第二次上海事変
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| 淞滬会戦 | |
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第二次上海事変でのガスマスクを装着した日本海軍の上海特別陸戦隊。 | |
| 戦争:日中戦争 | |
| 年月日:1937年8月13日 - 11月12日[1] | |
| 場所: | |
| 結果:日本軍の勝利、中国軍は上海から撤退[3] 。 | |
| 交戦勢力 | |
水陸両用作戦: |
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| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
| 人員200,000人[4] | 人員500,000人[4] |
| 損害 | |
| 戦死9,115[5] 戦傷31,257[5] 第9師団は1937年9月から12月にかけて3万人の死傷者を出したが、そのほとんどは第二次上海事変中に発生した。[6] 中国側主張 戦死傷者10万人以上[7] 1937年8月23日から11月12日までの大日本帝国陸軍:あらゆる原因による死亡者少なくとも19,164人[8][9]
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戦死187,200[10] 戦傷83,500[10] |
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第二次上海事変(だいにじシャンハイじへん、英: Battle of Shanghai、繁: 淞滬会戦、簡: 淞沪会战)、あるいは上海の戦い(シャンハイのたたかい)[11][12]は、1937年(昭和12年)8月13日から始まった、国民党軍と日本軍との軍事衝突[注釈 1]。
近衛内閣が「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し(暴支膺懲)、南京政府の反省を促す[注釈 2]」という声明とともにそれまでの不拡大方針を転換[13]、北支事変は支那事変へと拡大し日中全面戦争に発展した[14][15][16][17][18]。
1937年9月2日、北支事変が支那事変に改称されたことにより、上海事変はその一部となった[19]。
背景
この節はその主題が中国に置かれた記述になっており、世界的観点から説明されていない可能性があります。 (2025年9月) |
第一次上海事変以降の上海
揚子江地域は列強の帝国主義的進出が激しく、また上海に租界があったこともあって、第一次上海事変のように反日運動の激しやすい土地であった。
また第一次上海事変が起こった1932年(昭和7年)ごろから、上海では中国軍、日本軍(海軍)両軍の関係は険悪であった。1935年11月9日には国民革命軍第19路軍の支援を受けた秘密結社によって中山水兵射殺事件が発生[20][要非一次資料]、1936年9月23日には上海日本人水兵狙撃事件が発生した。
中華民国の戦争準備とドイツ軍事顧問団の支援

ドイツ共和国は、中独合作の一環として軍事顧問団(ドイツ軍事顧問団)を中華民國(国民党政府)に派遣していた。
1933年にドイツ軍事顧問団団長として中華民國に派遣された元ドイツ陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークト上級大将は、蔣介石に、国民革命軍隷下80個師団の将兵を装備から組織にいたるまで全てドイツ式の精鋭に作り変える、という「80師団計画」を提言した。80個師団の編成は叶わなかったが、この計画に基づいて、装備、訓練がされた師団はドイツ訓練師団と称された。
1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した[21]。このため、上海から南京に至る各要地に密かに堅固な陣地を築き、大軍の集中を援護させ、常熟・呉県で洋澄湖・淀山湖を利用し、主陣地帯(呉福陣地: 呉県と福山の間)、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)と後方陣地帯(錫澄陣地: 江陰と無錫の間)[21]、及び淞滬線: 呉淞と竜華の間にトーチカ群が設置された[22]。長江沿いに対日戦のための要塞線は、「ヒンデンブルク・ライン」と称された[23][24][25][26]。
1936年、幹部参謀旅行演習を実施し、竜華・徐家匯・紅橋・北新涇・真茹・閘北停車場・江湾・大場江湾・大場の各要点における包囲攻撃陣地の構築、呉福陣地の増強、京滬鉄道の改修、後方自動車道路の建設、長江防備と交通通信の改善、民衆の組織訓練等を行った[21]。
1936年末頃から、1932年の上海停戦協定に違反して、保安隊と称する中央軍を滸浦口(碧渓街道)-安亭-蘇州河-黄浦江-揚子江に囲まれた非武装地帯に侵入させ陣地を構築していた[27]。北支事変勃発後、中・南支の情勢が逼迫するなか、上海附近の兵力を増強し、頻繁に航空偵察を実施していた[27]。
1936年4月1日、ドイツ軍事顧問団の第五代団長ファルケンハウゼン中将は、蔣介石あての「極秘」報告書で「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手があがって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争にふみきるべきである」と進言した[28][29]。ファルケンハウゼンは、中国の第一の敵は日本、第二の敵は共産党であり、日本との戦いの中で共産党を「吸収または消滅」させるのが良策であると判断していた[30][29]。ファルケンハウゼンは、それまでは中国の防衛問題に関する助言しか与えていなかったが、1936年のメモを皮切りにもっと強い主張をするようになり、その中で日本側に奇襲をかけ、日本軍を長城の北方へ押し返し中国北部から追い出すことを提案した[31]。
京滬区の軍事責任者に就任した張治中は、1936年に「上海包囲攻撃計画」を立案し、上海周辺の日本軍(海軍)への先制攻撃の準備を進めた[32]。ファルケンハウゼン中将は、北海事件の直後の9月12日、「ただちに河北省に有力なる部隊を派出し、空軍の掩護のもと所在の日本軍に先制攻撃を加え、河北省を奪還すべきである」と提案した[33][29]。蔣介石は、提案を採用しなかったが、9月18日、「戦事一触即発之勢」と判断し、軍政部長何応欽に「準備応変」を指令した[33]。10月1日、中将は、軍事委員会弁公庁副主席劉光を通じて、漢口・上海の租界地の日本軍(海軍)を奇襲して開戦の主導権を握るよう提案したが、何応欽は時期尚早である旨を述べるとともに、「ファルケンハウゼンの熱心さはわかるが、外人顧問は外人顧問であり、無責任な存在にとどまる、国運を委ねるべき相手ではない」とも指摘した。蔣介石は「加仮我一年之準備時期、即国防更有基礎矣」と判断し、10月8日、外交部長張群との交渉を前にした川越茂と会談し、10月22日、第六次剿共作戦を準備すべく西北剿匪副総司令張学良と会談するため、西安に飛んだ[34]。ファルケンハウゼン中将は、1937年4月3日、軍事委員会弁公庁副主席劉光に書簡を送り、すみやかに防衛態勢をととのえるべきだ、とくに隴海・京漢・津浦線の確保と青島・済南の要塞化、さらに塘沽・天津・北京に「奇襲進駐」をおこなう必要がある、と強調した[35]。
「第二次日独戦争」
中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃、チェコ製の軽機関銃(ブルーノZB26軽機関銃)などを装備し、第36師・第87師・第88師(en)・教導総隊などはドイツ軍事顧問団の訓練を受けて精鋭部隊と評価されていた[36]。
8月12日、ドイツ国防相ブロンベルクは、訪独して武器購入に奔走していた国民政府財務部長孔祥熙に対し「中国への武器輸出を継続するためあらゆる努力をする」と約束した[37]。日本海軍と国民党軍の交戦開始後の8月16日、ヒトラーは「中国との条約に基づいて輸出される物資 [武器] については、中国から外国為替ないしは原料供給で支払われる限り、続行せよ」と命じ、ドイツは日中戦争勃発後も対中国武器輸出を精力的に推進した[38]。
同盟通信の松本重治上海支社長は、「上海の戦いは日独戦争である」と月刊誌『改造』に書いたが、そのところが削られて掲載された[39]。
北支事変発生以降の状況
北支事変
1937年(昭和12年)7月7日には盧溝橋事件が発生、7月11日かねてから帝国主義的態度を強めていた近衛首相はこれを中国側の計画的行動と断じ重大な決意をもって派兵増援をするとの声明を発表、閣議で事態を北支事変とした[40][41]。現地では停戦協定がいったん成立したものの、7月17日、近衛内閣は軍強硬派の要求により条件を追加して中国側に通告し、いれられない場合は武力行使することを決定した[42]。これに対し西安事件以来抗日気運が高まっていた中国側も強硬姿勢を示し、再び緊張が高まった[40]。続いて25日に郎坊事件、26日には広安門事件が勃発するに及んで、参謀本部から全面作戦行動の許可を得た香月軍司令官は同月28日に華北において全面攻撃を開始した[43][42]。
中華民国側の動き
盧溝橋事件後、張治中は日本による陸軍の上海派遣、揚子江にある日本軍艦の上海への結集、日本による無理な要求の提出などの事態が発生した場合、主導権を獲得するため先制攻撃を発動するよう国民政府に提案した[44]。蔣介石は、提案の主旨を承認し、先制攻撃の態勢を作っておき発動の時機については命令を待つよう返電した[45][46]。8月13日以前に、中国側は既に先制攻撃を仕掛ける決断をしていた[44]。
1937年8月6日、蔣介石は国際宣伝組織を結成するためCC団の陳立夫を上海に派遣した[47]。蔣介石は同日の日記に「毒瓦斯をもっていく」と書いており、実際に中国軍による毒ガスの散布は日本軍によって確認されている[47]。
衝突前の状況
盧溝橋事件以降、対中戦には、日本陸軍は慎重派と積極派で割れていた。海軍も米内海相は慎重派であったが海軍の大勢は対中全面作戦の準備はすべきというもので、現地の第三艦隊司令長官長谷川清中将は積極的姿勢で陸軍5個師団の出動を要請するほどであった[42][48]。
1937年7月23日、南京に停泊中の日本海軍駆逐艦栂に対して中国軍機が低空飛行で接近した[49]ため、南京駐在武官の中原三郎海軍大佐は中華民国当局に抗議を行った[50]。
1937年7月24日夜、宮崎貞夫一等水兵が中国人に拉致された。在留邦人から報告されると上海特別陸戦隊は警備配置につき、調査を開始したが、これに対し中国保安隊は日本側に対抗するように要所ごとに土のうを積上げ、鉄条網を張り巡らすなどした[51]。上海市長兪鴻鈞が直ちに岡本季正上海総領事に連絡を取った。[要出典]日本側はこの事件に即応したが、宮崎の逃亡の可能性を疑い、7月25日の午前4時には警戒配備を終了し、中国側も防備を撤収した。27日に宮崎一等水兵は靖江にて入水自殺未遂を起こしたところを中国官憲に確保され日本側に引き渡された[51]。
在留日本人引き揚げ
7月28日、日本政府は、揚子江沿岸に在留していた日本人約29,230名の引き揚げを訓令し、8月9日までに上海への引き揚げをほぼ完了した[27]。さらに、上海への危険が増加したため、奥地からの引揚者及び上海居留民約3万名の内婦女子約2万名が8月13日から19日頃までに帰国し、約1万名が残留した[52]。
大山事件
時局収拾を目指した日本政府は船津辰一郎元上海総領事を上海へ派遣した[53]。船津は、8月4日に東京を出発、8月7日に上海に到着し、8月9日に、中華民国外交部亜州局長の高宗武と会談した。
一方で、居留民の上海への避難がほぼ完了した1937年8月8日、長谷川第三艦隊司令長官は、事態拡大に対応する一切の準備を迅速に行うよう麾下の部隊に指示している[54]。翌9日夕刻、上海海軍特別陸戦隊西部派遣中隊長の大山勇夫海軍中尉と、斎藤與蔵一等水兵が中国保安隊に射殺される事件(大山事件)が起こり情勢が緊迫[55][56]、上海虹口の日本租界は進出した国民革命軍に包囲されるに至り、一触即発の状況となった[57]。
交戦開始直前の状況
