野中廃寺跡

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野中廃寺跡 金堂
2023年5月時点。
野中廃寺跡の位置(高知県内)
野中廃寺跡
野中廃寺跡
野中廃寺跡の位置
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土佐国衙跡
推定地
若宮ノ東遺跡
野中廃寺跡
野中廃寺跡の位置

野中廃寺跡(のなかはいじあと)は、高知県南国市元町・篠原にある古代寺院跡。国の史跡に指定されている。

概要

高知県中央部、長岡台地南西縁辺に位置する。古くから「仁王」・「鐘撞堂」の地名が残り寺跡として知られ、1962年度(昭和37年度)以降に発掘調査が実施されている。

伽藍配置は法起寺式伽藍配置で、金堂を西、塔を東、中門を南、講堂を北に配し、金堂の規模は土佐国分寺に匹敵する。創建期は奈良時代中頃の8世紀中葉頃で土佐国分寺と同時期と推定され、9世紀後半頃に廃絶したとみられる[1]。伽藍周辺の施設が少ないことから、官寺というよりは郡司層の氏寺と推測され、西約500メートルにある推定評衙跡の若宮ノ東遺跡との関連が注目される[1]。四国地方では伽藍の全貌が明らかとなった唯一の寺院であるとともに、金堂規模が土佐国分寺に匹敵し、掘込地業もおこなう本格的寺院であり、国分寺造営によって郡司層の造寺活動の活発化を示すとして重要視される[2]。

寺跡域は2026年(令和8年)に国の史跡に指定されている。

遺跡歴

  • 文化4年(1807年)、開墾により基壇礎石の破壊(『南路志』)[1]。
  • 文化10年(1813年)編纂の『南路志』篠原村項に、「鐘楼堂跡」として記載。国分尼寺跡と推定[3][1]。
  • 1925年(大正14年)、国鉄高知線(現在のJR土讃線)の敷設。寺域の分断。
  • 1962年度(昭和37年度)、墓地改修に伴う緊急発掘調査:調査1。南北2つの土壇の存在の確認(高知県教育委員会、1963年に報告)[3]。
  • 1991年度(平成3年度)、線路南側の土壇における発掘調査:調査2(高知県文化財団埋蔵文化財センター、1991年に報告)[4]。
  • 2013年度(平成25年度)、駐車場造成工事に伴う試掘調査:調査3[4]。
  • 2019年度(令和元年度)、共同住宅建設工事に先立つ試掘調査:調査4(南国市教育委員会、2025年に報告)[4]。
  • 2020年度(令和2年度)、共同住宅建設工事に先立つ試掘調査:調査5(南国市教育委員会、2025年に報告)[4]。
  • 2021年度(令和3年度)、分譲宅地造成工事に伴う発掘調査:調査6(南国市教育委員会、2024・2025年に報告)[4]。
  • 2026年(令和8年)2月17日、国の史跡に指定[2][5]。

遺構

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僧房1
僧房2
中門
塔
講堂
金堂
野中廃寺跡の主要遺構地点
伽藍概観
中央右に金堂、左手前に塔。左端はJR土讃線、線路を挟んで左方向に中門が所在。
出土品
高知県立埋蔵文化財センター展示時に撮影。

寺域の区画施設は確認されていないが、地形・遺構分布から東西100メートル以上・南北180メートル程度と推定される[1]。伽藍の主軸は北から東に約6.5度傾いており、東に12-13度傾く長岡郡の大半の香長条里(若宮ノ東遺跡も同じ)とは斜交し、土佐国分寺の築地塀の主軸に近い。主要伽藍としては金堂・塔・講堂・僧房・中門の遺構が確認されており、金堂を西、塔を東、中門を南、講堂を北に配する法起寺式伽藍配置である。現在は金堂・塔以北の遺構群と南の中門の間をJR土讃線が横断する。遺構の詳細は次の通り。

