近藤吾朗

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近藤(こんどう) 吾朗(ごろう)
1983年ごろ(72歳)[1]
生誕 近藤(こんどう) 五郎(ごろう)
1911年(明治44年)2月4日
日本の旗 日本・福井県大野郡大野町(現在の大野市)
死没 (1999-01-11) 1999年1月11日(87歳没)
国籍 日本の旗 日本
教育 アカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエール[2]
出身校 文化学院大学部美術科卒
著名な実績 絵画、油絵
代表作 『快晴富士』、『富嶽図』、『氷雪富士』、『黒の岸壁』ほか
運動・動向 実在
親 近藤由太郎
影響を受けた
芸術家
梅原龍三郎[3]、石井柏亭[3]
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近藤 吾朗(五郎)(こんどう ごろう、1911年〈明治44年〉2月4日 - 1999年〈平成11年〉1月11日)は、日本の芸術家。戦前は中国に在住し東洋美術を学び、パリを中心に西洋美術、中近東やアジア諸国の古代文明跡に漂泊の旅を重ね、「写実の美」、「存在のリアリティー」を追求した[4]。

晩年は富士山麓の静岡県裾野市にアトリエ「無暦庵」を構え、黙々と富士山を描き続けた。どの絵画も丹念なマチエールでダイナミックで重厚感のある油絵が特徴である。

ゆかりの地

大野

近藤は大野町の呉服店「あらころ」の長男に生まれ、本来は家業を継ぐ立場にあったが、絵を好んで画家の道を選んだ[5]。父の近藤由太郎は、のちに大野町長を務めている[6]。1932年には、郷里で開かれた大野研究会洋画展に「阪急駅の花屋」を出した[7]。

近藤が洋画に近づいたのは、大野中学の生徒だったころ、福井で画材店を営みながら北荘画会を主宰していた土岡秀太郎に出会ってからである。近藤は後年、その出会いを回想した文章「土岡さんの想いで」を書いている[8]。北荘画会の展覧会には会員外として「雪景」を、第16回北荘洋画展には「花」「少女」を出している[9]。福井の美術史では北荘から出た第二世代の作家の一人に数えられ[10]、戦前は春陽会展にも作品を出した[11]。

東京に拠点を移してからも、福井の新聞は近藤を「大野出身の洋画家」として扱い、日本実在派展や個展のたびに出品作を紹介した[12][13][14]。1980年の秋、近藤は実家の法事で久しぶりに大野へ帰った。その折に福井市の県立美術館で県美展を見て、出品作の技術を高く評価した。美術館を訪ねた用向きについては、まだ具体的な話ではないと断りつつ、作品を寄贈したいと答えている[5]。同じ年の11月に福井新聞へ寄せた文章では、子どものころに泳いだ郊外の川や、町なかに湧く御清水(おしょうず)が記憶と重ならないほど様変わりしたと書き、照明で浮かび上がる越前大野城や表通りの近代化に驚いている[6]。福井県立美術館は1982年度に近藤の油彩画4点を購入し、別に1点の寄贈を受けた[15]。

没後の1999年10月29日から11月3日には、大野市の有終会館で「近藤吾朗回顧展&風鈴丸版画展」が開かれた[16]。2025年4月12日から6月22日には、大野市のCOCONOアートプレイスが「近藤吾朗展 同時代の作家たちと共に」を開いた。中近東の遺跡や寺社を描いた近藤の作品を中心に、岡本太郎や北川民次など同じ時代の作家の作品を並べている[17]。

裾野市

1975年に十里木高原へアトリエを移してからは、裾野市にたびたび作品を贈った。1983年10月に「快晴表富士」を富士山資料館へ、1986年6月に「残照富士」を市長室へ寄贈している。1988年には、須山中学校の近くの芝畑を2年かけて描いた50号の「富士裾野の段丘」を須山支所に贈った。近藤はこのとき、芝畑は日本に残る数少ない自然の一つであり、こうした風景を一枚でも多く描きたいと話している[18]。市の広報紙は1984年の正月号で近藤を表紙に取り上げ、絵に対する信条を「空不異色」と紹介した[1]。

1993年には、富士山・愛鷹山・越前岳など地元の風景と、中近東やヨーロッパの遺跡や人々を描いた油彩画をまとめて市に寄贈した。寄贈の点数は、市議会への報告と展覧会の案内を載せた10月1日号では36点[19]、展覧会のあとの11月1日号では41点とされている[20]。作品は10月24日から31日まで裾野市民文化センターの「近藤吾朗展」で公開され、市長から近藤に感謝状が贈られた[20]。同じ10月1日号の略歴は、それまでの個展を29回とし、同年10月に東京国際美術館で回顧展を開くと伝えている[19]。