防衛省防衛研究所にもいた岩谷將によれば、日本軍が北支を総攻撃し南下してきたことにより中国側は武漢まで攻略されることを恐れ、揚子江下流域を主戦場と目し、黄浦江南岸を固め、大山事件で上海の緊張が高まったことにより、上海の包囲攻撃を決めたとする[58]。8月11日、日本は、保安隊の撤退と防備施設の撤去を要請したが、南京の軍事委員会は張治中に対し、所属の87師長王敬久と88師長孫元良の部隊を蘇州から上海包囲線へ推進するよう命じ[59]、呉松と[要検証]上海に駐留する日本軍の掃討を準備し、その拠点の排除を目論んだ[60]。蔣介石は、日本軍艦が上海周辺水域に集中していることを知り、呉沿口を封鎖することを決め、中華民国海軍は揚子江の江陰水域を封鎖した[61]。中華民国側では、大本営に当たる国防最高会議を11日に設けて作戦・指揮の最高責任者を蒋介石と定め、12日には上海での事態の進展と北支でのチャハル省侵攻などの戦闘拡大・継続を受けて国民党中央常務会議の秘密会で戦時状態に入ったと認め、15日に全国に動員令がかけられた[62]。蒋介石がかねて語っていた「最後の関頭」についに達したのではないかとみられる状態に至ったわけである。日本側は12日、海軍軍令部は陸軍派兵を要請、翌13日、近衛内閣は内地師団派兵を決定した[63]。
張治中は、「午前2時、急 南京、蔣委員長、部長何鈞鑑:1120密。本軍は、淞滬間の日軍を掃討する目的の貫徹に従った。すなわち十一日夜に準備しておいた列車と自動車で現有の軍隊を輸送し、重点を江湾、彭整(彭浦)付近に置いて、敵に猛攻を加え、敵軍の根拠地に進攻、占領して殲滅するつもりである。(以下略)」[64]との電文を発し、部隊を上海包囲攻撃線へ進め、江湾・彭浦に重点的に配備した[65]。
この時点ででの日本側の地上戦力は海軍陸戦隊のみで、上海陸戦隊2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊1200、出雲の陸戦隊200、他320の計4千人あまり[66]、せいぜい日本側の兵力は5千人程度だったとする資料が多い。中国側は、12日には二個師団が上海北停車場に到着、共同租界の外の四川路にあった日本海軍陸戦隊本部を囲むように布陣、すでに本来非武装地帯であった揚子江沿いの上海東部に集めて陣地を構築していた部隊などと合わせて約5万程度とみられた[62]。このため、日本領事は国際委員会を再び招集し、中国軍の撤退を要求した。しかし上海市長兪鴻鈞は、日本側が八字橋に部隊を配置して1932年の協定を破って無効にしたものとし[67]、中国は既に侵略をうけているとの声明を発表し、最後に兪鴻鈞は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しないと、中国政府として認められるのはせいぜいそれぐらいだとした。一方、日本は上海近辺での中国の派兵の全ての責任は中国側にあるとした。他5か国の大使らは11日に通牒していた通り日中双方の軍撤去により上海を戦闘地域から外すことを求めた[67]。午後5時50分、日本海軍の第3艦隊が軍令部に、陸軍派兵を要請する電報を打った。午後8時40分、「動員が下されても到着まで2週間かかる。なるべく戦闘正面を拡大しないように」という電報が東京から返ってきた[68]。
陸軍の派兵決定
12日、日本海軍(米内海相)は陸軍の派兵を要請、13日、近衛内閣は上海居留民保護のためとして内地の陸軍派兵を決定した[19][69]。
12日夜、米内海相の要請により、近衛総理、米内海軍、杉山陸軍、廣田外務の四相会議が開催され、米内海相は陸軍上海派兵の方針決定を要求した。各大臣とも異存なく、翌日の閣議に上程することとなった[70]。
ところが四相会議散会後、杉山陸相から米内海相あて「当初の計画時とは著しく変わった状況となったので、出兵については最も慎重に考慮すべきだ」という意見を参謀本部は述べている旨、通知があった。そして、13日早朝参謀本部第一部長石原莞爾少将が近藤信竹軍令部第一部長に「出兵不同意」を表明してきた[71][70]。これに対し近藤第一部長は海軍において十分陸軍作戦の援助をなす旨述べて出兵を求めた。結局、(一)陸軍は出兵する、(二)従来最も重視してきた呉淞方面上陸は困難となったので、上陸点の選定を含む作戦要領は今後の状況により、あらためて決定することとして、両部長の意見が一致した[70]。
13日午前閣議が開催され、次のとおり決定した。
現下緊迫セル上海方面ノ事態ニ鑑ミ、居留民直接保護ノ為、陸軍部隊ヲ同方面ニ派遣スルコトトス。但シ陸軍部隊ノ兵数及動員下令ノ時機ハ、参謀本部軍令部ニ於テ協議ノ上之ヲ決定スルモノトス[70]。
かくて、軍令部は「本十三日陸軍派兵ニ決定セリ 派遣時機兵数等ニ就テハ追テ通知ス」と、現地へ電報した。
軍令部は12日、長谷川司令長官に「陸軍到着まで海軍陸戦隊の戦闘正面を拡大しないよう」電報したが、13日に、更に、次のように電報した[72]。
上海方面事態急迫セル所作戦全般指導上ノ見地ヨリ先以テ同方面ニ於ケル作戦上ノ地歩ヲ獲得スル迄(概ネ陸軍主力上陸時機迄ヲ動員下令後二十日間)ハ爾他ノ各地ニアリテハナルベク武力発動ニ至ラザルヲ有利トスルニ付此ノ点特ニ留意アリ度意向ナリ。
日本海軍と中国国民党軍の交戦開始(8月13日〜22日)
小競り合い

日本海軍側では、まず午前10時30分商務印書館付近の中国軍が横浜路、宝山路交差点の日本軍陣地に機銃攻撃をしてきたので応戦、次いで午後4時50分頃に八字橋方面の敵が、西八字橋、陽済路橋、柳営路橋を爆破砲撃してきたので応戦した、としている[74][75][76][77]。しかし、当時の日本側の報道を見ると、午前9時15分頃には北四川路で便衣兵の射撃を受けた、9時半には正規兵と交戦に入った、10時頃陸戦隊が寶興路や虬江路に進撃を開始した等と、もっと早くから日本側が積極的に攻勢をかけていることを報じるものもある[78][79]。一方、中国側報道の8月14日付《申報》によれば、8月13日午前9時15分ごろ、北四川路日本小学校から繰り出した陸戦隊70名~80名が虬江路口の横浜橋より宝山路付近の保安総団陣地に掃射し、淞滬鉄路を越えようと企図し宝山路へ直進した、これに対し保安総団は射撃を行い、約15~20分間の小競り合いの末陸戦隊が退却した、としている[80][81][82]。午前9時過ぎには前夜の四相会議の決定を受けて陸軍増派が閣議でも決定していた[83]とみられる頃である。一方で、上海での作戦を担当した張発奎は、上海ばかりは最初の一撃は中国から仕掛けたとも戦後に語っている[73]。
午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍も日本軍陣地に対し機関銃による射撃を開始した[84]。日本の陸戦隊は当初は進撃していたものの兵力に劣るため防衛中心の戦術方針を取った[84]。中国軍の攻撃対象は租界の北側外の四川路にある日本海軍陸戦隊本部で、また戦火を隣接した共同租界・フランス租界に及ぼさないよう中国軍は南側から攻め始める等、両軍とも戦闘地域は限定していた。ほか、中国軍機が威圧するように低空を飛行したが、当初、陸戦隊は対空砲火を行わなかった[85][要検証]。
本格戦闘開始
8月13日午後4時54分[86]に、八字橋[注釈 3]方面の国民革命軍第88師第523団第1営[80]が西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を開始し[88]、これが第二次上海事変の本格的戦闘の開始となった。山口祐一は、彼の著書で、このときどちらが先制攻撃をかけたかについては日中双方で見解が分かれている[89]としているものの、張治中は、蒋介石に対し午後5時より攻撃を開始する、と通知していたともされ、張発奎は戦後に第二次上海事変についてばかりは最初の一撃は中国から仕掛けたと語っている[73]。午後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、戦闘が開始された[84]。
双方とも大型砲は持たず、せいぜい歩兵の持つ小型砲、速射砲、陣地破壊用の迫撃砲、擲弾砲で、小銃・手榴弾による肉弾戦が多く、約5千ほどの少数の日本海軍陸戦隊が不利であったが、陸戦隊に国民党軍にない戦車・装甲車があったこと、第三艦隊航空部隊の空からの支援により陣地を持ちこたえていたという[90]。
この日、英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めた。また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日の深夜であった。
- 中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
- 日本軍は国際租界から撤退する。
- 中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。


13日午後9時頃から国民党軍が帝国海軍上海特別陸戦隊への総攻撃を開始し戦闘に突入した。当時、上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊の数は多めに見ても5千人であったのに対し、国民党軍はすでに無錫、蘇州などですでに20万人以上が待機していた[91]。同日夜には日本海軍が渡洋爆撃命令を発令している[92]。
中華民國空軍の爆撃
8月13日夜から中国軍爆撃機による威嚇飛行が行われていたが、8月14日9時50分頃に日本軍が高射砲攻撃を開始、中国軍機はいったん引き揚げたものの10時20分ごろ戻ってきてついに租界前面の黄浦江上に停泊していた日本海軍第三艦隊旗艦「出雲」及び「川内」に対して爆撃を開始した[94][95]。11時28分(日本時間、現地時間では10時28分)ごろ、出雲と川内の中間、川内から約800mの楊樹浦側に爆弾が4発投下された[96]。この爆撃によって投下された爆弾の幾つかが周辺のフランス租界・国際共同租界を誤爆、パレス・ホテルとキャセイ・ホテル前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した[97]、数分後には婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センターの前に爆弾が落ち1,012人が死亡し、1,007人が負傷した[97]。民間人3000人以上の死傷者が出た事に対し[97]、国民党政府は遺憾の意を表明した。また、この日は、上海陸戦隊本部、上海北部の呉淞沖にいた第八戦隊の巡洋艦などに対しても中華民国空軍機による爆撃が行われた[98]。また揚子江上流の七了口と通州水道の間を哨戒していた駆逐艦 栂も午前11時10分(日本時間、現地時刻は午前10時10分)以降に中華民国空軍機の爆撃を受け、栂の乗員3名が戦死した[99][100]。
一方で、日本側の高射砲による対空砲火の榴散弾の弾丸や砲弾の破片の落下による租界住民の被害も起こっており、さらに日中いずれによるか不明の百貨店誤爆事件も生じ、租界への誤爆や被害はその後も発生、やがて日本軍による上海南駅の爆撃破壊とそれによる多数の民間人の死傷事件が発生した。[要出典]
一方、前日の渡洋爆撃命令を受けて、日本海軍も台湾の航空基地より爆撃機を飛ばして、杭州や広徳を爆撃している。九州から南京への渡洋爆撃も予定されていたが、九州の天候が悪かったため延期された[92]。
近衛内閣の声明(8月15日未明)
近衛内閣は、国民党軍が上海で日本側に対する砲撃、更には14日に日本の軍艦、出雲や川内などに対する爆撃まで行ったことからその夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した[101][13]。13日、米内は上海での戦闘発生の連絡を受けてそれまでの不拡大方針を変更したが、このとき極めて感情的であったという。財政上の説明をする賀屋蔵相を怒鳴りつけており、賀屋によれば、海軍はセクショナリズムが強く不拡大に熱心であったが、ひとたび自分の領分の上海に火がついたら怒り出したのだとする[89]。石射猪太郎は、14日の日記に、陸戦隊は日本人保護の使命を吹き飛ばして今や本腰に喧嘩だと書いている[102]。
日本海軍の渡洋爆撃
8月15日、日本海軍は、前日に延期された九州から南京への航空機による渡洋爆撃を開始する[103][90]。この爆撃については近衛首相も陸軍も知らされていなかったとみえ[89]、陸軍の石原参謀本部第一(作戦)部長は事態収拾を困難にすると海軍に抗議している。中国軍を侮って戦闘機の護衛なしに出撃したある攻撃隊は、米国製をそろえた中華民国空軍に9機中8機を撃墜されたが、このようなことは日本では報じられず、渡洋攻撃の成功ばかりが報じられた[90]。同日、第3師団と第11師団に動員命令が下り、上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる[104][90][42]。
