月21日からの菊水10号作戦では、接触機数は14機で接触率63.5%、夜間戦闘機に確実に撃墜されたのは4機と、接触率、被撃墜数が跳ね上がっている[841]。損失理由不明の未帰還機にも相当数の夜間戦闘機による被撃墜が含まれており[注 22][497]、沖縄戦末期では夜間戦闘機により戦場に近づくことも困難となっていた。
結局、芙蓉部隊の彗星、海軍の陸上攻撃機、陸軍の重爆撃機などがアメリカ軍航空基地を攻撃し続けたが、アメリカ軍の記録に特筆されるような成果をあげたのは義烈空挺隊のみで、他は特に沖縄戦の戦局に寄与することはなく、沖縄のアメリカ軍航空基地は、特攻機の迎撃や地上戦への航空支援などで活躍し[842]、沖縄戦での連合軍の勝利に大きく貢献している[460]。嘉手納飛行場に配備されていた海兵隊の戦闘機隊は、特攻機を撃墜することにより多数のアメリカ兵の命を救ったとして『The Sweetheart of Okinawa(沖縄の恋人)』という愛称で呼ばれていたほどであった[812]。
出撃一覧
- 芙蓉部隊天号作戦々史
芙蓉部隊が作成した報告書「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日」の「芙蓉部隊戦闘経過」及び連合艦隊布告による。二次資料も参照し記述された本文中の経過とは一部異なる部分もあり[69][843]。
| 出撃日 | 任務 | 出撃機 | 損失[注 23] | 戦果 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1945年3月30日 | 鹿屋基地移動 | 彗星3 零戦2 | なし | 藤枝基地から鹿屋基地に進出 | |
| 1945年3月31日 | 鹿屋基地移動 | 合計25 | 彗星1 | 藤枝基地から鹿屋基地に進出 | |
| 1945年4月4日 | 沖縄東方索敵攻撃 | 彗星8 零戦4 | なし | なし | |
| 1945年4月6日 | 上陸地点への銃爆撃による敵陣の攪乱 | 彗星8 零戦6 | 零戦2機 | 巡洋艦に3発ロケット弾命中 輸送艦1炎上 | 同日、アメリカ軍に該当被害記録なし[844] |
| 1945年4月7日 | 陸軍特攻機誘導 | 彗星1 | 彗星1 | 陸軍特別攻撃隊の誘導、自らも特攻敢行 | |
| 1945年4月8日 | 奄美大島東索敵攻撃 | 彗星8 零戦6 | なし | 天候不良のため4機帰還、敵発見できず | |
| 1945年4月12日 | 北・中飛行場銃爆撃・敵戦闘機制圧 | 彗星14 零戦8 | 彗星3 零戦3 | 大火災炎上3か所 | |
| 1945年4月14日 | 特攻機誘導 | 彗星2 | 彗星2 | 喜界島に敵発見 | |
| 1945年4月15日 | 陸軍特攻機誘導 | 彗星1 | 彗星1 | 陸軍特攻機突入確認 | |
| 1945年4月16日 | 北・中飛行場銃爆撃による早朝制空 | 彗星12 零戦4 | 零戦1 | 大火災7か所 | |
| 1945年4月17日 | 奄美大島東方索敵攻撃 | 彗星12 零戦3 | なし | 敵夜間戦闘機と遭遇するも敵艦発見できず | |
| 1945年4月20日 | 喜界島南方索敵攻撃 | 彗星12 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年4月22日 | 喜界島南方索敵攻撃 | 彗星8 零戦4 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年4月24日 | 敵機動部隊警戒 | 不明 | 零戦1 | なし | |
| 1945年4月25日 | 九州南東方索敵攻撃 | 彗星4 零戦4 | 零戦1 | 敵空母発見 | |
