支那

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支那
中国語
中国語 支那
発音記号
標準中国語
漢語拼音zhīnà
注音符号ㄓ ㄋㄚˋ
呉語
ローマ字tsy平 na去
客家語
客家語拼音zii24 na55
粤語
粤拼zi1 na5
閩南語
閩南語白話字chi-ná
朝鮮語
ハングル지나
発音記号
RR式jina
ベトナム語
ベトナム語chi na
中古音
中古音/t͡ɕiᴇ nɑX/

支那(しな)とは、中国またはその一部の地域に対して用いられる地理的呼称、あるいは王朝・政権の名を超えた通史的な呼称の一つである。

概略

日本では「支那」という言葉は江戸時代中期から広まり、中国を指す一般的な語として使用されてきた。もともとこの言葉自体に蔑視の意味はなく、古代史研究で知られる歴史学者の津田左右吉も自身の論文中で一貫して「シナ」という語を用いており[1]、第二次世界大戦後の論文でも同様である[2]。しかし、第二次世界大戦後には「日中戦争時に蔑称的に使用された」という理由から差別的意味合いがあると中国側が主張しており、使用を避ける傾向にある[3]。

言葉の由来

1938年(昭和13年)に日本で発売された『支那大地図』。この地図によれば、中華民国と満洲国だけでなく、モンゴル人民共和国を「外蒙古」としてその範疇[注釈 1]に加え、後にソビエト連邦が併合したトゥヴァ人民共和国も入れている。また、いわゆる漢民族の居住地でない東トルキスタン(ウイグル)とチベット(地図では「西蔵」)も入っており、広範囲の地域名でもあった。

支那という言葉の語源は諸説あるが、明朝時代末期にこの地域にいたイタリア人イエズス会宣教師衛匡国(マルティノ・マルティニ)による著作 "Novus Atlas Sinensis" では、中原初の統一王朝秦(拼音: Qín、梵語:Thin・Chin、ギリシャ語・ラテン語:Sinae)に由来するとされる[4]。衛匡国によれば、この秦の呼称が周辺諸国に伝わったが、現在のインドで転訛してシナになったとしている。

2世紀前後には、インドで中国を指して「チーナ・スターナ "China staana"」と呼んでいた。この表記について徐作生は、1995年に雲南省西部の都市「支那城」に由来するという説を発表している[5]。インド側からポルトガルでは大航海時代から現代まで一貫して[要出典] China と呼ぶ。ギリシャ、ラテン圏では国名、地域名は女性形になることが多く、秦の国名はシーナとなる[要出典]。

インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にある梵語「チーナ・スターナ "China staana"」を訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによって、その地に伝来した。この時の当て字として、「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」などがある。この「シナ」の発音が西洋に伝わり、英語の"China"、フランス語の"Chine"などの語源ともなったといわれている[3]。

歴史

中国での使用

仏典に中国を指す国名として「チーナ」が登場している。仏教伝来後、中国は仏典を漢訳した際、「チーナ」に「支那」(その他にも「脂那」や「至那」)を当てた。また、インドの言語で「秦国」を表した「チーナスターナ」という言葉は、「震旦」「真丹」などの漢字表記になった。仏典の漢訳には中国人僧だけでなく、シルクロード諸国やインド出身の僧も多数参加していたため、「支那」の考案者が中国人とは限らない[6]。

7世紀の玄奘の時代には仏教関係の書物で中国を称賛する意味合いで使われていたと考えられるが、18世紀頃にはすでに中国で「支那」という表現を一般に使わなくなっていた[7]。

日本における使用の歴史

1900年(明治33年)に中国大陸に設置した日本の郵便局で使用するために発行した、菊花紋章のある5銭普通切手(切手下側に赤文字で右から左に横書きで支那と印刷。支那の「支」の上からNの印が押してある)

日本において、「支那」の言葉が入ったのは、隋と同様に漢訳仏典を通じてであった。平安時代の高僧空海の詩文集『性霊集』に「支那」を用いた例[8]が確認できる。京都東福寺蔵の重要文化財にも『支那禅刹図式』(南宋作)がある。鎌倉時代には虎関師錬の『元亨釈書』王臣伝論に「彼の支那は葱嶺の東」と見える。室町時代の僧万里集九の「山谷先生を祭る文」にも見える[9]。江戸時代初期の卍元師蛮『本朝高僧伝』巻一『釈福亮伝』には「支那に入って嘉祥師に謁し」とある。さらに江戸時代初期には世界の中にこの地域を位置づける場合に「支那」の呼称を用いた例を見ることができる。江戸初期『西洋紀聞』はキリスト教を禁じていた日本に布教目的で潜入して捕らえられたイタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティに対して新井白石が行った尋問の記録であるが、シドッティの日本上陸(1708年〈宝永5年〉)および翌年の尋問を1725年(享保10年)頃までに完成させたものであり、その中ではアジア、アメリカ、ヨーロッパなどと並べて「支那」の記述が発見できる[10]。江戸中期の富永仲基『出定後語』や[注釈 2]、江戸中期の僧大玄の『浄土頌義鈔探玄鈔』[11]や、僧覚深『摩多羅私考』や[注釈 3]、佐藤信淵が1823年(文政6年)に著した『混同秘策』でも「支那」が用いられている。また杉田玄白が『狂医之言』において「支那もまた東海一隅の小国なり」と相対化したように、蘭学者の間では「中華的世界観」からの脱却を目指し、オランダ語の「China」の訳として「支那」を用いていた[12]。