陸戦隊の増派
第87師、第88師の2個師であった国民党軍は、15日になると、第15師、第118師が加わり、17日には第36師も参戦し、7万あまりとなった。日本側は、横須賀と呉の特別陸戦隊1400名が18日朝に、佐世保の特別陸戦隊2個大隊1000名が19日夜に上海に到着し[105]、合わせて約6300名となった[106]。
8月17日、国民党軍は攻撃の重点を楊樹浦方面にも拡大し、共同租界境界線を越えて華徳路の康泰メリヤス工場付近へ進出した。東部の租界との境界を守る第五大隊(柴北大尉)と第十六駆逐隊陸戦隊は、一部陣地からの後退を余儀なくされ、楊樹浦クリーク沿いで辛うじて進撃を食い止めた。翌18日に呉鎮守府第一特別陸戦隊(20日以降第七大隊)と竹下少佐指揮の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(20日以降第八大隊)が到着すると、両隊は上陸後ただちに東部の正面に投入され、同日夜までに国民党軍を共同租界境界線外へ押し戻した。しかし公大紗廠や華徳路一帯ではなお陣地の争奪が続き、19日夜に到着した佐世保の特別陸戦隊も、揚陸を終えると休む間もなく第一線へ送られた。佐世保の特別陸戦隊のうち、月岡少佐指揮の大隊は第九大隊、土師少佐指揮の大隊は第十大隊として、それぞれ上海特別陸戦隊の指揮下に置かれた。20日以降、国民党軍は戦車を伴って公大紗廠方面を繰り返し攻撃したが、陸戦隊は砲兵・戦車隊の支援を集中してこれを阻止した。22日未明にも戦車と歩兵による攻撃を受け、第九大隊は大きな損害を出しながら応戦した。華徳路では第八大隊(竹下大隊)が第十大隊(土師大隊)と交代して戦線に入り、増援部隊の逐次投入によって、陸戦隊は辛うじて東部租界の防御線を維持した[107][108]。
8月19日以降も国民党軍の激しい攻撃は続いたが、上海の陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも[109][110]、租界の日本側の拠点を死守した[111][112]。蔣介石は後日、「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」と悔やんだ[113]。
日本陸軍先遣部隊の敵前上陸(8月23日〜30日)
第三師団、第十一師団先遣隊の海軍による上海への急送
海軍からの陸軍派遣の要請を受け、松井石根大将を司令官とし名古屋第三師団と善通寺第十一師団の2個師団を主力とする上海派遣軍が編組され[43]、両師団の先遣隊は海軍が差し向けた艦艇群により上海に急送された[114]。日本からは主に戦艦と巡洋艦で上海に向かい、上海沖の馬鞍群島で主に駆逐艦に移乗して上陸地点に向かった。馬鞍群島までの輸送には陸奥、長門などの戦艦及び重巡妙高、青葉、羽黒、足柄、那智、愛宕、摩耶、軽巡多摩、五十鈴、川内、那珂などを充当した[115]が、戦艦を輸送船に代用し、陸軍兵士をハンモックで運ぶなどは前代未聞のことで、上海の海軍部隊の切迫した状況を物語っている[116]。第十一師団は第一次上海事変でも上海に送られた上陸訓練師団だった。8月23日に両師団の先遣隊第一梯団は上海北部の江岸に海軍の支援の下で敵前上陸を行った[117]。支援艦隊の中には、第六駆逐隊司令として伏見宮博義王中佐も加わっていた[118]。
第三師団先遣隊の呉淞鉄道桟橋への敵前強行上陸
名古屋歩兵第六聯隊と岐阜歩兵第六十八聯隊の応急動員分を主力とする第三師団先遣隊の呉淞クリーク(蘊藻濱)の南方の黄浦江岸の呉淞鉄道桟橋周辺への上陸は強行上陸[119]と位置づけられ、8月23日深夜未明に、上海の陸戦隊から派遣された上陸掩護隊(第八大隊として上海陸戦隊の指揮下に入っていた横須賀鎮守府第一特別陸戦隊[120]を主力とする竹下宜豐海軍小佐指揮の竹下部隊)510名[121](但し飯沼守日記の記載では508名[122])と陸軍の一個中隊(歩兵第六十八聯隊第二大隊第五中隊(中隊長棚橋茂雄大尉)[123])が先陣として岸壁に横付けした輸送船(雲陽丸・當陽丸・信陽丸)から敵前強行上陸を敢行した[124]。竹下部隊は当時白襷決死隊と称された。
8月22日、上海東部地区で戦闘中だった竹下大隊(第八大隊)は、日本陸軍第三師団先遣隊の呉淞鉄道桟橋への敵前上陸を掩護することになったため、守備区域を土師大隊(第十大隊)に引き継いだ。同日午後10時30分、竹下大隊を主力とする竹下部隊は上海招商局碼頭で雲陽丸・當陽丸・信陽丸に分乗し、翌23日午前0時30分ごろ、海軍の護衛艦艇とともに黄浦江を下航した。午前2時45分ごろ、先行する艦艇が呉淞鎮および鉄道桟橋周辺に対する掩護艦砲射撃を開始し、午前3時ごろ、上陸掩護隊を載せた輸送船は海関港務所や桟橋付近からの銃撃を受けながら接岸した。午前3時5分、上陸掩護隊の上陸が開始され、右翼に竹下大隊の大隊本部、中央に竹下大隊の宮野中隊、左翼に竹下大隊の大橋中隊を配置し、そのさらに右翼から陸軍の棚橋中隊が前進した。大橋中隊は、ドック会社付近の建物、竹垣および道路沿いの陣地を攻撃した。宮野中隊は鉄道桟橋正面の竹垣と鉄条網を破壊して上陸し、河岸付近の陣地を占領したのち、鉄道倉庫および軍工路方面へ進出した。戦闘は午前3時30分から4時ごろにかけて特に激しく、地雷による死傷者も出た[125][126]。大橋中隊の柴田小隊がドック会社付近、小野小隊がコンクリート建物から鉄道線路方面を攻撃した。午前4時ごろ、小野小隊は鉄道線路に進出し、陸軍の棚橋中隊と協力して鉄道構内の中国軍を軍工路方面へ後退させた。また宮野中隊は午前4時15分ごろまでに軍工路に到達した[127]。竹下小佐は、午前5時45分に長谷川第三艦隊長官に予定された区域の確保を報告した[128]。
上陸地点の確保後、第三師団先遣隊第一梯団第一回上陸部隊第一次上陸部隊の名古屋歩兵第六聯隊の第三大隊、聯隊本部、第一中隊、工兵小隊、旅団無線の順で上陸し、次いで、第二次上陸部隊(歩兵第五旅団司令部、歩兵第六聯隊第一大隊、同第二大隊、工兵聯隊の一小隊)も午前6時頃までには上陸が完了し[129]、午前6時15分から陸戦隊竹下部隊との交代を開始した。午前9時38分には、岐阜歩兵第六十八聯隊第二大隊などの第二回上陸部隊を載せた軽巡洋艦神通が到着し上陸を開始した。大橋中隊正面でも午前10時30分ごろまでに後続の第三師団先遣隊第一梯団との交代が完了した[130]。午前10時30分ごろ、神通は、朱家浜方面から砲撃を受けたため、艦尾砲で約30分間反撃した。竹下部隊は、午前11時ごろ、戦線を陸軍部隊へ引き渡して予備隊として集結し、午後3時に呉淞を出発し、午後4時15分に上海の大阪商船桟橋に帰着した。神通も午後3時37分に黄浦江の下航を開始し、午後4時34分から呉淞鎮付近の国民革命軍陣地を砲撃したが、その際に国民革命軍の砲撃を受け、船体に命中した[131]。
上陸時の戦闘で日本海軍は、翌日死亡の1名を加えて竹下部隊が30名、また支援の海軍艦艇乗員が翌日死亡の1名を加えて4名の戦死者を出した[132]。
この日、神通から上陸した歩兵第六十八聯隊第二大隊長矢住政之少佐は、この日の午後、呉淞クリーク近くで狙撃とされる銃撃により負傷し[133]、呉淞鉄道桟橋に停泊していた當陽丸に設けられた包帯所に収容された後、午後8時頃死亡した[134]。第三師団先遣隊第一梯団は、この日の夕方午後5時までに西方のクリークの線まで進出、また南方は鉄道桟橋から500m先まで前進し橋頭堡の確保に成功した[135](北側は呉淞クリークが進出線になった)[136]。
第三師団先遣隊第二梯団の歩兵第六十八聯隊第一大隊及び第三大隊などの呉淞鉄道桟橋への上陸は8月23日17時20分に開始され、翌24日の深夜午前1時30分に完了した[137]。
第三師団先遣隊の呉淞鉄道桟橋橋頭堡の戦い
呉淞鉄道桟橋に上陸した第三師団先遣隊は橋頭堡の確保には成功したものの、国民革命軍の夜毎の逆襲を受け、北側の呉淞クリーク(蘊藻濱)対岸の永安紡織などからの迫撃砲の攻撃にさらされ[138]、更に西南からドイツ製と思われる15cm榴弾砲の砲撃も受けている[139]。8月29日には呉淞クリーク北岸や西南の江湾鎮方向からの国民革命軍の砲撃により呉淞鉄道桟橋での物資の揚陸を一時見合わせている[140]。また手榴弾を吊るしたトラップによる死傷も生じている[141]。国民革命軍はドイツ式の柄付き手榴弾を装備していた[142]。
歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長の石丸一八大尉は25日夜の国民革命軍の逆襲で26日未明午前1時40分頃腹部貫通銃創[143]で戦死した[144]。
後続部隊が到着するまで第三師団先遣隊の火砲は、野砲兵第三聯隊の第一、第二の2個中隊の他は連隊砲と大隊砲があるぐらいで、それ以外の重火器の装備はなく、また大小行李が後続となったため弾薬や糧秣の補給が満足に行えず、兵員数でも戦力は過小だった。参謀本部の西村敏雄少佐は、9月10日に、派遣軍は応急動員の軍艦輸送のため、後方が続かず、両師団は大苦戦である、と報告している[145]。それでも第三師団先遣隊の歩兵第六聯隊と歩兵第六十八聯隊の応急動員分は南西への進出を図り、8月28日には殷行鎮を占領した[146]が、その夜の国民革命軍の逆襲で歩兵第六聯隊長の倉永辰治大佐が国民革命軍の銃撃を受け、翌29日早朝に戦死している[147][148]。倉永大佐の戦死後、後任の川並密大佐の到着まで、連隊の指揮は第一大隊長の安藤元一少佐が引き継いだ。その後、安藤少佐は10月17日に頭部に銃弾を受け戦死した[149][150]。
第十一師団先遣隊の川沙鎮周辺への奇襲上陸
一方、同日に開始された第十一師団先遣隊の川沙鎮周辺の揚子江岸の砂地への上陸は奇襲上陸と位置づけられ[151]、23日には第一梯団として高知歩兵第四十四聯隊と徳島歩兵第四十三聯隊の第三大隊の応急動員分などが上陸した。神州丸からの上陸用舟艇(大発、小発等)の泛水作業は独立工兵第六聯隊及び独立工兵第十聯隊の一部が行った[152]。上陸開始は午前2時(日本時間、以下この節では同じ)の予定だったが、上陸部隊が乗った駆逐艦等への上陸用舟艇の到着が遅れたため上陸開始が遅れた[153]。第二十四駆逐隊(山風、海風、江風の3艦。涼風は就役前のため加わっていない)及び第九駆逐隊の駆逐艦(有明、夕暮、白露、時雨)、軽巡洋艦五十鈴、敷設艦沖島が午前3時54分に艦砲射撃を開始した[154]後、午前4時12分[155]、駆逐艦などから移乗していた第一回上陸部隊を乗せた上陸用舟艇が江岸に向け発進した[156][157]。しかしながらこの時点でも夕暮、多摩には上陸用舟艇が未着だった[158]。歩兵第四十三聯隊第三大隊は上陸部隊の右翼として上流側の小川沙口付近に上陸した[159]。高知歩兵第四十四聯隊は左翼として川沙口(川沙鎮)の左右に上陸の予定だったが一部の部隊は上陸位置を誤って下流側の貴腰湾に上陸した。第一回上陸部隊に続いて海軍の内火艇で師団通信隊(の一部)と共に師団参謀の下坂正男少佐が上陸し[160]、上陸した通信隊は午前4時40分頃に師団長他師団司令部が乗艦する揚子江上の川内に閃光通信により上陸成功を連絡した[161]。第一回上陸部隊の上陸時に国民革命軍側の大きな抵抗はなく、第二回上陸部隊の上陸も午前6時頃完了した[162]。また師団司令部も午前7時過ぎ頃には上陸した[163][164][165]。しかしながら午前9時半頃(日本時間)に川沙鎮の揚子江岸寄りの文宅にいた師団司令部[166]は中華民国空軍機による爆撃を受け[167][168]、この爆撃によって下坂少佐や堀金一大尉などが戦死した[169][170][171][172]他、師団通信隊などに負傷者が出た[173]。またこの爆撃で海風の乗員1名が軽傷を負った[174]。
第十一師団先遣隊の前進、及び第二梯団の上陸
23日に上陸した第十一師団先遣隊第一梯団のうち、高知歩兵第四十四聯隊の第二大隊(恒岡大隊)は先行して羅店鎮に向け前進するが、その日の夜に国民革命軍の攻撃を受け、その夜は連隊本部と連絡が取れなくなってしまう[175]。また歩兵第四十三聯隊第三大隊は上陸後速やかに揚子江上流の劉河鎮方面に向けて前進を開始した[176]。
