門馬千代
もんま ちよ 門馬 千代 | |
|---|---|
| 生誕 |
1899年2月17日 東京市小石川区(現・東京都文京区) |
| 死没 | 1988年8月25日(89歳没) |
| 出身校 | 東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学) |
| 職業 | 数学教師、秘書 |
門馬 千代(もんま ちよ、1899年〈明治32年〉2月17日 - 1988年〈昭和63年〉8月25日)[1]は、日本の数学教師、秘書である。作家の吉屋信子を支え、公私にわたって終生のパートナーとなった人物である。
1923年(大正12年)1月に山高しげりの紹介で吉屋と出会い、後には秘書として彼女の創作活動を支えるとともに、生活や精神の面でも無二の理解者であり続けた[2]。1957年(昭和32年)に吉屋の養女となり、吉屋が1973年(昭和48年)に死去するまでともに過ごしている[3]。吉屋の死後は、全集の年譜作成や記念館の運営など吉屋の遺した仕事の総仕上げに当たっている[4][5]。
生涯
生い立ちと学生時代
小石川の生まれ[1]。元相馬藩士の門馬常次と妻ハツの間に長女として生まれ、下には弟と妹がそれぞれ3人いた[6][7]。
父の門馬常次は結婚後に東京に出て国文学を学び、後には教育者として立教女学院の校長を務めている[6]。千代は生家にある古典書籍に親しんで成長し、東京府立第二高等女学校(現・都立竹早高校)から東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)へ進んだ[1]。東京女子高等師範学校では山高しげりと同級であった[8][9]。
山高と千代は、親が教師を務めるなど家庭環境が似ていたうえに住まいも近かったので、すぐにお互いの家を往来する仲になった[9]。山高によると、東京女子高等師範学校時代、千代の母ハツはまだ30代で、目の大きいやせ型の美人だったのでクラスでもよく話題となっていた[9]。ただし千代の方は、顔なども素は黒いわけでもないのにときどき洗うのを忘れてくるなど全く洒落っ気のない性格であった[9]。理科に在籍しながらも文学にも深い興味を持ち、「哲学者」というあだ名までついていた[9]。
千代は両親について、父常次より母のハツの方がはるかに聡明であり、文学的な才能にも恵まれていることを感じ取っていた[6]。ハツは千代より18歳年長であったが、次々と子供を生み育て家計のやりくりにも苦しみつつ、その才を活かすすべを持っていなかった[6]。その姿が千代には痛ましいものに映り「自分にはとてもそんな生き方はできない」と思っていた[6]。ハツは千代に対しては無批判に男尊女卑の思想を教え込もうとせず、良妻賢母思想に縛られ続けている父常次から千代をかばい続けた[6]。吉武輝子は自著『女人吉屋信子』(1982年)でハツのこの行動について「女の定めにしたがって生きた自分の人生を悔いる思いがあったからだろう」と推測している[6]。
さらにハツは、女学校から東京女子高等師範学校への進学の道も開いてくれていた[6]。ハツは千代の学費のために夜ごと仕立物に励み、それに対する感謝の念が、後の同性への憧憬の出発点となっていったことも吉武は指摘している[6]。
吉屋に出会う前、千代は東京女子高等師範学校時代の友人植野キヨ(後の武田キヨ)に想いを寄せていた[10]。キヨは千代より3歳年上で、山高しげりの紹介によって知り合っていた[10]。山高は引っ込み思案の傾向のあった千代にたくさんの友人を紹介してくれたが、千代が心を開いたのはキヨのみであった[10]。キヨは端正な容姿の持ち主で、そのうえ文学的な感性に恵まれていた[10]。ただし千代の想いはキヨに伝わることなく、1919年(大正8年)4月にキヨは武田甲斐人(呉港高等学校の前身大正中学の初代校長として知られる)[11]のもとへ嫁いでいった[10]。のちにキヨは1946年(昭和21年)に日本自由党から衆議院選挙(広島選挙区)に立候補した(これは政界との結びつきを願う夫の意思であったといわれる)[10][12][13]。女性が参政権を得て初めてのこの選挙で、キヨは当選を果たした[10][12][13]。次回の総選挙でも当選しているが、3度目の選挙では落選している[12]。キヨは1954年(昭和29年)に脳溢血で急死した[10][12]。千代は後年まで「結婚さえしなければ文学の才能を花開かせることもできたし、あんな不本意な死をとげることもなかったのに」と悔やんでいた[10]。