没後の1999年11月25日、美術品の遺贈によって市の教育文化の発展に寄与したとして、市長表彰の善行功労賞を受けた[21]。2000年9月13日から24日には、1950年代のヨーロッパ留学中に描かれた未公開の作品から約50点を選んだ「近藤吾朗展~未公開スケッチより~」が同センターで開かれた[22]。

年譜

年齢は、その年の誕生日(2月4日)を迎えたあとの満年齢。

生い立ちと文化学院(1911年–1938年)

年和暦年齢出来事
1911年明治44年02月4日、福井県大野郡大野町(現在の大野市)の老舗呉服屋「あらころ呉服店」店主、近藤由太郎の長男として生まれた。[6]
1931年昭和6年20文化学院大学部美術科入学。梅原龍三郎を慕って画家を志し、梅原の紹介で文化学院に入った。のちに石井柏亭らに師事している[3]
1932年昭和7年21
  • 四器会大阪展(大阪心斎橋丹半ハウス)を開催[23]
  • 大野研究会洋画展に「阪急駅の花屋」を出展[7]
1935年昭和10年24
  • 文化学院大学部美術科卒業
  • 文化学院美術部の出身者で洋画グループ「くろも会」を結成する。会の名は師の石井柏亭が付けた[24]
1936年昭和11年25第5回日本版画協会展に石版画「横浜埠頭」、「不忍の池」を出展[25]
1937年昭和12年26第1回一水会展覧会に「Iの像」を出展し入選する[26][6]
1938年昭和13年27
  • 6月25日から29日、銀座の資生堂で開かれた第5回くろも会展に「裏磐梯の新秋」などを出す[24]
  • このころ、文化学院美術部の助手を務めていた[27]

中国時代(1938年–1946年)

年和暦年齢出来事
1938–1946年昭和13–21年27–35中国に渡り、東洋美術を学ぶ。上海美術家連盟の結成に加わり、終戦まで中国で過ごした[14]
1943年昭和18年32
1946年昭和21年357月1日発行の釣り雑誌『釣之世界』創刊号の表紙を描く[30]

一水会と渡欧(1947年–1960年)

年和暦年齢出来事
1947年昭和22年36一水会入会[31][32]
1950年昭和25年394月、東京・田園調布の自宅に、アマチュアに油彩・水彩・素描を教える「近藤吾朗アトリエ」を開く。日曜の午後に大人を、土曜の午後に子どもを教えた[33][34]。1974年の研究所の一覧にも載っている[35]
1952年昭和27年415月13日から17日、近藤吾朗・黒田外喜男油画二人展を銀座資生堂ギャラリーで開催。近藤は「新秋」「五月の朝」など風景と静物の8点を出した[36][37]
1953年昭和28年42『小説公園』5月号の扉絵を描く[38]
1955年昭和30年4410月25日から29日、銀座のサエグサ画廊で個展[39]
1957年昭和32年46渡欧。パリに在住しグランド・ショミエール[2]で西洋美術を学ぶ
1958年昭和33年47一水会展(東京都美術館)に、パリで描いた「サン・ミッシェル通り」を出展[40]
1959年昭和34年481月20日から25日、近藤吾朗滞欧作品展を高島屋日本橋店で開催[41][42]
1960年昭和35年49
  • 一水会を退会する。のちに本人は、中央画壇から離れて心の自由を求めたためと語っている[6]
  • 銀座松坂屋で「近藤吾朗滞欧淡彩スケッチ展」を開く[43]
  • 十二展(銀座松坂屋)に「孤舟(ブルターニュ)」、「村落(キャーニュ)」、「孤屋(キャーニュ)」を出展

日本実在派と遺跡の旅(1961年–1974年)

