郭崇
郭 崇(かく すう、908年 - 965年)は、五代十国時代から北宋にかけての軍人。もとの名は崇威[注釈 1]。本貫は応州金城県[1]。
経歴
重厚寡黙で計略があった。弱冠にして勇気と力量で応募して兵士となった。後唐の清泰年間、応州騎軍都校に進んだ[1]。
後晋の高祖石敬瑭が燕雲十六州を契丹に割譲すると、郭崇は契丹に仕えるのを恥じて、単身で南に逃れて後晋に帰順した。鄆州・河中府・潞州の騎軍都校を歴任した。開運年間、太原を守備した。後漢の高祖劉知遠が起兵すると、郭崇は先鋒をつとめた。高祖が開封に入ると、郭崇は護聖左第六軍都校に転じ、郢州刺史を遥領した。のち富州刺史を遥領した[1]。
郭崇は郭威が河中府を平定するのに従い、功により果州防禦使に転じ、護聖右廂都指揮使を領知した。郭威が鄴に駐屯すると、郭崇は行営騎軍を領知し、天雄軍都巡検使を兼ねた[1]。
乾祐3年(950年)冬、郭崇は郭威の起兵に従い、李筠とともに劉子陂で慕容彦超を阻み、撃退した。郭崇は侍衛馬軍都指揮使に任じられた。郭威が馮道らを徐州に派遣して湘陰公劉贇を迎え、擁立しようとした。遼が南侵してきたため、郭威は北征し、澶州に宿営したときに六軍に推戴された。郭崇は枢密使の王峻の命を受けて、700騎を率いて東に向かい、劉贇と睢陽で遭遇した。郭崇が牙門の外に布陣すると、劉贇は門楼に登ってなぜやってきたかを訊ねた。郭崇は澶州の軍変を受けて劉贇を迎えにきただけであると答えた。劉贇は情勢がすでに定まったことを悟って、泣いて屈服した。郭崇は劉贇を館舎に送った[2]。
後周の広順元年(951年)、郭崇は洋州武定軍節度使を遥領した[3]。さらに京城都巡検使・修城都部署となり、知歩軍公事を兼ねた。広順2年(952年)[4]、陳州に鎮安軍が再設置され、潁州が鎮安軍に編入されると、郭崇は鎮安軍節度使に任じられた。顕徳元年(954年)、太祖(郭威)が郊祀をおこなうと、郭崇は同平章事を加えられ、澶州鎮寧軍節度使に転じた。太祖が病床につくと、郭崇は澶州に帰るよう促された[5]。
世宗柴栄が即位すると、北漢軍が潞州に侵入してきたことから、郭崇は世宗の命を受けて符彦卿とともに固鎮に進出してこれを防いだ。世宗が北漢に親征すると、郭崇は符彦卿を補佐して行営都部署をつとめた。軍を返すと、侍中を兼ねた。冬、真定尹・成徳軍節度使となった。顕徳4年(957年)、世宗が南唐に親征すると、遼軍が1万騎あまりで北辺を侵犯したため、郭崇は軍を率いて束鹿県を攻め下し、数百人を斬り、多数の捕虜を得た。顕徳5年(958年)、天清節(世宗の誕生日)に郭崇は入朝し、致仕を願い出たが、許可されなかった。顕徳6年(959年)、世宗が関南を平定し、静安軍にいたると、郭崇は入朝した。恭帝柴宗訓が即位すると、郭崇は検校太師を加えられた[5]。
北宋の建隆元年(960年)、郭崇は中書令を兼ねた。ときに郭崇は後周の恩顧を追憶して、涙を流した。監軍の陳思誨がその様子を密告して、反乱を警戒するよう上奏したが、太祖趙匡胤は郭崇が恩義に篤いことを知っていたので、憂慮しなかった。太祖が鎮州に人を派遣すると、はたして城中は落ちついていたので、太祖は「朕の言のとおりだった」といって笑った。ほどなく郭崇は入朝した。李重進が反乱を起こすと、郭崇は李重進に代わって平盧軍節度使に任じられた。乾徳3年(965年)、死去した。享年は58。太師の位を追贈された[6]。
家族
父祖はともに代北の首長をつとめた[1]。
脚注
注釈
出典
伝記資料
- 『宋史』巻255 列伝第14
参考文献
- 『旧五代史』中華書局、1976年。ISBN 7-101-00321-4。
- 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。