革島氏

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革島氏
家紋
丸の内五本骨扇に月)
本姓 清和源氏佐竹氏流
家祖 革島義季(伝)
種別 武家・郷士・士族
出身地 常陸国
主な根拠地 革島城
著名な人物 革島幸政
革島一宣
革島秀存
革島忠宣
革島有尚
凡例 / Category:日本の氏族

革島氏(かわしまし、革嶋氏とも表記)は、中世から近世にかけて山城国葛野郡革島南荘(現・京都府京都市西京区川島)を本貫とした武家・国人領主。近世には同地の郷士、近代には士族となった。本姓は清和源氏で、常陸国の有力武家佐竹氏の一門と伝える。

鎌倉時代から室町時代・戦国時代・安土桃山時代・江戸時代・近代に至る約800年間の膨大な古文書群を伝来させており、一括して「革嶋家文書(二千四百五十九通)」の名称で重要文化財(国指定)に指定されている。

出自と草創

家伝(『源氏佐竹革嶋之系図』『源家革嶋之伝記』)によれば、清和源氏佐竹氏の祖・佐竹昌義の子(または佐竹義隆の弟)である佐竹義季(革島義季、佐竹昌成とも)を家祖とする[1][2]。治承4年(1180年)の金砂城の戦いの後、讒言によって源頼朝から所領を没収(永蟄居)された義季が、関白近衛基通の縁故を頼って上洛し、同家領であった山城国葛野郡革島庄に居住したのが始まりとされる[2][3][4]。

2代・義安の代に近衛家から革島南庄の下司職に補任されて土着し、北庄に平姓川島氏が在住していたことから「革島(革嶋)」を称したと伝える[2][5]。ただし、正嘉2年(1258年)の法花寺供田注進状において下司職が「曽我部氏女」と記載されていることなどから、初期の家伝をそのまま史実と見なすことには慎重な見解もある[2]。

史料上確実に存在が確認されるのは、正和元年(1312年)、義安から数えて7代目の憲安(幼名:亀寿丸)の代である[2][4]。近衛家より革島南庄下司職に任じる御教書および領家下文が発給されており、これ以降、代々同庄の下司職を相伝した[1][2]。

歴史

南北朝・室町時代

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、革島氏は西岡一帯を灌漑する桂川用水の開削・管理に深く関与した[1][2]。憲安の子・幸政はいち早く足利尊氏に従って軍功を挙げ、建武3年(1336年)に革島南庄の地頭職および領家職半分を宛行われ、同時に「西岡中脈被官」と呼ばれる幕府御家人に取り立てられた[1][2][5]。これにより、従来の近衛家庄官(下司職)の地位から、幕府直属の御家人・地頭へと飛躍を遂げた[2]。

観応の擾乱においても、景安が尊氏方として各地を転戦して感状を受けるなど軍功を重ねた[2]。その後、室町幕府政所執事伊勢氏の被官となり、西岡衆(西岡被官衆)の中核として幕府の軍事的基盤を支えた[1]。

室町時代中期から戦国時代にかけて、貞安の代には隣接する東寺領上野庄の代官職を請け負い、洪水からの復興などで力量を示した[2]。千代原用水・川島用水・今井溝といった灌漑水路の管理権を掌握するとともに、親宣・泰宣の代には下津林・上野・寺戸から丹波国多能村(現・京都府亀岡市)に至る広範な地域の田畠を買得・集積し、地主的性格を備えた有力国人領主へと成長した[1][2]。また、山城国一揆などの地域的な国一揆・惣国一揆の動向にも関与したとされる[1][6]。

戦国・安土桃山時代

長享元年(1487年)の長享・延徳の乱(鈎の陣)では、泰宣が将軍足利義尚に従軍して出陣した[2]。しかし戦国期の争乱が激化するなか、享禄4年(1531年)の天王寺の戦い(神尾合戦)で就宣が戦死し[2]、天文3年(1534年)に就宣の子・革島一宣が家督を継承した[2]。天文16年(1547年)には、細川晴元に対抗して挙兵した細川国慶によって居城の革島城が攻められている(『長享年後畿内兵乱記』)[4]。

永禄元年(1558年)、三好長慶の専横によって将軍足利義輝が近江国朽木谷へ逃れた際には、一宣の子・秀存(市介)がこれに従侍した[2][7]。しかし永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆らに殺害されると、三人衆方の岩成友通の圧迫を受けて革島庄を没収され、一宣らは丹波国栗田庄へ難を逃れた(革島城には鶏冠井氏が入部)[2][5][4]。

永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、一宣は信長に通じて鶏冠井氏を討ち、本領を回復した[2][4]。元亀元年(1570年)の信長による越前朝倉攻めでは水軍(桂川水運網)を率いて出陣し、戦功を挙げて旧領のほか月読社領分や北庄などを認められた[2][5]。

