馬場八幡宮
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| 馬場八幡宮 | |
|---|---|
| 所在地 | 茨城県常陸太田市馬場町574 |
| 位置 | 北緯36度32分32.6秒 東経140度31分41.0秒 / 北緯36.542389度 東経140.528056度座標: 北緯36度32分32.6秒 東経140度31分41.0秒 / 北緯36.542389度 東経140.528056度 |
| 主祭神 | 誉田別尊(応神天皇) |
| 社格等 | 郷社、大田郷総社 |
| 創建 | 天喜4年(1056年) |
| 本殿の様式 | 三間社流造(入母屋造向拝付) |
| 別名 | 鯨岡八幡宮、ばんばの八幡さん |
| 例祭 | 4月15日 |
| 主な神事 | 浜下り神事(往時5年に1度) |
| 地図 | |
馬場八幡宮(ばばはちまんぐう)は、茨城県常陸太田市馬場町にある神社。旧社格は郷社。主祭神は誉田別尊(応神天皇)。通称は「ばんばの八幡さん」[1]。
平安時代中期の天喜4年(1056年)、源頼義によって石清水八幡宮の御神霊が勧進されたことに始まると伝えられる[2]。平安時代後期以降、常陸国に土着して勢力を拡大した清和源氏義光流の佐竹氏から総鎮守・氏神として篤く崇敬され、太田郷の総社とされた[3]。天正8年(1580年)に第19代当主・佐竹義重によって建立された本殿をはじめ、貴重な中世・近世の文化財が伝えられている[4]。
祭神
歴史
創建と源氏の祈願
社伝によれば、天喜4年(1056年)、前九年の役に向かう途中の源頼義が、当時当地にあった熊野神社の境内に陣を張り、社前に置いた2枚の平大石に源氏の氏神である石清水八幡宮の御神霊を祀って戦勝を祈願したのが当社の始まりとされる[2][4]。
その後の後三年の役に際しても、寛治6年(1092年)に源義家・源義光兄弟が戦勝を奉賽し、馬場先にて流鏑馬を奉納したと伝えられ、境内地名「馬場」の由来となったとされる[1]。また天仁2年(1109年)には太田城主・藤原通延に命じて社殿の修築が行われたという[1]。
佐竹氏の守護神・総鎮守へ
平安時代後期、源義光の孫である佐竹昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着して佐竹氏を起こすと、馬場八幡宮を守護神として崇敬し、新たに社殿を造営して太田郷の総社とし、「鯨岡八幡宮」の社号を奉ったとされる[3][1]。
第3代当主・佐竹隆義の時代には、本社、礼殿堂(礼拝堂)、楼門、神宮寺、庁屋の5つの殿堂が築造され、境内伽藍の大規模な整備が行われた[4]。さらに第4代当主・佐竹秀義は改めて京都石清水八幡宮を勧進し、これ以降、歴代の佐竹氏当主が同社神前において元服の儀式を行うことが家例として定着した[2]。また、当主元服の儀のほか、安産祈願や元旦祭においても幣帛を奉納することが恒例とされた[1]。
応永13年(1406年)12月8日には、大工七郎三郎家次により佐竹氏の家紋(五本骨扇に月丸)をかたどった青銅製扇面が奉納されている[2]。
戦国時代の焼失と義重による再建
戦国時代末期の天正2年(1574年)3月、雷火によって社殿が焼失した[4][1]。
このため、天正8年(1580年)11月、第19代当主・佐竹義重によって現存する本殿が再建・造営された[2]。本殿内に残された天正8年銘棟札には、大檀那として佐竹義重の名と花押が据えられ、両大工の石橋左馬助、吉原修理助、祢宜平元出雲守らの名が記されている[5]。棟札の裏面には、慶長3年(1598年)に行われた遷宮の記録も残されている[2][5]。