| 1945年4月27日 | 喜界島東南方索敵攻撃 | 彗星6 零戦6 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年4月28日 | 終夜飛行場銃爆撃による夜間早朝制空 | 彗星20 零戦8 | 零戦1 | 4か所炎上 | |
| 1945年4月29日 | 終夜飛行場銃爆撃による夜間早朝制空 | 彗星12 零戦6 | 彗星1 零戦1 彗星の偵察員1名機上戦死 | 中飛行場4か所炎上 慶良間飛行場飛行艇1機炎上テント1炎上 | アメリカ軍の記録では中飛行場(嘉手納飛行場)の被害は陸軍の砲撃によるもの[810][812] |
| 1945年4月30日 | 終夜飛行場銃爆撃による夜間早朝制空 | 彗星12 零戦4 | 彗星4 零戦1 | 伊江島飛行場炎上1か所 | |
| 1945年5月3日 | 沖縄飛行場攻撃 | 彗星6 | なし | なし | |
| 1945年5月4日 | 沖縄飛行場攻撃 | 彗星8 | 彗星2 | 北飛行場炎上2か所 | |
| 1945年5月5日 | 沖縄飛行場攻撃 | 彗星6 | なし | 不明 | |
| 1945年5月6日 | 沖縄飛行場攻撃 | 彗星6 | なし | 不明 | |
| 1945年5月7日 | 索敵攻撃 | 彗星8 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年5月9日 | 列島線索敵攻撃 | 彗星10 零戦2 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年5月10日 | 沖縄飛行場攻撃・敵夜間戦闘機掃討 | 彗星10 零戦4 | なし | 炎上2か所 夜間戦闘機撃墜1 | |
| 1945年5月12日 | 列島線索敵攻撃 | 彗星10 零戦2 | 彗星1 | 潜水艦撃沈1 | 同日、アメリカ軍に該当被害記録なし[845] |
| 1945年5月13日 | 敵夜間戦闘機鹿屋上空跳梁・付近海域索敵攻撃 | 彗星12 | 彗星1 | 佐多岬沖に敵機動部隊発見 | 発見した甘利少尉機は「0456敵見ユ。駆逐艦5隻」と打電したところでアメリカ軍夜間戦闘機に撃墜されたため、この艦隊が機動部隊であったかは芙蓉部隊司令部には伝わらず、攻撃も空振りに終わっており折角の機動部隊発見の情報を活かすことはできなかった[846]。 |
| 1945年5月14日 | 敵夜間戦闘機鹿屋上空跳梁・付近海域索敵攻撃 | 彗星8 零戦2 | 彗星2 | なし | |
| 1945年5月24日 | 列島線東方索敵攻撃 | 彗星10 零戦4 | なし | 敵発見できず | 5月15日~5月24日まで岩川基地への移動で出撃なし、夜間には美濃部の発案で蛍狩りなどの酒宴がひらかれている[529]。記録上は24日の出撃となっているが、実際に出撃したのは義烈空挺隊などがアメリカ軍の沖縄の飛行場を攻撃した後の25日未明であった[11]。 |
| 1945年5月25日 | 列島戦を含む東西索敵攻撃 | 彗星10 零戦8 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年5月26日 | 列島線索敵攻撃 | 彗星4 零戦4 | 彗星1 | 敵発見できず | |
| 1945年5月27日 | 沖縄飛行場攻撃・敵夜間戦闘機掃討 | 彗星12 零戦6 | なし | 炎上3か所 | |
