金吾 (芸妓)

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金吾(きんご)は、明治時代末期から大正時代初期にかけて、名古屋の旭廓で活動した芸妓。金波楼に所属し、西川流の舞踊の名手として知られた。東京赤坂の万龍、大阪南地の富田屋八千代とともに「天下の三名妓」と称されたことがある[1]。

経歴

金吾は、明治時代末期から大正時代初期にかけて名古屋の旭廓で活動した芸妓で、金波楼に所属していた。西川流の舞踊に秀で、当時の名古屋を代表する名妓の一人として知られた[1]。

1910年(明治43年)、名古屋で開催された第十回関西府県連合共進会の「舞踊館」には、238名の芸妓が出演した。愛知県図書館の調査記録によれば、出演者の写真を掲載した『大共進会舞踊館出演名妓一覧』にも金吾の写真が収録されている[1]。

名声

金吾は、舞踊の技量と容姿で知られ、名古屋を代表する美人として広く認知されていた。1911年(明治44年)1月刊行の雑誌『グラヒック』増刊においても、名古屋市長の加藤重三郎が名古屋の美人について語る際、金波楼の金吾に言及している[1]。

当時流行した美人絵葉書にも金吾の肖像が用いられ、その絵葉書はよく売れたとされる。また、金吾は東京赤坂の万龍、大阪南地の八千代とともに「天下の三名妓」と称された。ただし、同時代および後世の資料によって「三名妓」の顔ぶれには異同がある[1]。

関連資料

金吾については、名古屋の芸妓や遊里文化を扱った郷土史資料のほか、明治・大正期の名妓を紹介した人物評伝などに記述がある。

  • 早川徳三郎『大須繁昌記』名古屋市経済局貿易観光課、1960年、14頁「金吾と権助」。
  • 服部鉦太郎『明治・名古屋の顔 写真図説』六法出版社、1973年、68–72頁。
  • 服部鉦太郎『名古屋再発見 歴史写真集』中日新聞本社、1984年、32頁。
  • 安藤せん子『二代芸者 紅灯情話』新栄社、1913年、132–140頁。
  • 長谷川濤涯『誤られたる現代の女』木津文湖堂、1913年、219–224頁。
  • 手島益雄『名古屋百人物評論 続』日本電報通信社名古屋支局、1915年、255–256頁。
  • 高須半湖編著『御薬さらし水飴 浅田飴八十年史』堀内伊太郎商店、1964年、136–140頁。
  • 東海遊里史研究会編著『東海遊里史研究 3』土星舎、2023年、78–93頁。

脚注

  1. 1 2 3 4 5 “大正時代に天下の三名妓とよばれた、金波楼の金吾に関する資料が見たい。”. レファレンス協同データベース. 愛知県図書館. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。