年和暦年齢出来事
1961年昭和36年50
  • 3月6日から11日、銀座の中林画廊で個展「壁と石」を開く。南フランスの古い壁や屋根を厚塗りで描いた作品が並んだ[44][45]
  • 9月、一水会などの公募団体を離れた黒田外喜男・中条顕・小口益一・原叶人とともに、日本実在派作家集団(現在の作家集団実在派)を結成[46][47][31]
1962年昭和37年51
  • 3月5日から11日、第1回日本実在派展を文藝春秋画廊で開催。「白の断崖」「黒の岩壁」「黄の断崖」「赤い石」を出展[48][49]
  • 4月2日から7日、「"断崖と石" 近藤吾朗個展」を中林画廊で開催。石を主題にした12点を並べ、美術評論家の田近憲三が序文を寄せた[50]
  • 田園調布の「近藤吾朗アトリエ」で、引き続きアマチュアに油彩・水彩・素描を教える[51]
1963年昭和38年52
  • 3月4日から10日、第2回日本実在派展を文藝春秋画廊で開催。「飛鳥」を出展[52]
  • 9月30日から10月5日、中林画廊で個展を開き、「橘寺礎石」などを出展[53]
1964年昭和39年533月2日から8日、第3回日本実在派展を文藝春秋画廊で開催[54]
1965–1974年昭和40–49年54–63インド、アメリカ、アフガニスタン、ペルシャ、メソポタミア、エジプト等に古代文明の遺跡を歴訪し、古代美術を学ぶ。その間、フランス、ギリシア、イタリア等を再訪し、古典技法を学ぶ
1965–1975年昭和40–50年54–64金融界社の月刊誌『金融界』で表紙・目次・扉の絵を受け持つ[55]
1966年昭和41年55
  • 8月22日から27日、昭和画廊でインドの旅に取材した個展[56]
  • 下村画廊の個展で「クトーブの石」「未完塔」などインドとカンボジアの遺跡を描いた作品を出す[57]
1967年昭和42年56第6回日本実在派展に「日本の石」を出す[58]
1968年昭和43年57第7回日本実在派展に、ペルセポリスの石柱を描いた「砂漠の遺跡」を出す。評者は同展の作品の中で特に高く評価した[59]
1970年昭和45年593月、京橋の下村画廊で個展「砂漠の遺跡」を開き、ペルシャ・メソポタミア・エジプトなどの旅から生まれた十数点を出展。ペルセポリスから出土した牡牛の首を大きな画布いっぱいに描いた作品もあった[60][13]
1973–1984年昭和48–59年62–73渋谷のギャラリージェイコで、1973年から1984年までに7回の個展を開く[61]
1973年昭和48年62雑誌『旅』5月号で、呉茂一の紀行文「イタリアの古い町」に絵を添える[62]

十里木の無暦庵(1975年–1998年)

年和暦年齢出来事
1975年昭和50年64
  • 日本実在派作家集団を退会。以降は無所属で活動する。
  • 東京・田園調布から、裾野市の十里木高原の別荘地にアトリエ「無暦庵」を移す[4]。建物の記録では、新築は1976年3月、増築は1978年5月である[63]
1977年昭和52年66ギャラリーほさか(沼津市)で個展[64]
1978年昭和53年67福井県現代作家秀作展(福井県立美術館主催)に「古代岩窟都市ペトラ(ヨルダン)」を出展[65]
1979年昭和54年682月23日から3月3日、ギャラリージェイコで「近藤吾朗自選展」を開き、富士・能登・奈良や中近東・シルクロードに取材した39点を出展[66][14][67]
1980年昭和55年695月19日から27日、ギャラリージェイコで個展。1960年代初めの遺跡取材による旧作「石の時代」に新作を加えた30余点を出展[2]
1981年昭和56年70ギリシア、イタリアへ旅行する
1983年昭和58年72富士山資料館(裾野市、閉館)に「快晴表富士」を寄贈[1]
1985年昭和60年7410月17日から22日、油絵個展をギャラリーほさか(沼津市)で開催[64]
1986年昭和61年75
1988年昭和63年77「富士裾野の段丘」を裾野市須山支所に寄贈[18]
1991年平成3年80建設中の裾野市民文化センター(裾野市)に50号の「富嶽図」を寄贈。市への寄贈は4点目となった[32][69][31]
1993年平成5年82
  • 油彩画約40点を裾野市に寄贈し、10月24日から31日まで裾野市民文化センターで「近藤吾朗展」を開催[20]
  • 回顧展を東京国際美術館で開催[19]
1997年平成9年862月11日から23日、「裾野市民文化センター開館5周年記念 近藤吾朗絵画展」を開催[70]

死去と没後(1999年–)