江戸後期には「支那」と同じく梵語から取った「China」などの訳語としても定着した。幕末の洋学者佐藤元萇は六大陸と対比して支那を論じた[注釈 4]。幕末の英語辞書『増訂華英通語』の万延元年の福澤諭吉凡例では英語と中国語との対比で「支那」が使われている[13]。特に明治期以降、歴代の王朝名(例:漢、唐、清)とは別に、地域的呼称、通時代・王朝的汎称としての、この地域の名称を定めることが必要であるという考え方が一般的となり、従来「漢」「唐」などで称していたものを「支那」と言い換えた(例:「漢文学」→「支那文学」)。日本では、伝統的に黄河流域の国家に対し「唐」「漢」「唐土」の文字を用いて「とう」「から」「もろこし」などと読んできた[要検証][要出典]。江戸時代以前に大陸を「中国」と呼んだ事例は見られない(幕末、「満洲夷」が自分自身を「中国」と呼んでいると紹介する例はあった[注釈 5])。

明治政府が清と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。学術分野では、伝統的には「漢」の文字を用いて「漢学」「漢文」などの呼称を用いてきたが、明治中葉より、漢人の国家やその文化に対して「支那」を用いるようになった。ただし、「漢人」「漢民族」の定義は不確定であり、学術的に確定しているわけではなかった。[要検証][要出典]

大日本帝国(日本)は1876年(明治9年)以降、清に大日本帝国の郵便網を整備し郵便局(在中国郵便局)を設置した。これは欧米列強と同様に、清で近代的郵便制度が未整備であったためであるが、19世紀末に清国政府による大清郵政が創業してからも存続していた。当初は大日本帝国と同様に日本切手を現地通貨で販売していたが、価値の低い清国通貨で購入した切手を日本列島に送る投機が行われるようになった。そのため1900年(明治33年)以降は大日本帝国で使えなくするため加刷切手に切り替えた。この時の加刷切手に地域名として「支那」を用いている。これは欧米列強が中国で発行した切手が、国号の"Ch'ing"ではなく"China"(英米)を用いたのと同様であった。この切手もまた、大日本帝国では支那は国家名ではなく、地域名として用いられていたことを表している。[独自研究?][要出典]

当初「支那」は同様に特に辱める語ではなく、歴史学者の津田左右吉も論文で用いている[1]。中華民国成立以前の大日本帝国公文書においても、いくつか支那の使用例は存在する[5]。しかし佐藤三郎は、この時期の中国人がアヘン戦争の敗北や改革の遅れなどにより「惰弱・因循姑息・驕慢不遜・無能・不潔」といった印象を持たれており、同時期に普及した「支那」の語がそれに結びつけられるようになったとし、実藤恵秀も日清戦争後には、日本人の「支那」という言葉には軽蔑が交じっていたとしている[14]。

近世から20世紀初期までの中国における使用例

19世紀末まで、中国大陸は清朝(満洲族)の統治下にあり、明治の日本以来は中国を清国と称し、その国民を清国人と呼んだ。清朝末期に共和主義運動が広まるにつれ、中国人共和主義者たちの間で、「清国」「清国人」という呼称は「満清の臣下」を意味するという理解の人たちから、清朝を共和制に代わる、未来に建てる共和国の呼称についての模索が始まった。また中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が主に仏教文献で広く使われてきた。[要検証][要出典][独自研究?]

清の末期(19世紀末 - 1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷を超えた通時的な呼称を模索した際に、自称の一つとして用いた一時期がある。[要検証][要出典][独自研究?]

王朝や政権の変遷を超えた、国号としても使用可能な固有名詞の呼称の一つとして古来の「支那」という呼称を選び取り、満洲族による清朝支配体制からの脱却を目指す革命家などが一時期広く使用した。[要検証][要出典][独自研究?]

中華民国建国の父とされる孫文は1902年(明治35年)に発行された宮崎滔天の『三十三年之夢』に寄せた言葉の中で「支那」の語を使用し[注釈 6]、1910年(明治43年)に「支那暗殺團」を設立し[15]、また中華民国成立後の1914年に、孫が首相の大隈重信に宛てた書簡の中では、支那29回、支那革命1回、支那国民2回、支那人1回、合計34回の「支那」表記を使用している[16]。また孫文の協力者であった日本人の梅屋庄吉が辛亥革命成功後に「支那共和国公認期成同盟会」を結成している。この時の額は広州にある孫中山記念館が保存している。1902年には、日本に亡命していた中国人共和主義者たちが、上野精養軒で「支那亡国二百四十二年記念会」を企画した。[要検証][要出典]

日本の東京に留学していた宋教仁も機関誌の題目を『二十世紀之支那』としていた[16]。1911年の新国家の国号候補にも挙がっている(最終的には「中華民国」に決まった)[17]。[要検証]

中華民国と支那共和国

1914年に日本で印刷した『滑稽時局世界地図』では、漢字と英語で露西亜、日本、朝鮮、台湾、支那、西蔵、土耳其斯坦などを明示した。
1921年の卒業写真には、台湾に留学する中国本土学生を「支那留学生」と呼んだ。

