龍造寺四家

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龍造寺四家(りゅうぞうじしけ)は、鍋島氏により親類同格として佐賀藩の支配機構に組み込まれた龍造寺一門の4つの家の呼称である[1]。

概要

鍋島直茂は、佐賀藩の運営には鍋島氏と龍造寺一門との融和が必要と考え、龍造寺一門のうちでも特に有力であった4系統を優遇し、鍋島氏の親類同格とした[2]。

それぞれ諫早、多久、武雄、須古を領したため、諫早鍋島氏、多久鍋島氏、武雄鍋島氏、須古鍋島氏と呼ばれたが、諫早鍋島氏は諫早氏、多久鍋島氏は多久氏を称した。

家名 家紋 始祖 石高(寛永5年)[3] 爵位(維新後) 特筆事項
諫早家 龍造寺家晴[1] 25,741石 男爵[4] 龍造寺家晴を祖とし、諫早を領した。長崎に近い地理的位置から長崎警備においても大きな役割を果たした[5]。
武雄鍋島家 後藤家信[6]

(龍造寺隆信三男)

21,572石 男爵[4] 前九年の役で戦功があった後藤章明の後裔である後藤家の19代当主・後藤貴明の婿養子に龍造寺隆信三男・家信が入り、その子・21代当主茂綱は鍋島忠茂娘との婚姻により鍋島姓を許され、現代に至る。幕末期の28代当主・茂義による本藩に先んじた西洋科学・軍事の導入と、西洋式に武装した武雄隊を率いて出陣したその子茂昌による戊辰戦争における戦功が有名[7][8]。
多久家 龍造寺長信[1] 21,461石 男爵[4] 龍造寺長信を祖とし、多久を領した。4代当主・多久茂文は東原庠舎・多久聖廟を設け、領内教育を発展させたことで有名[9]。
須古鍋島家 龍造寺信周[1] 8,250石 なし 龍造寺隆信の異母弟・信周を祖とする。幕末に執政・請役(筆頭家老)として鍋島直正を支えた鍋島茂真が著名[10]。

脚注

  1. 1 2 3 4 内山敏典. “唐津・多久・大町地域周辺散策記”. 九州産業大学. 2024年8月25日閲覧。
  2. ↑ “佐賀藩”. さがの歴史・文化お宝帳. 2026年4月3日閲覧。
  3. ↑ Library, Saga Prefectural. “佐賀県立図書館データベース|佐賀県立図書館データベース”. 佐賀県立図書館データベース. 2026年10月7日閲覧。
  4. 1 2 3 『官報』第4299号「授爵叙任及辞令」1897年10月27日。
  5. ↑ “諫早家文書”. 諫早市. 2026年10月7日閲覧。
  6. ↑ 龍造寺隆信の三男で後藤貴明の養子。
  7. ↑ “ふるさとの先人たち 鍋島茂義”. www.city.takeo.lg.jp. 2026年10月7日閲覧。
  8. ↑ “ふるさとの先人たち 鍋島茂昌”. www.city.takeo.lg.jp. 2026年10月7日閲覧。
  9. ↑ “多久茂文(たくしげふみ) - 多久市ホームページ”. www.city.taku.lg.jp. 2026年10月7日閲覧。
  10. ↑ “白石町ホームページ |鍋島茂真(なべしましげまさ)”. 白石町ホームページ. 2026年10月7日閲覧。