長森藤吉郎
長森 藤吉郎(ながもり とうきちろう、1860年(万延元年) - 1920年(大正9年)6月29日)は明治・大正時代の司法官、実業家、教育者。司法官僚から日本法律学校(現日本大学)の運営に転じ、山田顕義急逝後の日本法律学校廃校の危機にあたった。桂太郎内閣の大蔵官房長、東洋ガラス製造会社専務、満韓塩業会社取締役も務めた[1]。
生涯
万延元年に野田素平の次男として佐賀に生まれた。明治13年司法省法学校3期生として入学、明治21年帝国大学法学部を卒業、司法省検事試補となった[1]。
明治22年の日本法律学校の設立にあたり宮崎道三郎、樋山資之とともに幹事となって設立計画を推進し、開学後は法学・民法の講義を担当[1]。
明治23年に長森敬斐の長女と結婚、婿養子となる。同年東京始審裁判所詰検事となり貴族院書記官を兼務、その後東京地方裁判所検事、高知・大津地方裁判所検事正を経て明治31年に司法大臣秘書官、東京地方裁判所検事正に進む。明治34年に司法官増俸案否決に抗議する同盟辞職の首謀者として免職されるも、その手腕を買われて同年大蔵省官房長に就任。明治36年に辞任後は東洋硝子製造専務、満韓塩業会社取締役を歴任し、大正9年に死去した[2]。
親族
脚注
- 1 2 3 “日本大学大学史編纂課だより”. 日本大学大学史編纂課だより第8号. 2026年10月24日閲覧。
- ↑ 日本人名大辞典+Plus, 20世紀日本人名事典,デジタル版. “長森藤吉郎(ナガモリ トウキチロウ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2026年10月23日閲覧。
- ↑ “ECLIPSE_202302_13-19”. carrotclub.net. 2026年10月23日閲覧。