近代主権国家への性向を持つ政治運動で結集核となったのは、清朝というよりも「中国」であって、この時期に「中国」は次第に国名として定着しつつあった[18]。法律家で中華民国の要職を務めた梁啓超は1901年(明治34年)の著書『中国史叙論』において「吾人がもっとも慙愧にたえないのは、我国には国名がないことである」とし、唐や漢は王朝名、支那は外国人の使用する呼称、中国・中華は自尊自大の気味があるとしながら「やはり吾人の口頭の習慣に従って『中国史』と呼ぶことは撰びたい」と述べている[18]。これは梁が様々な文脈で用いられてきた「中国」を主権国家の名称として再定義したものとみられる[18]。

辛亥革命を経て1912年に成立した中華民国を日本政府は1年以上承認せず、「清」ではないこの国を、公文書では「御国」と表記していた[19]。1913年(大正2年)5月19日、駐清公使伊集院彦吉は、欧米のChina呼称のように王朝を超えた概念を持つべきであるとし、日本で地理的名称として用いられてきた「支那」を「御国」に代わって使用することを提言した[注釈 7][18][19]。7月初めに閣議決定をし、日本政府は正式な国名を使用せず「支那」を用いるが、条約などで「中華民国」を使う必要がある場合は使用する方針を定めた[20][18][19][21]。これにより、日本政府は「支那」を「中華民国」の略式国名として用いることとなった[22]。于紅によれば、これは近代日本の対中大陸政策を表徴するものであり、日中関係の不対等化を意味していたとする[23]。ただし、伊集院は正式承認後には変更もあり得るとしていた[24]。

同年10月6日、日本は中華民国の正式な国家承認を行った。この際、日本政府は、中華民国大総統袁世凱に対する照会文では「中華民国」を使い、大正天皇への上奏文では「支那共和国」を用いた[25]。10月15日、中華民国政府は「中華民国」を使うことを要請するよう馬廷亮駐日代理公使に指令した[25]。馬代理公使との会談で、牧野伸顕外相は、支那が日本で広く用いられている語であるが、広く知られていない「中華」は国民が理解できないと述べ、他意はないと説明した[25]。また、すでに官報に告示済みであり、訂正しがたいと回答している[25][26]。この席の最後で、馬代理公使は「支那共和国」が和文の名詞であるなら、漢文では「中華民国」を使用するのかと問いただしたが、牧野は議論してから回答すると述べている[25]。翌10月16日、日本側は日本文では「支那共和国」、漢文では「中華民国」を用いるという回答を中華民国側に行い、この問題はいったん解決した[25]。ただし、実際には漢文でも「支那国」や「支那共和国」を用いる例はあったという[27]。また、1920年ごろには正式国名が「支那共和国」、略式国名が「支那国」、地域名が「支那」であるという認識が広まっていた[27]。

中華民国使用の閣議決定

中国国民党による北伐が完了し、国権回復運動が盛んになると、日本が用いる「支那共和国」という呼称に対する反発は再び強まった[28]。1930年(昭和5年)5月19日、国民政府委員会文書處秘書(兼文書局長)楊熙績は「支那」の呼称を批判する演説を行った[24]。5月27日、中華民国が外交部に対し、「支那」と表記された公文書を受け取らないように訓令を発したという記事を『朝日新聞』が掲載した[24]。これにより、日本国内でも「支那」の呼称が議論となった[24]。

6月10日、外務省は「支那」呼称に関する調書を作成し、呼称変更に向けた動きが始まった[24]。一方、中華民国側では、6月5日に楊熙績ら3人が、日本側が支那の語を使うのは「『相互尊敬之意』を欠いている」として、中国国民党中央執行委員会から国民政府外交部に働きかけ、変更の意を伝えてほしいという要請を行った[29]。しかし、この要請を受けた中央政治会議秘書長の陳立夫は「日本が支那を用いているのは欧米が『China』を用いて『中国』を用いているのと変わらないだけでなく、我々も洋文で書くときには○○○of Chinaという表現を使っている」と懸念を示した[29]。6月20日には国民党内の外交組が「相応の時期を見計らって、外交部長から私人の名義で改正を求めるのがよく、外交方式を採るべきではない」という答申を行った[29]。ところが25日に陳がこの問題について王正廷外交部長に送った書簡が漏えいし、『民治報』など中華民国の新聞などでも「支那」呼称に対する批判を繰り返し掲載した[30]。

10月下旬には外務省でも「此ノ際徹底的二問題ヲ解決スルコトトシ」として国号変更の方針を定め、天皇への上奏ではなく閣議決定で行う手続きとした[27]。10月29日、幣原喜重郎外務大臣は国号変更に向けた決定を行うべきであると濱口雄幸総理大臣に伝えた[27]。10月31日、「中華民国」使用を閣議決定した。この決定の中では「支那」の記載の経緯について触れた後、当初から中華民国側は支那という呼称を好ましくないとしていたとしており、代表的なものとして楊熙績演説や6月下旬の新聞での反発や不満があったとしている。その理由のいかんはさておき、「支那側」の感情に配慮し、中華民国政府からの正式な申し入れはないけれども、今後は「支那国」ではなく「中華民国」と書くことを常態とするとした[31][32][27]。また、外務省内で作成した調書では、革命以来政権が変わっても「中華民国」の名称は変わらなかったため、かつて伊集院が懸念していた王朝交代で国号が変わる事態はなくなったことも挙げている[27]。