翌24日の第十一師団先遣隊の残余の第二梯団の松山歩兵第二十二聯隊と徳島歩兵第四十三聯隊の第一大隊と第二大隊の応急動員分などの上陸では、揚陸を担当した碇泊場司令部の作業開始の遅れにより、上陸開始前に潮が引き上陸不能になってしまった。潮が上げてきた午前11時30分頃からようやく上陸が開始されたため、当日中に上陸が完了せず[177]、午後6時の時点で、川内、八重山は陸軍部隊と貨物の揚陸が終わらず、大井、五月雨、時雨、夕暮、有明には未揚陸の軍需品が残っていた[178]。陸軍部隊の揚陸は翌25日の11時、軍需品の揚陸は同日の16時にようやく完了した[179]。陸軍省作成の資料には、揚陸用の舟艇が不足していたことや馬や車両が皆無で揚陸した軍需品を前進した部隊に追送することができず、次に揚陸させる軍需品の置き場所を作れなかったことなどで揚陸が遅延したこと、軍需品の揚陸場所を川沙鎮の下流側の貴腰湾に変更したことが記されている[180]。
英国大使乗車への日本海軍機の銃撃(8月26日)
8月26日午後2時30分ごろ太倉南方の道路上で南京駐在英国大使ヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセンが乗った乗用車が航空機から銃撃を受け、この銃撃で大使は重症を負った[181][182]。同行の大使館職員が日本海軍機の機銃掃射によるものであると主張したが、日本海軍が自軍による機銃掃射を否定した[183]ため、イギリスの対日感情が悪化した。
『戦史叢書 中國方面海軍作戦〈1〉』 p.370によると、この日、太倉方面上空にいたのは、第一空襲部隊となっている[184]。第一空襲部隊は、日本海軍航空母艦鳳翔、龍驤の艦載機で編成された部隊と思われる。
第十一師団先遣隊の羅店鎮の占領
高知歩兵第四十四聯隊和知部隊と松山歩兵第二十二聯隊永津部隊は、川沙鎮周辺に上陸後、最初の目標だった羅店鎮の占領を目指して内陸に進出し、8月28日には羅店鎮の占領に成功する[185]が、上陸地点の川沙鎮周辺から羅店鎮まで車を通せる道がなかった[186]こともあり膠着状態に陥ってしまう。
歩兵第四十三聯隊の劉河鎮の攻撃
一方、徳島歩兵第四十三聯隊淺間部隊(と山砲兵連隊の一部)は、上陸前の計画では劉河鎮を第十一師団の補給基地にする計画だった[187]ことから、揚子江の上流方向に進出し劉河対岸の劉河鎮を攻撃した。第二大隊第七中隊は劉河を渡河し劉河鎮を攻撃している[188][189]。しかしながら劉河鎮の攻撃に参加したのは、第二大隊と第三大隊と山砲兵第十一聯隊第八大隊[190]で、第一大隊は進路を誤り、歩兵第二十二聯隊を追って羅店鎮方面に進出していた[191][192][193]。その後、今度は逆に、歩兵第四十三聯隊のうち2個大隊が揚子江下流側の宝山城方面に向かうことになり、第一大隊と第三大隊を基幹とする淺間支隊が臨時に編成され、第二大隊を揚子江上流方面の双草墩[注釈 4]に残置し、淺間支隊は揚子江下流方向に進撃を開始した。その結果、劉河鎮の占領は放棄され、劉河鎮の占領は上海での戦いの終結後になった。
日本陸軍第三師団岐阜歩兵第六十八聯隊などによる江岸の占領(8月31日〜9月6日)、及び日本陸軍増派の決定
岐阜歩兵第六十八聯隊の呉淞鎮北側への敵前(再)上陸
8月23日から翌日にかけて呉淞鉄道桟橋に上陸した第三師団先遣隊の2個連隊のうち、岐阜歩兵第六十八聯隊は、上陸後、北方の呉淞クリークを越えて、呉淞クリーク河口の黄浦江岸の呉淞鎮、黄浦江の揚子江への河口に位置する呉淞砲台、及び揚子江岸の宝山城を攻撃することになった。8月30日に応急動員で欠けていた本動員分の3個中隊や大小行李(弾薬、糧秣などの補給部隊)などが到着し、翌31日には、第一大隊と第三大隊が海軍の支援のもとに呉淞鎮北側の黄浦江岸に敵前上陸を行い、第二大隊は呉淞クリークを橋で渡り対岸の呉淞鎮を攻撃した。
岐阜歩兵第六十八聯隊の上陸に先ち、午前9時45分に、独立工兵第十聯隊から選抜された、玉川忠芳上等兵を班長とする決死隊6名が呉淞鎮北側の黄浦江岸の上陸地点のトーチカに突入し、玉川忠芳上等兵他が戦死した[194][195]。この決死隊は当時、肉弾六勇士と称され[196]、『肉彈六勇士』(歌:池田欽一)という歌も作られた。
また第一次上陸部隊の岐阜歩兵第六十八聯隊の第三中隊と第四中隊の松井小隊、及び機関銃中隊の一部が呉淞鉄道桟橋の南側の海軍病院東側に午前8時ごろに集まり、乗舟を準備。艦砲射撃と海軍機の爆撃後に上陸を開始したが、松井小隊は上陸直後に強い側射を受け、死傷者が多数出た。
上陸後、黄浦江下流側の南側右翼の第一大隊は南西及び黄浦江の河口方向に、黄浦江上流側の北側左翼の第三大隊は、宝山城と楊行鎮を結ぶ道路方面を西方の四塘クリークの線に向けて前進した。また第三大隊第十一中隊は工兵と協力して呉淞鎮を掃蕩した。
一方、呉淞クリークの第ニ大隊側では、午前9時半に呉淞クリーク対岸の爆撃、艦砲射撃、野山砲の一斉射撃を開始。9時50分、重機関銃の射撃開始。9時55分大発煙筒により煙幕構成。第ニ大隊は、午前10時を期して第六中隊を先頭に、第七中隊、機関銃隊、大隊本部、第八中隊の順序で、呉淞クリーク鉄橋を渡り、敵陣地めがけて強行突進した[197]。この時点での第三師団の野砲兵第三聯隊の戦力は第一中隊と第二中隊だけだった。またこの攻撃の際にみどり筒(催涙ガス筒)の使用が検討されたが、上海派遣軍参謀飯沼守は使用見合わせを連絡している[198]。
獅子林砲台の占領
また揚子江下流方向に進撃してきた淺間支隊は9月1日には揚子江岸の獅子林砲台を占領した[199]。占領は夕方17時40分頃とされている。淺間支隊は獅子林砲台を占領後、更に東南の揚子江下流方向の楊家橋を攻撃するが、3日の夜、部隊を率いて側方の月浦鎮方向の敵陣地に夜襲を仕掛けた第一大隊長の和田泰雄少佐が、午後10時過ぎ至近距離からの銃撃により戦死[200][201]。更に、翌4日には、第三大隊長の藤本直基少佐が迫撃砲の攻撃による負傷で後送され、淺間支隊は大隊長を2名とも相次いで失うことになる[202]。その後、藤本少佐は日本の病院に送られたが回復せず死亡した[203][204]。
呉淞砲台の占領
9月2日朝に、歩兵第六十八聯隊第一大隊(但し第二中隊欠、第ニ大隊の第五中隊配属)は、31日以降に到着した野砲兵第三聯隊の後続の支援も受けて呉淞砲台を占領した。呉淞砲台を占領したことで、呉淞鎮の北方で呉淞砲台の少し南側の商船学校埠頭が使えるようになった。海軍の支援により商船学校埠頭の桟橋を修理し危険物を除去した後、輸送船上で待機していた第三師団の後続の豊橋歩兵第十八連隊の第一大隊と第二大隊、及び歩兵第二十九旅団司令部は、その日の19時頃から上陸を開始した[205]。なお商船学校に隣接して水産学校もあるため、上陸地点が水産学校付近と記される場合も多い。豊橋歩兵第十八聯隊の第一大隊と第二大隊は、吉野丸、能代丸、ばいかる丸、善洋丸に分乗して上海向かっていた[206]。またこのとき上陸しなかった豊橋歩兵第十八聯隊第三大隊は後述の飯田支隊の基幹になった。能代丸 には戦車第五大隊の第二中隊の大部分、独立攻城重砲兵第五大隊の第二、第三中隊、また善洋丸には戦車第五大隊第二中隊の一部も乗っていた[207]。戦車第五大隊第二中隊の揚陸は9月3日午後9時から翌4日午前4時の間に行われた[208]。戦車第五大隊の他の中隊等は、静岡歩兵第三十四聯隊と同じ船だったため5日以降の揚陸になった[207][209]。戦車第五大隊は八九式中戦車と九四式軽装甲車を装備していた。
歩兵第六十八聯隊第三大隊の西進
第三大隊は、2~3日に尹家宅・老尹家宅方面の陣地を攻撃し、4日午後6時から、砲撃後、西方の泗塘クリーク向けて前進したが、第九中隊長以下に多数の死傷者を出し、その日の攻撃は中止になった。翌5日、午前7時30分頃から砲撃開始後、第三大隊の第九、第十一、第十二中隊は、午後には第五戦車大隊の戦車1個小隊の協力も得て攻撃を継続し、午後5時頃に第十二中隊は泗塘クリークの橋に到達した。
また歩兵第六十八聯隊第二大隊は4日に宝山城攻撃から外され金家宅方面を攻撃することになり、4日の午後4時に攻撃を開始した[210]。
天谷支隊と静岡歩兵第三十四聯隊などの上陸
また翌3日の夜半に、第十一師団の善通寺歩兵第十二聯隊を基幹とする天谷支隊が商船学校埠頭周辺に上陸した。なお天谷支隊は当初青島の日本人居留民保護のために青島に向かっていたが、青島の居留民の引揚げが決定したため、上海に向かい、先遣された第十一師団主力の増援として羅店鎮方面に投入されることになった[211]。
しかしながら、宝山城とその西方が未占領だったことから、呉淞から羅店鎮に通じる道路を使った進撃が阻まれていた。そのため松井上海派遣軍司令官は、3日に第三師団、特には岐阜歩兵第六十八聯隊に「速ニ宝山城ヲ攻略シテ天谷支隊ノ進路ヲ開クヘキ」と指示し、4日に天谷支隊の前進を翌5日に延ばしている。また未上陸だった第三師団の後続の歩兵聯隊の静岡歩兵第三十四聯隊の上陸も延ばされ、静岡歩兵第三十四聯隊は、5日に呉淞エリアに上陸した。歩兵第三十四聯隊は、連隊本部と第一大隊がしあとる丸、第二大隊が海兵丸、第三大隊が白山丸に乗船していた。[212]
第一大隊副官の藤田勝少尉は、上海方面に向かう船中で渡された上海付近の地図について、後年、以下のように記している。
「地図上、村落は○印で描かれ、それを道路ともクリークとも判別し難い実線が十重二十重に取り巻いている。誠にもってお粗末とか言いようのない代物である。」[213]
また連隊長の田上大佐は上陸前の船中で連隊の大隊長に以下のように語ったとされている。
「上海郊外の陣地は、蒋介石軍事顧問のドイツ軍人、フォン・ゼークト指導の下に築城された無限の縦深陣地で、世界で最も性能のよいチェコの軽機関銃を主として火網が構成されていることは、承知のはずだ。」[214]
宝山城の占領
岐阜歩兵第六十八聯隊第一大隊は、3日以降、砲兵の支援を得ながら宝山城の南西方から攻撃を続けた。5日の朝、天谷支隊も攻撃を開始し、天谷支隊の歩兵第十二聯隊第二大隊は歩兵第六十八聯隊第一大隊に先んじて宝山城外西側の西門大街の線まで進出した。戦車第五大隊第二中隊高橋中隊の中隊長車と1個小隊3輌は、午後1時50分に呉淞クリーク北方の宿営地を出発し[215]、西門大街の線まで進出した後、午後4時ごろ宝山城正面の歩兵第六十八聯隊第一大隊に到着したが、橋の状態が悪かったため戦車は城内に突入しなかった。午後4時半頃、宿営地に帰着[215]。歩兵第六十八聯隊第一大隊は午後5時ごろ攻撃開始位置の橋の東側まで前進した。
翌9月6日に、攻城重砲兵第五大隊などの砲撃によって城壁に作られた突破口から岐阜歩兵第六十八聯隊第一大隊は宝山城内に突入し、その日の午後、宝山城を占領した[216]。城内に突入はしなかったものの天谷支隊の一部も支援した。また戦車第五大隊第二中隊は、2個小隊が支援したが戦車は城内には突入しなかった[216]。
また7日夕方に、商船学校碼頭に横付けした瑞穂丸に上海派遣軍司令部が移動した[217]。
なお宝山城跡には現在抗日戦博物館がある。
日本陸軍増派の決定
日本陸軍が上陸したことで攻防の焦点は陸軍側の正面に移り、9月上旬までには海軍陸戦隊は、上海陸戦隊本部前面から国民党軍を駆逐する。しかし、中国軍の優勢な火力とドイツ軍事顧問団によるトーチカ構築と作戦指導によって、また重火器の装備がほとんどなく兵力も過小だったため上海派遣軍の先遣部隊は大苦戦し[218]、最初の進出目標に到達するのが精いっぱいで、上海市街地まで20キロかなたの揚子江岸にしばられた。[要出典]中国軍の陣地は堅固で、中国兵は頑強だった。依然として、特別陸戦隊は数倍の敵と対峙しており、居留民の安全が確保されたわけはなかった。
8月30日には海軍から、31日には松井軍司令官から、陸軍部隊の増派が要請された[219][220]。石原莞爾参謀本部第一部長はソ連の脅威を背景として不拡大を主張し増派に反対したが、9月6日に、海軍軍令部総長が昭和天皇に陸軍兵力の増強を上奏した[219]ことが引金になって、9月9日、台湾守備隊から抽出された重藤支隊、第九師団、第十三師団、第百一師団に動員命令が下された[221]。石原第一部長は、上海への陸軍の増派が決定されると部長辞任を申し出た[222]。
9月22日に中国側は第二次国共合作を成立させ、同時期に日本側は華北で攻勢に出るなど、全面戦争の様相を呈した。
日本陸軍第三師団による軍工路の確保、及び江湾鎮方面への前進(9月その1)
名古屋歩兵第六聯隊の泗塘クリーク敵前渡河攻撃
名古屋歩兵第六聯隊は、9月7日朝から泗塘クリークの敵前渡河攻撃を開始し、南西への突破を図ったが、多大な戦死傷者を出した。
飯田支隊の虬江の戦い
一方、瑞穂丸で輸送された豊橋歩兵第十八聯隊第三大隊は大隊長の飯田七郎少佐を隊長とする飯田支隊の基幹となり、海軍からの要請を受けた租界北部の公大飛行場北側の国民革命軍の排除と呉淞と租界をつなぐ自動車道である軍工路の確保を目的とした攻撃に投入された。このとき陸軍は海軍陸戦隊の協力を要請するが、租界の北端付近から射撃をするぐらいだったとされる。
