墨染

歴史
墨染の地名は、平安時代、
安土桃山時代、豊臣秀吉が伏見城を築城し、周辺にも武家屋敷が立ち並ぶ城下町に組み込まれると、墨染には伏見城下の京町通と、深草の伏見稲荷大社を経て京の五条口・本町に向かう京街道の伏見街道(本街道・稲荷街道)をクランク状に繋ぐ両側町が形成された[2]。
江戸時代には伏見奉行の管轄下に置かれるが、墨染はすぐ北にある藤森神社南西角の辻・藤杜岐道(ふじのもりのわかれみち)[3]の木戸門で大津街道(東海道五十七次)と奈良街道(郡山街道)が分岐する交通の要衝として発達し、1699年(元禄12年)には茶屋株(お茶屋の営業権)が許可される[4]。墨染の南部(現在の伏見郵便局の東側)に
花街としての墨染は天保の改革による取締りを受け、茶点女(ちゃたておんな、茶店で接待する女性)や飯盛女(めしもりおんな、旅籠で接待し売春をする娼婦のこと)を抱えることを禁じられたが、すぐに再開された[4]。
明治以降も存続し、1878年(明治11年)、芸妓3名、娼妓11名の存在が確認されている。しかし花街は衰退し1910年(明治43年)、京阪電気鉄道が開通した翌1911年(明治44年)頃、消滅した[4]。
現在は、京阪本線墨染駅を中心に墨染通りや直違橋通りは商店街「墨染ショッピング街」となっている事もあり、「墨染」を冠した施設は周辺の広範囲に及ぶ[5][6]。この地域の町割りは、墨染町(後述の墨染寺が所在する)が北の深草地区に曲尺型に食い込み、深草墨染町がその南側に位置するなど、小学校の区割りもそれに準じて入り組んでいる。これは1868年(明治元年)以降の行政区画の変遷によって、墨染通沿いの両側町以外の土地が深草村へ編入され、1931年(昭和6年)この地域が京都市に編入され共に伏見区となる時点では、墨染町が伏見市に、深草墨染町が紀伊郡深草町に、それぞれ属していた事による。
墨染寺

墨染通
竹田街道(国道24号線)から墨染町を抜け、深草大亀谷から八科峠を経て六地蔵へと繋ぐ東西の通りは墨染通と呼ばれ、墨染から六地蔵までの区間は、古来「郡山街道(奈良街道)」の一部として位置付けられる。竹田街道から師団街道までは東向きの一方通行となっている。
その他
参考文献・出典
- 『亡くなった京の廓 上』田中緑紅 京を語る会、1958年
- 『京都遊廓見聞録』田中泰彦編集 京を語る会、1993年
脚注
- ↑ 「観光ガイド春爛漫 「桜物語」に耳を傾けて」『そうだ 京都、行こう。』JR東海、2011年3月(2015年5月17日閲覧)。『スーパー大辞林』三省堂、2013年。
- ↑ “伏見墨染”. 都名所図会データベース. 国際日本文化研究センター. 2026年10月17日閲覧。
- ↑ “藤杜岐道”. 未来へ紡ぐ深草の記憶 – あなたの記憶が未来を創るデジタルアーカイブ. 伏見区役所深草支所地域力推進室まちづくり推進担当. 2026年8月20日閲覧。
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- ↑ たとえば、2015年現在、伏見墨染郵便局は深草山村町、京都銀行墨染支店は深草北新町に所在する。
- ↑ “「墨染ショッピング街ぶらぶらマップ」ができました!【墨染ショッピング街】”. 商店街創生センター (2021年4月2日). 2022年12月27日閲覧。