エドワード殉教王
| エドワード殉教王 英 : Edward the Martyr | |
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14世紀前半に描かれたエドワード殉教王の肖像画 | |
| 先代 | エドガー平和王 |
| 次代 | エゼルレッド無策王 |
| 出生 | 962年頃 |
| 死亡 |
978年3月18日 享年16歳 イングランド ドーセット地方 コーフ城 |
| 埋葬 |
ウェアハム(移葬) シャフツベリ(移葬) ウォキング[1] |
| 王室 | ウェセックス家 |
| 父親 | エドガー平和王 |
| 母親 |
エセルフリーダ 又は エディス |
エドワード殉教王(Edward the Martyr、962年頃 - 978年3月18日)は、10世紀後半のイングランド王(在位:975年7月8日 - 978年)である。彼はエドガー王(在位:959年 - 975年)の長男である。エドガーの死後、王位継承を巡ってエドワードの支持者と、その異母弟で後の国王であるエゼルレッドの支持者の間で争いが起きた。二人とも子供であったため、本人たちが争いに積極的な役割を果たした可能性は低く、おそらくは対立する親族連合間の争いであったと考えられる。エドワードの主な支持者はカンタベリー大司教ダンスタン とイースト・アングリア太守エゼルウィンであり、一方のエゼルレッドは母であるエドガー王妃エルフスリス(エドワードの継母)とその友人であるウィンチェスター司教エゼルウォルドの支援を受けていた。この争いは速やかに解決された。エドワードが王に選ばれ、エゼルレッドには補償として伝統的に王の長男に割り当てられる土地が与えられた。
エドワードの父である先代国王エドガーは強力で威圧的な王であり、イングランドの修道院改革運動の支持者であった。彼は世俗の貴族や在俗聖職者に対し、土地を放棄させて修道院へ安値で売却するよう強制した。エゼルウォルドはエドガーの援助を受け、自身の修道院のために最も積極的かつ容赦なく土地を奪った人物であった。貴族たちはエドガー王の死を利用して、主に法的手段により、時には武力を用いてかつて修道院勢力に奪われた土地を取り戻そうとした。有力な権力者たちは、マーシア太守エルフヘレの支持者とエゼルウィン太守の支持者の二つの派閥に分裂した。両者は自分たちのものと信じる修道院領を奪っただけでなく、ライバルが主張する所領も奪い取った。ただし、これらの争いが戦争に発展することはなかった。
エドワードの短い治世は、978年3月に不明確な状況下で起きた暗殺によって終止符を打たれた。彼はドーセット 州のコーフ・キャッスルにある継母エルフスリスの所領で殺害され、ウェアラムで急ぎ埋葬された。その1年後、彼の遺体は盛大な儀式とともにドーセットのシャフツベリー修道院へ改葬[要リンク修正]された。当時の筆記者は犯人の名を挙げていないが、ノルマン・コンクエスト以降の物語では、ほぼすべてがエルフスリスを犯人としている。現代の歴史家の中にはこれを支持する者もいるが、支持しない者もいる。別の説では、犯人はエゼルレッド側の従士たちであり、おそらく命令なしに動いたのではないかとされている。
中世の王は神聖不可侵(en:sacrosanct)な存在であると考えられており、エドワードの殺害は、それを大罪と見なした当時の人々に深い動揺を与えた。彼はすぐに聖人として崇敬されるようになり、3月18日は彼の記憶日としてイングランド国教会の『祈祷書』の聖人暦に記載されている。ただし、エドワードは存命中、部下や仲間に対して身体的・言葉的な虐待を行うことで知られており、歴史家たちは彼への崇敬は全く不当なものであると考えている。
エドワードに関する文献
歴史学者のレヴィ・ローチはエドワード殉教王に関する文献について、「エドワードの治世について知られていることは少なく、『アングロサクソン年代記』にあるいくつかの短い記述と、彼の名で発行された3通の真正な勅許状から得られる情報に限られている」と述べる[2]。他のノルマン・コンクエスト以前の史料には、999年頃の勅許状S 937[注釈 1]があり、これには彼が王に選出された際の詳細が記されている[3]。また、1000年頃にラムジー修道院の修道僧ラムジーのビュルトフェルスによって編纂された『聖オズワルド伝(Life of St Oswald)』[4]や、『アングロサクソン年代記』(ASC)のいくつかの写本の断片も含まれる[5]。『Passio et Miracula Sancti Eadwardi Regis et Martyris』(『受難と奇跡:聖王・殉教者エドワード』)は1100年頃に書かれたもので、おそらく聖人伝作者のゴセリンの手によるものと考えられている[注釈 2]。ノルマン・コンクエスト以降の年代記編纂者で、エドワードの治世に関する記録を残している者としては、マームズベリーのウィリアムやウスターのジョンが挙げられる[7]。
背景