飯田支隊は、野砲兵第三聯隊の一部などと共に、3日午後4時共同租界に上陸した。
右第一線となった森原一百[223]大尉指揮の第十中隊は滬江大学方面より9月6日午前6時頃から戦車第五大隊第一中隊第一小隊の八九式中戦車3輌などと共に攻撃前進を開始し、午前11時頃には概ね租界北方の界浜港クリークの線に到達した。更に、午後4時頃、界浜港クリークを渡河し、第九中隊と共に対岸の国民革命軍陣地を占領し、夕方までに界浜港クリークの北500〜600mの線まで進出した。
一方、支隊の右第一線に進出することを命ぜられた中村清吉大尉指揮の第九中隊(中村中隊)は、9月6日午前2時(日本時間)に一部は先遣隊として駆逐艦栂に、主力は、独立工兵第六聯隊の井上勝少尉が指揮する井上舟艇隊の小発動艇6隻に分乗し、栂に続き、井上少尉が乗る陸軍装甲艇が先導し同時刻ごろ共同租界を出発、栂の右舷艦首側を随航して[224]黄浦江を下江した[225]。午前3時5分(日本時間)に、第九中隊先遣隊は、暗夜のなか租界北方の黄浦江岸の虬江碼頭に横付けした栂から敵前上陸を行った[226][227][228]が、虬江碼頭倉庫の国民革命軍から突然猛烈な集中射撃で狙い撃ちにされ、やむなく栂はいったん揚陸を中止し、桟橋を離れ江上に退避した。栂をはじめ飯田支隊掩護の刈萱、安宅、堅田、夕月、芙蓉、勢多の各海軍艦艇は虬江碼頭倉庫一帯に払暁近くまで猛撃を加えた。午前6時30分頃から中村中隊は虬江碼頭倉庫付近の国民革命軍の攻撃を開始し、正午ごろ辛うじて江岸から700メートルの線に進出、支隊主力のための橋頭堡を設けることができた。しかしこの日の戦闘で中隊長の中村大尉は15時30分(日本時間)頃、手榴弾の攻撃により戦死した[226]。また、この日、栂の乗員は3名が負傷(重傷1名、軽傷2名)し、陸軍の戦死傷者24名を後送した[226]。
井上舟艇隊は払暁近く上陸地を離れ、上江し出発点に帰着、井上隊長は飯田支隊長に任務の完了を報告した。その後、14時30分頃に、飯田支隊長は当初予備とされた第十一中隊(中隊長梅田定男中尉)と第十二中隊(中隊長山本芳雄中尉)の2個中隊を井上舟艇隊の発動艇で中村中隊が占領した虬江碼頭に向かわせた。また飯田支隊長も16時30分頃に虬江碼頭に上陸した[224]。
飯田支隊は7日に西方の軍工路手前の攻撃開始予定線まで前進した。また戦車第五大隊の戦車は第一トーチカの南方に進出した[224]。8日の朝、迫撃第四大隊第一中隊も虬江碼頭に上陸した[229]。
8日に海軍艦艇の艦砲射撃と艦載機の空爆の後、攻撃目標の軍工路周辺の4つのトーチカの攻撃を開始し、この日のうちに第四トーチカを除く3つのトーチカの占領に成功した。この日の戦闘で第十一中隊長梅田中尉は午前10時頃機銃弾を浴び胸部貫通銃創とされる負傷により戦死した。またこの日、第十二中隊長の山本中尉も戦死している[230]。
9月9日未明午前2時に虬江碼頭北方の道路側から侵入した国民革命軍によって虬江碼頭の支隊本部が逆襲され支隊長飯田少佐以下十数名の本部員は全滅した[231]。危機を知ってかけつけた第九中隊員が碼頭に到着したときは既に敵影はなかった。
梅田中尉の戦死後、第一小隊長の鈴木鹿重少尉が中隊の指揮を引き継ぎ、第一小隊は松井郁次郎曹長が指揮することになった。9日、吉見繁二見習士官指揮の第二小隊は前進し、第三小隊も併せて指揮することになったが、吉見見習士官は手榴弾で負傷し、8日の第三小隊長の遠藤俊雄准尉の戦死後、第三小隊の指揮を執っていた竹下幾一曹長が指揮を代わった。しかしながら竹下曹長は左脚に受けた手榴弾の爆創で間もなく戦死し[232]、再び吉見見習士官が第二小隊と第三小隊の指揮を執った。吉見見習士官が指揮する2個小隊は、9日午後3時頃、飯田支隊の最終的な攻撃目標だった第四トーチカに突入し占領した。第十一中隊長を務めていた鈴木少尉はトーチカ突入後の午後4時頃、手榴弾により戦死した。その日の午後9時頃、第一小隊長代理の松井曹長が負傷している吉見見習士官を訪れ第十一中隊の指揮を代わった。その1週間後に第十一中隊に残っていたのは16人だけだった。吉見繁二は戦後蒲郡市立蒲郡西部小学校の校長を務めている[233]。
この攻撃で中隊長、小隊長にも多くの戦死者が出たが、飯田支隊は、攻撃目標とされた4つのトーチカを占領に成功し、軍工路西方への進出を果たした[234][235]。
公大飛行場北側の国民革命軍を排除したことで、それまで洋上の航空母艦から発着していた海軍の航空隊は、公大飛行場を基地として使用するようになり制空権を確実にした。
その後、飯田支隊は、南下した歩兵第六聯隊を基幹とする片山支隊と連絡し、日本軍は、黄浦江岸の占領及び呉淞と上海租界をつなぐ自動車道(軍工路)の確保に成功した。
呉淞クリーク(蘊藻濱)北方のクリーク地帯での戦い(9月その2)
天谷支隊の羅店鎮方面への前進
9月7日に、淺間支隊は、宝山城方面から西北の羅店鎮方面に向かっていた天野支隊と連絡し、天野支隊の指揮下に入り、今度は天谷支隊と共に月浦鎮を経由して羅店鎮方面に向かうことになった[236]。また天谷支隊に配属された戦車第五大隊第二中隊などの部隊も、宝山から月浦鎮を通って羅店鎮に通じる道路(1936年建設の宝羅公路)に沿って羅店鎮まで進撃した。しかしながらクリーク地帯の小集落は既に尽く国民革命軍の陣地と化していて前進を阻んだ。それでも12日には月浦鎮を占領し、17日頃には羅店鎮近くの予定線まで進出した。
このとき羅店鎮方面に向かった天野支隊配属の部隊が上海派遣軍司令官松井石根大将から受けた昭和十二年十一月三日付けの感状には以下のように記されている。
此間連続戦闘ニ従事スルコト正ニ二十日陣地ノ突破距離凡ソ十一粁、戦場ハ至ル所「クリーク」錯綜シ所在ノ部落ハ凡テ陣地ニシテ優勢ナル敵充満シ特ニ月浦鎮ハ其ノ要衝ニシテ肉薄突撃反覆六日ニ及ヒ歩兵聯隊ノ将校以下死傷続出シ酷熱ニ加フルニ病疫ノ猖獗スルアリ、戦力大ニ消耗セルモ所有困難ヲ排除シテ闘志毫モ屈セズ一意任務ノ為ニ勇戦奮闘遂ニソノ目的ヲ達成シ、軍主力ト第十一師団方面トノ連絡路ヲ開拓シ且第十一師団爾後ノ攻勢作戦ヲ容易ナラシメタリ[237][238]
また8月の終わり頃から上海派遣軍にコレラの発生が始まり、宝山城占領後の岐阜歩兵第六十八聯隊や天谷支隊の将兵などに蔓延した。上海派遣軍の将兵の間には、撤退した中国軍が井戸にコレラ菌を撒いた、という噂が広まった[239]。
重藤支隊の上陸
重藤千秋少将が指揮する台湾守備隊から編成された重藤支隊主力は、駆逐艦で上海方面に輸送され、9月12日に基隆港を出港し、9月14日午前6時、川沙鎮の下流側の揚子江岸の貴腰湾に上陸した。上陸地点付近には9月10日に貴腰湾に上陸した第六師団後備歩兵第三大隊(松尾部隊)がいた。松尾部隊は後方勤務の部隊だったが、10月8日に最前線に配置された[240]。支隊主力におくれて台湾を出発した台湾両歩兵連隊の第三大隊は18日に貴腰湾に上陸した。また騎兵第十一聯隊は重藤支隊の上陸後、重藤支隊の麾下になった。重藤支隊は羅店鎮北側の西方の正面に配置された。10月に入ってからは重藤支隊から攻撃を行うことはなく西方の線の防御が任務になった。
羅店鎮の白壁の家の占領
第十一師団の主力は、8月28日に羅店鎮の占領に成功したものの、羅店鎮の町の南側にあった白壁の家を占領しなかったため、その後、白壁の家が国民革命軍の陣地となり、第十一師団は、羅店鎮から要衝大場鎮に通じる自動車道に進出できないままでいた。
また、第十一師団は、山砲装備の師団で牽引が必要な野砲を装備しておらず、また上陸地点の川沙鎮から羅店鎮まで戦車や牽引が必要な火砲を通すことができる道がなかった(リヤカーが通れる道ですらなかった[241]とされる)ため、天谷支隊に配属された戦車第五大隊第二中隊や野戦重砲兵第十聯隊などが羅店鎮に到着するまで、海軍機による爆撃を除けば火力が乏しかった。9月20日頃、1門のみ完成していた九六式重迫撃砲が羅店鎮方面に投入された[242]。九六式重迫撃砲は、横須賀重砲兵聯隊から編成された片島一彦大尉指揮の独立攻城重砲兵中隊が運用し、大場鎮の攻撃にも使用された[243]。
天谷支隊が羅店鎮近くまでに進出した後、工兵第十一聯隊第二中隊が白壁の家の壁の手前まで坑道を掘った。9月23日に羅店鎮南側の白壁の家陣地の攻撃が行われ、工兵第十一聯隊から編成された決死隊が坑道から突進して壁を爆破した後、戦車第五大隊第二中隊などの支援を受けた高知歩兵第四十四聯隊和知部隊の山本中隊から編成された突撃隊が白壁の家に突入した。この攻撃で8月28日の羅店鎮の(町の)占領から1ヶ月近くを経てようやく白壁の家の占領に成功し、第十一師団は羅店鎮と大場鎮を結ぶ道路に進出することができた。このときの戦闘には「軍神」西住戦車隊長が率いる戦車小隊も参加している。またこのとき壁の爆破を行った決死隊は全員生還している。
またこの日、羅店鎮から大場鎮に通じる道路の西側にあった日本側の通称、赤屋根の家も占領している。占領前の赤屋根の家からは女性の声が聞こえた、という証言もある。
歩兵第四十四聯隊第ニ大隊は、8月23日の上陸時の大隊長の恒岡小文吾少佐が戦傷で後送された後、後任の浅間長之助少佐が9月6日に[244]、更にその後任の池田源信少佐も10月3日に[245]、また更に後任の只友猛少佐も、10月19日に南梅宅・吴家宅付近における戦闘で頭部に銃弾を受け、それぞれ戦死している。
また丸亀歩兵第十二聯隊第二大隊長の梶佐古景行少佐は、9月25日、羅店鎮から大場鎮に通じる道路を越えて西方に進出し、攻撃中の12時30分頃、迫撃砲で負傷し、野戦病院に後送されたが、29日に死亡した[246]。また後任の大隊長の椿武忠少佐も11月10日に南翔東方土堂付近で迫撃砲の攻撃により戦死した[247]。
第三師団主力の呉淞クリーク(蘊藻濱)北側の西進
岐阜歩兵第六十八聯隊は、宝山城の占領後、第三師団の後続の静岡歩兵第三十四聯隊と豊橋歩兵第十八聯隊(主力)と交代し、一時的に予備となり宝山城近辺にとどまった。静岡歩兵第三十四聯隊と豊橋歩兵第十八聯隊(主力)は、西方の楊行鎮、劉家行などの占領を目指して、呉淞クリーク(蘊藻濱)北側のクリーク地帯を西方に進撃を開始したが、正面のクリークそして小集落は尽く国民革命軍の陣地と化していて、秋の雨が降り始めた戦場で激しい消耗戦が続いた[248]。
第三師団の後続の静岡歩兵第三十四聯隊は、9月10日に西方の楊行鎮方面への攻撃を開始し、楊行鎮の占領後、更に西方の羅店鎮から大場鎮に通じる道路上に位置する劉家行の占領を目指して、劉家行に通じる道路に沿って西進する。劉家行は、東側の荻涇クリークが防衛ラインだった。
13日夕方から雨が振り始め、雨は18日夕方まで続いた。歩兵第三十四聯隊は、雨が続く中、交通壕を掘って荻涇クリークの渡河攻撃の開始点まで前進した。歩兵第三十四聯隊は、10月1日に劉家行の総攻撃を開始し、この日の未明に荻涇クリークを敵前渡河し、劉家行に突入した。歩兵第三十四聯隊は、この攻撃でも多数の戦死傷者を出したが、劉家行の占領に成功した。この攻撃では火炎放射器が使用された。
また豊橋歩兵第十八聯隊では、飯田支隊として租界北方で戦っていた第三大隊も軍工路の打通後、連隊に復帰し、歩兵第十八聯隊は、歩兵第三十四聯隊の南側左翼の呉淞クリーク(蘊藻濱)北側に位置して、主に頋家宅を攻撃した。
静岡歩兵第三十四聯隊と豊橋歩兵第十八聯隊は呉淞クリーク(蘊藻濱)の北側を西に進み、また第十一師団は更に北方の羅店鎮周辺から西方への進出を図っていたため、日本陸軍は増派の3個師団が到着するまで上海に向けて前進することはなかった。
第十軍の編成と派遣の決定
9月末までで第11師団は戦死者1560名、戦傷者3980名、第3師団は戦死者1080名、戦傷者3589名であった。9月27日、石原参謀本部第一部長は、関東軍参謀副長に転補された。その後任には参謀本部第四部長から下村定少将が任命された[222][249]。
10月9日、3個師団等を第10軍として杭州湾から上陸させることを決定した[113]。


日本陸軍上海派遣軍の10月攻勢
日本陸軍上海派遣軍の左旋回
増派の3個師団(第九師団、第十三師団、第百一師団)が9月末から10月初めにかけて上海に上陸したため、日本陸軍上海派遣軍は、上海近郊北西(現在は上海市内)の要衝大場鎮の占領と上海から大場鎮を通って南京方面に向かう街道と鉄道の遮断を目的とする攻撃開始のため、呉淞クリーク(蘊藻濱)北岸の狭い正面に、右翼(西側)に第九師団、中央に第三師団、左翼(東側)の大場鎮に向かう正面に第百一師団(但し歩兵第百三聯隊の2個大隊を基幹とする谷川支隊は江湾鎮方面に配置)の3個師団を並べるべく「左旋回」を開始した[250]。