12月24日、中華民国外交部は、汪荣宝(中国語版)駐日公使が6月25日以降再三日本側に申し入れてきたが、生返事ばかりであった。最近になって日本側が自ら固執する必要がないことを悟って態度を改めたという回答を陳秘書長に行った。陳は翌年1月7日に国民党中央執行委員会秘書処にこの旨を送り、中華民国側でも政治的にこの問題は終了した[29]。

この閣議決定は対中宥和を目指していた幣原外交の一環であったという評価もある[27]。また、「中華」が、かつての中華思想に基づくものであるとみて、日本の知識人などには強く反発する者も少なくなく[33]、幣原外相の「軟弱外交の証拠」であるとして、批判の対象となった[34]。

ただし、この措置は正式国名に限られ、外務省でも「今後ノ慣行ニ委シ」「支那国」「中華」「中国」の表記を黙認した[35]。このため、地域名称としての「支那」、略式国名としての「支那国」の使用は継続している[35]。幣原自身も衆議院や貴族院の答弁で「支那」「日支」の言葉を使用することがあった[36]。

満洲事変と支那事変

満洲事変により1932年(昭和7年)に満洲国が成立すると、日本外務省は地理的概念としてきた「支那」範囲の再検討をするようになった。「満洲国」の範囲が「支那」に含まれるのであれば、「China」の領土保全を認めてきたワシントン会議などの各合意とのそごが生まれる可能性もあった[37]。10月3日、外務省は略式名称としての「支那国」を使用せず「中華民国」を使用するよう決定し、その理由として「支那ナル名称ハ満洲国独立以前ノ中華民国ノ領域ヲ総称スル地理的名称ナルニ鑑ミ支那国ト称スル時ハ満洲国ヲ包含スルヤ否ヤノ点二於テ誤解ヲ来ス虞ナシトセス」とし、また「支那」の範囲を「昭和七年九月十四日以前ノ中華民国ノ領土ヲ総称スル地域」としたうえで「満洲国ノ独立ニ依り従来ノ支那国ニハ二個ノ国家二分離セラレタルモノ」として、「支那国」と「中華民国」は別概念であると説明している[38]。外務省は「支那」「支那国」の使用をしないよう努めたが、この措置は公文書ですら徹底しなかった[39]。また、東洋史の研究者は「満洲国」は「支那」には含まれないという論陣を張った[39]。

1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を端緒とする日中戦争について、大日本帝国政府は「今回の事変[注釈 8]を支那事変と呼称する」と決定した[40]。

当時の日本では「唐土」「支那」ないし「支那人」の呼称が一般的であったが、支那という言葉は、日清戦争以降、日支親善などのように、両国の頭文字を使って用いることもあった[41]。中国政府や中国人を非難するときも、たびたびセットで使われた。このような表現としては「暴戻(ボウレイ)支那」や「暴支膺懲(ボウシヨウチョウ)」があった[注釈 9]。戦時中の中国人に対する蔑称としては「チナ」「ポコペン」「チャンコロ」などがあった。

この「支那事変」以降、これまで「中華民国」使用を呼びかけてきた外務省においてもほとんど「支那」の呼称を用いるようになった[39]。また、当時「支那」の北部を指す「北支」という言葉が浸透していたが、これは直隷(現在の河北省周辺)付近の地域であり、満洲が「支那」に含まれないという認識も一般化していったことで、外務省の懸念も解消していったことにもよる[42]。

一方、汪兆銘政権の中華民国政府に対しては「支那」という言葉はほとんど用いず、「日満華」のように「華」の文字を使うことが多かった[42]。

戦後

中華民国の指導者であった蔣介石は、対日戦の最中の発言で「彼ら(日本人)は中国を支那と呼んでいる。この支那とはどういう意味であろうか。これは死にかかった人間の意である」と述べており[43]、支那の呼称を問題視していた。

中華民国が連合国の一員として第二次世界大戦の戦勝国になると、蔣介石は日本に対し、「今後は我が国を中華民国と呼び、略称は中国とするよう」と主張した[44][信頼性要検証]。1946年(昭和21年)6月13日公表(6月6日通達)、「支那の呼称を避けることに関する件」という外務次官通達を出し[45]、「中華民国の呼称に関する件」という外務省総務局長通達を公告した。この通達では中華民国の代表者から公式・非公式に「支那」の字の使用をやめてほしいとの要求があったので、今後は理屈抜きにして、先方の嫌がる文字を使わないようにしたいとしている。この通達の対象は各省庁・都道府県・終戦連絡事務局地方事務長に及び、有力新聞・雑誌の社長にも申し送った。

これ以降、「中国」の表記を一般に使うようになり、日本語読みで「ちゅうごく」[注釈 10]と呼ぶようになった。

当時、大学にあった「支那哲学」といった教科名の変更を文部省が求めたほか、郵政省も国際郵便で旧「満洲国」地域は「中華民国東北」、「支那」「北支」「中支」「南支」と呼んでいた地域に「中華民国」と書いていなければ、郵便局では引き受けないと発表した[46]。