吉屋信子との出会い
東京女子高等師範学校卒業後は数学教師の職を得て岩手県立盛岡高等女学校(現・県立盛岡第二高等学校)の教師となり[14]、東京に戻ってからは麹町高等女学校(現・麹町学園女子中学校・高等学校)に勤務した[1][8]。父常次は病身だったため、この時期は千代が弟妹の学費を負担していた[2]。
千代が3歳年上の吉屋信子と出会ったのは、1923年(大正12年)1月12日[注釈 1]のことであった[1][15]。千代に吉屋を紹介したのは、山高しげり(当時は金子姓を名乗っていた)であった[2][1][17]。千代と山高はこの時期も親しく手紙でのやり取りを続けていたが、山高は結婚生活に行き詰まりを覚えてその心情をたびたび千代に打ち明けていた[17]。やがて千代の父常次にその話が伝わり、常次の伝手から国民新聞の記者の職を得ていた[17]。やがて山高は取材を通じて吉屋の友人となっていった[2]。
千代と吉屋の出会いの契機となったのは、山高に対して吉屋が「女に友情なんかあるものか」と言ったところ山高がそれを受けて「あるわよ、フンケイの交わりが。嘘と思うなら、みせて上げてもいい」と答えて、その翌日に千代を吉屋の自宅に連れて行ったことだった[8][17]。千代と吉屋は互いに好意を抱き、急速に親しくなっていった[2][17][8]。
同年6月に入ると、千代と吉屋はアテネ・フランセでフランス語を共に学び始めた[18]。これは近い将来2人でソルボンヌ大学に留学し、それぞれ数学と文学を学ぶための準備であった[18]。吉屋の「ヘリオトロープ」(『花物語』の1編)はこの時期の2人をモデルとした佳作で、室生犀星は「これはむしろ小説というより詩と呼ぶにふさわしい」と称賛している[18]。
千代と吉屋は同年7月下旬から8月いっぱいを信州の山田温泉で共に過ごし、31日に東京へ戻った[2]。しかし、翌9月1日に関東大震災が発生し、千代は勤務校が罹災したため職を失った[2][1][19]。吉屋が当時住んでいた本郷の家は彼女の部屋の壁が数か所崩れた程度の被害であったが、大森に住む千代とは一時的に連絡が取れなくなった[19]。千代は吉屋のことを気遣いつつ数日を過ごし、9月4日の早朝に家を出て、余震の続く中を歩きぬいて吉屋との再会を果たした[19]。
同年10月下旬、吉屋は小説『薔薇の冠』取材のために長崎に向かい、千代も就職先を探すためにこの旅に同行した[2]。長崎には2か月ほど滞在し、1924年(大正13年)1月、千代は下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に勤めることになった[2][20]。
2人は下関で半年ほどともに暮らしたが、吉屋はその後東京に単身で戻った[2][20]。これは吉屋がこのまま下関にとどまっていると、千代が職を追われるかもしれないという懸念からの行動で、千代を失わぬため敢えて一時的に別れることを選んだものであった[20]。吉屋は千代に職を辞して東京に戻るようにたびたび要請した[2]。しかし千代の実家では父常次が震災後病床にあるうえに、上の弟も急性の「れうまちす」(リューマチ)にかかって高熱を発していた[2]。困窮を訴える実家のために、仕送りを続ける必要があった千代は吉屋の要請を拒まざるを得なかった[2]。この時期の吉屋と千代はおびただしい数の書簡を交わし、その中には「愛し合う二人がなぜ一緒になれないのか」という吉屋の嘆きが記されているものもあった[2][21][22]。
千代は1925年(大正14年)3月まで下関高等女学校で勤務を続けた[2][15]。千代の不在によって、吉屋は日々憔悴していた[3]。その様子を見かねた山高しげりの仲介によって、頌栄女学校への就職が決まった[2][1][3]。当時の千代について、教え子の1人赤尾静枝は「門馬千代先生の数学はきびしく、また忘れられないものがございます」と回想していた[注釈 2][23]。
東京に戻った千代は、1926年(大正15年・昭和元年)に下落合に吉屋自身が設計した家(前年完成したもので、バンガロー風の洋館であった)で同居生活を開始した[24][25]。そして2人は終生をともに過ごすことになった[3][24]。
洋行と第二次世界大戦
