近藤由太郎
| 近藤 由太郎 こんどう よしたろう | |
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| 生年月日 | 1884年8月1日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1965年2月17日(80歳没) |
| 出身校 | 旧制武生中学校 |
| 前職 | 呉服商、経営者、大野町商工会議所会頭 |
| 配偶者 | ちか、寿ゑ尾 |
| 親族 | 養父:近藤金次郎 実父:古市幸助 |
大野町長 | |
| 在任期間 | 1947年4月7日 - 1952年10月 |
近藤 由太郎(こんどう よしたろう、1884年(明治17年)8月1日 - 1965年(昭和40年)2月17日)は、日本の政治家、実業家。福井県大野町(現在の大野市)で呉服店「あらごろ」を営み、大野町商工会議所の会頭や、戦後最初の公選による大野町長を務めた。洋画家の近藤吾朗は長男。
近藤家
近藤家は大野町五番通りに店を構えた商家で、代々近藤五郎右衛門を名乗った。『大野市史』は同家を「荒物屋五郎右衛門」とも記している[2]。1882年(明治15年)に大野商法会議所が開かれたときには、近藤五郎右衛門が商業事務の調査委員に加わった[3]。同家は俳諧をたしなむ家でもあり、南隣舎吾山の号を持つ当主は、大野の俳諧の歩みをまとめた『俳諧大野道志留辺』を1884年(明治17年)に著した。同家が江戸時代から明治期にかけて集めた書籍は「近藤文庫」として大野市歴史博物館に所蔵されており、総数844冊のうち375冊を俳書が占める[2]。
由太郎の養父の金次郎は、大野の酒造業・田中彌三兵衛の次男で、1883年(明治16年)に近藤五郎右衛門の養子となって家督を継いだ。大野町会議員を5期、福井県会議員を務めたほか、大正初年には大野呉服商組合を改組して組合長となり、十余年にわたって業界をまとめた[4]。
生涯
生い立ちと婿入り
福井県南条郡武生町(現在の越前市)に生まれた。生家は同町幸の老舗呉服屋とがのや呉服店で、店主・古市幸助の三男にあたる[4]。旧制武生中学校を卒業した[5]。
1910年(明治43年)1月、大野町五番町の呉服商で、のちに福井県会議員となる近藤金次郎の婿養子となった。金次郎の長女ちかと結婚して近藤家に入り、店を任された[4]。
呉服店「あらごろ」
近藤家の呉服店は「あらごろ」の屋号で知られ、大野の呉服商の中でも古い店の一つだった[4]。金次郎は1931年(昭和6年)11月10日に家督を由太郎に譲り、1933年(昭和8年)2月に死去した[4]。1932年(昭和7年)に北日本社が刊行した『北陸の産業と温泉』の「大野町の名士紳商」の一覧には、開業20年以上の呉服太物商として、商号「あらごろ」・五番の近藤由太郎が載っている。納める国税は159円とされた[6]。戦後の人名録では、店名を「あら兵呉服店」としている[5]。
織物業と会社経営
大正期の大野では織物業が急速に広がり、1919年(大正8年)には地区の織物製造業者が100人に達した。翌1920年3月ごろからは恐慌に見舞われている[7]。1916年(大正5年)、近藤は斎藤重雄・諸新平らと語らって大野撚糸株式会社を設立した。工場は春日神社の北にあり、中山式の撚糸機などを据えて、フランス縮緬のような強く撚った糸を使う織物をつくった。同社はのちに北陸絹布株式会社へ改組され、清水へ移った[8]。北陸絹布では取締役を務めている[9]。
戦時体制のもとで商工業の統制が進むと、地域の同業者を束ねる役を担った。1938年(昭和13年)10月に設立された大野呉服商業組合では代表者となった。組合は大野町と下庄村で呉服や太物を小売りする商店を束ねるもので、事務所は近藤の店と同じ大野町五番に置かれた[10]。1942年(昭和17年)1月には、県内の繊維製品の配給を一手に担う福井県繊維製品配給株式会社が資本金150万円で創立され、その取締役に名を連ねた[11]。小売業の整理が進んだ1944年(昭和19年)9月には、福井県大野繊維製品小売商業組合の清算人として解散の公告を出している[12]。
同じ1938年には、大野町商工会議所の会頭に就いた[5]。
大野町長
戦後、公職追放を恐れて立候補を見合わせる者が少なくない中で、1947年(昭和22年)4月6日に戦後初めての町村長選挙が行われ、近藤は大野町長に選ばれた[13][14]。前任の布川豊は、1946年9月に職を退いていた[15]。近藤は戦後の復興に力を注いで1952年(昭和27年)10月まで在任し、11月に斎藤重雄が後を継いだ[15][13]。大野町は斎藤の任期中の1954年(昭和29年)7月に周辺の町村と合併し、大野市となった。