また、当時の吉田茂首相が国会答弁で「支那」と呼称したことに対し、野党から批判を受けたことをめぐり、中国文学者として著名であった青木正児が「悪い名称ではなかったから、吉田茂首相が使うのは問題にしないでほしい」ということを、『朝日新聞』に寄稿した[47]ところ、当時、経済貿易新聞社主幹であった劉勝光は「日清戦争以後の教育方針が侮中国的であり『支那』という文字を見ると日本の軍閥・帝国主義を想起する」として、中国にはない単語であり、日本人による著作以外には存在しないなどと批判した[43]。

この点につき、加藤徹は「日本国政府が『支那共和国』という独自の呼称にこだわったのは(中略)1930年までだった。以後は、公文書のなかで『中華民国』という国名を使うようになった。既に第二次大戦中に、日本政府は、南京の中華民国政府(汪兆銘政権)の要請を受け、今後、段階的に『支那』という呼称をやめてゆくことを約束した。もし仮に、日本が第二次世界大戦で戦勝国となっても、『支那』は廃語となったろう」とする[48]。

現代の日本の状況

戦後の日本において、「日支事変」ないし「支那」「支那人」といった表現を使う頻度は少なくなり[注釈 11]、21世紀現在では一般的には「中国」「中国人」を使うようになっている。

戦後の一時期は、略称で「中」とする場合は、中国本土を支配する中華人民共和国を意味するが、「華」とする場合は、台湾に逃れた中華民国政府を意味する[注釈 12]。そのため、日本政府が中国大陸を代表する中国政府として、中華人民共和国ではなく中華民国を国家承認していた時期に、日本では二国間に対し前者を「日中」、後者を「日華」と表記していた。

なお、中華人民共和国との国交がなかった時期には、日本では未承認国家ということで「中共」(中国共産党の意)といった略称を普通に使っていた[注釈 13]。また、中華民国政府のことを「中国国府政府」(中国国民党政権の意)といった表現もあったが、いずれにしても「支那」を使うことはなくなった。

Microsoft Windowsに使用されているMicrosoft IMEや、ATOKなどの日本語入力システムでは、出荷時に「支那」という単語が辞書登録されておらず、初期状態では「しな」を「支那」に漢字変換できない。

主に右派の主張で使われることが多く、例えば、2008年のチベット騒乱を受けて発刊した西村幸祐編の『チベット大虐殺の真実 - FREE TIBET!チベットを救え!』(オークラ出版)がある。この書籍では中国共産党政権によるチベット弾圧に批判的な論者の批判を掲載しているが、多くの論者[注釈 14]が「シナ」を用いている。

また、北朝鮮に対する日本政府の対応を批判する建国義勇軍が、新聞社や親中派の野中広務に弾丸と一緒に送りつけた犯行声明文では「支那、朝鮮の国益を守り、善良なる日本国民の嫌悪感、怒りを高めた」などと書いていた[49]。そのため、これらの「シナ」を使う一部の論者は、中国共産党政権批判とセットとなっていることから、「中国」の呼称を用いたくないために使う傾向があるともいえる。

インターネット上では、中国に反感を持つ層が「シナ」を使う例が多い。フリーライターで「プロ2ちゃんねらー」を自称する中宮崇が、ヤフーチャットで他人を蔑むために使う常套句の一つに「支那土人」があるが、中宮は「支那土人政府は、日本のインターネットにも大量の支那土人工作員を派遣して、プロパガンダ活動を行っている」などと主張しており[50]「支那」を用いている。一方、田中克彦は、保守主義者が国家としての中国を、国名を使わずに「シナ」と呼ぶのは誤用であると指摘した[51]。

サーチナの鈴木秀明は、中国に批判的な日本人が「支那」や「支那人」を使う背景には、侮蔑というよりは(中国および中国人の言行に対する)反発またはいやがらせの面が強いとの見方を示した[52]。

中国における反応

1913年、日本が「支那共和国」の表記を採用したことについて中華民国外交部は、馬廷亮駐日代理公使を通じ「中華民国」を用いるよう日本側に強く求めた[26]。宜昌郵便局が日本からの郵便物の帯紙にある「支那」の文字を抹消し、抗議文を書いた事例や、日本に来た中国人留学生の手記をまとめた『東遊揮汗録』が批判した事例がある[14]。一方、義和団の乱の前後に新聞記者として来日していたこともある狄葆賢(中国語版)は「支那という名称は恥じるに足らず、中華民国などの国号を用いるよりは広義で優れている」と主張していた。それによると、仏典で支那の意味は「思慮深い」であり、交易国家としての賛美の意であったという。

1920年代、国権回復運動期の楊熙績中華民国文書局長は「支那という呼称は、中華民国を清国以下であると形容したもの」「わが国が公文書に倭奴国(中国で用いられる日本人の蔑称)と書いたら、日本側は受け取りはしないだろう」と、「無礼な字句」であると非難している[53]。胡漢民立法院長もまた、中国はすでに「支那」ではないと非難した[54]。同時期の新聞においても日本側の対応を批判する記事を掲載している[54]。

1936年、千葉県市川に居を構えて長期滞日中だった郭沫若は雑誌に「日本人の中国人に対する態度について」という次のような一文を発表している[55]。

日本人は中国を「支那」という。もとは悪い意味ではなく、「秦」の音が変わったということだ。ところで、これを日本人の口から聞くと、まるでヨーロッパ人のいう「ユダヤ」というものよりも悪い。そういう日本人の態度が、国際関係の文字にもよくあらわれている。英支、仏支、米支、露支、鮮支、満支。中国はいつも最劣等の地位になっている。すこしくかれらの新聞紙に注意すれば、かかる表現はすぐにわかる[55]。