関東大震災で1度は大打撃を受けた出版界は、大正末期から昭和初期にかけて1冊1円の文学全集(いわゆる円本)の流行によって上昇気流に乗り、吉屋もこれを受けて多額の収入を得ることができた[26]。吉屋はかねてからの念願であった洋行を決意し、1928年(昭和3年)9月に千代とともに旅立った[26]。このとき千代は「欧米の教育視察」を名目に文部省嘱託の肩書を得て、頌栄高等女子学校を1年間休職している[26]。
千代と吉屋は神戸から大連まで船に乗り、ハルピンからはシベリア鉄道でソビエト連邦、ドイツ、ベルギーを経てフランスに到着した[26]。フランスでの2人はパリを拠点として、イギリスやイタリアにも赴き、アメリカ経由で1929年(昭和4年)9月に帰国している[26]。
帰国後の吉屋は日本国外での経験を作品に昇華させて、女性に対する偏見や男女間における不平等などへ切り込んだ『女の友情』(1933年)や『良人の貞操』(1936年)などの話題作を発表していった[26]。1931年(昭和6年)、千代は多忙を極める吉屋のため教職を退き、秘書兼家事などを務めることになった[27][28]。これはかねてから吉屋が千代にたびたび要請していたことでもあった[28]。吉屋は作家としての能力とは裏腹に生活者としては無能だったため、実務に長けた千代がその欠点を上手く補うことができた[16]。1936年(昭和11年)、吉屋は牛込区砂土原町(鍋島家屋敷跡の分譲地であった)[28]に吉田五十八設計の家を新築し、千代とともに移り住んだ[28][29]。
時局が戦時体制に近づいていくにつれて国家挙げての「総力戦」とされていき、文壇もその例外にはならなかった[30]。前年の日中戦争開戦を受けて1938年(昭和13年)には「ペン部隊」(火野葦平、菊池寛、久米正雄、林芙美子などの作家で構成)が結成され、20人以上の作家が戦地まで赴いた[30]。ペン部隊結成前の1937年(昭和12年)には吉屋も千代を伴って「主婦の友」の特派員として中国華北地方に旅立ち、その後もペン部隊の一員としてたびたび2人で戦地を訪れていた[30]。
戦局は悪化の一途をたどり、用紙統制・言論統制が強まっていった結果、吉屋は執筆の場を失った[31][32]。そのような状況の中で吉屋は句作に慰めを見い出し、「ホトトギス」への投稿を通じて高浜虚子の知遇を得た他に星野立子とも友人になった[32][33]。2人は1944年(昭和19年)3月、鎌倉市長谷の別荘に疎開した[15]。鎌倉には星野の他に久米正雄(三汀)や石塚友二など多くの俳人が居住していた[32]。句会が方々で開かれていたが、戦時下で衣食住の事情に追われていた千代に出席の余裕はなかった[32]。ただしこの句会について後に「あの暗い時代の小さい灯、救いだったことはたしかだ」と回想している[32]。翌1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲によって砂土原町の留守宅が全焼した[15]。同年8月15日、2人は鎌倉の別荘で終戦を迎えた[15]。
終戦後、そして吉屋の死
終戦後の吉屋は旺盛な創作活動を続け、1950年(昭和25年)12月に麹町の新居(吉田五十八設計)に住まいを移した[15][29]。千代の両親が相次いで亡くなった後、1957年(昭和32年)2月3日に吉屋は千代を養女として入籍し、著作権継承者とした[34][35][36][7]。当日吉屋が書いた日記には「千代、私の籍に養娘として入る」とのみ記述されている[36]。これは信子と千代が東京と下関に別れ住んでいた時期から吉屋が切望し続けていたことであった[36][22]。吉屋の願いに対して千代は養女にはなりたくないと答え、2人の関係を「社会の規範に縛られない独自の形であるはずだ」と伝えていた[22]。吉武輝子の指摘によれば、吉屋自身には実際は夫婦同様の間柄であるものを同性同士であるために養子縁組という方法に粉飾せざるを得ないことへの抵抗があったといい、実際「将来法改正をさせるつもり」と文面にて宣言するほどであった[36]。
吉屋は一時期、三番目の兄忠明の次男夫妻と養子縁組をしていた[36]。その意図はこの夫妻に千代の老後を託そうと考えてのことであったが、この縁組はわずか1年で解消された[36]。吉屋は家や財産は千代と2人で築きあげて来たものだから、吉屋の死後にそのすべてを千代が引き継ぐのが当たり前でないかという考えに至った[36]。千代に改めて養女の件を提案したところ、千代もその話を受け入れた[36]。