金堂
本尊を祀る建物。寺域中央西側に位置し、高まりを残す。基壇は掘込地業で、東西25.5メートル以上・南北17.2メートル以上・高さ0.83メートル以上と推定される。基壇規模は土佐国分寺に匹敵する。創建期の版築に瓦は含まない。東辺には平行して石敷を施す[1]。
塔
釈迦の遺骨(舎利)を納める塔。寺域中央東側に位置するが、高まりを残さない。基壇は掘込地業で、一辺約12.2メートルを測る。礎石抜取穴が確認されており、基壇上建物は方3間で、中央間2.7メートル(9尺)・両脇間2.4メートル(8尺)の一辺7.5メートル(25尺)と推測される。版築内に瓦を含むことから、金堂ののちに建立されたとみられる[1]。
講堂
経典の講義・教説などを行う建物。寺域北側に位置するが、高まりを残さない。基壇は掘込地業で、東西28.3メートル・南北17.8メートルを測る。掘込地業の東端を壊す形で別のL字状の掘込地業が確認されており、基壇の拡張の可能性、幢竿などの仮設儀式施設の可能性、地鎮具埋納の可能性などが挙げられる[1]。
中門
寺域南側に位置するが、平成3年度調査後は高まりを残さない。基壇は掘込地業で、昭和37年度調査の測量図によれば東西18メートル・南北9メートル程度の低い基壇とみられる[1]。
僧房1
講堂の東に位置する。南北棟の掘立柱建物で、桁行9間(19.9メートル)・梁行3間(6.2メートル)を測る。桁行3間ごとに間仕切りとみられる柱穴が認められ、南西隅には地鎮とみられる甕が認められる[1]。
僧房2
講堂の北に位置する。東西棟の掘立柱建物で、桁行7間(14.35メートル)・梁行3間(6.2メートル)を測る。8世紀中葉-後半の遺物を含む溝を壊す[1]。

以上のほか、北東で総柱建物(桁行2間(4.1メートル)・梁行2間(3.1メートル))が確認されており、雑舎の倉庫と推測される[1]。

寺域からの出土品としては、多量の瓦がある。堂塔ごとで丸瓦や長縄タタキの平瓦に違いはないが、格子タタキの平瓦には違いがみられる。土佐国分寺の瓦とは同一工人・同一生産地とみられる瓦が認められるほか、秦泉寺廃寺の同笵瓦も認められる。瓦供給窯としては若宮窯跡(高知市介良)が候補としてあげられ、一部の瓦は土佐山田古窯跡群(香美市土佐山田町)の可能性がある[1]。また土器も出土しており、瓦・土器から8世紀中葉頃の創建、9世紀後半頃の廃絶と推測される[1]。

文化財

国の史跡

  • 野中廃寺跡 - 2026年(令和8年)2月17日指定[2][6]。

現地情報

所在地
交通アクセス
周辺
  • 若宮ノ東遺跡(南国市篠原) - 評衙跡か。
  • 高知県立埋蔵文化財センター(南国市篠原)

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 野中廃寺2 2025.
  2. 1 2 3 文化審議会の答申(史跡名勝天然記念物の指定等)(文化庁報道発表 、2025年12月19日)。
  3. 1 2 高知県の地名 1983.
  4. 1 2 3 4 5 野中廃寺 2024.
  5. ↑ 令和8年2月17日文部科学省告示第20号。
  6. ↑ 令和8年2月17日文部科学省告示第20号。

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

  • 現地説明会資料等
    • 「令和3年度埋蔵文化財発掘調査 野中廃寺現地説明会資料」 - リンクは南国市ホームページ。
      • 1、2 - リンクは南国市ホームページ。
    • 「謎の古代寺院 野中廃寺」広報なんこく令和3年9月号、2021年。
  • その他
    • 「野中廃寺跡」『高知県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系40〉、1983年。ISBN 4582490409。 
    • 『野中廃寺 -分譲宅地造成工事に伴う発掘調査報告書-』南国市教育委員会〈南国市埋蔵文化財発掘調査報告書第29集〉、2024年。  - リンクは奈良文化財研究所「全国文化財総覧」。
    • 『野中廃寺2 -埋蔵文化財調査報告書-』南国市教育委員会〈南国市埋蔵文化財発掘調査報告書第32集〉、2025年。  - リンクは奈良文化財研究所「全国文化財総覧」。

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 「野中廃寺緊急調査報告」『高知県文化財調査報告書』 第13集、高知県教育委員会、1963年。 
  • 「野中廃寺跡」『高知県埋蔵文化財センター年報』1号、財団法人高知県文化財団埋蔵文化財センター、1991年。 

関連項目

外部リンク

座標: 北緯33度34分42.12秒 東経133度38分24.10秒 / 北緯33.5783667度 東経133.6400278度 / 33.5783667; 133.6400278 (野中廃寺跡)