華頂宮博経親王

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華頂宮博経親王
華頂宮家
華頂宮博経親王
続柄

宮号 華頂宮
全名 尊秀(そんしゅう)→ 博経(ひろつね)
称号 隆宮(たかのみや)
身位 入道親王→親王
敬称 殿下
出生 1851年4月27日
(嘉永4年3月26日)
江戸幕府・山城国愛宕郡平安京(現:京都府京都市)
死去 (1876-05-24) 1876年5月24日(25歳没)
日本における郵船商船規則の旗 日本・東京府第二大区十一区三田台町(現:東京都港区三田)
埋葬 豊島岡墓地
配偶者 博経親王妃郁子
子女 華頂宮博厚親王
父親 伏見宮邦家親王
母親 堀内信子
栄典 勲一等旭日大綬章
役職 弾正尹
議定
会計事務総督
海軍少将
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称号:親王

華頂宮博経親王(かちょうのみや ひろつねしんのう、旧字体: 華󠄁頂宮博󠄁經親王、1851年4月27日〈嘉永4年3月26日〉- 1876年〈明治9年〉5月24日)は、日本の皇族、海軍軍人。官位は議定会計事務総督、海軍少将。徳川家茂の猶子。伏見宮邦家親王第12王子、母は堀内信子。華頂宮初代当主。

経歴

幼少時の称号は隆宮。嘉永5年(1852年)に出家。知恩院門跡となり、知恩院を相続。尊秀と号する。万延元年(1860年)に孝明天皇の猶子となり、同日に徳川家茂の猶子となる。万延2年(1861年)に博経の名を賜り、その翌日に親王宣下を受ける。翌月に落飾し、知恩院門跡・尊秀入道親王となる。

慶応4年(1868年)正月、勅命により復飾し博経親王に復名。宮家を創設し、宮号を華頂宮とした。宮号は、知恩院の山号「華頂山」にちなんでいる[1]。その後は、和学校御用掛・弾正尹・議定・会計事務総督を歴任。

1870年(明治3年)よりブルックリンに留学。1872年(明治5年)から東隆彦の名でアナポリスの海軍兵学校に入学し、海軍について学んだ[2]。練習艦での訓練中の負傷後に肺病を患い、翌1873年(明治6年)に病気帰国。

帰国後に南部郁子と結婚し、1875年(明治8年)に第一王子の博厚王が誕生。同年12月、勲一等旭日大綬章に叙せられた。

1876年(明治9年)5月13日に海軍少将となるも、同24日に薨去。25歳没。

経歴

血縁

博経親王は南部利剛の長女・郁子を妃とし、一男(博厚親王)を儲けた。

脚注

  1. ↑ 鎌倉市. “旧華頂宮邸沿革”. 鎌倉市. 2025年8月3日閲覧。
  2. ↑ Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, MdU.S. Government Printing Office 1873

外部リンク

華頂宮博経親王
華頂宮家

1851年4月27日 - 1876年5月24日

先代
(創設)
華頂宮
初代:1868年2月3日 - 1876年5月24日
次代
博厚親王