| 1945年5月28日 | 列島線索敵攻撃 | 彗星8 零戦6 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年5月29日 | 列島線索敵攻撃 | 彗星8 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年5月30日 | 列島線索敵攻撃 | 彗星4 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年6月2日 | 列島戦を含む東方索敵攻撃 | 彗星8 零戦6 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年6月6日 | 索敵攻撃 | 彗星8 零戦5 | なし | 潜望鏡発見銃撃 | 同日、アメリカ軍に該当被害記録なし[847] |
| 1945年6月8日 | 沖縄飛行場攻撃・索敵攻撃 | 彗星5 零戦6 | なし | 伊江島炎上2か所 | |
| 1945年6月9日 | 沖縄北飛行場攻撃・索敵攻撃 | 彗星10 零戦5 | 彗星3 | 不明 | |
| 1945年6月10日 | 沖縄飛行場攻撃・敵夜間戦闘機掃討 | 彗星6 零戦4 | 彗星1 | 夜間戦闘機撃墜1 | 同日、アメリカ軍記録に夜間戦闘機損失の記録なし[578] |
| 1945年6月21日 | 沖縄飛行場攻撃 | 彗星8 零戦2 | 彗星1 零戦1 | 炎上1か所 | |
| 1945年6月22日 | 沖縄飛行場攻撃・索敵攻撃 | 彗星6 零戦6 | 彗星2 | 敵発見できず | |
| 1945年6月25日 | 沖縄飛行場攻撃 | 彗星8 零戦5 | なし | なし | |
| 1945年7月3日 | 伊江島飛行場攻撃・奄美大島上空制圧 | 彗星8 零戦5 | なし | 炎上2か所 | |
| 1945年7月5日 | 列島線索敵攻撃 | 彗星4 零戦4 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年7月18日 | 列島線東方索敵攻撃 | 彗星12 零戦6 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年7月19日 | 沖縄攻撃・奄美大島上空制圧 | 彗星10 零戦10 | 彗星2 | なし | |
| 1945年7月25日 | 敵機動部隊索敵攻撃 | 彗星9 零戦12 | なし | なし | |
| 1945年7月27日 | 沖縄飛行場攻撃 | 彗星16 | なし | 炎上5か所 | |
| 1945年7月28日 | 九州南方索敵攻撃 | 彗星4 零戦12 | なし | なし | |
| 1945年7月29日 | 沖縄飛行場攻撃・南東海面索敵攻撃 | 彗星6 零戦6 | なし | 炎上3か所 | |
| 1945年7月30日 | 対潜水艦掃討 | 零戦6 | なし | なし | |
| 1945年8月1日 | 沖縄飛行場攻撃・対潜水艦掃討 | 彗星12 零戦4 | なし | なし | |
| 1945年8月5日 | 対潜水艦掃討 | 彗星8 零戦4 | なし | なし | |
| 1945年8月6日 | 東海敵機動部隊索敵攻撃 | 彗星6 零戦6 | なし | なし | |
| 1945年8月7日 | 対潜水艦掃討 | 彗星6 零戦4 | なし | なし | |
| 1945年8月9日 | 沖縄飛行場攻撃 | 彗星7 | 彗星2 | 伊江島大火災 中飛行場炎上1か所 | 戦後になって美濃部は、この時に未帰還となった清水武明少尉・中野増雄上飛曹の搭乗機1機の爆撃で、伊江島飛行場でアメリカ軍航空機を600機を炎上させたなどと主張するようになったが[848][660]、アメリカ軍沖縄戦公式報告書に伊江島飛行場がその様な大被害を受けたという記録はなく[503]、1945年5月以降、沖縄戦で航空攻撃により地上で撃破されたアメリカ軍航空機の記録は、義烈空挺隊に撃破されたもののみで[849][806][807]、沖縄戦全体でのアメリカ軍航空機損失は全ての要因を合計しても763機である[850]。 |