郭沫若は日本人の口から「支那」という言葉を聞きたくなかった、と記している[55]。

また、戦後においても支那を使用する石原慎太郎に対して、朱建栄は「日本が中国を侵略したときに差別の言葉として使ったのは間違いない。外交上の配慮が少しでもあれば、当の中国が嫌がっている言葉で呼ぶことは考えられない」と批判した[56]。

中国のメディアでは、日清戦争に日本が勝利した際に、熱狂した日本の民衆が「日本勝った、支那負けた」と叫んだとし、結果として「支那」が蔑称に変化したという主張があるが、サーチナの鈴木秀明は、(戦争の是非は別にして)戦勝国となった当時の日本国民が喜ぶのは正常な現象で、「支那負けた」で「支那」が蔑称になったわけではないと述べた。また、「支那は蔑称である」との主張を主に中国人が行っていることについては、蔑称の定義には該当せず、蔑称として使用されたこともないとしながらも、当時の日本国民の多くが中国および中国人に対する蔑視感情を持つようになっていったはずだとの見方を示した[52]。

中国では21世紀に入っても「支那(シナ)」表現への反発があり、2008年には重慶市の飲食店が、店名の「支那火鍋」をインターネット上で批判され、廃業に追い込まれている[52]。

台湾・香港において

近年では、台湾や香港において、香港本土運動(中国語版)を支持する若年層を中心に、中国大陸・中国大陸住民に対する差別語として使用している[57]。使われる場所は、PTTやLIHKG討論区(中国語版)などのインターネット掲示板が中心であるが、香港の本土派政党青年新政が立法会の議場で「支那」と発言したり[58]、2019年からの香港民主化デモで中連弁の外壁に「支連弁」「fk支那」と落書きをするなど[59]、共産中国からの分離などを主張するための政治的示威行為として使用する場合もある。ただし、台湾においては、支那の単語はもともと中立的であってChinaの中国語音訳にすぎないため、名誉毀損には該当しないという判決が出たこともあり[60]、必ずしも差別語としてのみ認知されているわけではない。

文化・学術的な使用

文化的な使用

ラーメン店の看板に掲げられた「支那そば」(岡山市北区)

中国から伝来したものの中にも「支那」を記したものがある。かつて支那料理や支那うどん、支那大根、支那服、支那刀、支那綿、支那鞄、支那街、支那語など多くの呼称に用いられたが、現在でも通用する呼称は支那そば(ラーメン)[61]や支那竹(メンマ)など極めて限られている。なお、ラーメンは、拉麺をベースに日本で発展した料理である。

学術的な使用

学術的には、漢字表記ではない片仮名の「シナ」を現代でも用いる場合がある。言語学では「シナ・チベット語族」という学術用語が、標準表記として使われている。また、地理においても「東シナ海」(英語 East China Sea)・「南シナ海」(英語 South China Sea)・「インドシナ半島」(英語 Indochina)が使われている。

生物・植物学の分野でも、戦前に命名されたシナイタチアナグマ、シナグリ、シナレンギョウなど「シナ-」を用いた和名が使われており、学名についても同様である。ただし、チュウゴクモクズガニのようにかつての「シナ-」という名前が「チュウゴク-」に変わった例もある[62]。

東京大学や京都大学に設けた支那史専攻は、この地域国家の歴史を研究対象とする専攻である。

「支那」は差別用語であるか

メディアの扱い

NHKではアナウンスや字幕で「支那」「支那人」の用語を使用しないが、ドキュメンタリーなどで「支那」の記載がある書物を紹介する場合は、原文を尊重してそのまま紹介する旨の断りの文字を画面上に表示し、読み上げることがある。一般人がコメントで「支那竹」などと話した場合は、音声は加工せず、字幕は「メンマ」と表示する。地名(東シナ海、南シナ海、インドシナ半島)については、そのまま用いる。戦前の写真にある中華料理店の看板の文字は加工せずに映す。

NHKの用字用語基準に準ずる日本国内の民間放送局や新聞社も、「支那」「支那人」の用語は使用しない。読売新聞社が刊行した『読売新聞』紙面データを収めた「明治・大正・昭和の読売新聞」でデータベース検索する場合、原典の記事で「支那」「支那人」「北支」と表現しているものは、固有名詞の「支那派遣軍」とあるものを除き、「中国」「中国人」「華北」と表示される。

言論界の主張

堀田貢得の『実例・差別表現 あらゆる情報発信者のためのケーススタディ』(ソフトバンククリエイティブ)によれば、出版界では「支那」は戦中に多くの日本人が侮辱の感情を込めて使ったため、現在は使わないという。よって「支那服」は「中国服」、「支那そば」は「中華そば」「ラーメン」、「支那料理」は「中華料理」「中国料理」、「支那事変」「日支事変」「日華事変」は「日中戦争」と表記すべきだとした。また「東シナ海」「南シナ海」については「東中国海」「南中国海」との表記が一般的になるのを待って採用するとした[注釈 15]。