天正元年(1573年)、信長が足利義昭を追放した(槇島城の戦い)後、西岡一帯の支配を任された細川藤孝(長岡藤孝)が勝竜寺城に入ると、革島秀存は藤孝に随身して起請文を交わした[2][7]。秀存は相伝の本領に加え、革島南北庄一職や上野・千代原両村を加増され、上桂方面にまで勢力を拡大した[2]。天正9年(1581年)の京都御馬揃えにおいては、明智光秀組下の西岡衆の一員として一番手で行進に参加している[2][7]。しかし天正8年(1580年)に藤孝が丹後国へ転封された際、秀存はこれに同行せず本貫の西岡に残る道を選んだ[2][7]。

天正10年(1582年)の本能寺の変に際し、秀存は明智光秀に与して山崎の戦いに従軍した[1][2][4]。光秀方が敗北すると秀存は伊勢国へ逃亡して同地で病死し、家督を継いだ弟の忠宣は羽柴秀吉によって所領を悉く没収された[1][2][5]。忠宣は所領回復を期して秀吉の小田原征伐や文禄・慶長の役に従軍したものの本領復帰は叶わず、革島氏は武家領主としての地位を失って牢人となった[1][2]。

近世

武家としては没落したものの、革島氏は鎌倉以来の旧地である川島村(川嶋村)の居館に留まり、牢人・郷士として苗字帯刀を許される家格を保持した[1][2]。

寛文8年(1668年)から延宝5年(1677年)にかけての一時期、備後福山藩主水野氏(水野勝種)に仕官したものの、のちに退去して関係を解消した[1][2]。その後は他家への仕官を行わず、川嶋村を領地とする公家・鷹司家に仕え、村の年貢管理や肝煎的役割を担うことで中級武士相当の経済基盤を維持した[1][2]。

17世紀後半、第22代・幸元は家伝の編纂を行い、『源氏佐竹革嶋之系図』『源家革嶋之伝記』を著すとともに、中世末期から近世初頭の重要文書を「家宝遺墨」4巻として成巻・整理し、家の由緒の維持と保存を図った[1]。

また、江戸時代中期の儒学者で大坂懐徳堂の塾主を務めた中井竹山は革島家の姻戚にあたり、竹山は財政難に陥っていた革島家の家産再建に深く尽力した[1]。

近代

幕末期、当主・革島有尚は尊王攘夷運動に身を投じ、長州藩の品川弥二郎や薩摩藩の高崎正風ら志士と広く交友を結んだ[1]。戊辰戦争では有栖川宮熾仁親王率いる東征大総督府の下で旗本隊軍監を務めた[1]。

明治維新後、有尚は病気のため新政府に出仕できず、当初は士族に列せられず不遇を託したが、大原野神社宮司や陵掌などを務めた[1]。長年にわたる運動の末、大正3年(1914年)に正式に士族編入が認められた[1]。近代以降、革島家からは医家(旧医院建築は登録有形文化財「革島医院」)なども輩出している。

歴代当主・主な人物

  • 革島義季(佐竹義季 / 佐竹昌成):佐竹昌義の五男。家祖(伝)。
  • 革島義安:義季の子。革島南庄下司職となり、川島に土着して革島氏を称したと伝える。
  • 革島憲安:幼名・亀寿丸。正和元年(1312年)に近衛家から下司職に任じられた文書が残り、確実な史料上の初見。
  • 革島幸政:憲安の子。足利尊氏に従い軍功を挙げ、建武3年(1336年)地頭職・領家職半分を与えられ幕府御家人となる。
  • 革島景安:観応の擾乱で尊氏方として活躍。
  • 革島泰宣:長享・延徳の乱で将軍足利義尚に従軍。
  • 革島就宣:泰宣の子。享禄4年(1531年)、天王寺の戦い(神尾合戦)で戦死。
  • 革島一宣:越前守。就宣の子。細川国慶の攻撃や永禄の変による本領喪失を経験するが、織田信長の上洛により本領を回復。
  • 革島秀存:一宣の子。通称・市介。足利義輝の朽木動座に従い、信長上洛後は細川藤孝に仕えて加増を受ける。本能寺の変後に明智光秀に味方し、敗れて病死。
  • 革島忠宣:秀存の弟。兄の死後に家督を継ぐが、秀吉により所領を没収されて改易。
  • 革島幸元:第22代当主。中世・近世初期の古文書を「家宝遺墨」として整理し、家系図・伝記を編纂。
  • 革島有尚:幕末の当主。尊皇攘夷派として活動し、東征軍旗本隊軍監を務める。維新後は大原野神社宮司。大正時代に士族編入を果たす。