年和暦年齢出来事
1999年平成11年87
  • 遺言により、十里木のアトリエが裾野市に寄贈された[63]。遺贈を含めて市に寄付した作品は、絵画218点・デッサン類105点などにのぼる[71]
  • 1月11日、死去(満87歳没)
  • 10月29日から11月3日、大野市の有終会館で「近藤吾朗回顧展&風鈴丸版画展」が開かれる[16]
  • 11月25日、美術品の遺贈により裾野市長表彰(善行功労賞)を受ける[21]
  • 12月、市に寄贈された作品の中から、1950年代後半のパリの町並みを描いたデッサン約80点が見つかる[71]
2000年平成12年9月、「近藤吾朗展~未公開スケッチより~」を裾野市民文化センターで開催[22]
2025年令和7年4月12日から6月22日、「近藤吾朗展 同時代の作家たちと共に」を故郷の大野市COCONOアートプレイスで開催[17]
2026年令和8年10月29日から11月3日、裾野市民芸術祭の特別企画として「近藤吾朗画伯絵画展」が裾野市民文化センターで開かれる[72]

主な作品

作品名制作年技法寸法(縦×横cm)所蔵出品展覧会備考出典
阪急駅の花屋1932年油彩大野研究会洋画展文献で確かめられる最も古い作品[7]
横浜埠頭1936年石版画第5回日本版画協会展[25]
不忍の池1936年石版画第5回日本版画協会展[25]
Iの像1937年油彩第1回一水会展入選[26]
上海黄浦江1943年第6回新文部省美術展覧会[28]
家並1950年油彩・キャンバス31.8×41.2目黒区美術館[40]
サン・ミッシェル通り1957年油彩・キャンバス72.7×116.5目黒区美術館一水会展(1958年)パリ滞在中の作[40]
キャーニュ・シュール・メールの家1957年油彩・キャンバス91.2×116.8目黒区美術館[40]
パリの窓1957年油彩・キャンバス100.5×80.9目黒区美術館[40]
ブルターニュの少女1957年油彩・キャンバス91.2×65.5目黒区美術館[40]
マルセーユの心象1960年油彩・キャンバス91.0×73.4目黒区美術館のちに加筆。1984年の個展の目録では1957年作の30号とする[40][61]
キャーニューの家1960年油彩・キャンバス116.7×80.3福井県立美術館1982年度に県が購入[15]
自画像1963年油彩・キャンバス90.9×72.7福井県立美術館1982年度に県が購入[15]
飛鳥(益田岩船)1963年油彩・キャンバス112.1×145.4福井県立美術館同じ年の第2回日本実在派展に「飛鳥」を出展している。1982年度に県が購入[15]
カジュラホの男(インド)1965年油彩・キャンバス130.3×89.4福井県立美術館1982年度に県へ寄贈[15]
岩窟都市ペトラ1973年油彩・キャンバス90.9×116.7福井県立美術館福井県現代作家展(1978年)1978年の展覧会では「古代岩窟都市ペトラ(ヨルダン)」の題で出展。1982年度に県が購入[15][73]
黒の岩壁1962年油彩第1回日本実在派展(1962年)[48]
海辺の納屋1979年油彩P50近藤吾朗自選展(1979年)能登の風景[66]
冬の海(下田)1981年油彩M50近藤吾朗油絵個展(1985年)[64]
福田一の肖像画油彩衆議院(議長応接室)第62代衆議院議長の肖像[3][74]
快晴表富士油彩50号裾野市1983年に富士山資料館へ寄贈[1][31]
残照富士油彩裾野市1986年に市長室へ寄贈。1991年の新聞は、市長室への寄贈作を「霊峰富士」と書いている[18]
富士裾野の段丘油彩50号裾野市須山中学校近くの芝畑を2年かけて描く。1988年に須山支所へ寄贈[18]
富嶽図油彩50号裾野市1991年に裾野市民文化センターへ寄贈[31]
朝陽裏富士油彩裾野市近藤吾朗展(1993年、裾野市民文化センター)1993年に寄贈[19]
霊峰富士油彩20号裾野市市長室に寄贈[31][32]
道祖神油彩東京国立博物館1993年に裾野市へ寄贈した作品にも同じ題名のものがある[19]

1993年に裾野市へ寄贈した油彩画には、上の「朝陽裏富士」のほか、「ルクサンブール公園」「モンパルナス」「アフガニスタンの村」「バーミヤンの谷(朝)」「誇り高きアフガン人」「ガンジス河聖地ベナレスの沐浴」「十里木高原」「愛鷹山越前岳」などがある[19]。ほかにも数百点の作品を残している。