1962年(昭和37年)5月、吉屋は鎌倉市長谷に吉田設計の新居を建て、そこが2人の終の棲家となった[15][29]。松本道子(元講談社文芸図書第一出版部長)は、軽井沢の別荘で千代と吉屋に面会した記憶を綴っている[37]。吉屋姓となっていた千代は落ち着いた物腰の女性であり、吉屋とともにいる様子は、とても仲の良い女学生同士がそのまま友情を保ち続けながら年を重ねたような雰囲気であったという[37]。
吉屋は晩年まで多岐にわたる分野で創作活動を続けていたものの、1972年(昭和47年)6月に結腸癌が見つかった[4][38]。これは検査を嫌がる吉屋を浦田トメ[注釈 3]が説き伏せ、検査を受けさせた結果判明したことだった[38]。「手術能わず」との電話連絡があり、その知らせを受けた千代は目の前が真っ暗になって倒れそうになったという[38]。しかし、千代はすぐに考え直し、病名を吉屋に気取られてはならないとあえて気丈にふるまい続けている[38]。後年の回想によれば、千代にとってのこの1年ほどは吉屋と暮らした50年の中でも辛く、悲しく、そして苦しい日々であった[38]。
吉屋は同年7月から9月まで恵楓園病院に入院し、退院後は自宅で療養していた[4]。吉屋は療養中も日記を書き続けていたが、その日記は1973年2月22日を最後に千代の代筆となっている[4]。そして、吉屋は同年2月に同病院に再入院し、7月11日に死去した[4]。臨終に立ち会ったのは千代と吉屋澤子(吉屋の次兄道明の一人娘)の2人であった[39]。吉屋は生前、自宅に近い高徳院に墓地を買い求めていた[40][41][42]。遺言により、墓所の設計は谷口吉郎が担当している[40][41]。
仕事の総仕上げ、そして晩年
吉屋の姪にあたる吉屋えい子[注釈 4]によれば、晩年の千代は竹の沢にあるライフケアマンションで過ごしていた[16]。このマンションは、元気だった時期の吉屋が千代のために購入して彼女に遺したものであった[16]。1975年(昭和50年)にえい子が千代を訪れた際、吉屋の思い出話とともに生前の吉屋が文鎮として愛用していた刀の鍔を譲られている[16]。
2人の旧居は、吉屋の遺言によって約6000冊の蔵書、資料、原稿などとともに鎌倉市に寄贈された[4]。山高しげりを始めとした吉屋の友人たちと鎌倉市側の委員によって吉屋信子記念館運営委員会が構成され、千代は管理者としてその一角に住み込んで吉屋の遺した仕事の整理にあたることになった[4][5]。そして鎌倉市は旧居を1978年(昭和53年)5月から吉屋信子記念館として、婦人の福祉、教養の場として開放した[4]。
千代は、吉屋が生前に詠んでいた俳句を私家版の小さな句集として世に出したいと考えていた[45][46]。句集については吉屋の生前にも何度か話があったが、このときは吉屋自身がすべて断っていた[40]。ただし吉屋は1969年(昭和44年)7月に記した句帳の扉に「今までの投句、句会にて句作せしものを集めておく、ある時機に自費刊行して知人に贈らんとも思う」と記すなど、世に出したいという思いを持ち続けていた[47]。
吉屋の墓前祭を開いた折にその話を東京美術の編集者に相談してみたところ、「出してみましょう」という返事があった[45]。『吉屋信子句集』は1974年(昭和49年)3月に発行され、千代は『吉屋千代』の名義で編者をつとめた[45][40][48]。句集の発刊に際して東京美術は吉屋と親交のあった星野立子と中村汀女に序文を依頼するなどの配慮を見せ、その計らいに千代は深く感謝している[45]。この句集は、女性の文人としては初めてのものとなった[46]。
千代は朝日新聞社発行の『吉屋信子全集』全12巻の仕事(年譜の作成など)を終えたのち、単独で山陰地方から萩へと旅をした[5]。1951年(昭和26年)、吉屋は珍しく千代を連れずに萩へ取材旅行に行き、「今度は一緒にね」と約束した経緯があった[5]。千代は吉屋の思い出をたどるかのように松江、出雲、萩、山口を訪ね歩き、その後次のような想いを記している[5]。