田中克彦は『朝日新聞』で、オットー・メンヒェン=ヘルフェン『トゥバ紀行』の日本語翻訳版を出版しているが、この中であえて「シナ」を用いた。田中によれば「国家と民族は厳密に区別すべき」として「言語は国家ではなく民族と結びつくものであり、中国といえば多民族国家としての略称であって、国民を表す中国人とシナは別々に使うべきである」と主張した[51]。

木村光彦は『日本帝国と東アジア』(統計研究会)で、福澤諭吉の『学問のすゝめ』の支那表記は、現代日本語版では中国と言い換えているが、福澤諭吉が『学問のすゝめ』を書いた当時は、中国という国家は存在しないため、支那と書くのは当然であり、中国と言い換えるのは「徳川家康が東京に幕府を開いた」と奇妙なことを言っているに等しく、歴史上の用語を抹殺するかのような風潮には疑問を感じるとして、中華民国成立以後をCHINAと表記した[64]。そのうえで「この言葉は支那と同根であるが、なぜか誰も文句を言わない。それどころか、かの国自身、英語表記として使用しているのがおかしい」と述べた。そしてロシアではCHINAを「キタイ」といい、かつての北狄・契丹に由来するが、中国共産党総書記習近平は気にならないのだろうかと述べた[64]。

岡田英弘は『文藝春秋』で、19世紀以前の隣の大陸(中国という国がないため、大陸という地理的概念で説明するしかない)を「中国と呼ぶのはおかしい」として、シナを使用する理由を以下のように述べた[65]。

中華民国は1912年、中華人民共和国は1949年にできたのであって、それ以前に中国という国はありません。「中国」と呼ぶから、大昔から今につながる不変・悠久の歴史を思い浮かべてしまう。しかし、実際には、「中国」はその領土も、そこに生きる人々も、王朝も、時代ごとに大きく違っている。滅亡と断絶、人間の大移動と入れ替わりが、あの国の歴史なのです。ここでは正しい歴史は記述できないので、19世紀以前の隣の大陸や文明には「シナ」という言葉を使うようにしています。これは英語の「CHINA」と同じく、秦の始皇帝の「秦」が語源で、新井白石が、イタリアの宣教師シドッティが語った内容に基づいて、古い漢訳仏典から「支那」の文字を探し出したものです。同様に、19世紀までは「中国人」もいなかったので、原則として「漢人」と表記しています。 — 岡田英弘

宮脇淳子は、支那という字に侮蔑的な意味はないと思うが、もし中国人がその表記に侮蔑的な意味を感じるなら、表意的でないカタカナでシナと書けば問題ないだろうとして、シナ表記を支持した[66][67]。

渡部昇一などの右派言論人をはじめ、酒井信彦は『日本』(日本学協会)で、「シナ蔑称説は、意図的に作り上げられた神話・妄説に過ぎ」ず、むしろ「中国あるいは中華と言う表現こそ、シナ人の他民族に対する侵略行為を正当化する用語である」と主張した[68]。

1992年刊行の『地域からの世界史』(朝日新聞社)シリーズの第6巻『内陸アジア』では、モンゴル史の専門家中見立夫が、上述の漢人国家と中国概念のずれについて考察したのち、

近代世界におけるモンゴル民族やチベット民族の歩みを跡づけると、「中国」という概念の問題が浮かび上がる。これらの民族には、少なくとも清朝崩壊の段階では、漢人が居住する地域といった意味での「中国」という言葉はあった。誤解を恐れずに書くならば、「シナ」(この場合、おおむねモンゴルやチベットは含まれない)という地域概念はあった。しかし、漢人たちが抱くような、多民族の共同体、歴史的な存在としての「中国」という概念は欠如していた。 — 中見立夫、地域からの世界史第六巻

という文脈で「シナ」という語を使用した[69]。

日本で中国を「シナ」と表現する政治家・作家として、石原慎太郎がいる。石原は、1999年3月10日の東京都知事選出馬表明の記者会見で「シナは、清が滅んで中国大陸が混乱したとき、孫文がつくった言葉だ。孫文は台湾でも大陸でも国父として尊敬されている。なぜ日本人が使うと差別になるのか、さっぱり分からない」と、その理由を語った[70][71]。

加藤徹は『貝と羊の中国人』(新潮社)で、「中国人が『支那』という日本語に違和感を感ずるのは、同じ漢字文化圏の国だからである。互いの自称を漢字で書けば、そのまま意味が通じるのに、日本人はわざわざ『支那共和国』という国名を作った。中国人はそこに、悪意と屈辱を感じたのだ。国どうしでも個人どうしでも、対等の関係なら、相手の自称を認めるのがマナーであろう」と指摘した[72]。

評論家の八幡和郎は『全世界200国おもしろ辛口通信簿』(講談社)で、「支那といっても抗議される由縁はないはずだが、あえて相手の嫌がる呼称を使うこともない。それが大人の対応だ」と述べた[73]。

また、英語の「チャイナ」など、多くの言語では「シナ」と同じ語源を持つ呼称を用いていることを理由に、あえて「支那(シナ)」を使う人もいる。小谷野敦は『天皇制批判の常識』(洋泉社)で、インドシナ(印度・支那)を含む東南アジアで中国に対してシナ系の呼称を用いることを挙げ、王朝時代を含む中国の歴史・文化に対して「シナ」と呼んだ[74]。