水戸・秋田への分霊と近世・近代
天正19年(1591年)、第20代当主・佐竹義宣が本拠を太田城から水戸城へ移すと、翌文禄元年(1592年)に馬場八幡宮の御分霊を水戸城下へ奉遷した(現在の水戸八幡宮)[3][2]。この際、社宝であった古瀬戸瓶子一対のうちの一つが水戸へ分納されている[2]。
慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦い後の国替えにより佐竹氏が出羽国秋田(久保田藩)へ移封されると、久保田城下の千秋公園内(現在の八幡秋田神社)にも御分霊が遷祀されたが、太田の旧社殿にも御分霊が祀られ存続した[3][1]。
江戸時代、水戸藩第2代藩主・徳川光圀による社寺改革(寺社整理)を経て、馬場町、増井町、上大門町、下大門町、新宿町の一部の総社に位置づけられた[4]。往時には5年に1度、太平洋沿岸の日立市久慈浜まで神輿が向かう「浜下り神事」が執り行われていた[4]。
明治維新後の近代社格制度においては郷社に列格した。
境内
文化財
常陸太田市指定文化財
- 馬場八幡宮本殿(附 天正8年銘棟札)
- 有形文化財(建造物)、平成11年(1999年)3月22日指定[2]。
- 桁行3間、梁間2間の三間社流造で、平入正面には大きな向拝が付き、屋根は入母屋造となっている[2]。天正8年(1580年)に佐竹義重によって再建された。柱上の木鼻の浮彫文様の各面がすべて異なるなど、躍動感にあふれる室町時代末期の建築様式を残しており、佐竹氏が建立した八幡宮建築の祖型として貴重である[2]。
- 附指定の棟札(縦101.6cm、幅36.3cm)は天正8年霜月朔日付で、佐竹義重の花押や大工名が記され、戦国期佐竹氏の造営実態を伝える一級史料である[5]。
- 古瀬戸瓶子(こせとへいし)
- 有形文化財(工芸品)、昭和48年(1973年)2月15日指定[2]。
- 高さ26.1cm、口径5.4cm、胴径16.3cm、底径9.6cm。酒を入れて注ぐのに用いる丸い壺形で口の狭い瓶子。箱書には「阿蘭陀焼瓶子 安永五丙申年(1776)九月吉日」とあり、オランダからの渡来品と伝えられていたが、実際には瀬戸焼(古瀬戸)である[2]。元々は水戸八幡宮に分納された瓶子と一対であったとされる[2]。
- 青銅製扇面(せいどうせいおうぎめん)
- 有形文化財(工芸品)、昭和48年(1973年)2月15日指定[2]。
- 縦34.3cm、横36.4cm。応永13年(1406年)12月8日に大工七郎三郎家次により鋳造された青銅製の扇面。佐竹氏の家紋と同じ五本骨扇の形状をなし、両端に紐で吊るすための孔があけられている[2]。表面には「八幡大菩薩」、裏面には家次夫婦子孫の繁昌や病患消除、無事息災を祈願する銘文が陰刻されている[2]。
祭事
現地情報
- 所在地
- 茨城県常陸太田市馬場町574(573-1)
- 交通アクセス
脚注
参考文献
- 常陸太田市教育委員会「解説資料-馬場八幡宮(集中曝涼用)」、2026年。
- 佐々木倫朗「常陸太田市馬場八幡宮所蔵の戦国・織豊期棟札」『鴨台史学』第18号、大正大学史学会、2022年。
- 茨城県立歴史館「若宮八幡宮と馬場八幡宮」(茨城歴史事典)。
- 『常陸太田市史 通史編 上巻』常陸太田市、1984年。
- 『茨城県神社誌』茨城県神社庁、1973年。
関連項目
- 水戸八幡宮 - 天正20年(文禄元年)、佐竹義宣により馬場八幡宮から分霊。
- 若宮八幡宮 (常陸太田市) - 太田城中の守護神として並び称された神社。
- 太田城 (常陸国)
- 佐竹氏
- 石清水八幡宮