郭守文
経歴
14歳のとき、父が戦死し、守文は喪に服して哀毀した。郭威に憐れまれて召し出され、その幕下に属した。後周の広順元年(951年)、左班殿直に任じられた。二度異動して東第二班副都知となった[1]。
北宋の初年、守文は西頭供奉官に転じた。後蜀が平定されると、守文は知簡州に任じられた。ときに剣南では反乱が多かったが、守文は反乱者を招き集めて帰順させた。潘美に従って南漢を征討し、劉鋹が捕らえられると、守文は勝利の報告を伝達し、翰林副使となった。曹彬らに従って江南を平定し、李煜を開封に護送した。ときに李煜は宋に抵抗したことを引け目に思い、生きて太祖趙匡胤に会うことを望まなかった。守文はこのことを察知し、「領土を回復し、太平を実現したからには、どうして後になって責めることがありましょうか」といって李煜を慰めた。守文は西京作坊使に転じ、翰林司事を領知した。まもなく党進に従って北漢軍を団柏谷で破った[2]。
太平興国元年(976年)、秦州が宋に帰順したが、タングートが騒動を起こした。守文は太宗の命を受けて説得にあたり、タングートを落ち着かせた。太平興国3年(978年)、西上閤門使となった。夏、寧陵で汴水が決壊すると、宋州と亳州の成年男子4500を動員して決壊箇所を塞ぎ、守文が命を受けてその夫役を監督した。冬、王侁や石全振とともに霊河県の黄河決壊箇所を塞ぐ工事を護衛した[2]。
太平興国4年(979年)、太宗が北漢に親征すると、守文は梁迥とともに行営馬歩軍を分担した。北漢の劉継元が降ったが、その弟の劉継文が代州に拠り、遼の援助を受けて宋に屈服しなかった。守文が代州に派遣されてこれを討ち平らげた。まもなく兵を率いて定州に駐屯し、遼軍を蒲城で破った。功により東上閤門使に転じ、澶州刺史を遥領した。開封に召還され、内客省使に抜擢された。太平興国8年(983年)、滑州房村で黄河が決壊すると、守文は兵を動員して決壊箇所を塞ぎ、その工事を監督した。遼軍が雄州に侵入すると、守文は禁兵数万人を率いて援軍に赴いたが、到着したときには、遼軍は撤退していた[2]。
雍熙2年(985年)、守文は太宗の命を受けて兵を率いて三交に駐屯した。まもなく武州団練使を遥領した。夏州で反乱が起こると、守文は軍を率いてこれを討ち、夏州塩城鎮の岌羅膩など14族を破り、数千人を斬首し、家畜1万頭ほどを鹵獲した。また咩嵬族を破り、殲滅した。諸部はおそれて、銀州・麟州・夏州から宋に帰順する者は125族の16000戸あまりにおよび、宋の西北辺は安定した。雍熙3年(986年)春、大挙して北伐がおこなわれると、守文は幽州道行営前軍歩軍水陸都監となった。遼軍と遭遇すると、流れ矢に当たったが、意気はくじけず、戦いをますます急きたて、軍中を感服させた。宋軍が敗れると、守文は勅命にそむいて軍を留まらせた罪に問われて、右屯衛大将軍に左遷された[3]。
雍熙4年(987年)、守文は旧職にもどされた。宣徽北院使に任じられた。田欽祚とともに北面排陣使となり、鎮州に駐屯した。端拱元年(988年)、宣徽南院使に転じ、鎮州路都部署をつとめた。さらに北面行営都部署となり、鎮定高陽関両路排陣使を兼ねた。冬、遼の騎兵が南侵してくると、守文は唐河で遼軍を破った。端拱2年(989年)10月、死去した。享年は55。侍中の位を追贈され、譙王に追封された。諡は忠武といった。開封に葬られた[4]。
家族
脚注
伝記資料
- 『宋史』巻259 列伝第18
参考文献
- 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。