辛島浅彦

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からしま あさひこ
辛島 浅彦
辛島浅彦(1954年以前)
生誕 (1882-07-17) 1882年7月17日
日本の旗 日本・大分県中津市
死没 (1965-10-15) 1965年10月15日(83歳没)
日本の旗 日本・東京都世田谷区
国籍 日本の旗 日本
職業 実業家
著名な実績 東洋レーヨン会長
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辛島 浅彦(からしま あさひこ、1882年(明治15年)7月17日 - 1965年(昭和40年)10月15日)は、日本の実業家。東洋レーヨン会長や、人絹絹統制会会長を務めた。藍綬褒章受章。

経歴

青少年期

大分県中津町(現在の中津市)新博多町で、呉服商を営んでいた父・鶴蔵[1]と母・ミキの間に長男として生まれた[2][3]。殿町尋常小学校に入学するも、父が事業に失敗して母方の叔父(辛島の大叔父)にあたる野依範治の経営する福母炭鉱に勤務することになったため、1894年に一家で佐賀県大町村に転居し、橋下高等小学校を卒業した[4]。この頃、炭鉱に佐賀中学校唐津分校2年次の時に中津町に戻り、野依の自宅に寄宿しながら中津中学校に通学した。1901年に中津中学校を卒業し、第五高等学校法学部を受験するが不合格となり、工学部(現熊本大学工学部)機械工学科に入学[5]。成績優秀で特待生となる一方、同窓の朝倉毎人、田澤義鋪、田口弼一、高田保馬らと交流した[6]。1905年に同校を卒業した[7]、

実業家として

1905年8月、芝浦製作所に入社し、山本忠興や丹羽重光とともに設計部門で活動した。1907年、技術的知識を持ちつつ商売にも長けた人材を求めた三井物産に転職した[8]。1910年ロンドン支店詰となり[9]、児玉一造とともに勤務した[10]。三井物産名古屋支店長代理等を経て、1927年東洋レーヨン常務取締役滋賀工場長に就任[3][11]。

1933年からは東洋レーヨン専務取締役として経営にあたり業績の急成長を実現した[11][12]。1937年東洋レーヨン会長[13]。1942年人絹絹統制会会長[14]。

1944年国策パルプ工業社長[11]。1946年山陽パルプ取締役[15]。1949年日本貿易会長、山陽パルプ監査役、大日本印刷監査役。1951年東洋レーヨン監査役。1953年東洋レーヨン相談役。1958年大津市名誉市民[11]。1959年藍綬褒章受章[16]。

晩年

1964年には外出が困難となり東京・世田谷区の自宅で療養した。同年12月に勲四等旭日小綬章を受勲、妻の倭子が授賞式に代理出席した。翌1965年10月15日、自宅で死去。同日、従五位に特旨叙位された。法名は大乗院釈慈徳浅彦居士[17]。

親族

朝吹亀三元大分市長は伯父[7]。

脚注

  1. ↑ 東レ 1967, p. 219.
  2. ↑ 東レ 1967, p. 266.
  3. 1 2 東洋レーヨン會長 辛島淺彥/32『次代を背負ふ財界人』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. ↑ 東レ 1967, p. 220.
  5. ↑ 東レ 1967, p. 267.
  6. ↑ 東レ 1967, p. 221.
  7. 1 2 辛島淺彦 (男性)人事興信録データベース(名古屋大学)
  8. ↑ 東レ 1967, p. 222.
  9. ↑ 「辛島淺彦氏/17」『名古屋新百人物. 続々』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ↑ 東レ 1967, p. 197.
  11. 1 2 3 4 「大津市名誉市民の略歴および業績」大津市
  12. ↑ 「東洋レーヨン專務取締役・辛島淺彦君/111」現代業界人物集(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ↑ 「東レ(株)『時代を拓く : 東レ70年のあゆみ』(1999.05)」渋沢社史データベース
  14. ↑ 「繊維四統制会長宮島、辛島、鶴見、鹿野氏ら」日本工業新聞 1942.7.23 (昭和17)(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 産業組合(9-147))
  15. ↑ 山陽パルプ(株)『20年誌』(1966.11)渋沢社史データベース
  16. ↑ 官報 本紙 第9857号 657頁
  17. ↑ 東レ 1967, p. 265.

参考文献

  • 『辛島浅彦翁を偲ぶ』東洋レーヨン、1967年。NDLJP:2986792。 
先代
安川雄之助
東洋レーヨン会長
1937年 - 1942年
次代
伊藤與三郎