9世紀、イングランドのアングロサクソン諸王国はヴァイキングの襲撃に絶えず晒され、865年にはヴァイキングの大異教軍による侵攻でその侵略は頂点に達した。878年までにヴァイキングはアングロサクソン人の小王国のうち、ノーサンブリア王国、イースト・アングリア王国、マーシア王国東部を制圧。次いでウェセックス王国をも陥落寸前まで追い込んだが、同年、アルフレッド大王(在位:871年 - 899年)率いるウェセックス軍がエディントンの戦いでヴァイキングに対して決定的な勝利を収めた[8]。続く50年間で、ウェセックス人とマーシア人はヴァイキング支配地域を徐々に征服し、927年にはアルフレッドの孫であるアゼルスタン(在位:924年 - 939年)がノーサンブリアを征服して、史上初のイングランド全土の王となった[9]。彼亡きあと、異母弟エドマンド(エドワードの祖父にあたる)が王位を継いだが、即位直後に北部(ノーサンブリア)の支配権をヴァイキングに奪われた。しかし、944年までにイングランド全土の支配を回復した。彼は946年に無法者との乱闘で殺害され、息子のエドウィ・エドガーが幼少であったことから弟のエドレッド(在位:946年 - 955年)がエドマンドを継いで王となった[10]。エドマンドと同様に、エドレッドもイングランド全土の王権を継承したが、南部出身の王を認めないノーサンブリアの民がヴァイキングの指導者を自らの王として受け入れ、ヨーク王国として一時的に独立。しかし、954年にヨークの有力者たちが自ら受け入れたノース人の王であるエイリーク血斧王を追放しイングランド王に恭順したことで、再びイングランド全土の支配権を確立した[11]。
エドレッド王の頃の主要な政治顧問には、グラストンベリー修道院の修道院長であり後にカンタベリー大司教となるダンスタンが含まれていた。持病のあったエドレッドは955年に30代前半で没し、15歳ほどのエドウィ(エドレッドの甥)が後を継いだ[12]。彼は9世紀初頭以来、差し迫った外国の侵攻に直面しなかった最初の王であり、イングランドではエドワードの死後である980年までヴァイキングの攻撃が静まっていた[13]。エドウィは当初から、叔父の顧問たちから独立しようとする強い意志を示した。彼はダンスタンと衝突して彼を追放した。957年、王国はウェセックスを保持するエドウィと、マーシアおよびテムズ川以北地域の王となったエドガー(エドウィの弟で、エドワードの父)の間で分割された。これが治世当初からの計画であったのか、それともエドウィの無能さが招いた反乱の結果であったのかは定かではない[14]。
959年にエドウィが没すると、エドガーがイングランド王位を継承した[15]。エドウィはエルフヘレをマーシア太守[注釈 3]に任命しており、彼は983年に没するまで筆頭の世俗貴族としての地位を保った。彼の台頭は、イースト・アングリア太守であったアゼルスタン(通称 半王)[注釈 4]の一族を犠牲にして成し遂げられたものであり、両家の対立はエドワードの治世における国内の混乱を招いた[18]。イングランドの修道院改革は、ダンスタン、ヨーク大司教オズワルド、ウィンチェスター司教エセルウォルドの指導下、エドガーの治世で頂点に達した。改革運動はエドガーの強力な支持によって支配的なものとなり、彼は同時代や後世の修道院の年代記編纂者から高い賞賛を得た。彼は強力で、時には威圧的な統治者であり、貴族や世俗(非修道院)の宗教機関に土地の譲渡を強制することで、改革運動の中心となったベネディクト会修道院を豊かにさせた。エゼルウォルドは修道院を支えるための土地確保において、ベネディクト会指導者の中で最も積極的かつ容赦がなく、場合によっては世俗司祭を追い出してその役を修道士に置き換えた。エドガーは975年に、わずか31歳/32歳という若さで没した[19]。
家族
962年頃に生まれたエドワードは、エドガー王の既知の4人の子供の中で最年長であった[20]。エドワードの母親の名を記した同時代の史料は存在せず、ノルマン・コンクエスト以降の史料にはさまざまな記述が見られる。最も古いものは1090年頃に執筆された修道士オズバーンによるダンスタンの伝記である。彼は、エドワードの母はウィルトン修道院の尼僧で、王が彼女を誘惑したため、ダンスタンはエドガーに7年間の悔悛を課し、戴冠式を遅らせることで罰したと記している。オズバーンの記述は、後世の年代記編纂者や現代の歴史家によって否定されている。12世紀初頭にエドマーがダンスタンの伝記を書いた際、彼は古代の年代記を調査した友人ウスターのニコラスから得たエドワードの出自に関する記述を盛り込んだ。ニコラスによれば、エドワードは、エドガーと法に則った形で結婚した正妻であるエセルフリーダ・エネダ(イーストアングリアの太守オルドマー(Ordmær)の娘)の息子であったという[21]。オルドマーという名の貴族は知られていないが、一部の歴史家は、デヴォンの自領と引き換えにハートフォードシャーのハットフィールドをアゼルスタン太守に与えたとされる、オルドマーという名の「有力者(vir potens)」とその妻エアルデがエセルフリーダの両親であると同定している[22]。
12世紀初頭に執筆したウスターのジョンもまた、エドワードはエセルフリーダの息子であると述べ、彼女には「エネダ(eneda、鴨)」というあだ名があったと付け加えている[23]。アゼルスタン太守の妻エルフウィンによって育てられたエドガーは、実父と養父のつながりを通じてエセルフリーダに出会った可能性が高い[24][注釈 5]。エドワードの出自について論じている現代の歴史家のほぼすべてが、彼の母親はエセルフリーダであると述べており[注釈 6]、その多くは彼女がエドガーの最初の妻であったと考えている[27]。歴史学者ニコラス・ブルックスは、ダンスタンがエドワードの王位継承を支持したことから、エドガーはエセルフリーダと結婚していたはずだと主張している。聖職者の婚姻に反対するなど、不適切な結合に強く反対していたダンスタンが、非嫡出子の主張を支持したとは考えにくいからである[28]。しかし、歴史学者シリル・ロイ・ハートは、エドワードを「正統性に疑いがある」と表現している。エセルフリーダはおそらく彼の誕生後まもなく没した[20]。エドワードの宗教教育の教師はクレディトン司教サイドマンであった[29]。
