長森敬斐

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長森 敬斐(ながもり けいひ、天保5年(1834年) - 明治35年(1902年)6月24日)は、佐賀藩士、司法官、官僚。法制局参事官、法律取調報告委員などを務め、明治初期の法典編纂に携わった。通称伝次郎。字は子文[1]。東京地方裁判所判事、株式会社壬午銀行監査役なども務めた[2]

生涯

佐賀藩士加賀伊卿の次男として生まれ、長森家の養子となって家督を継いだ。長森家は林信篤の門人を祖とする家系で、佐賀において代々学問を講じた家柄であった[1]。

安政元年(1854年)頃、江戸へ遊学し、文史を広く学んだ。幕末には佐賀藩主鍋島直正の命を受けて京都へ赴き、諸藩士らと交遊しながら京都の情勢を探った。維新後は藩政を離れ、明治5年(1872年)、江藤新平の推薦によって左院五等議官となり、法制を担当した[1]。

以後、七等判事、判事、検事局判事、太政官権大書記官などを歴任し、明治14年(1881年)には参事院議官補、翌15年には五等官となった。その後法制局参事官に転じ、法律取調報告委員として法典編纂に従事した[1]。

民法、商法、会社法、破産法、違警罪即決例などの制定に関与し、欧州法をそのまま移入するのではなく、日本の習俗・社会事情を考慮して法制度を整えることに努めた。明治期の新法典整備において重要な役割を果たした人物の一人である[1]。

明治34年(1901年)に致仕し、翌明治35年(1902年)6月24日に死去。享年69。没日に特旨をもって正五位に叙され、勲五等を受けた。退官後は渋谷に居住し、「學稜園」と称して梅を植え、読書や詩作に親しんだ[1]。墓所は青山霊園[3]。

長森の養嗣子となった長森藤吉郎(旧姓野田)は、日本法律学校の創立者の一人として法学教育にも関わった。

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 東京美術 1988, p. 654.
  2. ↑ 日本現今人名辞典発行所 1901, p. 68.
  3. ↑ “日本大学大学史編纂課だより”. 第8号. 2026年10月24日閲覧。

参考文献

  • 『明治過去帳 物故人名辞典 新訂版』東京美術、1988年、654頁。
  • 『日本現今人名辞典 訂正2版』日本現今人名辞典発行所、1901年、68頁。