鄧 析(とう せき、拼音: 、簡体字: 邓析、生年不詳 - 紀元前501年[1])は、中国春秋時代末期の政治家・思想家。著作として『鄧析子』(とうせきし)が伝わる。
諸子百家の名家または法家・雑家に分類される。その人物像から「初期名家」「名家の先駆者」のように位置付けられることもある[2]。
鄭国に仕えたが、政争のなかで殺された。ただし、殺されるに至った経緯が、史料によって二通り伝わる[3]。
宇野精一は、銭穆『先秦諸子繋年』を参考にして、実際に鄧析を殺したのは駟歂だが、後世の伝承において、より著名で音が近い子産と混同されたのだと推定している[6]。
『呂氏春秋』離謂篇によれば、鄧析が民に教えた裁判の方法とは、主張の「是・非」「可・不可」のいずれをも押し通す方法や、永遠に結論が出ない議論の方法だったという[2]。『列子』力命篇では、そのような方法を「両可之説」「無窮之辞」と表現している[7][1][2]。
『荀子』は複数の篇(不苟篇・非十二子篇・儒效篇)で、鄧析を恵施(名家の中心人物)と併称した上で、「卵有毛」(卵には毛がある)などの奇怪な説を操る者達、あるいは「礼」にそむく者達として非難している。
鄧析の同時代人である孔子は、鄧析と対照的に、訴訟が一切起こらない社会を目指していた(『論語』顔淵篇「必也使無訟乎」)[2]。
現行本の『鄧析子』は「無厚篇」と「転辞篇」の二篇からなる。偽書説や成立年代については諸説ある[10]。
『別録』の叙録がある[11]。『漢書』芸文志は、『鄧析子』ではなく『鄧析』二篇と表記した上で、名家の書物に分類している[4]。一方で『郡斎読書志』は『鄧析子』二巻を名家に分類しつつ、法家も兼ねる書物だと述べている[12]。他方で『四庫提要』は『鄧析子』一巻を法家に分類している[4][12]。
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