エドガーは2番目の伴侶とされるウィルトンのウルフスリスとの間に、唯一知られている娘エディスをもうけた。ウルフスリスはその後まもなく子供を連れてウィルトン修道院に退いた[30][注釈 7]。964年、エドガーはアゼルスタン太守の長男であるエゼルウォルドの未亡人エルフスリスと結婚した。彼女の父はオルドガーというデヴォンシャーの有力な従士で、同年デヴォン太守に任命された人物である[33]。彼女はエドガー王妃との間に2人の息子を産んだ。971年に没したエドマンドと、968年頃に生まれたエゼルレッド(のちの無策王)である。彼女はエドガーの妻の中で唯一戴冠した人物であり、特に息子の治世において強力な政治的実力者となった[34]。
王位継承
エドワードが史料に初めて登場するのは、966年のニュー・ミンスター勅書の証人としてである[20]。この勅書においてエルフスリスは王の「正統な妻」、エドマンドは王の「正統な息子」として署名しているのに対し、エドワードは「同じ王より儲けられた子」と記されている。これが王の指示(エドワードを継承順位から外す意図)によるものか、あるいはエルフスリスの友人で同盟者であったエゼルウォルド司教による指示であったのかは不明である[35]。歴史学者のバーバラ・ヨークは、エドワードの正統性の否定をエゼルウォルドによる「好機に乗じた特別な言い分」と見ている[36]。一方、969年頃にダンスタンのグラストンベリー修道院で作成された系図では、エドワードがエドマンドやエゼルレッドよりも上位に置かれている[37]。975年7月8日にエドガーが没すると継承争いが生じたが、エドワードは13歳前後、エゼルレッドは6歳から9歳であったため、歴史学者のショーン・ミラーは「彼らは能動的な参加者というよりは、象徴的な存在であったに違いない」と指摘している[38]。
一部の歴史家はエドワードの支持者を修道院改革の擁護者、エゼルレッドの支持者をその反対者と見なしてきたが、双方に支持者がいたため、現在この見解は一般に否定されている。二人の選択における真の理由は、おそらく親族間の同盟関係にあった。エゼルウォルド司教は友人のエルフスリスを支持し、彼女は当然ながら息子エゼルレッドの権利を主張した。一方、大司教ダンスタンはエドワードの主要な支持者であった[39]。ウスターのジョンによれば、大司教オズワルドもエドワードを支持した[40]。オズワルドは、おそらくエゼルレッドを支持していたマーシア太守エルフヘレと対立していた[注釈 8]。エルフヘレは義弟のエルフリック・キルドと共にエゼルレッド側に立ち、一方でエルフヘレの宿敵イーストアングリア太守エゼルウィン(アゼルスタン太守の息子)はおそらくエドワードを支持した[42]。ビュルトフェルスによるオズワルドの伝記では、エドワードは不安定で暴力的な若者として描かれている。
- 「この王国有力者の中には、エドガー王の長男エドワードを王に選ぼうとする者がいた。一方で、太守の中には、言葉も行動も誰に対してもより穏やかに見えた次男を望む者もいた。長男は、人々に恐れだけでなく恐怖さえ抱かせていた。彼は人々を罵倒するだけでなく、残酷な殴打をもって追い回した。そしてそれは、彼自身の王室の者たちに対して最も激しかったのである」[43]
歴史学者のフランク・ステントンは、その「威厳に満ち、圧倒的な権威を持つ」著作『アングロサクソン・イングランド』において次のように評している[44]。
- 「(エドワードが)聖人として崇敬されるようになってから長い年月が経った後でも、彼の激しい怒りが知人すべてを怯えさせていたことが記憶されていた……。多くの貴族が、弟のエゼルレッドを選出しようと決意した理由の一端はここにあったのかもしれない」[45]
ベネディクト会の修道士カンタベリーのエアドメルスは、聖人伝的なダンスタンの伝記において次のように記している。
- 「このエドワードが王として成聖(即位)されるべき時、この地の多くの諸侯が反対しようとした。その理由は、一つには彼らが部下たちの過ちを激しく批判する彼の性格の厳しさを警戒したためであり、もう一つには、彼の母が法的には結婚していたものの、彼を産んだ当時は(父と同様に)王国のために聖別されていなかったことを知っていたためである」[46]
歴史学者アン・ウィリアムズはこの最後の点に懐疑的である。彼女は、王妃が子供を産む前に聖別されているかどうかが10世紀において問題となった可能性はあるものの、エドマーがこれを書いたのは12世紀初頭であり、これは当時はヘンリー1世が兄に対して自らの正当性を主張する際に用いられた際の論理であったため、これが解釈に影響を与えた可能性があると指摘している。さらに、エドマーによればエドガーが戴冠したのは没する2年前であるため、同じ論理はエゼルレッドにも当てはまってしまう[42]。