呉淞クリーク(蘊藻濱)の敵前渡河
上海派遣軍は「左旋回」と並行して呉淞クリーク(蘊藻濱)の敵前渡河攻撃を開始した。
10月6日から11日まで雨が降り続いた[251]。
右翼の第百一師団の歩兵第百一聯隊は、10月6日払暁に呉淞クリーク(蘊藻濱)の敵前渡河に成功した[252]。このとき歩兵の渡河を担当した工兵第百一聯隊の新劇俳優友田恭助こと伴田五郎工兵伍長などが戦死[253]し、友田恭助の戦死は当時ニュースになり、翌1938年には映画も作られた。
中央の第三師団では、右翼に歩兵第六聯隊(及び歩兵第五旅団司令部)、左翼に歩兵第二十九旅団(西側の八房宅の正面が歩兵第三十四聯隊、東側が歩兵第十八聯隊)を配置し、八房宅周辺で蘊藻浜の敵前渡河を行った。歩兵第六十八聯隊はこのとき予備で敵前渡河には加わらなかった[251]。
7日に師団右翼の歩兵第六聯隊が蘊藻浜を渡河した。更に8日早朝に、左翼の歩兵第十八聯隊が蘊藻浜を強行渡河し、正午までに対岸に地歩を確保した。またこの日、予備から戦線復帰した歩兵第三十四聯隊第一大隊は、その日の午後に歩兵第十八聯隊の渡河地点付近から蘊藻浜を渡った。また歩兵第三十四聯隊の第三大隊は、8日17時30分に渡河予定地点を占領。工兵が架橋を進め、9日午前1時に橋が完成し、第三大隊の第十二、第九中隊は蘊藻浜を渡った。9日正午より野砲兵が約2時間に渡り八房宅を砲撃した後、歩兵第三十四聯隊の主力は八房宅に突入し、午後5時半頃までに八房宅の掃討を終えた。9日の時点で、歩兵第三十四聯隊の戦力は第一大隊98人、第二大隊110人、第三大隊138人で、合わせて僅か338人だった。またほとんどの者が下痢等を患っていて健康な者はいなかった[254]。10月13日[255][256]に、歩兵第三十四聯隊の第一次補充員から第三次補充員[257]計1204人[258]が同時に到着した。補充兵は冬服だった[256]。
上海派遣軍参謀副長上村利道大佐の10月9日の日記には「八房宅ニ於テ「ソ」聯将校(?)ノ屍体発見」と記されている[259]。当時の日本軍には前線の外国人をドイツ軍事顧問団に結びつける思考が皆無だったことが窺われる。また9月10日の参謀本部の西村敏雄少佐の報告などでもドイツ軍事顧問団への言及が一切ない。
戦車第五大隊第一中隊長だった藤田叶大尉が10月7日午前9時30分頃、呉淞クリーク(蘊藻濱)北岸で国民革命軍の銃撃により戦死している[260][261][262]。
10月11日に第百一師団の歩兵第百一聯隊本部が迫撃砲の攻撃を受け連隊長の加納治雄大佐が午前10時40分に戦死した[263][264]。加納大佐の戦死後、10月22日に後任の飯塚國五郎大佐が到着[265]まで、連隊の指揮は師団司令部付の笠原豊中佐が引き継いだ[264]。その後、笠原中佐は11月27日午前3時にコレラで死亡している[266]。
また10月9日に上海の陸戦隊は上海派遣軍の指揮下に入った[267]。10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功した。[要出典]
日本陸軍第十三師団の楊涇クリーク西岸の攻撃
第十三師団は、上海に陸軍部隊を増派するために常設の仙台第二師団を母体として新たに編成された特設師団で、軍縮で廃止されていた師団番号を復活させて付けられた。第十三師団は、常設師団が新式装備に更新したため在庫していたと思われる三年式機関銃などの旧式装備が配備されていた。連隊砲は、駐退復座機がない三十一年式速射砲だった。但し、第十三師団に配属された山砲兵第十九聯隊は四一式山砲を装備していた。また第十三師団の工兵第十三聯隊は火炎放射器を装備していた。
第十三師団は、10月初めに上海周辺に上陸後、しばらくは後方第二線として月浦鎮周辺で待機していたが、第九師団が南方向に左旋回し呉淞クリーク(蘊藻濱)の渡河を開始したことから、西方の戦線に間隙が生じるおそれがあったため、第九師団の更に右側の西方の前面に投入された。第十三師団は、南方の大場鎮(走馬塘クリーク)方面ではなく、西方の楊涇クリーク西岸を攻撃し、三家村、新木橋、老陸宅、馬家宅などの攻防などで激しい消耗戦を戦った。10月21日の新木橋の攻撃で歩兵第五十八聯隊第二大隊長金山賢一郎少佐が、10月25日の孟家宅の攻撃で歩兵第百十六聯隊第三大隊長辻文喜少佐が戦死している[268]。またこの10月の戦いで歩兵第百四聯隊第二大隊長斉藤淳一少佐も戦死している。
10月27日(晴)朝に、老陸宅の国民革命軍が退却を開始していることが判明したため、午前9時より老陸宅を爆撃した後、午前11時に歩兵第六十五聯隊第三大隊が老陸宅に突入したが国民革命軍は既に退却していた。また第二大隊は陸家橋に突入し、14時に陸家橋を完全に占領した。更に、第三大隊は、馬家宅に突入を試みたが、国民革命軍の逆襲に遭い、二小隊が馬家宅で孤立し全滅する激戦になった[268]。
大場鎮の占領
10月20日と21日に出雲は艦砲射撃を行っている[269]。また大場鎮の正面には攻城重砲兵第一聯隊第一大隊の四五式二十四糎榴弾砲が投入されている[243][270]。
降り続いた雨で泥沼と化したクリーク地帯での激しい消耗戦の末、右翼(大場鎮西方)の第九師団正面の国民革命軍が退却を開始したことから、第九師団、第三師団及び第三師団に配属されていた戦車第五大隊などは南方の蘇州河に向けて追撃を開始し、上海から南京方面に向かう街道と鉄道の遮断に成功した[271]。また10月26日、上海派遣軍は最大の目標であった大場鎮を占領し、翌27日には、「日軍占領大場鎮」のアドバルーンが上海の日本租界に上がった[272]。大場鎮の占領と前後して、租界北方の江湾鎮前面の戦線も谷川支隊により東側から突破され[273]上海北部は日本軍によって制圧された。この期間は好天が続いた。
大場鎮前面の国民革命軍が撤退開始後、日本軍は以下の文面のビラを国民革命軍に撒いている。
告中國督戰隊
第二第三線的督戰隊在那裡做什麼?
平常就儘量奢侈驕傲,到了非常的時候就連督戰他不能嗎?
這樣等於飯桶的督戰隊還是快上吊自殺的好!![274]
10月31日午前10時から、第百一師団の大隊長以上は、張三橋の師団司令部で戦捷会を開いた[275]。また日本国内では、大場鎮(と江湾鎮)の占領後、提灯行列を行った地域もある[276]。
一方、松井上海派遣軍司令官は、大場鎮陥落後の10月29日の新聞記者の取材申込みに対して以下のように回答し取材を断ったとされている。
軍は目下激戦中である、まだ南翔があり、嘉定あり、蘇州河の突破あり、いたづらに祝辞を受けたり、戦況に対する私見などを述べるべき時期でない、またそんな気にもなれないので、一切の祝賀客をお断りしてゐる次第だから悪しからず[277]
なお大場鎮の大場烽墩には第二次上海事変後の翌年の1938年12月に日本側により表忠塔が建立された[278]が、太平洋戦争後に中国側が取り壊している。
日本海軍陸戦隊による閘北の掃討
また大場鎮の占領を前にして閘北の国民革命軍は蘇州河南岸に撤退を開始した。上海の海軍陸戦隊は10月25日に攻撃を開始し、27日までに四行倉庫を除いて閘北の制圧を終えた。また、27日に、ようやく日本陸軍(第百一師団の一部)は、上海市街の海軍陸戦隊と内陸側の租界の西側境界で連絡した。
閘北の国民革命軍の撤退の際に蘇州河北岸の四行倉庫に後衛が立て籠もった。四行倉庫に立て籠もった国民革命軍兵士の多くは31日に蘇州河対岸の租界に撤退した。四行倉庫は非戦闘区域の蘇州河南岸の租界から良く見えたこともあり、四行倉庫の戦闘は、当時から恰好の抗日戦の宣伝材料となり、中華民國と中華人民共和国の双方でこれまでに三度映画化がされている。また現在、四行倉庫には抗日戦博物館が設けられている。
第三師団と第九師団の蘇州河敵前渡河
蘇州河南岸に撤退した国民革命軍を追って、第三師団と第九師団は、再び雨が降り続く中、10月31日から蘇州河の敵前渡河を開始した[279]が、国民革命軍は蘇州河の南岸にトーチカを含む強力な陣地を構築していたため、一部を除いて渡河に失敗し、また渡河に成功した部隊も激しい抵抗に遭い戦況は再び膠着状態に陥った[280][281]。
日本陸軍第十軍の杭州湾上陸、及び中国軍の退却(11月5日以降)
第十軍の杭州湾上陸
上海派遣軍の膠着した戦況を打開するため、北支から転用された第六師団、特設師団の第十八師団、第百十四師団、北支にいた第五師団から抽出された國崎支隊などから新たに編成された日本陸軍の第十軍が、11月5日から上海南方60キロの杭州湾に面した金山衛周辺の海岸に上陸を開始した。川内、初霜、子日、夕暮、初春、若葉、有明などが上陸部隊の輸送船団の護衛と上陸掩護に投入された。航空部隊も上陸支援を予定していたが、濃霧と悪天候のため十分に活動できなかった。上陸は奇襲上陸となり、上陸時の中国軍の反撃はほとんどなかった。第六師団は金山衛城西側地区に上陸し、金山衛城を占領したのち松江方面へ進出。第十八師団主力は金山衛城東側地区に上陸後、嘉興方面へ前進。第百十四師団は10日に後続で上陸した[283][284]。また北支にいた戦車第一大隊も上海方面に送られた。
兵員の上陸には成功したもののの、遠浅の海岸への軍需物資の揚陸は困難で、輸送船の多くを上海に回航して揚陸することになったため補給に問題が生じた。
11月7日に上海派遣軍と第十軍を統合する中支那方面軍が編成され、司令官には上海派遣軍司令官松井石根大将が就任した。またその編成の際に中支那方面軍の作戦区域が定められ、中支那方面軍の進出は蘇州と嘉興を結ぶ線(制令線)までに制限された[285]。この線は、第一のヒンデンブルク・ラインとされた呉福線に重なるものだった。
国民革命軍の退却と上海での戦いの終結
11月6日、「日軍百万上陸杭州湾」のアドバルーンが上海の日本人街に上がると、蘇州河南岸の中国軍は、第10軍によって退路が絶たれるかも知れず、大きく動揺した。8日午前10時過ぎ、「敵ハ逐次、蘇州河ノ陣地ヲ撤シ、西方ニ向ケ移動中ナリ」との軍情報がもたらされた[286]。11月9日、中国軍は一斉に退却し始めた。第十軍の上陸による戦局転換後、中国軍は6日夜から突出戦線から撤退を始め、前線の浦東ついで南市、龍華を放棄、西方に向かい、9日蘇州湾南岸の部隊も退却、8日夜以降入れ替わるよう日本軍が進み、9日には激しい市街戦の後に太原を占領、大上海市から逃げ遅れた中国兵を南市フランス租界との境界に追い詰めるに至った[287]。日本軍は既に9日に虹橋飛行場も占拠、南市付近に残った敵も砲爆撃を受けて10日四散した[288]。翌11日は第三師団の一部により上海南市の掃討が行われ[289]、上海市街域での戦闘は終結した。
国民革命軍の追撃と制令線への到達
更に11月12日には、上海派遣軍は、太倉−崑山の線に向けて、国民革命軍の追撃を開始し[290]、また同日、第十一師団は上海派遣軍の作戦域で未占領だった上海西方の南翔を占領した[291]。11月13日に第百一師団は上海北西(現在は上海市内)の嘉定を占領した。11月13日には、松山歩兵第二十二聯隊も配属された重藤支隊が白茆口周辺の揚子江岸に敵前上陸し、常熟方面に進撃した。その後、北支から転用された第十六師団も白茆口周辺に上陸を開始し、常熟方面に進出した。また杭州湾に上陸した第六師団は上海の国民革命軍の退路を断つべく、上海方面に向けて突進し、11月15日には上海から南京に通じる街道上に位置する崑山を占領するが、国民革命軍の退却は速やかで、国民革命軍の包囲に失敗し第六師団は再び第十軍の作戦域に引き返すことになる。なお崑山に進出したこの期間だけ第六師団は一時的に上海派遣軍の指揮下に入っている。更に日本陸軍は、11月19日に制令線上の蘇州と嘉興、そして常熟を占領した[292]。これは第一のヒンデンブルク・ラインとされた呉福線の制圧も意味していた。
後方にあった呉福線や錫澄線の陣地は全くの無駄になった[113]。
日本陸軍の損害は、8月23日の上陸から11月8日までで戦死9115名、負傷31257名に達した[293][294]。続く南京への追撃戦で戦死傷者18,761(第9師団のみ)、南京戦で6,177、合計65,310の損害となった[294]。
中国軍の状況
国民革命軍の装備状況
国民革命軍は、日本軍にチェッコ機銃等の名前で通称されたチェコ製(但し製造は中華民国内と思われる[295])の軽機関銃(ブルーノZB26軽機関銃)、多数の迫撃砲、ドイツ式の柄付き手榴弾(但し製造は中華民国内と思われる)[295]、ドイツに特注した15cm榴弾砲などを装備していた。またダムダム弾を使用したことが日本軍の証言に度々記されている。
ドイツ軍事顧問団の作戦指導
