駒井重勝

ウィキペディアから、無料の百科事典
 
駒井 重勝
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄元年(1558年)[1]
死没 寛永12年7月4日(1635年8月16日)[1]
別名 通称:八右衛門尉[1][2]
官位 従五位下[2]、中務少輔[2]
主君 滝川一益→豊臣秀吉→秀次→秀吉→秀頼→前田利長→利常
藩 加賀藩
氏族 宇多源氏佐々木氏流駒井氏[3]
父母 父:駒井秀勝[3][4]
兄弟 重勝、尊賀[4]
子 女[4]、女[4]、重次[4]
特記
事項
家紋は藤丸紋・四目結紋[3]
テンプレートを表示

駒井 重勝 (こまい しげかつ)は、日本の戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。通称は八右衛門尉[1][2]。官位は従五位下、中務少輔[2]。文筆に優れ、重勝が豊臣秀次の右筆を務めた文禄年間の貴重な記録『駒井日記』の著者である[2]。

生涯

前半生

永禄元年(1558年)、駒井秀勝の子として誕生[1][4][5]。

『駒井家系』によると重勝は初め六角氏に仕え、織田信長により六角氏が滅ぼされると羽柴秀吉に召し出されたとしているが、大名としての六角氏が滅亡した元亀元年(1570年)の重勝の年齢から誤りと考えられており、『村上源氏赤松系図』に記された重勝の経歴によると、14、15歳頃に滝川一益に仕えたが、微禄だったために滝川家を去って秀吉に仕えたとされる[6]。

秀吉に取り立てられた重勝は大津奉行、草津、矢橋代官を歴任し、その政治的手腕を秀吉に買われ、豊臣秀次に附けられた。秀次の蔵入地の管理などを司り、また右筆も務める。天正19年(1591年)、豊臣姓を下賜された[7]。

大名取り立て

文禄2年(1593年)に秀吉の直臣となったとされる[2]が、歴史学者の堀越祐一は秀次事件まで秀次に仕え、秀吉の直臣になったのはその後であるとしている[8]。その後、文禄4年(1595年)の秀次事件に連座することはなかった(後述)。その頃には豊後国大野郡、直入郡、大分郡、海士辺郡において2万5,000石を領し、文禄4年(1595年)8月8日に伊勢国奄芸郡徳田村、横地村1,300石も加増された[9]。

慶長3年(1598年)7月、越前国の検地奉行の一人として検地を実施する[5]。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、同年7月18日から8月1日にかけての伏見城の戦いに従軍したため、戦後失領し浪人となる[2][5]。その後、加賀藩の前田利長に仕えた[10][5]。

加賀藩士時代

慶長8年(1603年)9月14日、中村家正らと共に前田家の蔵払算用状に署名する[5]。

慶長17年(1612年)頃には2000石を知行するに至っており、寛永4年(1627年)の前田家の侍帳には「一弐千石 御算用場半役 駒井中務」と記されている[5]。

寛永3年(1626年)5月24日、金地院崇伝に書状を送り、有馬温泉へ湯治に向かうために大坂にいる旨を連絡する[5]。

寛永5年(1628年)10月19日と寛永7年(1630年)8月29日に金地院崇伝に書状と進物を贈っている[5]。

寛永12年(1635年)7月4日に死去[1][5]。享年78[1][5]。嫡男の駒井重次が後を継いだ[4]。

秀次事件との関わり

重勝は豊臣秀次の右筆を務めると共に秀次の叔父である秀吉に対する取次も務めていた。一方、秀吉側の秀次に対する取次を務めていたのは木下吉隆(半介)である。

通常秀吉の意向は秀吉→木下→駒井を経て秀次に伝えられ、反対に秀次の意向は秀次→駒井→木下を経て秀吉に伝えられた。石田三成や前田玄以と言った秀吉の有力な側近奉行が秀吉の「御諚」「仰出」「御意」を秀次側に伝えることもあったが、関白蔵入地の管理を担当していた前田玄以がやや数があるものの(反対に木下吉隆はこの分野だけはほとんど関わっていない)、石田三成らの関与は極めて少なく、秀吉から秀次への情報伝達はほぼ木下吉隆の独占であったと言える。反対に秀次から秀吉に対する情報伝達は秀次本人からのものが存在するが、家臣を介した場合にはほとんどが駒井重勝が行っている[11]。

また、木下と駒井は秀吉と秀次の間で意見の相違などのトラブルが発生した場合には、相互の意見を調整して関係の円滑化を図っていた。更に円滑化の実現のために、両者間では彼らの判断で相手側の情報収集や相互の情報交換も行われるなど、相手側に深く食い込んでおり、その一端が駒井重勝が記した『駒井日記』によって明らかにされている[12]。

しかし、秀吉と秀次の関係が破綻して秀次が自害に至ると彼らの活動は致命傷となり、木下吉隆は秀次の「謀叛」に連座して薩摩国に流された後に殺害されている。この問題を研究した歴史学者の堀越祐一は、『駒井日記』に本来であれば秀吉とごく限られた周辺人物しか知ることが出来ない筈の秀吉の健康情報と思われる記述が複数見出せること[13]や、駒井重勝は秀吉の直臣への復帰を許されていることから、秀次事件に関して吟味を受けた駒井重勝が相互の情報活動の実態について包み隠さず告白したことで、木下吉隆の機密漏洩(前述の健康問題はその最たるものと言える)が発覚し、駒井重勝が罪を問われなかった一方で、木下吉隆は彼と競合関係にある石田三成らの意向もあって粛清の対象になったのではないかと推測している[14]。

書籍

関連作品

小説

ゲーム

脚注

注釈

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 藤井恒春 1992, p. 452.
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 戦国人名事典 1987, p. 343.
  3. 1 2 3 田中政三 1982, p. 214.
  4. 1 2 3 4 5 6 7 藤井恒春 1992, p. 451.
  5. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 藤井恒春 1992, p. 455.
  6. ↑ 藤井恒春 1992, pp. 451–452.
  7. ↑ 村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年。
  8. ↑ 堀越祐一 2016, p. 106.
  9. ↑ 橋本操六 1998, p. 77.
  10. ↑ 田中政三 1982, p. 217.
  11. ↑ 堀越祐一 2016, pp. 92–100.
  12. ↑ 堀越祐一 2016, pp. 100–105.
  13. ↑ 『駒井日記』文禄3年4月17・22・24日各条など
  14. ↑ 堀越祐一 2016, pp. 105–107.

参考文献

  • 田中政三『近江源氏 3巻 佐々木氏の支流・分流』弘文堂書店、1982年6月。全国書誌番号:84047075。 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 阿部猛、西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年3月。全国書誌番号:87024504。 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 駒井重勝 著、藤田恒春 編校訂『駒井日記 増補』文献出版、1992年10月。全国書誌番号:93008894。 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 橋本操六「太閤蔵入地と代官支配」『大分県地方史』第167・168合併号、大分県地方史研究会、1998年1月、75-88頁。 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 堀越祐一 著「太閤・関白間における情報伝達の構造-木下吉隆・駒井重勝の動向を中心に-」、二木謙一 編『戦国織豊期の社会と儀礼』吉川弘文館、2006年。 /所収:堀越祐一『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年3月、90-109頁。ISBN 978-4-86403-530-9。 

外部リンク