争いはすぐに決着した。10世紀後半から11世紀初頭の写本にある聖人暦の記載によれば、エドワードが王に選出されたのはエドガーの死から2週間も経たない7月19日であった[47]。おそらく999年のものとされる勅許状には、エドワードが聖俗両界の主要な人物によって満場一致で王に選ばれたと記されている。エゼルレッドには、エドガーがアビンドン修道院に与えていた土地の一部を含む、伝統的に王の息子たちが保持する土地が与えられたが、それらは全有力貴族の命によって強制的に再所有されたものであった。エゼルレッドはこの勅許状の中で「彼らがこのことを正当に行ったのか不当に行ったのかは、彼ら自身が知るところであろう」と述べており、補償として他の土地をアビンドンに与えている。この勅許状は、エゼルレッドの支持者たちが土地の譲渡と引き換えにエドワードの継承に同意したという和解案を反映している可能性がある[3]。エドワードは、おそらく選出されたのと同じ日に、キングストン・アポン・テムズ において大司教ダンスタンの手によって戴冠された[48]。
ノルマン・コンクエスト以降の文献『受難』は異なる記述をしており、ダンスタンが強引にエドワードの戴冠を進めたと主張している。
- 「しかし、(エドワードの)成聖の際、国家の主要な人物の何人かが反対しようとしたとき、聖ダンスタンは自らの選択を断固として貫き、通例自らの前で運ばれる聖なる十字架の旗を手に取ると、それを中央に垂直に固定し、残りの敬虔な司教たちと共に彼を王として成聖したのである」[49]
エドワード王の治世
修道院改革の反動
エドワードの即位後、歴史家がしばしば「反修道院反応」("anti-monastic reaction")と呼ぶ事態が発生した[50]。『アングロサクソン年代記』によれば、D写本[注釈 9]において「神の敵」と称されたマーシア太守エルフヘレをはじめとする多くの貴族が、修道院への攻撃を開始した。対照的に、エルフヘレのライバルであったイーストアングリア太守エゼルウィンはラムジーのビュルトフェルスによって「神の友(amicus Dei)」と呼ばれ、修道士たちの筆頭擁護者として描かれている[52]。ビュルトフェルスはエドワードの治世について次のように記している。
- 「王国全土の連邦(コモンウェルス)は揺れ動き、司教たちは当惑し、太守たちは怒り、修道士たちは恐怖に打たれ、民衆は怯えた。一方で世俗の聖職者たちは、自らの時代が来たことを喜んだ。今や修道院長たちは修道士と共に追放され、聖職者たちが妻を連れて入り込んでいる。『後の迷いは、先の迷いよりもひどい』状態である。……かつては馬飾りを施した馬に跨り、仲間と共にダビデ王の旋律を歌うことに慣れていた修道士たちが、今や重荷を引かされている姿が見て取れる。彼らは、エジプトへ向かう馬車に乗せられた古の家長(パトリアーク)のように運ばれることもなく、また仲間や友人と共に『財布も靴も持たず』歩き回ることもないのである」[53]。
しかし、ほとんどの歴史家は、この紛争が修道院制度の支持者と反対者の間の対立であったという主張には懐疑的である。むしろ、こうした混乱の原因は貴族間の個人的なライバル関係や、エドガー平和王によって修道院への譲渡を強制された土地を取り戻し、あるいはその補償を得ようとする貴族たちの決意にあると考えている[54]。エゼルウィン太守はビュルトフェルスの所属したラムジー修道院を創設したが、一方でイーリー修道院においては、いくつかの所領を盗んだ人物として記憶されている[55]。エルフヘレ太守はウィンチェスター司教エゼルウォルドが創設した修道院を解散させたとされるが、同時にエゼルウォルド司教のイーリー修道院をエゼルウィン太守から守り、ダンスタンのグラストンベリー修道院やエゼルウォルド司教管轄のアビンドン修道院の寄進者でもあった[18]。
歴史家アン・ウィリアムズは、「修道院領の押収には、単なる『反修道院主義』以上の理由があった。多くの場合、おそらくはほとんどの場合において、疑問視されていたのは改革派の修道院が土地を獲得する際に行われた強引な手法であった。(かなりの圧力を受けていたと思われる)売却者やその相続人たちは、実際の市場価値に近い価格を得ようとしていたのである」と評している[56]。
利用可能な情報が極めて限られているため、歴史家にとってエドワード治世下の混乱の程度を判断することは非常に困難である。ある時点では、エルフヘレとエゼルウィンの関係は戦争寸前まで至ったようだが、実際に戦闘が起こることはなかった[57]。レオフシゲという名の従士は、ピーターバラ、アウンドル、ケタリングの所領を押収し、2年間にわたって作付けができないほどの混乱を引き起こした。レオフシゲはエゼルウィンの兄弟であるエルフウォルドによって殺害されたが、エルフウォルドはその罪を司教エゼルウォルド司教によって赦免された[58]。歴史学者のジョージ・モリニューは、戦闘の証拠が欠如していることから、エドワードの治世を激しい紛争の時代として描くことには懐疑的な見方を示している[59]。
統治体制