呉智英は『SAPIO』(小学館)で、「支那」禁止は理不尽な言いがかりであると主張した[75]。

小林よしのりは『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』(小学館)で「シナ」を使っているが、著書内で「『シナ』は差別語ではない『秦』を語源とする。『チャイナ』と同じ中国を歴史的に見る名称である」や「ここで統一された『シナ』には満洲も、チベットも、ウイグルも、内モンゴルも、台湾も、含まれていない」とした。このため、中国に存在した王朝を「シナ王朝」と表現した[76]。また、小林と有本香の共著『はじめての支那論 - 中華思想の正体と日本の覚悟』(幻冬舎)の本の帯には、「ウザい隣国・中国は『支那』と呼ぶべし」と書いた[77]。

「中国」の歴史的表記例

紀元前の西周時代にはすでに「中国」の表記は現れていたとされる[78]。

余𠀠宅𢆶𠁩或 自之辥民(余、其れ茲の中国に宅し、自ら之によりて民を乂めん)
皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中国民と厥疆の土地を先の王に付す)
  • 詩経の『大雅』生民之什の章「民勞」
民亦勞止 汔可小康 惠此中國 以綏四方(この中国に恵あれ、四方安らかに)
無縱詭隨 以謹無良 式遏寇虐 憯不畏明
柔遠能邇 以定我王
其人民皆長大平正 有類中國(其の人民皆長大平正で、中国に類する)
其使詣中國 皆自稱大夫(その使者が中国を訪問すると、みな自ら大夫と称す)

そのほか、歴代王朝の正史二十四史でも「中国」の表記が見られる。

脚注

注釈

  1. ↑ 中華民国は外蒙古の独立を認めていなかった。
  2. ↑ 富永仲基『出定後語』「三蔵阿毘曇修多羅伽陀第五」には「支那の教学、必ずこれを操縵に託す」とあり、同書「言有三物第十一」には「真丹・震旦・支那・指難また同じ、琳師云わく、東方は震に属すと、また字に因って解を生ず、笑うべし」とある。早稲田大学蔵、高橋昌長写本、 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko01/bunko01_01577/bunko01_01577_p0017.jpg 、 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko01/bunko01_01577/bunko01_01577_p0031.jpg 。
  3. ↑ 覚深『摩多羅私考』には「天竺・支那・扶桑の神なりや」「支那の神にあらず」という語が見える。
  4. ↑ 長久保赤水「唐土歴代州郡沿革図」の安政2年佐藤元萇跋文に「世の論者ややもすれば輙ち曰く、支那と我と相い唇歯となすと、これ必ずしも然らず……六大洲の浩々たる、満清を継いで王たる者また何の姓なるを知らず」と言う。
  5. ↑ 間宮林蔵述村上貞助編『東韃紀行』国立公文書館デジタルアーカイブ 東韃地方紀行 中巻(文化八年(1811年)筆原本画像)
  6. ↑ 「日憂黄種陵夷、憫支那削溺」宮崎滔天『三十三年之夢』 - 国立国会図書館デジタルコレクション国光書房
  7. ↑ 伊集院は「中華民国ナル名称ハ現共和国ノ国号ニ付承認後ニ於ケル公式ノ文書即チ条約国書等彼我往復ノ文書中特ニ国名全部ヲ記スル場合ハ斯ク認ムルヲ要スレトモ帝国部内ニ於テハ中華民国ト称スルノ要ナカルヘク」と稟申し、中国では歴朝の国号により呼称を変えるが欧米は関係なくChinaなどの地理的名詞を使用していること、日本で一般言語として支那と称していることを挙げ、欧米にならって支那という地理的名詞を使って正式な公文書を記録すべきであり「今後国号ノ更改如何セス我ニ於テハ「支那」ト称スルニ敢テ差支ナカルヘクト存候」としている[20]
  8. ↑ ここで戦争とせず事変としたのは、宣戦布告によって戦時国際法の拘束を受け、中立国から武器を輸入できなくなるなどの問題が起こることを日華両国が望まなかったためである。
  9. ↑ ここでは「暴戻:残酷で徳義にもとる」「暴・膺懲:乱暴(な者)を懲らしめる」の意味であり、支那(支)そのものは固有名詞にすぎない。
  10. ↑ 「中国」は現代中国語の発音記号でzhōngguó、国際音声記号では[ʈ͡ʂʊŋ˥ kuo˧˥]と表記し、かな表記にすると「チュンクォ」となる。
  11. ↑ 戦後かなりたった時期の書籍であっても、広島県町村会編「広島町村会50年史」(1971年発刊)のように、「日支事変」といった表現がある事例もある。
  12. ↑ 1952年に蔣介石政権との間で締結した「日本国と中華民国との間の平和条約」は「日華平和条約」と呼ばれる。
  13. ↑ たとえば1964年2月18日に参議院外務委員会において中国問題を扱った当時の大平正芳外務大臣の答弁は、すべて「中共」である。
  14. ↑ 編集者の西村幸祐のほか、主に右派論客とされる畠奈津子、中宮崇などの寄稿が「シナ」を使っている。ただし、批判的な論者でも青木直人などは「中国」としている。
  15. ↑ ジャーナリスト堀田貢得によれば、「語源に差別の要素はないが、日本と中国との戦争中に多くの日本人が侮辱の感情を込めて用いたので、不適切な表現ではないとの反論はしがたく、公的場所での使用はほとんどない」という[63]。

出典

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参考文献

関連項目

外部リンク