(吉屋は)鋭い洞察や不機嫌な家父長みたいな一面もときにはみせたが、ふだんは実に天真爛漫、童児のごとくに無邪気で可愛い人だった。(中略)五十年も一緒にいられたのはけっして一方的な私の忍耐や奉仕などない。(中略)しかし幸いにもお互の信頼と尊敬を見失わずにすんだ。人生の伴侶というか相棒というか、この人を得たことを私は仕合せに思っている。 — 『ゆめはるか吉屋信子 秋灯(あきともし)机の上の幾山河 下』[5]
千代は吉屋の遺言に従って吉屋澤子を養女とし、2人で記念館の運営にあたった[39]。吉武輝子は最晩年の千代に面会し、さまざまな話を聞いている[49]。千代は当時84歳で、吉屋と出会ってから60年の歳月が過ぎていた[49]。その3年前に経度の脳溢血で倒れた千代は、近い将来に吉屋と逢えるという安心感のためか積年の悲しみも薄らいでいた[49]。それと同時に、50年余り吉屋とともに過ごした思い出も忘れがちになっていた[49]。ただし、初めて吉屋に出会った日の記憶のみが千代の中で鮮明であったという[49]。
その後、千代は1988年(昭和63年)8月25日に89歳で没した[1]。澤子も1992年(平成4年)に没し、その任は吉屋幸子(澤子の長女)が引き継いでいる[39]。千代は吉屋と同じ高徳院の墓地に葬られ、墓誌には「吉屋千代」の名が刻まれた[42]。
評価
吉屋との共同生活
千代と吉屋の共同生活や密接な関係は、同時代の文壇や社会から多角的な視線を向けられていた[50][51][52][53]。当時の男性中心主義的な文壇やジャーナリズムにおいては、2人の関係をゴシップ的に書き立てる報道や、冷笑的あるいは否定的な評価を向ける男性知識層も少なからず存在した[51][52][53]。
その一方で、同時代の女性知識層からは信頼と高い評価を得ていた[50][54]。北畠八穂は、千代が吉屋の生活と執筆環境を献身的に支え、公私にわたる真のパートナーとして機能していたことと、1人の自立した女性としての優れた人柄を高く評価している[50]。湯浅芳子も、2人の共同生活が終生の成功を収めた背景について言及している[54]。湯浅自身は経験上、女性2人の共同生活についてはどこかに無理が生じて長く続かないのが普通と述べている[注釈 5][54]。2人の成功の要因は吉屋の経済的な裕福さに加えて千代の聡明さによるところも大きく、文学を仕事にした吉屋と数学を専攻した千代の結びつきも物を言っていることもあわせて指摘している[54]。このような女性知識層からの理解は、当時のマスコミなどによる通俗的な同性愛視とは一線を画するものであった[50][54]。
竹田志保は、吉屋と千代について「対外的には「秘書」などとして説明されたが、実質的には「結婚」であったと言ってよいだろう」と論じた[53]。千代は吉屋の秘書としてだけではなく、家事や身辺のことなど、さまざまな役割を務めて公私ともに吉屋を支え続けた[53]。それだけではなく、ときに千代は作品や仕事の方向性について厳しい評価を下す相手でもあった[53]。喧嘩をすることがあっても、吉屋は千代に終生信頼と感謝の念を持ち続け、千代もそれは同様であった[53][5]。
森まゆみは自著『断髪のモダンガール 42人の大正快女伝』(2008年)の中で、家父長制や男尊女卑の強かった時代において、抑圧されずに仕事を続けたい女性たちが多く同性のパートナーと暮らしていたことを指摘している[35]。千代と親しかった山高しげりもその1人で、一時は市川房枝と共同生活を送っていた[35]。山高は吉屋のパートナーとしてセーターを編んだり、フランス料理や日本料理を作ったりする千代について「東北大学へ行って女博士になるとのみ思いこまれた人のこの足跡を、私も今ではほほえましく眺め得る」と評している[35][17]。さらに森は、女同士で共同生活を全うしたのは千代と吉屋くらいではないかと合わせて指摘した[35]。実際に『鎌倉文士と文化人ら 下巻』(2022年)では千代と吉屋の関係を「女同士の友情、愛」を完遂した例としてとりあげている[7]。
人物
吉屋は千代のことを「千代子さん」あるいは「千子」と呼んでいた[35][56]。千代の方は「お姉さま」、「姉さま」、「ノコ」などと呼んでいる[19][57][58]。千代は北畠八穂や湯浅芳子のような同時代の女性知識人の他にも、山高しげり、宇野千代や林芙美子などにもその存在を認められ、理解されていた[50][59][60][61]。山高は終生2人と変わらぬ友情を保ち続け、宇野は吉屋への私信の中で「千代子さんにもよろしく」などとしばしば言及し、林は自著『交友記』で「吉屋さんと御一緒の門馬千代子さんも立派なひとで、あたたかな気持ちになるひとです」と高く評価している[59][17][60][61]。
