鎌倉七口

鎌倉七口(かまくらななくち)または鎌倉七切通(かまくらななきりどおし)とは、三方を山に囲まれた相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)への陸路の入口を指す呼称である。一般に、極楽寺坂切通、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝夷奈切通、名越切通の七つをいう[1]。
鎌倉は南方を海に、その他の三方を丘陵に囲まれた地形にあり、陸路で出入りするには山越えの道や海岸沿いの道を通る必要があった。鎌倉幕府の成立後、政治・経済の中心地として都市が発展すると、周辺地域との交通を確保するため、丘陵を切り開いて道路を整備することが重要となった。鎌倉七口は、こうした交通路のうち、後世に代表的な七つとしてまとめられたものである[2]。
概要
各切通

鎌倉七口として一般に挙げられる七つの切通は、鎌倉から周辺地域へ向かう交通路に位置している。各名称は、江戸時代の地誌などに見られる表記と現在の名称が異なる場合がある[1][3]。
一般に挙げられる七つは以下のとおりである。極楽寺坂切通以外の六つは国の史跡に指定されている[4]。
- 極楽寺坂切通(北緯35度18分33.4秒 東経139度31分54.5秒 / 北緯35.309278度 東経139.531806度)
- 大仏切通(北緯35度19分7.6秒 東経139度31分53.5秒 / 北緯35.318778度 東経139.531528度)
- 化粧坂(北緯35度19分33.4秒 東経139度32分41.4秒 / 北緯35.325944度 東経139.544833度)
- 亀ヶ谷坂(北緯35度19分49秒 東経139度33分0.6秒 / 北緯35.33028度 東経139.550167度)
- 巨福呂坂(北緯35度19分42.6秒 東経139度33分15.9秒 / 北緯35.328500度 東経139.554417度)
- 朝夷奈切通(北緯35度19分36.5秒 東経139度35分22.3秒 / 北緯35.326806度 東経139.589528度)
- 名越切通(北緯35度18分26.3秒 東経139度33分53.4秒 / 北緯35.307306度 東経139.564833度)
- 1.極楽寺坂切通
- 2.大仏切通
- 3.化粧坂
- 4.亀ヶ谷坂
- 5.巨福呂坂
- 6.朝夷奈切通
- 7.名越切通
呼称と分類の成立
江戸時代初期の記録
「鎌倉七口」という分類の史料上の初見として挙げられるのが、江戸時代初期の寛永末から正保年間(1640年代前半)頃に成立したと推定される『玉舟和尚鎌倉記』である。同書は、玉舟和尚が鎌倉を訪れた際の見聞を記したもので、鎌倉市中央図書館のレファレンス資料では、寛永末から正保頃の成立と推定されている[5]。
『玉舟和尚鎌倉記』に記される七つの坂名は、大仏坂、ケワイ坂、亀ヶ井坂、小袋坂、極楽寺坂、峠坂、名越坂である。これらは、現在の大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、極楽寺坂切通、朝夷奈切通、名越切通にそれぞれ対応する名称と考えられる。
『鎌倉日記』と『新編鎌倉志』
1674年(延宝2年)、徳川光圀は鎌倉の史跡を訪れ、その見聞を家臣の吉弘元常・河井恒久らにまとめさせた。これが『鎌倉日記』である。さらに、光圀は河井恒久らに鎌倉の調査と地誌の編纂を命じ、1685年(貞享2年)に『新編鎌倉志』が刊行された[3]。
『鎌倉日記』では、ケワイ坂を「化粧坂」、亀ヶ井坂を「亀ヶ谷坂」、小袋坂を「巨福呂坂」、峠坂を「朝比奈切通」、大仏坂を「大仏切通」、極楽寺坂を「極楽寺切通」、名越坂を「名越切通」とする名称が見られる。これらの表記は、現在一般に用いられる七つの名称が近世の地誌において整理されていく過程を示すものとして重要である。
『新編鎌倉志』は、徳川光圀の命によって編纂された江戸時代の地誌である。印刷博物館の所蔵資料解説によれば、100冊以上の資料をもとに考証・編纂され、1685年に8巻12冊で刊行された。同書は、江戸時代の鎌倉の地名や名所のあり方を検討するうえで重要な史料である[3]。
近世地誌における定着
江戸時代後期には、1829年(文政12年)の『鎌倉攬勝考』、1841年(天保12年)の『新編相模国風土記稿』などにも、鎌倉の坂や切通に関する記述が見られる。これらの地誌は、近世における地名や名所の認識をたどるための資料となる。
ただし、七つの道路が鎌倉時代に同時に設けられ、当時から一つの固定した分類として認識されていたことを示すものではない。「鎌倉七口」という呼称は、京都の「京の七口」などの呼び方にならって、鎌倉への入口を七つにまとめた後世の名数と考えられている[1]。
歴史
整備の背景
鎌倉は南方を海に、その他の三方を丘陵に囲まれた地形にあり、周辺地域と結ぶ陸路は山越えや海岸沿いの道に限られていた。鎌倉幕府の成立後、鎌倉が政治・経済の中心地として発展すると、人や物資の往来が増え、周辺地域との交通路の整備が重要になったと考えられている[2]。