エドワード王治世下、賢人会議はエドワードの戴冠式の際と思われるキングストン・アポン・テムズ、977年の復活祭後のオックスフォードシャー・カートリントン、そして同年、ウィルトシャーのカインといった場所で開催された。カインでの会議は建物の2階で行われていたが、その際に床が崩落するという事件が起きた。この崩落事故で多くの主要な顧問官が負傷し、数名が死亡したが、ダンスタンは梁の上に立っていたため無傷であった[60]。エドワードが発行したすべての勅許状において、マーシア太守エルフヘレが太守の筆頭として、イーストアングリア太守エゼルウィンが第2位として署名しており、彼らが前王の治世に引き続き主要な世俗貴族としての地位を保持していたことが示されている[61]。エドワードの最初の勅許状には、ほぼすべての主要な有力者が署名しており、彼の統治が一般に受け入れられていたことがわかる。これは、年代記編纂者エセルウェアルドがエアルドルマンとして記載された最初の勅許状であり、彼はおそらくエドワードによって太守に任命されたと考えられる[62]。970年代初頭にはイングランド南部を管轄する太守が存在しなかったようだが、これはエドガー平和王の権威が非常に大きく、彼自身が直接その地域を統治できたためかもしれない。エドワードの即位後、この地域を管轄するために3人の太守が任命された。ウェセックス西部のエゼルウェアルド、ハンプシャーのエゼルメール(Æthelmær)、そしてサセックス・ケントのエドウィンである。もし統治の安定がエドガー個人の権威に依存していたのであれば、彼の死後に王室が当地域の秩序を維持するのに苦心したことは驚くべきことではない[63]。『アングロサクソン年代記』は、エドワードの治世中にヨーク太守オスラックが追放されたことを非難を込めて記録しているが、その経緯は不明である。彼の治世中に記録された他の出来事は少ない。976年には深刻な飢饉が発生し、977年にはエドワードの家庭教師を務めたサイドマン司教が没した[64]。また978年には、ダンスタンがミドルセックスのヘンドン近郊の土地をエドワード王から購入している[65]。
勅許状
歴史学者のサイモン・ケインズは、エドガーの治世後半の勅許状からエゼルレッドの治世初期の勅許状には古文書学的伝統・様式が存在するものの、その間に介在するエドワード殉教王時代の勅許状はその様式から外れた様式に則ったものであると指摘する[66]。エドワードの3年9か月の治世に日付が置かれているとされる憲章は5通現存しているが、この時期の平均が年間4通から5通であることを考えると、これは少ない数である。また、憲章S 828およびS 829の真実性については議論がある。ケインズはこれらを偽造であるとしているが、証人リストはおそらく真正なテキストに基づいていると述べている[66]。一方、これらの勅許状の編纂者であるスーザン・ケリーは、これらを「非常に難解な文書」と表現しており、本物である可能性があると考えている。どちらもエドワードの治世中かその直近に、同じ不注意な起草者によって同時に作成されたように見受けられる。S 828は、エドワード王による、おそらくラムズベリー司教 エルフスタンへの、バークシャー 地域のキングストン・バグピュイーズにおける13ハイドの土地の譲渡に係る勅許状である。S 829は、同じ村の7ハイドの土地をアビンドン修道院に譲渡する際に作成されたものである。境界条項は両方で同じであるが、これはおそらく司教と修道院が所領内で異なる散在した土地区画を保持していたためであろう[67]。オールド・ミンスターに由来する憲章S 831はおそらく真正であり、941年のものに基づいている。これはエドワードによる、自身の役人エルフリックへのウィルトシャー地域・ワイリーにおける土地の譲渡にまつわる勅許状である[68]。勅許状S 832は、エドワードからエゼルウェアルド太守への、コーンウォールにおける大規模な土地の譲渡の際に作成された勅許状である[69]。これは勅許状S 830と密接に関連しており、S 830はエドワードから彼の「忠実な封臣(fideli vasallo)」エルフシゲへの、デヴォンのチェリトン・ビショップにおける土地の譲渡の際に作成されたものである。どちらの勅許状もエクセターの記録保管所に由来するが、おそらくクレディトンで書かれたものであり、シリル・ロイ・ハートはこれらが現在の形式で真正であるかどうかを疑っている[70]。
貨幣制度

アングロ・サクソン時代後期のイングランドで一般的に使用されていた唯一の硬貨は、ペニー銀貨であった[72]。エドガーの治世後半まで、異なる町の鋳造所で作られるペニー貨は、意匠、重量、純度(銀の含有量)がまちまちであった。970年代初頭、エドガーは意匠を統一し、重量と純度の均一性を大幅に高めた改革貨幣を導入した。「スモール・クロス(Small Cross)」型と呼ばれるこの意匠の硬貨は、表面に王の名(+EADGAR REX ANGLOR[UM])に囲まれた、左を向いた王の胸像を配していた。裏面 には中央に小さな十字が置かれ、その周囲に貨幣鋳造人の名と鋳造所が刻まれていた。エドガーの改革によるこの意匠は、エドワードの治世を通じて製造された唯一の貨幣形式であり、エゼルレッドの治世初期に別のものへと代わった[73]。
エドワードの硬貨は平均してエドガーのものよりわずかに軽く、エゼルレッドのものよりは重かった[74]。純度はエドガーの改革以降、96%という高い水準で均一に保たれており、リンカーンやヨークで製造されたごく一部のわずかに純度の低いものを除けば、エドワードの下でもこの水準が維持された。エドワードの死後、純度はより不安定になった[75]。エドガーの治世中、硬貨の刻印はほぼすべて一つの中心地、おそらくウィンチェスターで製作され、そこから王国中の他の鋳造所へと分配されていた。エドワードの下では、この中心地から供給を受ける鋳造所の数は大幅に減少し、地方の刻印製作所がこれを補うようになった。これは彼の治世における困難な政治情勢によるものであった可能性がある[76]。
死
エドワード王は978年3月18日の夕刻、ドーセット州パーベック丘陵にあるコーフ・キャッスルに位置するエルフスリス王妃の所領で殺害された[20][注釈 10]。ノルマン・コンクエスト以前の唯一の詳細な記録は、ラムジーのビュルヒトフェルスによるものである。
