菅沼定仍

ウィキペディアから、無料の百科事典
 
菅沼 定仍
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天正4年(1576年)
死没 慶長10年10月25日(1605年12月5日)
別名 新八郎(通称)
戒名 慧性院殿雄庵良英大居士
墓所 京都府亀岡市西堅町の宗堅寺
官位 従五位下、志摩守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康→秀忠
藩 上野阿保藩主→伊勢長島藩主
氏族 菅沼氏
父母 父:菅沼定盈、母:普厳院(松平家次の娘)
兄弟 定仍、定成、定芳、定武、田中吉官
妻 正室:流光院(松平康元の娘)
子 養子:定芳
テンプレートを表示

菅沼 定仍(すがぬま さだより)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。上野阿保藩主、伊勢長島藩の初代藩主。

生涯

天正4年(1576年)、菅沼定盈の次男として三河野田で生まれる。父の隠居で家督を継いだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは駿河興国寺城や駿府城、美濃岐阜城の守備を担当し、その功績により慶長6年(1601年)6月、1万石加増の2万石で伊勢長島藩主として移封された。

しかし生来から病弱の上、父や正室に先立たれるという不幸も追い討ちをかけた。このために重病に倒れて療養していた最中の慶長10年(1605年)10月25日、京都で死去した。享年30。継嗣が無かったため、弟の定芳が養子として跡を継いだ。