ファルケンハウゼンは、上海戦の指導にも関与しながら、蔣介石にも適宜戦況の報告や助言を行い[296]、ファルケンハウゼンが数日間、激戦の続く上海に滞在し自ら作戦を指導したことは、駐日大使ディルクセンも知っていた[297]。ファルケンハウゼンの指導のもとに、70名以上のドイツ人は中国軍の各部隊と同行し、作戦を指導し、ドイツ人に訓練された部隊も日本軍に大きな損害を与えた。
日本陸軍第三師団では、国民革命軍の陣地にいたドイツ軍事顧問団のメンバーと思われる人物を目撃している。
督戦隊に監視される中国軍部隊
中国軍(国民革命軍)では督戦隊が戦場から退却する中国兵に銃撃を加えた[注釈 5]。このため日本軍と交戦した中国軍の部隊が退却する際には督戦隊との衝突が何度も起きた。特に10月13日午後楊行鎮方面呉淞クリーク南方に陣を構えていた第十九師(湖南軍)の第一線部隊と督戦隊は数度の激しい同士討ちを行った。これは戦場に到着した第十九師の部隊が直ちに日本軍との第一線を割り当てられ、そこにおいて日本軍の攻撃を受けて後退した際に後方にあった督戦隊と衝突したものである。[要出典]日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は必死に督戦隊を攻撃し、督戦隊も全力で応戦したため、数千名に及ぶ死傷者を出している[299]。10月21日中国の軍法執行総監部は督戦隊の後方にさらに死刑の権限を持った督察官を派遣して前線将兵の取締りを行うとの発表を行っている[300]。[要検証]
日本軍の状況
日本軍が装備した手榴弾は明治40年に制式化されたもので戦場での使用に堪えなかった。また機関銃は故障が頻発した。
火砲の数が多いわけではなかったが、砲弾は慢性的に不足していた。
上海派遣軍に増派された第百一師団と第十三師団は新設された特設師団で、常設師団が新装備に更新したため保管されていたと思われる旧式兵器を装備していた。
また師団には、野砲装備の師団と山砲装備の師団があった。第三師団は野砲師団だったが、第十一師団は山砲師団だった。
第二次上海事変のときの師団は、4個歩兵連隊で、師団と歩兵連隊の間に2個歩兵連隊を指揮下に置く歩兵旅団があった。
8月23日から上陸を開始した第三師団と第十一師団の先遣隊は応急動員分のみで、歩兵連隊の12個歩兵中隊のうちの3個中隊、野砲兵連隊の多く、騎兵連隊、大小行李などは本動員分になり後続となった。
日本軍ではしばしば決死隊が編成された。決死隊の戦死率は高かったが、9月23日に羅店鎮南側の白壁の家陣地の壁の爆破を行った工兵第十一聯隊から編成された決死隊のように全員生還の例もある。
クリークに架橋した工兵部隊はしばしば国民革命軍の攻撃を受ける中、クリークの水中で橋を支えた。
日本軍は主に国民革命軍が陣地に使うのを防止するためにしばしば家屋の焼討を行っている。
日本陸軍の将兵のほとんどはアメーバ赤痢による下痢、マラリアなどの病気に罹ったが、特にコレラの流行によって戦力が大きく削がれた。コレラは秋の雨季が始まる前の8月の終わりには既に発生している。
黄浦江に病院船が停泊していた。
狙撃による将校の戦死が多かったとされ、日本陸軍の将校は階級肩章を外すようになった。兵と同じ軍装に着替えた場合も多かった。飯田七郎少佐や和知鷹二大佐の階級肩章を外した写真が残されている。9月7日に歩兵第十八聯隊第八中隊では、狙撃対策として下士官以上の階級肩章を全員外すよう指示された、との証言がある[301]。
状況が許すかぎり戦場で戦死者の火葬を行っている。戦死者の遺体の収容はほぼ完全に行っている。
地下足袋を履く場合も多かった。
陸軍部隊では国民革命軍の戦死者が浮かぶクリークの水を使って炊飯を行ったとされる。
陸戦隊は八九式中戦車やヴィッカース・クロスレイ装甲車を装備していた。
日本海軍は航泊日誌を日本時間で記していた。そのため航泊日誌に由来する記述は、時刻が現地時間と1時間ズレている。
日本軍は各種のビラを国民革命軍に撒いている。
人道支援
上海南市難民区
上海に住むフランス人のカトリック教会ロベール・ジャキノ神父は上海南市の30万人余の中国人住民のため大規模な避難区域を計画し、これを日中双方に提示し了承された。南市難民区はフランス人3名、イギリス人1名、スウェーデン人1名から成る南市避難民救助国際委員会が設置され、区域内に武器を携帯する者が在住しないことを宣誓し、日本側は区域内の非戦闘性が持続する限り攻撃しないことを約束した[302]。この件は上海市長の受諾をもって1937年11月9日正午から正式に認められた[303]。
反応
欧米メディアの報道
新聞報道
1937年8月31日の『ニューヨーク・タイムズ』では一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じた[304]。1937年10月7日の『シドニー・モーニング・ヘラルド』は「(居留民を)保護するための日本軍は増援を含めて4千だけであった。…ドイツの訓練を受けた部隊から徴用された2~3万の中国軍と向かい合って攻勢を開くだろうとは信じ難い」とする[305]。
また、『ニューヨーク・ヘラルドトリビューン』は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じた[306]。
ライフ誌の報道写真

写真雑誌ライフ1937年10月4日号は、日本軍が1937年8月28日に爆撃した上海南駅でハースト社カメラマンの王小亭が撮影した「上海南駅の赤ん坊」を掲載し、欧米の反日世論を高めるのに大きな影響を与えた。これが演出写真かどうかについて論争がある。
欧米の反応
第一次大戦後の中国に対する欧米列強の対応は、中国の主権を尊重する九カ国条約(ワシントン会議)の体制となり、日本も同条約にそって欧米や中国には協調外交を行っていたものの、次第に軍事力で中国での日本の権益を守る方向へと向かう。1937年の7月の日中戦争後は、日本が九カ国条約と不戦条約に反した行動をとっているとして次第に各国や国際会議は日本の軍事行動に反発する[307]
9月28日には、国際連盟の日中紛争諮問委員会で日本軍による中国の都市空襲に対する非難決議を満場一致で採択(その後の総会でも同じく決議される)。そしてABCD包囲網も開始。10月5日の国際連盟の諮問委員会の報告に沿って国際連盟総会は6日「中国への『道義的支援』を表明し、連盟加盟国は中国の抵抗力を弱体化させ、現下の紛争における中国の困難を助長しかねないいかなる行動も慎み、それぞれが中国支援拡大の可能性を検討すべきである」との委員会勧告を決議した[308](コミンテルン指令1937年および太平洋問題調査会も参照)。同日、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が、シカゴで(日本を名指さぬが)侵略国を激しく批判する隔離演説を行い、翌日、米国国務省も日本が九カ国条約と不戦条約に反した軍事行動をとっていることを批判した[309]。
11月には、九カ国条約の国際会議であるブリュッセル会議が開催され、やはり日本への非難決議はなされた。ただし、当時は、イギリス・フランスの政府も本格的に日本と事を構える気はなく、(スペイン内戦の対応からも見られるように)ファシズムの台頭に強硬策をとれぬ状況であった。フランクリン・ルーズベルト大統領の隔離演説も、強硬すぎるとして、却ってアメリカの世論や国際社会の反発を招いたため、その後は、欧米各国の日本批判はややトーンダウンした[309]。
参加兵力
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日本軍
日本陸軍
日本海軍
中国軍(国民党軍)
中華民国陸軍(国民革命軍)
- 第3戦区:兵力70個師団7個旅団(約80万名)
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中華民国海軍
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中華民国空軍
作戦機:200機
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評価
- スタンフォード大学歴史学部長のデビッド・M・ケネディは7月に北京郊外で発生した盧溝橋事件での衝突から上海戦にいたる経緯について、「国府軍の将軍たちや中国共産主義者たちの圧力下にあった蔣介石は、日本の侵略者たちと対決して決着をつける機会を待ち兼ねていた。しかし蔣総統は、北京周辺で日本軍の主力と戦うよりも1932年のシナリオ(第一次上海事変)を再現させることによって戦闘の舞台を中国南部に移すことをもくろんだのである。蔣は、上海の約3万人の在留邦人に脅威を与えることによって、北支の日本軍を、蔣介石の主たる政治基盤であり最も安全と考えられていた揚子江下流の地域におびき出せると読んだのである。この囮作戦は成功した」と評している[310]。
- 北村稔は中独合作でドイツは国民党に多くの軍事顧問を入れ中国は自国のタングステンなど希少金属を提供しているような緊密な中独武器貿易があった事があまり知られていない事実を指摘している[311]。
- 日中両国とも歴史教育では多くが戦争の発端を盧溝橋事件と教えており、中国では抗日記念館の中で盧溝橋事件であると強調し、第2次世界大戦の際の無差別爆撃でもこの事件を触れていない事もある[要出典][312]。また、現在国民党政府が支配する台湾でも、盧溝橋事件を強調している[313]。
- 参謀本部第二部の欧米班にいた杉田一次少佐は、「ドイツが早くより有力な軍事顧問団を中国に派遣し、長期に亙って軍事援助を行い、日本を相手とする国防充実に手を貸していたことに日本は無知であった」と述べている[314]。
- 阿羅健一は、以下のように主張している:第一次上海事変後、停戦協定により中国軍は上海中心地への駐留が禁止され、保安隊3200人の駐留のみが認められていたが、先制攻撃が勝利への唯一の道と考えている中国軍は、7月下旬から、保安隊や憲兵隊に変装した兵隊を閘北に入りこませ、一帯には土嚢を積み、戦闘準備を着々と進めた。このため8月に入ると、自国の保安隊の動きに不安を煽られた上海市民は第一次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地へ避難し出し、その数は一日に二万人とも五万人ともいわれた[315]。
- 荒川秀俊は、「予報技術者として、断じて上海事変だけは日本が仕掛けたものではない」として、十三日の朝、台風の中心示度が725ミリ (967ミリバール)と推定され、東シナ海に入り、なおもゆっくりと北北西に進行中であったことを指摘し、「おそらく中国が海軍陸戦隊と上海で事をかまえたのは、この台風が東シナ海へと突入してくる気配をみて、増援隊が日本から到達しないうちに、陸戦隊をもみつぶせると考えたものにちがいない」と述べた[316]。
補足
映像記録・絵画
- 『上海 -支那事変後方記録-』(亀井文夫監督、東宝文化映画部、1938年)
- 『支那事変海軍作戦記録』(海軍省写真班撮影、海軍省、1939年)
- 『呉淞敵前上陸』(油彩画 長坂春雄 1939年)[318]
- 『ザ・バトル・オブ・チャイナ』
第二次上海事変を描いた作品
- 小説
- 映画
- 『上海陸戦隊』(熊谷久虎監督、日本(東宝東京)、1939年)
- 『八百壮士』(応雲衛監督、中華民国、1938年)
- 『西住戦車長傳』(吉村公三郎監督、日本(松竹)、1940年)
- 『敵前渡河 噫!友田伍長』(伊賀山正徳監督、日本(日活)、1938年)
- 『春の河、東へ流る』(蔡楚生監督、中華民国、1947年)
- 『ロンゲスト・ブリッジ』(丁善璽監督、台湾、1976年)
- 『筧橋英烈伝』(張曾澤監督、台湾、1977年)
- 『上海バンスキング』(深作欣二監督、日本(松竹)、1984年)
- 『上海ブルース』(ツイ・ハーク監督、香港、1984年)
- 『上海1920 あの日みた夢のために』(レオン・ポーチ監督、香港・米国合作、1991年)
- 『上海の伯爵夫人』(ジェームズ・アイボリー監督、イギリス・アメリカ・ドイツ・中国合作、2005年)
- 『ラスト・シャンハイ』(バリー・ウォン(王晶)監督、中国・香港合作、2012年)
- 『エイト・ハンドレッド 戦場の英雄たち』(グアン・フー監督、中国、2020年)
- テレビドラマ
- 『遠去的飛鷹』第27話(花箐監督、中国、2011年)
脚注
注釈
出典
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- ↑ 航空自衛隊幹部学校 2021, p. 87.
- ↑ 航空自衛隊幹部学校 2021, p. 95.