吉武輝子は自著『女人吉屋信子』(1982年)で千代について次のように記述している[49]。
当時の写真を見ると決して美しくはないが、千代の理知とやさしさを湛えた双眸、静かだがその奥にごまかしのない一途さを感じさせる表情は、(中略)こうした千代が、(吉屋)信子の心を捉えぬはずがない。 — 『女人 吉屋信子』、pp.130-132.[49]
吉武によると、千代も同じく吉屋に会った瞬間から心を奪われていたという[49]。米琉の対の着物で装い、おかっぱ頭で前髪を短く切り揃えた吉屋は、千代の目にはアイヌのメノコのように可愛らしく映っていた[49]。吉武はさらに「千代は、(吉屋の)黒く光る瞳の中に、母マサには見えなかった、純粋で傷つきやすい童女の心を見たのだろう」と続けている[49]。
吉屋えい子は、吉屋の母マサが千代と吉屋が暮らす家に出入りしつつ、その生活を面白おかしく言いふらしていたことを記述している[62]。その話を聞いたえい子の父(吉屋の実兄)は「一緒にいる門馬千代がよくないのだ」と憤慨していた[62]。それに対してマサは「とんでもないこと。信子に千代さんのことを忠告などしてごらん。あれは泣いて狂ってしまうかもしれないよ」とたしなめていた[62]。えい子は吉屋と千代を「-とまれ、(吉屋)信子と千代のように生涯添い遂げた例は、やはり純愛と言ってよいであろう」と述べている[63]。
吉屋は1951年(昭和26年)に毎日新聞のインタビューで、千代について「千代子さんは律義者で、道徳観念がセイケツで、学問的な頭があって(中略)それにとっても愛情にとんでいるのよ。私ネ、もし男だったら、やっぱり千代子さんと結婚するわ」と述べている[64]。そして、吉屋は1965年(昭和40年)1月15日に「遺言書」を書いた[56]。そこには「ごあいさつ」と題した千代への言葉が付されていた[56]。
千代子さん、あなたの献身と厚い友情によって私は幸福な作家生活を愉しく送れました。深い感謝をささげ、仕合せに暮して下さい(後略) — 生誕一三〇年 吉屋信子 シスターフッドの源流』pp152-153.[56]
駒尺喜美は自著『吉屋信子 隠れフェミニスト』(1984年)で2人について次のように評している[34]。
だが、(吉屋)信子は家庭的にはまことに恵まれていた。門馬千代という、無二の親友であり、最高の理解者を伴侶にしていたのである。(中略)吉屋信子が自己の作品に集中できたのは、千代というよき人にめぐり会い、その人と共に生活することで、精神の安定を得、日常生活を支えられていたからである。 — 『吉屋信子 隠れフェミニスト』、pp.227-232[34]
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『時代を拓いた女たち第III集 かながわの112人』、pp.226-227.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 『生誕一三〇年 吉屋信子 シスターフッドの源流』、pp.44-47.
- 1 2 3 4 『女人 吉屋信子』、pp.197-199.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 『吉屋信子 隠れフェミニスト』、pp.275-278.
- 1 2 3 4 5 6 7 『ゆめはるか吉屋信子 秋灯(あきともし)机の上の幾山河 下』、pp.656-65.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『女人 吉屋信子』、pp.134-136.
- 1 2 3 『鎌倉文士と文化人ら 下巻』、pp.16-18.
- 1 2 3 4 『断髪のモダンガール 42人の大正快女伝』、pp.209-211.
- 1 2 3 4 5 『山鶯 随想集』、pp.63-70.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『女人 吉屋信子』、pp.136-138.
- ↑ “沿革”. 呉港高等学校. 2026年8月10日閲覧。
- 1 2 3 4 『新しき明日の来るを信ず はじめての女性代議士たち』、pp.146-14.