- ある日の夕方近く、そのすぐれた、神に選ばれた王は、兄弟の愛による慰めを求めて、先に述べたとおり、愛する弟が王太后とともに住んでいる館へ赴いた。諸侯や主だった人々は、当然のこととして、王を迎えに出た。だが彼[年下の息子]は、母である王太后とともに中にとどまっていた。その有力者たちは、互いのあいだで邪悪な企てを定めていた。彼らはそれほどまでに忌まわしい意図と、暗く悪魔じみた盲目さに取りつかれていたので、神に立てられた者に手をかけることさえ恐れなかった。武装した者たちが四方から王を取り囲んだ。その中には王の給仕長もいて、うやうやしく控え、仕えようとしていた。この尊い王に従う兵はごく少なかった。というのも、王は誰も疑わず、「主とその力強い御力」を頼みとしていたからである。王はサイドマン司教の教えのもとで聖書を学んでおり、身体は強く、頑健であった。そして、陰謀者たちが王を取り囲んだとき――それは、かつてユダヤ人たちがわれらの主を取り囲んだときのようであったが――王は少しも恐れず、馬上にとどまっていた。彼らはみな、同じ狂気に取りつかれていた。兵たちは王に手をかけた。ひとりは右側から王を自分のほうへ引き寄せ、まるで口づけしようとするかのようであった。もうひとりは左側をしっかりとつかみ、死の一撃を加えた。すると王は、できるかぎりの声でこう叫んだ。「何をするのだ、なぜ私の右手を砕くのか。」と。そして王はたちまち馬から落ち、そのまま息絶えた。この神の殉教者は、彼の従士たちによって抱え上げられ、あるひとりの自由民の家へ運ばれた。そこではグレゴリオ聖歌も、葬送の嘆きも聞かれなかった。むしろ、この国全土の高貴な王は、ただ安物の毛布だけを掛けられ、夜明けの光を待ちながら横たえられていたのである。[79][注釈 11]

ビュルトフェルスは、エドワードがいつどこで死んだかについては記しておらず、『アングロサクソン年代記』の現存する最古の版(ASC A版)も、単に彼が978年に殺害されたと述べるにとどまっている。エドワードが聖人と見なされるようになった後の1040年代に書かれたC版は、彼が殉教したと記している。『アングロサクソン年代記』の中で彼の死に関する最も詳細な記述があるのは、ノルマン・コンクエスト以降に成立した北部編承本(northern recension)であるD版およびE版[注釈 12]であり、これらには死の日付と場所が記されている。『アングロサクソン年代記』のいずれの版も誰が殺害を実行したかについては述べていないが、北部編承本は彼の死に報復しなかった親族を非難しており[82]、1000年頃のエドワードの死に関する詩には「彼が自らの親族の手により、嫉妬によって死んだことは確実である」と記されている[83]。
ノルマン・コンクエスト以前の暗殺に関する記録は誰に責任があるかを述べていないが、コンクエスト以降の年代記編纂者や聖人伝作者は、ほぼ全員がエルフスリス王母を非難している。『受難』やウスターのジョンは彼女が殺害を命じたと主張しており[84]、マームズベリーのウィリアムは、彼女が王の気を引くために飲み物を手渡し、その間に彼女の家臣が王を刺したとしており、ハンティンドンのヘンリーはエルフスリス自身がエドワードを殺害したと記している[85]。『受難』はエルフスリスに対して極めて偏向しており、修道院生活の規則を定めた973年頃の『レグラリス・コンコルディア』に見られるような、彼女に関する好意的な情報を削除している。同書はエルフスリスに尼僧院の保護者としての役割を与えていたが、『受難』はその保護者をエドワードの母に書き換えている[86]。
現代の歴史家は、エドワード殺害について多様な解釈を提示している。エルフスリスの追随者を非難し、彼女自身に個人的な責任があったと考える者もいる[87]。クヌートの伝記作家であるマイケル・ローソンは、暗殺者が罰せられなかった事実は疑わしく、エルフスリスの有罪を示唆していると考えている[88]。レヴィ・ローチはこれに同意せず、同時代の誰もエルフスリスを非難していないという事実を重要視しており、存在しない陰謀を読み取らないよう注意すべきだと述べている[89]。『受難』の編纂者であるクリスティーン・フェルは、エルフスリスの役割に関する詳細の多くは、より古い時代のアングロ・サクソンの王族殺害の物語、すなわち姉に殺された聖ケネルムや、義母となるはずの人物に殺されたイーストアングリア王エゼルベルト2世の物語に現れるものだと指摘している。フェルは、『受難』における聖人伝的な役割として、エルフスリスが同様のスケープゴートになることは避けられなかったと主張している[90]。バーバラ・ヨークは、こうした物語は「継母が継子に抱く敵意という伝統的な信仰にスパイスを加えた聖人伝の慣例に基づいており、実際に何が起こったかの信頼できる記録として受け取るべきではない」と評している[91]。
別の説では、この殺害はマーシア太守エルフヘレとイーストアングリア太守エゼルウィンの対立が頂点に達した結果であり、エルフヘレが自らの権力を維持し、自分の候補者を王座に就かせるためにエドワードを殺害させたというものである。歴史学者のアラン・サッカーは、エドワードの再埋葬におけるエルフヘレの役割を贖罪の行為と見なしている[92]。しかし、ローチは、ビュルトフェルスが太守に対して敵対的であったにもかかわらず、エルフヘレの役割を称賛しており、もし彼が犯罪に関与していたならば彼を非難したはずだと指摘している[93]。エドワードの死に関する同時代の詩もエルフヘレの役割を称え、彼を「最も価値ある指導者」と描写している[94]。ショーン・ミラーは、エゼルレッド王子の従士たちが、おそらく個人的な立身出世を期待して、自発的に行動したのではないかと考えている[55]。