人名録の略歴は、町長就任を1946年(昭和21年)としている[5]。
大越木材工業
町長に就く直前の1947年(昭和22年)3月、大野町神明に製材と木工を営む大越木材工業株式会社が設立され、近藤は社長に就いた[16][5]。設立当時の株主は9人で、福井市に出張所を置く計画を持っていた[16]。『北国年鑑』は1950年から1954年に刊行した版まで社長を近藤としていたが、1955年刊の版では社長が別の人物に替わっている[17]。
1958年の人名録では、近藤はなお大野市五番に住み、あら兵呉服店主・大越木材工業社長として載っている[5]。1965年2月17日に死去した。
人物
家族
長男の吾朗は家業を継がずに画家の道へ進んだ。のちに福井新聞は吾朗を、旧大野町長・近藤由太郎の長男と紹介している[18]。
旧宅
大野市明倫町(旧五番町)にある近藤家の住宅は、明治32年(1899年)の大火のあとに建てられた町家で、日本ナショナルトラストの調査では「近藤寿ゑ尾家住宅」として取り上げられ、大野町長を出した旧家と紹介されている[19]。
脚注
- ↑ 『大衆人事録 第19版 東日本篇』帝国秘密探偵社、1957年、214頁。
- 1 2 『大野市史 通史編 上』大野市、2019年、776–777頁。
- ↑ 『大野市史 第14巻 通史編 下 近代・現代』大野市、2013年、122–126頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 福井県議会事務局 編『福井県議会史 議員名鑑』福井県議会事務局、1975年、689–690頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『大衆人事録 第20版 西日本篇』帝国秘密探偵社、1958年、こ之部(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ224)。
- ↑ 北日本社 編『北陸の産業と温泉 附・事業人物史』北日本社、1932年、190–191頁(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ131)。
- ↑ 『大野織物業会のあゆみ』大野織物工業協同組合、1985年、9–13頁。
- ↑ 『大野織物業会のあゆみ』大野織物工業協同組合、1985年、12頁。
- ↑ 『官報』1935年3月15日、461頁(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ13)。
- ↑ 商業組合中央会 編『商業組合一覧 昭和十四年三月末日現在』商業組合中央会、1939年、128–129頁(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ67)。
- ↑ 「福井より」『蚕糸経済』14巻149号、1942年2月(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ12)。
- ↑ 『官報』1944年9月13日(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ4)。
- 1 2 『大野市史 第14巻 通史編 下 近代・現代』大野市、2013年、510–511頁。
- ↑ 『福井県町村会六十年史 下巻』福井県町村会、1982年、328頁。
- 1 2 『写真集明治大正昭和大野 ふるさとの想い出76』国書刊行会、1979年、52頁。
- 1 2 柳村喜一 編『福井縣經濟要覧』福井新聞社出版部、1947年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ77)。
- ↑ 北国新聞社 編『北国年鑑』昭和26年版、北国新聞社、1950年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ248)。同 昭和31年版、1955年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ304)。
- ↑ 「ふるさとへの手紙 近藤吾朗 制作に意欲を燃やす 心の自由求め富士描く」『福井新聞』1980年11月30日。
- ↑ 日本ナショナルトラスト 編『越前大野の城下町と町家』日本ナショナルトラスト、1999年。