- 1 2 『新しき明日の来るを信ず はじめての女性代議士たち』、p.310.
- ↑ 『職員録 大正9年』、p.1128.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 『生誕一三〇年 吉屋信子 シスターフッドの源流』、pp.169-172.
- 1 2 3 4 5 6 『風を見ていたひと 回想の吉屋信子』、pp.21-30.
- 1 2 3 4 5 6 7 『山鶯 随想集』、pp.70-74.
- 1 2 3 『女人 吉屋信子』、pp.144-145.
- 1 2 3 4 『女人 吉屋信子』、pp.154-158.
- 1 2 3 『女人 吉屋信子』、pp.172-176.
- ↑ 『女人 吉屋信子』、pp.181-189".
- 1 2 3 “「生誕130年 吉屋信子展 シスターフッドの源流」横浜で開催 同性のパートナーと交わした書簡も公開”. 好書好日(朝日新聞文化部) . 2026年10月18日閲覧。
- 1 2 『頌栄女子学院百年史』、pp.298-301.
- 1 2 『生誕一三〇年 吉屋信子 シスターフッドの源流』、pp.48-53.
- ↑ 『女性が建てた家と間取り』、pp.108-109.
- 1 2 3 4 5 6 『生誕一三〇年 吉屋信子 シスターフッドの源流』、pp.70-79.
- ↑ 『生誕一三〇年 吉屋信子 シスターフッドの源流』、pp.169-171
- 1 2 3 4 『吉屋信子 隠れフェミニスト』、pp.269-273.
- 1 2 3 『女性が建てた家と間取り』、pp.110-117.
- 1 2 3 『生誕一三〇年 吉屋信子 シスターフッドの源流』、pp.94-101.
- ↑ 『生誕一三〇年 吉屋信子 シスターフッドの源流』、p.102.
- 1 2 3 4 5 『吉屋信子句集』、pp.210.
- ↑ 『生誕一三〇年 吉屋信子 シスターフッドの源流』、p.103.
- 1 2 3 『吉屋信子 隠れフェミニスト』、pp.227-232.
- 1 2 3 4 5 6 『断髪のモダンガール 42人の大正快女伝』、pp.212-213.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 『女人 吉屋信子』、pp.294-296.
- 1 2 『こどもの本』1986年2月号、pp.96-98.
- 1 2 3 4 5 6 『女人 吉屋信子』、pp.313-320.
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- ↑ 『吉屋信子句集』、pp.212-213.
- ↑ 『吉屋信子句集』、奥付.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 『女人 吉屋信子』、pp.130-132.
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- 1 2 『続・老記者の置土産:昭和を通じての人物談義)』、pp.96-98.
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- 1 2 3 4 5 6 『昭和史講義 【戦前文化人篇】』、pp.172-173.
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参考文献
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- 『増補版 吉屋信子 少女たちを鼓舞し、少女たちに愛された作家』河出書房新社、2026年。ISBN 978-4-309-03266-5
- 田中厚子、松下希和『女性が建てた家と間取り』株式会社エクスナレッジ、2025年。ISBN 978-4-7678-3511-2
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- 筒井清忠編 『昭和史講義 【戦前文化人篇】』筑摩書房〈ちくま新書〉、2019年。ISBN 978-4-480-07240-5
- 内閣印刷局編 『職員録 大正9年』 1920年。
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- 橋本治『とうに涅槃をすぎて』徳間書店〈徳間文庫〉1984年。ISBN 4195976529
- 森まゆみ 『断髪のモダンガール 42人の大正快女伝』文藝春秋、2008年。ISBN 978-4-16-369840-3
- 山高しげり 『山鶯 随想集』牧羊社、1975年。
- 湯浅芳子 『狼いまだ老いず』筑摩書房、1973年。
- ユニプラン編集部 『鎌倉文士と文化人ら 下巻』ユニプラン、2022年。ISBN 978-4-89704-546-7
- 吉武輝子 『女人 吉屋信子』文藝春秋、1982年。ISBN 4-16-337710-7
- 吉屋えい子 『風を見ていたひと 回想の吉屋信子』朝日新聞社、1992年。ISBN 4-02-258520-X
- 吉屋千代『吉屋信子句集』東京美術、1974年。
- 吉屋信子 『作家の自伝66 吉屋信子』日本図書センター、1998年。ISBN 4-8205-9510-5