| 1945年8月11日 | 列島線南東索敵 | 彗星6 零戦4 | なし | なし | |
| 1945年8月13日 | 索敵攻撃 | 彗星8 零戦6 | なし | 敵発見できず | |
| 1945年8月16日 | 南九州沖索敵攻撃 | 彗星12 零戦8 | なし | なし | |
| 1945年8月17日 | 南九州沖索敵攻撃 | 彗星12 零戦8 | なし | なし | |
| 合計 | 彗星31 零戦12 |
- 芙蓉部隊公式記録(芙蓉部隊天号作戦々史)以外での損失と戦死者
| 損失日 | 任務 | 損失機数 | 死傷者 | 状況 |
|---|---|---|---|---|
| 1945年2月16日 | 硫黄島の戦いにおける索敵 | 零戦1 | 戦死1 | 索敵任務で未帰還 |
| 1945年2月17日 | 硫黄島の戦いにおけるアメリカ軍機動部隊への特攻出撃 | 彗星7 零戦1 99式艦爆1 93式中練1 | 戦死3 | 特攻出撃で会敵できず帰還したところに追尾してきたアメリカ軍艦載機の空襲により地上で撃破 |
| 1945年2月20日 | 訓練(藤枝基地) | 零戦1 | 戦死1 | 夜間訓練中に遠州灘に墜落 |
| 1945年2月25日 | 藤枝基地への空襲 | 99式艦爆1 | 戦死なし | アメリカ軍艦載機による空襲で地上撃破 |
| 1945年3月中 | 訓練(藤枝基地) | 彗星数機(少なくとも2機以上) | 不明 | 訓練飛行の離陸直後もしくは着陸直前に海上に墜落 |
| 1945年3月16日 | 九州沖航空戦における索敵 | 彗星2 | 戦死4 | 索敵任務で1機未帰還、1機は整備不良で離陸直後高圧線に引っ掛かり墜落 |
| 1945年3月17日 | 訓練(藤枝基地) | 彗星1 | 負傷2 | 故障でエンジンが停止し墜落して総武線の土手に激突 |
| 1945年3月30日 | 鹿屋基地移動 | 彗星1 | なし | 故障により三重海軍航空隊に不時着し大破 |
| 1945年4月3日 | 訓練(藤枝基地) | 彗星1 | 負傷2 | 故障でエンジンが停止し海上に墜落 |
| 1945年4月5日 | 菊水作戦における索敵攻撃 | 彗星1 元山海軍航空隊の零戦1 | 戦死1 負傷1 | 芙蓉部隊の彗星が着陸時に元山空の零戦と接触、搭載していた弾薬と燃料が誘爆 |
| 1945年4月8日ごろ | 訓練(藤枝基地) | 彗星1 | なし | 着陸直前にエンジンが停止し滑走路の手前の線路に激突 |
| 1945年4月22日 | 訓練(藤枝基地) | 彗星1 | 戦死2 | 夜間訓練中に海上に墜落 |
| 1945年4月24日 | 訓練(藤枝基地) | 彗星1 | 戦死2 | 夜間訓練中に行方不明 |
| 1945年4月29日 | 訓練(藤枝基地) | 零戦1 | 戦死1 | 夜間訓練中に海上に墜落 |
| 1945年6月6日 | 菊水作戦における索敵攻撃 | 彗星1 零戦1 | なし | 零戦は離陸時、彗星は着陸時にぬかるんだ滑走路に主脚をとられて大破 |
| 1945年6月9日 | 菊水作戦における索敵攻撃 | 零戦1 | なし | 離陸時に操縦ミスにより台地に激突 |
| 1945年6月10日 | 沖縄飛行場攻撃・敵夜間戦闘機掃討 | 彗星1 | 負傷1 | 離陸時にブレーキ不調で離陸できず斜面下に転落 |
| 1945年7月15日 | 伊江島飛行場攻撃 | 彗星1 | 負傷1 | 着陸時にぬかるんだ滑走路に主脚をとられて大破 |
| 1945年7月28日 | 沖縄飛行場攻撃 | 彗星3 | なし | 天候不順により不時着した鹿屋基地で敵艦載機の機銃掃射により地上で撃破 |