鎌倉幕府の執権を務めた北条氏と、三浦半島を基盤とした三浦氏との対立も、鎌倉周辺の交通路や防御施設を考えるうえで重要な背景である。交通の確保と防御の双方が、場所や時期によって異なる形で関係していたと考えられる[6]。
鎌倉の切通しについては残された史料が少なく専門的な調査もあまり進んでいない[6]。鎌倉幕府の執権北条氏による切通しの整備の背景には京都の朝廷に対する警戒感や、三浦半島で勢力を拡大しつつあった三浦氏との対立関係があるとされている[6]。
『吾妻鏡』に見える道路
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、鎌倉周辺の道路に関する記述が見られる。そこには「ケワイ坂」「六浦路」「名越坂」などの名称が登場する。また、「山内道路」と記された道は、現在の亀ヶ谷坂または巨福呂坂に関係する道路と考えられている。
一方、現在の七口に含まれない「小坪坂」や「稲村路」なども記録されている。このことから、鎌倉時代の道路網は、後世の「七口」という分類だけでは捉えきれないものであったことが分かる[6]。
「大仏坂」は鎌倉時代の史料では確認されていないとされる。また、極楽寺坂切通については、極楽寺の開山である忍性が開いたという伝承がある。これらの道路については、史料上の記録が確認できるものと、伝承や後世の地誌によって知られるものとを区別する必要がある[7][8]。
朝夷奈切通の整備
朝夷奈切通は、鎌倉と東京湾に面した六浦(現在の横浜市金沢区)を結ぶ交通路である。鎌倉市の解説によれば、『吾妻鏡』には、北条泰時の監督下で仁治2年(1241年)から仁治3年(1242年)にかけて工事が行われたことが記されている。工事の遅延に際し、泰時自身が土石を運んだとする記録もある[9]。
六浦は房総方面や東京湾の内海航路につながる地域であり、朝夷奈切通は鎌倉へ物資を運ぶ交通路として重要な役割を担ったと考えられている。鎌倉市は、切通道と周辺地域を国指定史跡として紹介しており、中世都市鎌倉と周辺地域との交通関係を示す遺構として位置づけている[9]。
「朝夷奈」という名称については、和田義盛の三男である朝夷奈三郎義秀が一夜で切通を切り開いたという伝説がある。鎌倉市の解説では、この伝説が江戸時代頃から生まれたとされる。一方、鎌倉時代にこの道筋が「六浦路」と呼ばれていたことも『吾妻鏡』の記述からうかがえる[9]。
名越切通と周辺の遺構
名越切通は、鎌倉と逗子市小坪を経て三浦方面を結ぶ峠道である。文化庁の「国指定文化財等データベース」によれば、開削時期は明らかでないものの、『吾妻鏡』の天福元年(1233年)8月18日条に「名越坂」の記載があり、この頃までには整備されていたと考えられている[10]。
名越切通周辺では、切通路だけでなく、平場、堀切、切岸、石切場、やぐらなどの遺構も確認されている。これらの遺構は、切通周辺が単なる通行路ではなく、中世都市鎌倉の境界領域として多様な機能を持っていたことを示している[10]。
逗子市による発掘調査では、現在の第一切通の路面下に複数回の補修痕跡が確認され、最下層の路面付近から18世紀後半以降の陶磁器片が出土した。現在の道幅が狭くなっている箇所についても、江戸時代にはより広く、地震などによる崖の崩落と復旧が繰り返された結果、現在の形になったと考えられている[2]。
近世以降の道路の変遷
鎌倉七口の各道路は、その後も交通路として利用され、改修や補修が行われてきた。名越切通の発掘成果は、切通の路面や道幅が長期間にわたって変化してきたことを示す具体例である。道路の形状は、地形や災害、交通の需要などによって変化し、現在の景観には複数の時代の痕跡が重なっている[2][6]。
極楽寺坂切通は、かつての道が現在の成就院山門付近の高さを通っていたとされるが、現在は旧状をほとんどとどめていない。大仏切通は、現在も旧状を比較的よく残す場所として鎌倉市に紹介されている[7][11]。
各切通の特徴
極楽寺坂切通
極楽寺坂切通は、鎌倉の西側に位置し、極楽寺の谷から坂ノ下方面へ抜ける道である。鎌倉市によれば、稲村ヶ崎の波打ち際を通る従来の道に代わる、鎌倉と京都を結ぶ往還路として開かれたと伝えられる。極楽寺の開山忍性が開いたという伝承があり、かつての道は現在の成就院山門付近の高さを通っていたとされる[7]。
『日本歴史地名大系』の解説では、建長4年(1252年)に宗尊親王が鎌倉に入った際、稲村ヶ崎を回ったことから、切通の開通はそれ以後であった可能性が指摘されている。ただし、これは開通年代を直接記した史料ではなく、関連する記録から導かれた推定である[8]。
大仏切通
大仏切通は、鎌倉市常盤から大仏トンネル上付近にかけて位置する切通である。鎌倉市の解説では、常盤、梶原、藤沢を経て武蔵方面へ通じる要路として利用されたとされる。現在は全行程を歩くことができないものの、旧状を比較的よく残す切通の一つである[11]。
