鈎の陣


鈎の陣(まがりのじん)は、室町時代の1487年(長享元年)から1489年(延徳元年)にかけて、室町幕府第9代将軍足利義尚が現在の滋賀県栗東市上鈎・下鈎および安養寺周辺にあたる近江国栗太郡鈎に陣所を置き、近江守護の六角高頼を討伐しようとした一連の軍事行動である。長享・延徳の乱の前半にあたり、義尚が長期間にわたって鈎に滞在したことから「鈎の陣」と呼ばれる[1]。
背景
応仁の乱後の室町幕府では、将軍権力の回復が課題となっていた。近江守護の六角高頼は、近江国内の公家・寺社領や幕府奉公衆の所領などを押領し、幕府との対立を深めていた。これに対して足利義尚は六角高頼の討伐を決定し、諸国の軍勢を動員して近江へ出陣した[2]。
義尚の近江出陣

長享元年(1487年)9月、足利義尚は自ら軍勢を率いて近江へ出陣した。義尚は坂本に着陣した後、同年10月4日に栗太郡の安養寺へ移動した。六角高頼は幕府軍との正面衝突を避け、甲賀方面へ退いた[3]。
同年10月27日、義尚は安養寺から鈎にあった延暦寺僧・真宝坊の居館である真宝館へ陣を移した。真宝館は現在の栗東市上鈎付近に比定され、これ以後の義尚の近江在陣が「鈎の陣」と呼ばれる[4]。
鈎の陣
鈎の陣は、単一の城郭や陣地ではなく、将軍の本陣を中心として諸大名や幕府関係者の陣所が周辺に配置された広域的な軍事拠点であった。栗東市の資料では、現在の上鈎・下鈎・安養寺周辺を中心として陣が構成され、将軍の居所である御所を中心に複数の陣が置かれていたとされる[1]。
義尚は鈎に長期間滞在し、幕府の政務も陣中から行われた。滋賀県の資料では、義尚は1487年の近江出陣から1489年3月に陣所で没するまで、およそ2年半にわたり近江に滞在したとされる[3]。
一方、六角高頼は甲賀方面に退き、甲賀の国人衆らの支援を受けて幕府軍に抵抗した。このため義尚の討伐は長期化し、六角氏を完全に屈服させることはできなかった[5]。
足利義尚の死去

延徳元年(1489年)3月26日、足利義尚は鈎の陣所において病没した。享年25。義尚の死去により近江への親征は中止され、六角高頼討伐も一旦終結した[2]。
義尚の死後、将軍職は足利義材が継承した。義材はその後、六角氏に対する再度の討伐を行うことになり、長享・延徳の乱は次の段階へ移行した[2]。
陣所跡
現在、鈎の陣所跡の有力な候補地とされているのが、栗東市上鈎の永正寺周辺である。永正寺周辺には土塁などの遺構が残されており、1956年(昭和31年)には旧栗東町の史跡として「足利義尚公陣所跡」に指定された[6]。
ただし、現在残る永正寺の土塁が足利義尚の陣所に伴うものであることを直接裏付ける確実な証拠は確認されていない。栗東市は、永正寺周辺を鈎の陣の有力な候補地として位置付けている[6]。
また、栗東歴史民俗博物館には「鈎里陣図」が所蔵されており、鈎の陣に関する歴史資料の一つとなっている[7]。
名称
「鈎」は現在の栗東市に残る地名で、「上鈎」「下鈎」などにその名が残っている。「鈎」は「まがり」と読む。滋賀県文化財保護協会によれば、「鈎」は「鉤」の異体字であり、地名としての由来については古代の勾君との関係が指摘されている[8]。
脚注
- 1 2 “りっとう再発見 栗東に残る日清戦争”. 栗東市. 2026年9月10日閲覧。
- 1 2 3 “足利義尚について知りたい。”. レファレンス協同データベース(滋賀県立図書館). 2026年9月10日閲覧。
- 1 2 “「戦国の近江」地域の魅力発信事業”. 滋賀県. 2026年9月10日閲覧。
- ↑ “足利義尚陣所跡”. コトバンク(日本歴史地名大系). 2026年9月10日閲覧。
- ↑ 横田信也 (2022). “鈎の陣─新時代を呼んだ甲賀衆の活躍─”. 国際忍者学会発表要旨 2026年9月10日閲覧。.
- 1 2 “りっとう再発見220 地域の中での鈎(まがり)の陣”. 栗東市. 2026年9月10日閲覧。
- ↑ “栗東の歴史と民俗”. 栗東歴史民俗博物館. 2026年9月10日閲覧。
- ↑ “「鈎の陣所」跡と伝わる遺構―栗東市永正寺の土塁”. 滋賀県文化財保護協会. 2026年9月10日閲覧。
参考文献
- 栗東町史編さん委員会『栗東の歴史 第4巻 資料1(考古編・美術工芸編・民俗編)』栗東町役場、1994年。
- 滋賀県教育委員会『滋賀県中世城郭分布調査3 旧野洲・栗太郡の城』滋賀県教育委員会、1985年。
- 滋賀県百科事典刊行会編『滋賀県百科事典』大和書房、1984年。
- 『日本歴史地名大系』「足利義尚陣所跡」平凡社。
- 横田信也「鈎の陣─新時代を呼んだ甲賀衆の活躍─」『国際忍者学会発表要旨』2022年。