アサデンコウ

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アサデンコウ
品種 サラブレッド
性別 牡
毛色 鹿毛
生誕 1964年2月29日
死没 1988年
父 シーフユリユー
母 ニユーベツシー
母の父 トシシロ
生国 日本の旗 日本(千葉県成田市)
生産者 千葉新田牧場
馬主 手塚栄一
調教師 藤本冨良(東京)
競走成績
生涯成績 9戦6勝
獲得賞金 2426万8600円
勝ち鞍
八大競走東京優駿1967年
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アサデンコウとは日本の競走馬である。第34回東京優駿(日本ダービー)優勝馬。同期にはリュウズキ(皐月賞・有馬記念)・ニットエイト(菊花賞・天皇賞 (秋))がいる(ちなみに、両者ともに矢倉玉男厩舎所属)。三本脚のダービー馬と呼ばれた[1]。

戦績

※馬齢は旧表記とする。

1966年12月11日にデビューしたアサデンコウであったが、3歳時は2戦未勝利に終わった。 だが年が明けて4歳になると本格化し、5連勝で1967年4月30日開催の皐月賞[2]に挑んだ。 連勝中に弥生賞等を勝っており1番人気に推されたが、スタートの出遅れ[3]と厩務員ストが原因の体調不良[4]で7着に敗退した。

前走着外の影響もあり5番人気となったものの、人馬共に無事出走[5]となった中1週での東京優駿は、スタート2ハロン目がハロンタイム10秒フラット[6]となる乱ペースの中、直線で同厩舎のヤマニンカップと共に抜け出し、骨折しながらも後続を振り切り1着でゴールした[7]。 レース前まで好天であったが、直前に大粒の雨が降り始め雷が鳴り響いた為、『電光(デンコウ)』を味方につけた勝利と言われた。 また、後に鉄人と呼ばれる程の名騎手となる増沢末夫にとっては、騎手生活10年目で初めての重賞制覇でもあった。

しかし、アサデンコウは骨折のため表彰式に参加出来ず関係者のみが参加した肝心の馬がいない記念写真が今に残っている。と言われていたがしっかりと優勝記念写真が残っている[8]。

その後アサデンコウは長期の休養に入ったが、結局この骨折が元で再起できずに引退した。

引退後

引退後は一旦JRAが買い上げたが、手塚が買い戻し、1975年馬種改良のためマレーシア[9]に寄贈された。 その後1988年に死亡する[10]まで国立ペナン牧場で種牡馬として供用されていた[11]。

年度別競走成績

  • 1966年(2戦0勝)
  • 1967年(7戦6勝)
    • 1着 - 東京優駿、弥生賞

血統表

アサデンコウの血統(プリンスローズ系/Swynford5×5=6.25%)(血統表の出典)
父

*シーフュリュー
Si Furieux
1957 青毛
父の父
Sicambre
1948 黒鹿毛
Prince Bio Prince Rose
Biologie
Sif Rialto
Suavita
父の母
Hell's Fury
1949
Dante Nearco
Rosy Legend
Sister Sarah Abbots Trace
Sarita
母

ニユーベツシー
1949 栗毛
トシシロ
1940 栗毛
*ダイオライト
Diolite
Diophon
Needle Rock
月城 Campfire
*星旗
母の母
プリユー
1944 栗毛
*プリメロ
Primero
Blandford
Athasi
ユーターピーノ一 *レイモンド
ユーターピー F-No.4-m

脚注

  1. ↑ 芳野星司『光陰、馬のごとし  1』ゴマブックス株式会社、2015年4月5日。
  2. ↑ この年は厩務員スト長期化の為に、NHK杯・桜花賞と同日開催となった。
  3. ↑ このレースが乗り替わり初戦であった増沢末夫は、後に自身の著書『鉄人ジョッキーと呼ばれて』で、「出遅れは私のミスで、次走の乗り替えも意識した。」と語っている。
  4. ↑ 尤も、アサデンコウだけで無く大半の出走馬は体重大幅減での出走だった。
  5. ↑ 皐月賞敗退の責任は取らされず、鞍上は増沢末夫のまま出走となった。
  6. ↑ 新潟競馬場に直線コースが出来るまで抜かれなかった程の早いタイムである。
  7. ↑ この激走劇を称え、『名馬アサデンコウの歌』(作詞 中山正男 / 作曲 遠藤実)が作られた。
  8. ↑ アサデンコウ/Asa Denko (JPN)
  9. ↑ タイ王国に寄贈されたとの説もあるが、どちらにしても政情不安定な東南アジア国家故に、詳細が不明な所が多々ある。
  10. ↑ “日本ダービーを制した馬も… “うるう年”2月29日に生まれた名馬たち | 競馬ニュース”. netkeiba. 2024年6月8日閲覧。
  11. ↑ 『鉄人ジョッキーと呼ばれて』・『日本の名馬・名勝負物語』による。

外部リンク