主な作品展示先

書籍

紀行

  • 『密林に沈む神秘の遺跡 -アンコールワット紀行-下』金融界19、金融界社(1967年8月)
  • 『密林に沈む神秘の遺跡 -アンコールワット紀行-上』金融界19、金融界社(1967年6月)

出典

  1. 1 2 3 4 「美にいきる」『広報すその』No.543(正月号)、裾野市、1984年1月1日、表紙(裾野市 過去の広報紙)。
  2. 1 2 3 『新美術新聞』1980年5月。
  3. 1 2 3 4 5 『岳麓新聞』1991年8月29日。
  4. 1 2 『日刊静岡』1979年1月。
  5. 1 2 「最近、山の絵に打ち込む 大野出身画家 近藤吾朗さん『県美展は高水準』」『福井新聞』1980年10月23日。
  6. 1 2 3 4 5 「ふるさとへの手紙 近藤吾朗 制作に意欲を燃やす 心の自由求め富士描く」『福井新聞』1980年11月30日。
  7. 1 2 3 『大野市史 第10巻 (新聞資料編)』大野市、2000年。
  8. ↑ 近藤吾朗「土岡さんの想いで」、『土岡秀太郎と北荘・北美と現代美術』1983年、161頁(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ84)。
  9. ↑ 『土岡秀太郎と北荘・北美と現代美術』1983年、年譜(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ88)、コマ89。
  10. ↑ 『「藤沢典明の世界」展図録』1985年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ9)。
  11. ↑ 『大正昭和福井県史』下巻、福井県、1957年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ339)。
  12. ↑ 「深い宗教的ムード 近藤氏(大野出身)の作品から」『福井新聞』1969年。
  13. 1 2 「県人が相次いで絵画展 東京」『福井新聞』1970年3月15日。
  14. 1 2 3 「重厚な作品39点 大野出身の洋画家 近藤吾朗氏が自選展 東京」『福井新聞』1979年3月10日、12面。
  15. 1 2 3 4 5 6 福井県立美術館学芸課 編『福井県立美術館所蔵品目録』福井県立美術館、1988年、133–134頁。
  16. 1 2 越前おおの アートアーカイブス - COCONOアートプレイス。2026年10月25日閲覧。
  17. 1 2 近藤吾朗展 同時代の作家たちと共に - COCONOアートプレイス。2026年2月23日閲覧。
  18. 1 2 3 4 5 「近藤画伯が須山支所に風景画を寄贈」『広報すその』No.655、裾野市、1988年10月15日、11頁(裾野市 過去の広報紙)。
  19. 1 2 3 4 5 6 『広報すその』No.774、裾野市、1993年10月1日、3頁・6頁(裾野市 過去の広報紙)。
  20. 1 2 3 「新しい文化が裾野に 市寄贈の油彩画 近藤吾朗展」『広報すその』No.776、裾野市、1993年11月1日、表紙(裾野市 過去の広報紙)。
  21. 1 2 「平成11年度 15人1団体に市長表彰」『広報すその』No.922、裾野市、1999年12月1日、2頁(裾野市 過去の広報紙)。
  22. 1 2 『広報すその』平成12年度発行号、裾野市、2000年、所収PDFの150頁・189頁(裾野市 過去の広報紙)。
  23. ↑ 『日本美術界一覧 : 附・美術家名簿 昭和7年度』美術新論社、1932年。
  24. 1 2 『資生堂ギャラリー七十五年史 : 一九一九~一九九四』資生堂、1995年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ93)。
  25. 1 2 3 『第五回日本版画協会展覧会出品目録』1936年。
  26. 1 2 『一水会展覧会図録 第1回』一水会展図録刊行会、1937年。
  27. ↑ 『生きているふくい昭和史』上、1974年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ105)。
  28. 1 2 『文部省美術展覧会図録 第6回』文部省、1944年。
  29. ↑ 『一水会史』第1巻、1983年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ167)。
  30. ↑ 『釣本の周辺』1976年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ76)。
  31. 1 2 3 4 5 6 『裾野ジャーナル 第512号』裾野ジャーナル編集部、1991年9月2日。
  32. 1 2 3 「油絵富嶽図を寄贈 裾野文化センに近藤画伯」『日刊静岡』第7769号、1991年8月29日、1面。
  33. ↑ 『日本美術年鑑』昭和27年版、1953年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ128)。
  34. ↑ 『日本美術年鑑』昭和31年版、1957年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ166)。
  35. ↑ 『イラストレーション入門』1974年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ81)。
  36. ↑ 『資生堂ギャラリー七十五年史 : 一九一九~一九九四』資生堂、1995年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ158)。
  37. ↑ 『近藤吾朗・黒田外喜男油絵二人展』案内状、資生堂ギャラリー。『日本美術工芸』163号、日本美術工芸社、1952年5月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ31)。
  38. ↑ 『小説公園』4巻5号、1953年5月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ6)。
  39. ↑ 『美術手帖』102号、美術出版社、1955年11月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ57)。