化粧坂
化粧坂は、鎌倉の北西部に位置する切通である。江戸時代初期の『玉舟和尚鎌倉記』では「ケワイ坂」と記され、後世の『鎌倉日記』などでは「化粧坂」の表記が用いられる。名称の変遷は、近世の地誌における鎌倉の地名の整理を示す例の一つである。
亀ヶ谷坂
亀ヶ谷坂は、鎌倉の山内方面と市街地を結ぶ切通である。『玉舟和尚鎌倉記』では「亀ヶ井坂」と記され、後世の地誌では「亀ヶ谷坂」と表記される。『吾妻鏡』に見える「山内道路」との関係が指摘されるが、同道路と現在の亀ヶ谷坂との対応については、史料と地形を照合して検討する必要がある[6]。
巨福呂坂
巨福呂坂は、鎌倉の北側に位置し、山内方面へ通じる道路の一つである。『玉舟和尚鎌倉記』では「小袋坂」と記され、後世の地誌では「巨福呂坂」の名称が用いられる。現在は新道の整備などによって旧来の切通の姿が大きく失われているとされ、歴史的な道路の位置や形状を考えるうえでは、古地図や地誌などの資料が重要となる。
朝夷奈切通
朝夷奈切通は、鎌倉と六浦を結ぶ東側の交通路である。『吾妻鏡』には仁治2年(1241年)から仁治3年(1242年)にかけての工事が記されており、北条泰時の監督下で整備されたとされる。六浦を通じて東京湾方面と結ばれることから、鎌倉への物資輸送において重要な役割を担ったと考えられている[9]。
名越切通
名越切通は、鎌倉から逗子市小坪を経て三浦方面へ通じる道路である。『吾妻鏡』の天福元年(1233年)8月18日条に「名越坂」と記され、鎌倉時代前半にはすでに整備されていたと考えられる[10]。
切通の周辺には、まんだら堂やぐら群や大切岸などの遺構がある。逗子市の発掘調査では、現在の切通路の下に江戸時代の路面が確認される一方、別の場所では中世に遡る可能性のある道路状遺構も発見されている。これらの成果は、現在の切通の景観が複数の時代の改修によって形成されたことを示している[2][10]。
現状と保存
鎌倉七口のうち、極楽寺坂切通を除く六つは国の史跡に指定されている。また、文化庁の「歴史の道百選」では、1996年(平成8年)に「鎌倉街道―七口切通」が選定された[4]。
各切通の保存状況は一様ではない。極楽寺坂切通は現在の道路として利用され、旧来の形状をほとんど残していない。一方、大仏切通や朝夷奈切通、名越切通などには、切通特有の地形や岩壁が残されている。ただし、遺構が比較的よく残る場所でも、現在の道が鎌倉時代の形状をそのまま維持しているとは限らない[7][11][9][2]。
名越切通では、崖面の崩落対策や発掘調査、史跡の保存整備が進められてきた。逗子市は、切通路や周辺の遺構を含む広い範囲を国指定史跡として保護し、発掘調査の成果を保存管理に反映させている[2]。
脚注
- 1 2 3 “鎌倉七口”. コトバンク. 小学館・平凡社ほか. 2026年10月13日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 “国指定史跡 名越切通”. 逗子市公式サイト. 2026年10月13日閲覧。
- 1 2 3 “『新編鎌倉志』”. 印刷博物館. TOPPANホールディングス. 2026年10月13日閲覧。
- 1 2 “第1章 鎌倉市の歴史的風致形成の背景”. 鎌倉市. 2026年10月13日閲覧。
- ↑ “『玉舟和尚鎌倉記』が見たい。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2026年10月13日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 谷口 史記. “古都鎌倉の歴史に触れる「切通し」”. 建設コンサルタンツ協会. 2021年9月21日閲覧。
- 1 2 3 4 “26 極楽寺坂切通”. 鎌倉市. 2026年10月13日閲覧。
- 1 2 “極楽寺坂切通”. コトバンク. 平凡社. 2026年10月13日閲覧。
- 1 2 3 4 5 “史跡朝夷奈切通”. 鎌倉市. 2026年10月13日閲覧。
- 1 2 3 4 “名越切通”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2026年10月13日閲覧。
- 1 2 3 “25 大仏切通”. 鎌倉市. 2026年10月13日閲覧。
参考文献
- 谷口史記「古都鎌倉の歴史に触れる『切通し』」『建設コンサルタンツ協会誌』273号。
- 逗子市教育委員会編『史跡名越切通―整備事業に伴う発掘調査報告書―』逗子市教育委員会、2012年。
関連項目
外部リンク
- 鎌倉七切通 - 鎌倉市
- 史跡朝夷奈切通 - 鎌倉市
- 国指定史跡 名越切通 - 逗子市
- 鎌倉市の歴史的風致形成の背景 - 鎌倉市
- 『新編鎌倉志』 - 印刷博物館
- 古都鎌倉の歴史に触れる「切通し」 - 建設コンサルタンツ協会
- 鎌倉七口 - コトバンク