- 1 2 航空自衛隊幹部学校 2021, p. 94.
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- ↑ 大東亜戦争海軍戦史本紀巻一
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- ↑ 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中國方面海軍作戦〈1〉』朝雲新聞社 1974年
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- David・M・Kennedy (April ,1998). The Horror. 281(4). The Atlantic Monthly. pp. 110–116. 2016年9月26日閲覧。.邦訳:デビッド・M・ケネディ、塩谷紘(訳)「米歴史学者の『ザ・レイプ・オブ・南京』批判 南京虐殺はホロコーストではない」『諸君!』第30巻第8号、文藝春秋、1998年8月、170-177頁。
- 李玉『重探抗戰史(一):從抗日大戰略的形成到武漢會戰(1931-1938)』聯經出版公司、2015年。ISBN 9789570845839。
- 郭岱君 編、加藤陽子、岩谷將 他著『重探抗戰史(一):從抗日大戰略的形成到武漢會戰1931-1938 改訂新版』聯經出版 2022年
- Lai, Benjamin (2017). Shanghai and Nanjing 1937: Massacre on the Yangtze. Osprey Publishing. ASIN B06WWBWSR1
非売品及び1945年までの出版物(国立国会図書館デジタルコレクションで利用登録者は閲覧可能なもの)
- 日本海軍
- 海軍省教育局『支那事變盡忠錄』全3巻 海軍省教育局 1941年(利用者登録なしで閲覧可能)
- 『支那事變忠勇列伝 海軍之部』 全2巻
- 海軍省海軍軍事普及部『支那事変報国美談 輝く忠誠』
- 『海軍醫務・衛生史 第二巻』1986年
- 『駆逐艦「夕立」』夕立会 1987年
- 日本陸軍第三師団
- 『歩兵第六聯隊歴史』
- 『歩兵第六聯隊歴史 追録 第一部』
- 『歩兵第六聯隊歴史 追録 第二部』
- 『江南ノ軍神安藤部隊長』昭和十五年
- 『歩六第十中隊の思出』1987年
- 『歩兵第六聯隊速射砲中隊戦史』
- 『奮戦 大野部隊』昭和十三年
- 『岐阜県従軍回顧録 支那事変・大東亜戦争編 第一巻』 1970年
- 『第三師団 郷土部隊史』1967年
- 春見三市『呉淞桟橋 戦記其1』
- 『池田中佐追憶録』
- 『豊橋市史 第四巻 (現代編)』1987年
- 兵東政夫『歩兵第十八聯隊史 改訂』
- 『歩兵第十八連隊第八中隊史 日中事変および太平洋戦争における』
- 『上海戦虬江碼頭付近の実戦記 歩兵第十八聯隊第十一中隊(梅田隊)』
- 静岡聯隊史編纂会 編『歩兵第三十四聯隊史 岳南聯隊五十年の歩み』静岡新聞社 1979年
- 柳田芙美緒『静岡連隊写真集 帰らざる戦友に捧ぐ』静岡連隊写真集刊行会 1962年
- 藤田勝『水天一碧』1989年
- 『つわもの 静岡歩兵第三十四聯隊第六中隊誌』
- 『野砲兵第三聯隊史』1993年
- 『騎兵第三聯隊史』1978年
- 『第三師団衛生隊回顧録』
- 寺田与之助『砲煙下を駈ける写真班』1983年
- 日本陸軍第十一師団
- 陸上自衛隊第13師団司令部四国師団史編さん委員会 編『四国師団史』1972年
- 大野廣一『第十一師団歴史の概要』序1961年
- 『下坂正男中佐』昭和十四年
- 『栴檀の賦 朝倉の兵営日記』1983年
- 『和知部隊勳功錄 第一輯』昭和十三年
- 長野国昌『瓦ひと筋五十年』p.113-136
- 伊藤一男『随想 私の戦場』
- 『歩兵第四十三聯隊 2 (支那事変篇)』
- 真本正夫『故郷と戦場』1982年
- 茶園義男『日常の哲学的課題 茶園義男論集 (とくしま新書 第4集)』徳島県教育会 1973年 p.九六-一三八
- 『徳島中学校・城南高校百年史』1975年
- 『思出之記 歩兵第十二聯隊百十年祭記念誌』1985年
- 『騎兵第十一聯隊史』1970年
- 日本陸軍第九師団
- 日本陸軍第百一師団
- 『戦記・甲府連隊 山梨・神奈川出身将兵の記録』1964年
- 『福井部隊の血戦記』1963年
- 『栗源の百年 栗源誕生百周年記念誌』1990年 p.462-463,474-482
- 『血戦 部隊長の手記』昭和十六年
- 佐久間幸夫『陣中日記 その他』昭和十五年
- 『吉川中佐偲草 捧吉川中佐之英霊』昭和十三年
- 牧野英二『突撃中隊の記録』昭和十八年
- 伊藤正平『地雷火隊長』昭和十四年
- 『遠い嘶き 軍馬勝山号回想記』1992年
- 日本陸軍第十三師団
- 福島民友新聞社『郷土部隊戦記 第1』1964年
- 福島民友新聞社『ふくしま戦争と人間 1』1982年
- 福島民報社 編『支那事変郷土部隊写真史 両角外部隊戦況と銃後の実況』昭和十三年
- 秦賢助『白虎部隊 ─ 兩角部隊 ─』平凡社 昭和十四年
- 歩兵第五十八聯隊第五中隊戦友会 編『わが中隊の歩み 上海戦からインパール作戦まで』1978年
- 高田歩兵第五十八聯隊史編纂委員会『高田歩兵第五十八聯隊史』1982年
- 『歩一〇四物語 わが連隊の記録』1969年
- 『歩兵第百四聯隊第五中隊戦史 硝煙にあけくれて一万五千粁』1986年
- 海福三千雄『歩兵第百四聯隊小史 大陸転戦譜』原書房 1971年
- 『七中隊転戦記 中国大陸を征く 第十三師団歩兵第百十六連隊』1986年
- 木村守江『突進半生記』1981年
- 『下郷殉国史』1982年
- 『山砲兵第十九聯隊史』1975年
- 『工兵第十三聯隊の歴史』1979年
- 『戦旅は遥か十星霜 第十三師団第一野戦病院・戦記』1983年
- 日本陸軍第五戦車大隊
- 日本陸軍独立工兵第六聯隊
- その他の日本陸軍部隊
- 『工兵第一大(連)隊史』1984年
- 重砲兵物語(『偕行』1988年9月号に掲載)
- 坂口一郎『独立機関銃隊いまだ猛射中なり』昭和十六年
- 迫四会大隊史編纂委員会 編『迫撃第四大隊史』1985年
- 迫四会大隊史編纂委員会 編『野戦の思い出』1985年
- その他戦記関連
- 教育總監部編『小戰例集 第一輯』昭和十四年
- 『支那事變忠勇列伝 陸軍之部』(第5巻までは利用者登録なしで閲覧可能)
- 佐々木一雄『忠烈偉勲録』初版 昭和十二年
- 佐々木一雄『支那事變忠烈偉勲録 第一輯』第十版
- 佐々木一雄『支那事變忠烈偉勲録 第二輯』
- 『支那事變從軍記蒐錄』 第一編、第二篇 昭和十四年
- 『燃ゆる大和魂』昭和十三年
- 『思ひ出の戦線 戦傷将兵の手記』昭和十三年
- 『作戦要務令第二部ノ図解ト説明』
- 『偕行社記事』
- 情報委員會 編『週報』
- 『各社特派員決死の筆陣支那事変戦史 前』昭和十二年
- 『支那事變写真実記』昭和十三年
- 『支那事變戦跡の栞 中卷』
- 『支那事變実記』 読売新聞社
- 兵器
- 萱場四郎『支那軍はどんな兵器を使ってゐるか』昭和十四年
防衛省防衛研究所(JACAR(アジア歴史資料センター)のサイトで閲覧可能なもの)
- 日本海軍
- 大東亜戦争海軍戦史本紀巻一
- 支那事変主要作戦研究 其の一 昭和十二、七、七~昭和十二、十一、十六
- 支那事変上海戦跡案内骨子
- 第二次上海事変の戦闘経過について(海軍資料) JACAR Ref.C14121088600
- 軽巡洋艦 出雲 航泊日誌 昭和12年7月20日~8月19日
- 軽巡洋艦 川内 航泊日誌 昭和12年8月
- 駆逐艦 山風 航泊日誌 昭和12年8月
- 駆逐艦 初春 航泊日誌 昭和12年8月
- 駆逐艦 若葉 航泊日誌 昭和12年8月
- 水雷艇 友鶴 航泊日誌 昭和12年8月
- 水雷艇 初雁 航泊日誌 昭和12年8月
- 駆逐艦 栂 航泊日誌 昭和12年8,9月
- 第一水雷戰隊司令部事變日誌(其ノ一) 自昭和十二年七月十一日至同十二年七月三十一日 Ref.C14120566300
- 日本陸軍第三師団
- 歩兵第六聯隊第二大隊 戦闘詳報 昭和十二年八月二十三日~三十日 Ref. C11111768800
- 歩兵第六聯隊第七中隊『陣中日誌』昭和十二年八月十四日~三十一日 Ref. C11111164400
- 歩兵第六十八聯隊第一大隊 呉淞附近上陸戦闘詳報 第1号 昭和十二年八月二十三日~三十日 Ref. C11111799300
- 歩兵第六十八聯隊第一大隊 呉淞鎮 呉淞 砲台宝山城附近 戦闘詳報 昭和十二年八月三十一日~九月六日 Ref.C11111800000
- 歩兵第六十八聯隊第三大隊呉淞附近上陸戦闘詳報 昭和十二年八月二十三日~三十日 Ref. C11111811800
- 歩兵第六十八聯隊第三大隊 陣中日誌 昭和十二年八月十四日~三十日 Ref. C11111266800
- 歩兵第三十四聯隊 Wenzaobin「クリーク」附近 戦闘詳報 3/5 昭和十二年十月三日~十二年十月十五日 戦闘経過 防衛省防衛研究所 JACAR Ref. C11111774400
- 野砲兵第三聯隊第一大隊『呉淞附近上陸戦闘詳報』昭和十二年八月二十三日~三十日 Ref. C11111842700
- 野砲兵第三聯隊第四大隊『陣中日誌』昭和十二年八月十四日~九月三十日 Ref. C11111846100
- 歩兵第六聯隊 主要戦闘概見表 主要戦闘要図綴 一 呉淞附近歩兵第六連隊上陸戦闘経過要図 自昭和十ニ年八月二十三日至昭和十二年八月三十日 防衛省防衛研究所 JACAR Ref.C11112002200
- 日本陸軍第十一師団
- 第十一師団機密作戦日誌 昭和十二年八月七日~十二年十二月七日
- 第十一師団戦闘詳報 昭和十二年八月二十五日~十二年十月九日
- 第十一師団通信隊 上陸戦闘戦闘詳報 自昭和十二年八月十八日至昭和十二年八月二十三日
- 歩兵第四十四聯隊日支事変戦闘詳報
- 歩兵第四十四連隊第三大隊 戦闘詳報 昭和十二年八月十三日~十二年九月二十四日
- 日本陸軍第十三師団
- 第十三師団戦闘詳報
- 日本陸軍第五戦車大隊
- 支那事変情報に関する件(戦車関係)防衛省防衛研究所 JACAR Ref.C01002226000
- 支那事変戦車関係情報の件 第七號 密大日記 第16冊 昭和十三年 防衛省防衛研究所 JACAR Ref.C01004555800
- その他日本軍関係
- 「上海派遣部隊船舶輸送の件」支受大日記(密)其四 15冊の内 昭和十二年自九月四日至九月二十七日 防衛省防衛研究所 JACAR Ref.C04120034300
- 陸軍省『日本軍上陸作戦に関する史的総合観察』第五篇 上陸実施 第二章 揚陸作業 第二節 揚陸実施 防衛省防衛研究所 JACAR Ref.C14020193500
関連文献
- 高崎隆治『上海狂想曲〈文春新書 521〉』文藝春秋社、2006年8月20日 初版発行、ISBN 978-4-16-660521-7。
- 洞富雄『南京事件』新人物往来社、1972年4月25日 初版発行、0031-40042-3306。
- 渡部昇一『渡部昇一の昭和史 正 改訂版』Wac、2008年10月30日。ISBN 978-4-89831-592-7。
関連項目
- 日中戦争
- 上海租界
- 上海事変 - 第一次上海事変 - 中独合作 - 国民革命軍ドイツ訓練師団 - 国共合作 - 防共協定
- 盧溝橋事件 - 郎坊事件 - 広安門事件 - 通州事件
- 上海日本人水兵狙撃事件 - 大山事件
- 中国空軍の上海爆撃 (1937年) - 上海南駅の赤ん坊 - 渡洋爆撃 - 四行倉庫の戦い - 南京攻略戦
- 市街戦
- 第三艦隊
- 巡洋艦 出雲
- 軽巡洋艦 川内
- 軽巡洋艦 神通
- 巡洋艦 摩耶
- 駆逐艦 海風
- 駆逐艦 山風
- 駆逐艦 江風
- 駆逐艦 夕立
- 駆逐艦 五月雨
- 駆逐艦 時雨
- 駆逐艦 栂
- 神州丸
- 上海海軍特別陸戦隊
- 上海派遣軍
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- 第十一師団
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- 中支那方面軍
- 歩兵第六聯隊
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