鍾紹京

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鍾 紹京(しょう しょうきょう、生没年不詳)は、唐代の書家・官僚。字は可大[1]。本貫は虔州贛県[2][3]。

経歴

鍾法遵(字は従道)の子として生まれた[1]。はじめ司農寺録事となった。書道に巧みで鳳閣に宿直し、武則天のときに明堂の門額や九鼎の銘、および諸宮殿の門榜などを書いた。景龍年間、宮苑総監となった。唐隆元年(710年)、臨淄郡王李隆基が韋皇后を殺害するのにあたって、紹京は戸奴や丁夫を率いて従った。その夜のうちに銀青光禄大夫・中書侍郎に任じられ、国政の機密に参与した。翌日、中書令に進み、光禄大夫を加えられ、越国公に封じられた。朝廷で任用され、賞罰をほしいままにしたため、当時の人に憎まれた。薛稷の上奏により、戸部尚書に転じ、蜀州刺史として出された[4][3]。

先天元年(712年)、玄宗(李隆基)が即位すると、紹京は長安に召還されて再び戸部尚書に任じられ、太子詹事に転じた。ときに姚崇に憎まれ、怨言があったと上奏されて、綿州刺史に左遷された。事件に連座して、さらに琰川県尉に左遷され、爵位や実封も全て削られた。まもなくさらに温州別駕に転じた。開元15年(727年)、入朝して玄宗の前で涙を流し、その日のうちに銀青光禄大夫・右諭徳に任じられた。長らくを経て、少詹事に転じた。八十数歳で死去した。紹京は書画の古跡を好み、王羲之・王献之や褚遂良の書数百巻を収集していた。建中元年(780年)、重ねて太子太傅の位を追贈された[5][3]。

子女

  • 鍾嘉璧(晋州長史)[1]
  • 鍾嘉諤(太子典膳郎、山陰県公)[1]
  • 鍾嘉偉(左領軍衛長史)[1]

脚注

  1. 1 2 3 4 5 新唐書 1975, p. 3355.
  2. ↑ 旧唐書 1975, p. 3041.
  3. 1 2 3 新唐書 1975, p. 4329.
  4. ↑ 旧唐書 1975, pp. 3041–3042.
  5. ↑ 旧唐書 1975, p. 3042.

伝記資料

参考文献

  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。 
  • 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。