エドワードの死後、対立する派閥が妥協に達することができたことから、彼の性格もまた死の一因であった可能性がある[95]。宮廷に大きな変化はなく、エルフスリスとエゼルウォルド司教がより影響力を強めたものの、エドワードの官吏の多くはその地位を維持した[96]。アン・ウィリアムズは、エドワードの死が陰謀の結果であったというコンセンサスに疑問を呈している。彼女は、彼の死を誤解によって生じた以前の暴力的な突発事件と比較し、次のように述べている。
- 「エドワード王の死も、計画的というよりは『偶発的』なものであった可能性がある。それは、若き王(ビュルトフェルスによれば暴力的な行動に走りがちであった)と、彼の弟に仕える数名の貴族との間の挑発的な対立から生じたというものである。加害者の名が挙げられていないことは依然として奇妙である。エドワードの祖父エドマンド王も同様の状況で殺害されたが、『彼はどのように人生を終えたか、レオファがパックルチャーチで彼を刺した(ofstang)ことは広く知られていた』。あまりにも多くの人々(おそらくエルフスリスの派閥に属さない者も含めて)が、暴力的で不安定な若者から解放されることを密かに安堵していた、ということはあり得ないだろうか?」[97]
評価と影響
埋葬と移葬
エドワードの死は、当時の人々に深い動揺を与えた。ローチは次のように述べている。「中世の王は神性に触れていると感じられていた。彼らは神に選ばれただけでなく、司教と同様に聖油によってその職に就くための成聖を受けていたからである。王の成聖は確立された伝統であり、改革派は王権の神授性をさらに強調するために多大な尽力を払っていた。……したがって、王を殺害することは単なる犯罪以上の、第一級の罪であった」[98]。イングランドには、殺害された王を聖人として崇敬する長い伝統があり、エドワードの死を巡る状況から、彼が殉教者と見なされるようになることはほぼ確実であったが、それはすぐには起こらなかった。彼は生前、聖人らしいとは見なされておらず、キリスト教を守って死んだわけでもなかった。彼が王としての埋葬を受けるまでには1年近くを要しており、この遅れは、彼の遺体の扱いを巡って議論があったこと、そして名誉ある埋葬を求める主張が徐々に勢いを増していったことを示唆している[99]。
『アングロサクソン年代記』のD写本およびE写本によれば、エドワードは当初、王としての礼遇を受けることなくウェアラムに埋葬された[100]。ビュルトフェルスは、1年後に「名高い太守であるマーシア太守エルフヘレが大勢の従者を連れて到着した」と記している。彼はエドワードの遺体を掘り出すよう命じ、遺体が不朽体(腐敗していない状態)であることが判明すると、それは奇跡の兆候として受け取られた。遺体は盛大な儀式とともに運ばれ、尼僧院であるシャフツベリー修道院に埋葬された[101]。筆頭太守として、エルフヘレはおそらく、5月4日のエゼルレッドの戴冠式に向けた地ならしとして、適切な埋葬を行うためにエドワードの遺体をウェアラムからシャフツベリーへと改葬する準備を任されたと考えられる[102]。11世紀初頭のヨーク大司教ウルフスタンは、王の遺体は焼かれたと記しており、ケインズは「ウルフスタンの権威は相当なものである」と評している[103]。しかし、政治的状況からエドワードを丁重に埋葬する必要があったため、エルフヘレはその目的のために別の遺体を見つけ出すよう命じられた可能性がある[104]。
『受難』のようなノルマン・コンクエスト以降の記録は、より複雑で聖人伝的な物語となっている。『受難』によれば、エルフスリスはエドワード王の遺体を沼地に隠させたが、979年2月に火の柱によって奇跡的に発見され、地元の人々がそれをウェアラムの教会に運んで埋葬したという[105]。エルフヘレは遺体発見の報を聞いて歓喜に満たされ、よりふさわしい場所への再埋葬のために遺体をシャフツベリーへと運んだ[105]。
『受難』は続けて、1001年にエドワードが「ある修道者」の幻視の中に現れ、教会の墓地から修道院内のより安全な場所へ移されたいという望みを伝えたと記している。この情報は修道院長に伝えられ、さらにエゼルレッド王へと伝わると、王は喜んで遺骸を再び改葬するよう指示を出した。王はシャーボーン司教ウルフシゲ3世と、もう一人の高位聖職者、おそらくニュー・ミンスターの修道院長エルフシゲに、その儀式の執り行いを命じた。改葬は6月20日に行われたが、エゼルレッド王はデーン人の侵攻への対応に追われていたため参列できなかった[106]。しかし、歴史学者のポール・ヘイワードは、この2度目の改葬については同時代の史料に言及がなく、ノルマン・コンクエスト以前の暦にも6月20日を祝日とする規定がないことを指摘し、これが捏造であると主張している[107]。
初期における崇敬