| 1945年7月29日 | 沖縄飛行場攻撃 | 彗星2 | 戦死1 | エンジン故障により1機が海上に墜落、1機は着陸に失敗し大破 |
| 1945年8月14日 | 沖縄飛行場攻撃 | 彗星1 | 戦死2 | 芙蓉部隊最後の未帰還機となるが、芙蓉部隊天号作戦々史には記録なく、戦死した搭乗員名も不明 |
| 1945年8月21日 | 部隊解散時の帰郷飛行 | 彗星1 零戦1 | 死亡7 | 終戦後の部隊解散時に美濃部が許可した帰郷飛行での墜落事故など |
| 合計 | 彗星28以上 零戦8以上 99式艦爆2 93式中練1 | 戦死25以上(うち7は終戦後) 負傷7以上 |
関連する作品
- 舞台公演
- 『JUDY ~The Great Unknown Squadron~』(演劇):劇団グーフィー&メリーゴーランドが2019年時点で定期的に公演中で[852]、コロナ禍で中断したが5年ぶりに2024年7月18日(木)〜7月21日(日)に公演が再開された[853]。劇団主宰の久世恭弘がホノルルマラソン参加のため、ハワイオアフ島のホテルに滞在した際に、見流していた真珠湾攻撃メモリアルデーに因んだ太平洋戦争に関する特番の退役軍人の戦友会での雑談の中で、『JUDY』という単語が何回も出てきたのに強い印象を受けて、『JUDY』が彗星艦上爆撃機のアメリカ軍のコードネームであったことを調べ、彗星をきっかけにして芙蓉部隊の存在を知り衝撃を受けたため、舞台化したいと考えて、3年がかりで芙蓉部隊関係者らからの取材も交えて完成させている[854]。静岡新聞、南日本新聞では複数に渡り、同作品の公演記事を掲載。2007年8月にはNHK鹿児島放送局で特集番組が組まれた[855]。
- 『BIRDMEN』(演劇):劇団エイトビート上演、プロデューサー勝山康晴、静岡市民文化会館が主催している静岡オリジナルの舞台の一つとして2017年に上演され[856]、2019年[857]と2021年にも再演となった[858]。
- 『飛ばなかった特攻隊~岩川基地』:落語家の桂竹丸(鹿屋市出身)の新作落語[859]。
- 映像
- 『芙蓉部隊、特攻せず ~戦後60年目の証言~』(ドキュメンタリー):テレビ愛知が2005年5月に放送、同年6月にはテレビ東京でも放送された。
- 『ドキュメンタリードラマ『芙蓉部隊』』(ドキュメンタリー):有志が作成、8月11日、曽於市の大隅文化会館で初上映された[860]。
- 書籍
- 『永遠の0』(小説):登場人物の語りで登場する。その登場人物は「自衛隊を悪とする進歩的ジャーナリストが、戦後に自衛隊の幹部となった美濃部を褒め称えるのを憚ったので、芙蓉部隊の知名度は日本国内ではさほどではなく、むしろ海外で高く評価されている」と主張している[861]。
- 『ヤシュウタイ』(漫画):漫画家イラストレーターこがしゅうと作、こが自らが元芙蓉部隊隊員から取材して執筆している[862]。
- 『われ特攻に参加せず』(小説):豊田穣作、芙蓉部隊の後日談。ちなみに作者と副隊長だった徳倉正志大尉は同期である。
- ゲーム
- 艦隊これくしょん -艦これ-(ブラウザゲーム)芙蓉部隊が使用した岩川基地名のサーバがある[863]。また2019年4月には彗星一二型(三一号光電管爆弾搭載機)が実装されたが、運営は芙蓉部隊機を意識したと述べている[864]。
脚注
注釈
- ↑ 軍の後援者が兵士に対して自宅を開放しており、兵士は後援者宅で自由に休息でき、食事なども提供されていた。このような後援者の自宅を兵士はクラブや下宿と呼んでいた。
- ↑ 機体整備が徹夜で行われ房総沖の敵機動部隊を求めて暁暗に出撃。