系図

  • 佐竹昌義
    • 革島義季(初代)
      • 義安(2代)
        • (略)
          • 憲安(7代)
            • 幸政(8代)
              • 景安
                • (略)
                  • 貞安
                    • 親宣
                      • 泰宣
                        • 就宣
                          • 一宣(18代)
                            • 秀存(19代)
                            • 忠宣(20代)
                              • (略)
                                • 幸元(22代)
                                  • (略)
                                    • 有尚

革嶋家文書

革島家に代々伝来した文書群は、鎌倉時代中期の正嘉2年(1258年)から大正時代に至る約800年間の古文書・記録・絵図等で構成され、計2,459通に及ぶ[1]。現在、京都府立京都学・歴彩館(旧・京都府立総合資料館)に寄託・所蔵されている[1]。

本文書群は、中世土豪の成立・発展から戦国期の領主経営、近世郷士としての存続、幕末維新の動乱と近代士族編入に至るまで、単一の家系における長期的な歴史の推移を体系的に伝える極めて稀有な史料群である[1]。2003年(平成15年)5月29日付で国の重要文化財に指定された[1]。

主な内容:

  • 家宝遺墨(4巻):江戸時代前期に22代・幸元が整理・成巻したもの。織田信長関係文書(上巻)、細川藤孝書状・折紙(下巻)、明智光秀・柴田勝家・滝川一益書状(乾巻)、松尾月読社領相論に関する室町幕府奉書(坤巻)などが収められている[1]。
  • 中世文書:正嘉2年の法花寺供田関係文書をはじめ、下司職・地頭職補任文書、足利尊氏や細川氏からの軍勢催促状・着到状、桂川用水(今井溝など)の共同利用に関する契約状(暦応年間の上久世季継ら連署契状)、室町・戦国期の田畠買得証文など[1]。
  • 近世・近代文書:検地・年貢関係文書、元禄15年(1702年)の革嶋家屋敷絵図、福山藩水野家や鷹司家への奉公記録、幕末の品川弥二郎・高崎正風らからの書簡、戊辰戦争時の軍監関係記録、明治・大正期の士族編入関係史料[1]。

居城・関連史跡・寺社

革島城(川島城 / 佐竹城)
京都市西京区川島に所在した平城(館城)。現在は宅地化が進んでいるが、北辺および東辺の水路に堀跡の名残が留まる。城域の一角に革嶋春日神社が鎮座し、南側に革嶋城公園が整備されている[4][8]。
革嶋春日神社
革島城跡の一角に鎮座する神社。革島氏が館の鎮守として深く崇敬した[2][4]。
知足山冷聲院
京都市西京区川島にある浄土宗寺院。革島一宣が建立し、子の秀存が開山を迎えたとされる。寺紋や境内の石造物等に革島氏の家紋である「丸に日の丸扇(五本骨扇に月)」が見られる[2][4]。
革島医院
革島氏の子孫によって昭和前期(1936年頃)に建てられた洋風医院建築。国の登録有形文化財[9]。

脚注

注釈

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 “革嶋家文書(二千四百五十九通)”. 文化庁 国指定文化財等データベース. 2026年10月12日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 “武家家伝_革嶋氏”. 播磨屋. 2026年10月12日閲覧。
  3. ↑ 高橋裕文 (2020). 中世佐竹氏の研究. 青史出版. pp. 59-60. ISBN 978-4-921145-69-9
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 “革島城”. 古城址探訪. 2026年10月12日閲覧。
  5. 1 2 3 4 5 黒川直則. “革島氏”. 改訂新版 世界大百科事典. 平凡社(コトバンク). 2026年10月12日閲覧。
  6. ↑ 湯浅治久 (1989). “革嶋氏の所領と乙訓郡一揆―「惣国一揆」の性格規定にふれて”. 駿台史学 (駿台史学会) (77): 1-34. CRID 1520853834913841920. NAID 120001970220.
  7. 1 2 3 4 “藤孝と市介の「無二の覚悟」-革嶋家文書を読む-”. 百瀬ちどりの楓宸百景. 2026年10月12日閲覧。
  8. ↑ 平井聖ほか編 (1980). 日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井. 新人物往来社. pp. 70-71
  9. ↑ “革島医院”. 文化庁 国指定文化財等データベース. 2026年10月12日閲覧。

参考文献

  • 平井聖ほか編『日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社、1980年。
  • 高橋裕文『中世佐竹氏の研究』青史出版、2020年。ISBN 978-4-921145-69-9。
  • 湯浅治久「革嶋氏の所領と乙訓郡一揆―「惣国一揆」の性格規定にふれて」『駿台史学』第77号、駿台史学会、1989年、1-34頁。CRID 1520853834913841920。
  • 京都府立総合資料館編「資料紹介 革嶋家文書(一)~(三)」『京都府立総合資料館紀要』各号、1977年 - 1997年。
  • 『重要文化財指定記念 革嶋家文書展』京都府立総合資料館、2003年。

関連項目