  40. 1 2 3 4 5 6 7 目黒区美術館 編『目黒区美術館所蔵作品目録』目黒区美術館、1988年、27–28頁(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ18)。
  41. ↑ 東京都美術館 編『石井文庫目録』東京都美術館、1984年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ20)。
  42. ↑ 『高島屋美術部五十年史』高島屋美術部五十年史編集委員会 編、1960年。
  43. ↑ 『日本美術年鑑』昭和35年版、1961年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ92)。
  44. ↑ 『みづゑ』673号、美術出版社、1961年5月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ89)。
  45. ↑ 『三彩』137号、三彩社、1961年4月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ37)。
  46. ↑ 日本実在派作家集団の結成の挨拶状(1961年9月17日付)。
  47. ↑ 『美術年鑑 1967年版』美術年鑑社、1967年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ142)。
  48. 1 2 『日本実在派展』図録、日本実在派作家集団、1962年3月。
  49. ↑ 「日本実在派作家集団展」『美術新潮』1962年4月1日、2面。
  50. ↑ 『“断崖と石” 近藤吾朗個展』案内状・出品目録、中林画廊、1962年4月。
  51. ↑ 『美術手帖』214号、美術出版社、1962年12月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ48)。
  52. ↑ 『第2回日本実在派展』案内状、日本実在派作家集団、1963年3月。
  53. ↑ 『美術手帖』229号、美術出版社、1963年12月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ72)。
  54. ↑ 『第3回日本実在派展』案内状、日本実在派作家集団、1964年3月。
  55. ↑ 『金融界』17巻11号(1965年10月)(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ3)、19巻6号(1967年6月)(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ3)、27巻12号(1975年12月)(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ3)、各号の目次。
  56. ↑ 『美術手帖』274号、美術出版社、1966年11月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ70)。
  57. ↑ 『三彩』209号、三彩社、1966年12月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ47)。
  58. ↑ 『三彩』214号、三彩社、1967年5月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ50)。
  59. ↑ 『三彩』229号、三彩社、1968年5月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ42)。
  60. ↑ 『三彩』255号、三彩社、1970年3月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ34)。
  61. 1 2 『近藤吾朗展』案内状・出品目録、ギャラリージェイコ、1984年1月。
  62. ↑ 『旅』47巻5号、日本交通公社、1973年5月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ101)。
  63. 1 2 旧近藤吾朗邸 - 裾野市。2026年10月25日閲覧。
  64. 1 2 3 4 『近藤吾朗油絵個展』案内状、ギャラリーほさか、1985年10月。
  65. ↑ 福井県立美術館 編『福井県現代作家展』福井県立美術館、1978年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ70)。
  66. 1 2 『近藤吾朗自選展』案内状、ギャラリージェイコ、1979年2月。
  67. ↑ 「近藤吾朗自選展」『美術通信』第1012号、1979年3月20日、3面。
  68. ↑ 『美術手帖』38巻558号、美術出版社、1986年3月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ109)。
  69. ↑ 「地域への感謝こめて 文化センターに油絵寄贈」『静岡新聞』1991年8月29日。
  70. ↑ 「'97すその」『広報すその』裾野市、1997年12月15日(裾野市 過去の広報紙)。
  71. 1 2 「近藤吾朗氏がパリ留学時代に描いたデッサン80点を発見」『月刊美術』26巻3号(通巻294号)、2000年3月、147頁(『静岡新聞』1999年12月20日の記事による)。
  72. ↑ 裾野市民芸術祭 - 裾野市(2026年10月23日更新)。2026年10月25日閲覧。
  73. ↑ 福井県立美術館 編『福井県現代作家展』福井県立美術館、1978年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ70)。
  74. ↑ 衆議院・参議院 編『議会制度百年史』別冊(目で見る議会政治百年史)、大蔵省印刷局、1990年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ9)。
  75. ↑ 市の組織>教育部>富士山資料館>施設案内>富士山資料館 - 裾野市(2024年12月24日)2026年2月23日閲覧。