藤原四兄弟

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藤原四兄弟(ふじわらしきょうだい、ふじわらよんきょうだい)は、奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子を指す歴史用語。藤原四子(ふじわらしし、ふじわらよんし)などとも呼ばれる。

系譜

武智麻呂・房前・宇合は蘇我娼子を生母とする同母兄弟、麻呂は五百重娘を母とする[注釈 1]。姉妹には聖武天皇の生母宮子、長屋王夫人長娥子、聖武天皇皇后の光明子などがいる。光明子の生母県犬養三千代は後宮における実力者であり、前夫膳夫王との間に葛城王(後の橘諸兄)を儲けている。光明子の同母妹多比能は諸兄の妻となっており、諸兄は四兄弟の義兄弟でもあった。

藤原四子政権

藤原不比等は持統天皇の強い信任を受け、律令編纂や平城京遷都などに関わった、政界の最有力者であった。その子のうち、元正天皇の信任を得た房前は兄を超える参議となり、不比等の没後には内臣に任じられた[1]。その後武智麻呂が中納言となり、聖武天皇の時代である天平元年(729年)に左大臣長屋王を自殺に追い込んだ(長屋王の変)。天平2年(730年)には大納言多治比池守が没し、天平3年(731年)には大納言大伴旅人も没したことで、武智麻呂は廟堂の頂点に就いた[2]。この年には官人の推挙により宇合・麻呂が参議となり[2]、9人の議政官のうち4人を占める状態が天平9年(737年)まで続いた。彼らの他には多治比縣守・鈴鹿王・葛城王らが議政官の地位にあったが、彼らは藤原氏と対立する動きを見せていなかった[3]。この時期の朝廷を藤原四子政権、藤原四子体制と呼ぶ[4]。

一方でこれとは異なり、武智麻呂が不比等の正統後継者であることを重視した、武智麻呂政権という概念もある。瀧浪貞子は武智麻呂が唯一の大納言となった天平3年(729年)に「武智麻呂政権」が成立したとしており[5]、木本好信は武智麻呂が右大臣に就任した天平6年(734年)がその成立としている[5]。

この時代には律令財政が確立され、天平6年(734年)に官稲混合による正税が成立し、天平8年(736年)には公田地子の京進が開始された。また、京や畿内を統括する惣管、平城京以西の道を管轄する鎮撫使(のちに節度使)を設置し治安維持を強化した。対外的には遣新羅使の派遣や、東北遠征などが行われた。

一方で大友裕二などにより、四兄弟は必ずしも結束していたわけではないという指摘が行われることもある。吉川敏子は房前が武智麻呂の家との婚姻を重ねて行っていたことを指摘し、不比等の嫡流である武智麻呂の家の財産と権威を確保しつつ、新家として独立することを狙っていたとしている[6]。また麻呂は『懐風藻』などにある記録から、政治に対する強い意欲を持っておらず、兄たちに引っ張られた存在であるという指摘が行われている[7]。また大友は、武智麻呂の嫡男である豊成の昇進が不比等没後の房前や麻呂と比べても明らかに遅い事を指摘し、藤原氏の勢力拡大が図られていたとは言えないと指摘している[8]。

天平7年からは疫病が大流行しはじめた[注釈 2]。天平9年4月には房前が、7月から8月にかけて残りの三人が相次いで病死し、この時代は終焉を迎えた。 人々は相次ぐ病死を「長屋王の祟り」と見做した[信頼性要検証][10]。同時期に縣守も没したため、議政官は参議3人のみとなってしまった。そこで鈴鹿王を知太政官事とし、光明皇后の異父兄である橘諸兄が大納言に昇進して政権を立て直すことになった[11]。一方で聖武天皇らは藤原氏に対しても配慮を見せた。武智麻呂の子豊成は同年中に参議となり、豊成の弟乙麻呂と房前嫡子の永手、宇合嫡子の広嗣も一斉に叙爵された[12]。天平感宝元年(749年)4月に豊成は左大臣の諸兄に次ぐ右大臣の地位につき、天平勝宝8歳(756年)の諸兄引退後には廟堂の首班となった。しかし豊成は「天資弘厚」と評されるように温厚な人物であったが、政争において果断な行動をとれない人物であった[13]。急速な台頭を見せていた豊成の弟仲麻呂は豊成を失脚させて一時は政権を掌握するが、孝謙上皇と対立したため敗死に追い込まれた(藤原仲麻呂の乱)。

藤原四兄弟の子のそれぞれの系統は藤原四家と呼ばれ、栄枯盛衰はあったものの、その後の政治や学問、文化に大きな足跡を残している。

脚注

注釈

  1. ↑ ただし、宇合については武智麻呂、房前と生年が離れていることから、同母兄弟ではないとする異論もある。
  2. ↑ 『続日本紀』では「豌豆瘡」「裳瘡」としており、『類聚符宣抄』に収録された天平9年6月26日太政官符では「赤斑瘡」としている。一般に天然痘と見られているが、太政官符にある症状の記述を重視して麻疹ではないかという説もある。またチフスではないかという説もある[9]

出典

  1. ↑ 瀧浪貞子 1986, p. 55.
  2. 1 2 瀧浪貞子 1986, p. 57.
  3. ↑ 大友裕二 2010, p. 10.
  4. ↑ 大友裕二 2010, p. 2.
  5. 1 2 大友裕二 2010, p. 21.
  6. ↑ 大友裕二 2010, p. 13-14.
  7. ↑ 大友裕二 2010, p. 14 -16.
  8. ↑ 大友裕二 2010, p. 20.
  9. ↑ 市大樹「天平の疫病大流行」『IATSS Review(国際交通安全学会誌)』第46巻第2号、公益財団法人 国際交通安全学会、2021年、97-98頁、doi:10.24572/iatssreview.46.2_96、ISSN 0386-1104、NAID 130008109227。
  10. ↑ 茂木誠 (2023年4月25日). “閣僚の半数が亡くなり、中央官庁はロックダウン…1300年前の日本で起きた最悪のパンデミックとは”. プレジデントオンライン. 2023年4月25日閲覧。
  11. ↑ 木本好信 2018, p. 2-3.
  12. ↑ 木本好信 2018, p. 2.
  13. ↑ 木本好信 2018, p. 7.

参考文献

関連項目

外部リンク