- ↑ 美濃部の著書では、基地に残される地上要員について、志願者を募り決死隊を編成、決死隊は穴を掘って爆弾とともに入り、敵の陸上部隊が迫ってきたら火のついたガソリン缶や地雷と空雷で抵抗し、最後は爆弾で特攻し敵戦車と刺し違える。そのほかの大多数の若い隊員に対しては、美濃部が軍命に背いて解隊命令を出し基地を離れさせて自由義勇軍とし、故郷に帰るか、市民に紛れてゲリラ戦を展開するか、各人の判断に委ねるつもりであったとしている
- ↑ 硫黄島の戦いに先立つ2月4日に、軍令部総長官邸にて研究会が開かれ、沖縄周辺に来攻することが予想されるアメリカ軍機動部隊の攻撃に対する話し合いがなされた。この時点で日本軍の航空兵力は不足しており、実用機と同時に練習機を特攻に加える案が提出される。このときの幹部の発言において、正攻法の爆撃や雷撃が殆ど命中していないことが説明されて、「この点で命中率のよい特攻を採るべきものと思う」「16隻の空母を攻撃するに約200機の特攻を要す」「練習生が練習機で特攻をやる方法の研究を要す」「『白菊』多数あり。これが戦力化を要す」との意見があった。これを下敷きに、2月中旬には練習航空隊から特攻部隊を編成する案がまとまった。攻撃力の主体を特攻に依存し、さらに練習機を投入すれば、航空戦力として計算できる機数は激増した。2月下旬の段階では、練習機による特攻は実施にほぼ決定されていた[102]。
- ↑ 美濃部の遺稿では「申し訳程度に配備してある4連装機銃2基のみ」とされているが、終戦時の進駐軍への岩川基地兵器引渡目録によれば24門の九六式二十五粍高角機銃が対空陣地に設置され、他に6門が兵器調整場にあり、合計30門の高角機銃が配備されているほかに、小銃297丁に擲弾筒も11門配備されており重武装であった。
- ↑ 美濃部は1944年11月にセブ島に進出してアメリカ軍のPTボート狩りに注力し、11月初めの1週間でPTボート6隻を撃沈して、PTボートを完全に制圧したと主張しているが、1944年11月初旬のアメリカ軍の被害記録によれば、11月6日にPT-320が1隻だけが日本軍の攻撃で撃沈されているが、これは水平爆撃の爆弾が命中して全損したもので写真も現存しており、機銃掃射による撃沈と美濃部が主張している戦闘九〇一飛行隊の戦果ではない。また、10月26日にPT-132、27日にPT-523がいずれも急降下爆撃による被弾で損傷し、13人が戦死し従軍記者を含む多数が負傷しているが、これも九〇一飛行隊がPTボート狩りを始める前の損害で爆撃による損傷なので、銃撃による戦果を主張する九〇一飛行隊の戦果ではない。
- ↑ 同日に航空通常攻撃で損傷したのは、いずれも水平爆撃による駆逐艦タウシグ(DD-746)と高速掃海艇ハーディング(DMS-28)の2隻のみ
- ↑ 1945年5月28日に駆逐艦ドレクスラーも白菊2機の特攻で沈没している。
- ↑ 宇垣は美濃部の名前を簑部と誤って書いている
- ↑ 宇垣は美濃部の芙蓉部隊指揮官地位保全の申し出に対して「岩川基地指揮官を芙蓉部隊岩川派遣隊指揮官に指定す」(天航空部隊命令第45号)という、一部関係者にしか理解不能な辞令を発令し、引き続き美濃部が岩川の芙蓉部隊の指揮官であることを保障している。
- ↑ 梓隊は1機の銀河が突入に成功し正規空母 ランドルフを中破させている。
- ↑ 美濃部の著書や美濃部の著書に基づいた出典には、この会議での草鹿の発言の記述はなく、第五航空艦隊司令長官となった草鹿と美濃部の初面談は、この会議後に一旦上京した草鹿が再度鹿屋入りした8月27日であり、その際に草鹿から「勝ち戦の時には誰でも勇敢に戦う。負け戦に冷静に対処し得るのが真の勇者だ。寂しいことだ」と鹿屋の混乱について嘆かれたとしている。草鹿が鹿屋入りした8月27日という日にちは草鹿の著書とも整合するが、草鹿の著書には美濃部の記述はない。
- ↑ 境克彦の著書『特攻セズー美濃部正の生涯』の記述では、美濃部に会議後話しかけた人物は、井上ではなく第五航空艦隊参謀長横井俊之少将で、かけた言葉は「君の部隊はこれまで実によく戦った。若い者が多くて大変だろうが、早まったことをせず、部隊をなだめてほしい。自重してもらいたい。」と美濃部自身が井上からかけられたとする言葉と若干内容が違っている。
- ↑ 美濃部は自分の著書の記述について「戦時のメモは残っておらず、記憶だけを頼りに書いてる。間違いがあれば修正願いたい」と自認しており、記憶違いの可能性もある
- ↑ 沖縄戦で特攻機以外に損傷させられた戦艦は、8月12日に第九三一海軍航空隊所属の天山による夜間雷撃で大破したペンシルベニアのみ
- ↑ ただし、芙蓉部隊戦闘詳報では、成果(戦果)の欄に4月12日、4月16日、8月9日の3日のみ『大火災』の記述あり、時事通信社の記事が、飛行場大火災6回の記述について何を出典としたかは不明
- ↑ 伊江島のアメリカ軍航空基地の損害がアメリカ陸軍の公式戦史に登場するのは、5月24日~5月25日の空襲により60名死傷者が出たという記録であるが、芙蓉部隊はこの飛行場攻撃には参加していないので芙蓉部隊の戦果ではない。
- ↑ 美濃部は著書「大正っ子の太平洋戦記」で芙蓉部隊の詳細な戦闘経過については「芙蓉部隊飛行隊の沖縄戦死闘は、作家渡辺洋二氏の著作にに詳しく書かれているので省略する」と記述するなど、渡辺の記述を信頼している
- ↑ アメリカ海兵隊公式報告書『Okinawa: Victory in the Pacific』では、「4月中に嘉手納と読谷の両飛行場に、航空機と滑走路を破壊するための砲撃と爆撃が煩雑に行われた」という記述があるが、夜間攻撃なのか、損害は生じたのかなどの詳細の記述はない。 沖縄県公文書館が収集した、アメリカ軍海兵隊が5月20日に撮影した読谷飛行場の爆弾でできた穴の写真には「ほとんど毎晩日本軍機が読谷飛行場周辺に爆弾を落とし、翌朝にはこのくらい大きい穴ができていることもある」との説明書がある
- ↑ アメリカ軍は義烈空挺隊により大きな損害を被ったことにより、日本軍の空挺特攻を特別に警戒しており、マリアナ諸島のアメリカ軍航空基地に対する空挺特攻作戦剣号作戦の作戦機が三沢基地に集結しているという情報を入手すると、8月9日と10日に艦載機で三沢基地を爆撃し、輸送機や陸上攻撃機多数が撃破されて、剣号作戦は実施できなくなっている。
- ↑ 芙蓉部隊をテーマにした舞台『JUDY ~The Great Unknown Squadron~』を上演している劇団グーフィー&メリーゴーランドの主催久世恭弘は、真珠湾攻撃日の12月8日にハワイのテレビ番組にて放送されていた、太平洋戦争に関する退役軍人の座談会で「ゼロ(零戦)ではないしつこい機体が夜間に飛来していた」「その機体を恐れていた兵士がいた」「JUDYというコードネーム」という証言を部分部分聞き、話の繋がりが見えなかったが興味を持ったので、帰国して調査しJUDYが彗星のコードネームであること、彗星を糸口にして芙蓉部隊と美濃部のことを知って衝撃を受けたと語っている。
- ↑ 例えば5月13日に佐多岬沖に敵機動部隊発見との打電を行った後に未帰還となった操縦員藤田泰三上飛曹、偵察員甘利洋二中尉の彗星は損失原因が特定できなかったが、アメリカ軍側の記録では、空母エセックスから出撃したドナルド・E・アンフレス大尉のF6Fが撃墜したとなっている。
- ↑ 未帰還となった機数で、不時着や着陸失敗で破壊された機や地上で撃破された機は含まれない。
出典
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- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。