エドワードは死後まもなく聖人として認められ、エゼルレッド王は兄の列聖化運動の主要な後援者であったようである[108]。この列聖は当初、王権の神聖さを誇示するために聖俗の指導層によって推進されたが、ヴァイキングの襲撃が激化するにつれ、それらは主の選ばれし者(成聖者)を殺害するという恐ろしい罪に対する、神によるイングランド民衆への罰と見なされるようになり、人々は償いを必要とした[109]。990年から994年までカンタベリー大司教であったシゲリックは、エドワードを称えてチョルジーに修道院を設立するようエゼルレッドを説得し、王はゲルマヌスを修道院長に任命した。エドワードの崇敬はカンタベリーでも認められ、ウルフスタン大司教によって推進された[110]。1001年、エゼルレッドはウィルトシャーのブラッドフォード・オン・エイヴォンにあるかつての司教座聖堂と土地を、神と「自らの血にまみれたものの、主が我らの時代に多くの奇跡をもってその栄光を現すにふさわしいと思し召された、わが兄なる聖エドワード」に寄進した。これは尼僧たちとエドワードの遺骸をヴァイキングの攻撃から守るための避難所とするためであった[111]。サラ・フットはこの寄進を「幾分奇妙である」と表現している。なぜなら、シャフツベリー修道院はブル(要塞、もしくは要塞都市)の中にあったのに対し、ブラッドフォードは無防備だったからである[112]。ビュルトフェルスによれば、最初の奇跡はエドワードの死から11年後、彼の墓で起こったという[113]。
1014年頃のウルフスタンによる著作『狼からイングランド人への説教』では、エドワードの殺害と、1013年のデンマーク王 双叉髭の スヴェンによるイングランド征服によってエゼルレッドが亡命を余儀なくされたことが、イングランド人による主君への裏切りの例として挙げられている[114]。1100年以前の25の暦のうち、エドワードの命日である3月18日は18の暦に記載されている。これより多く記載されている聖人はわずか9人であり、また5つの暦にはウェアラムからシャフツベリーへの移葬を記念する2月13日の祝日も記載されている[115]。エゼルレッドの長男アゼルスタン・アシリングは、1014年に臨終の間際に作成した遺言で、シャフツベリーの「聖十字架と聖エドワード」に6ポンドを遺贈した。スヴェンの次男でイングランド王位を継いだデーン人君主クヌートもエドワードの崇敬を保護しており、1008年の法典「エゼルレッド第5法典」には、おそらく1018年頃にクヌートによって挿入された条項が含まれているが、これは、エドワードの殉教の祝日を3月18日にイングランド全土で祝うよう命じるものであった[116]。歴史学者のデイヴィッド・ローラソンは、エゼルレッドとクヌートが前任者の神聖さを強調することで自らの威信を高めるためにエドワードの崇敬を推進したと主張している[117]。エドワードの殺害は、オズワルドや彼の修道院、特にラムジーやウィンチクーム修道院において、殺害された他の王族聖人への関心を高めることにもつながった[118]。
ノルマン・コンクエスト以降の筆記者や一部の現代の歴史家は、エゼルレッドの王としての失敗はエドワード殺害の結果であると見なしてきた。ゴセリンはエディスの伝記の中で、エゼルレッドの「王位継承は兄の血で購われたもの」であるため、彼は統治に値しないと記している[119]。ステントンは、エゼルレッドが「王権の威信を破壊するような疑惑の漂う雰囲気の中で統治を開始した。その威信は彼の存命中、完全に回復することはなかった。……歴史家がエゼルレッド王を非難する要因の多くは、結局のところ、彼が王になった経緯に起因している可能性がある」と評している。彼の王としての無策な振る舞いは、「自らがイングランドの人々の間でイギリス上陸以来の最悪の犯罪と見なされる行為を通じて権力を握ったという意識に対する、弱い王の反応」を示唆している[120]。エゼルレッドが兄の崇敬を支持したことは、自分に付きまとう疑惑の雲を晴らすための試みであったと見なされてきたが、20世紀後半以降、当時の人々がエゼルレッドやその母を殺害の犯人と見なしていたようには見えないと主張する歴史家たちによって、この見解は疑問視されている[121]。ケインズは、もし王族がエドワードの死について非難されていたならば、彼を神格化することは犯罪に注目を集め、エゼルレッドの地位を弱めることになっただろうと論じている[122]。
クヌートの治世中、いくつかの宗教コミュニティがエドワードの遺体の一部を入手したと主張したが、マームズベリーのウィリアムは、エドワードの遺体の半分はレオミンスター修道院に、もう半分はアビンドンに運ばれ、そこで両方とも崩れ去ったと述べている。そして肺だけがシャフツベリーに残り、そこで展示され、鼓動し続けたという[123]。
後期の崇敬
10世紀の王として、エドワードは尼僧院に埋葬された唯一の人物であった。アルフレッド大王が自らの娘の一人のために創設したシャフツベリーは、王室と強い結びつきがあり[124]、エドワードの列聖は同修道院にとって価値あるもので、ウェセックスの修道院の中でも高い地位を与えた。アングロ・サクソン時代の終わりには、そこは最も裕福なベネディクト会の尼僧院となり、グラストンベリーはあらゆる修道院の中で最も裕福であった。後世の中世期には、「もしグラストンベリーの修道院長がシャフツベリーの尼僧院長と結婚できたなら、その相続人はイングランド王よりも多くの土地を持つことになるだろう」という言い回しがあった[125]。エドワードの列聖は、中世後期のシャフツベリーの尼僧院と町の繁栄にとって重要であり、一部の中世の文書では、この町は「エドワードの聖なる場所」を意味する「エドワードストウ(Edwardsstowe)」と呼ばれている[126]。
ノルマン人による最初のカンタベリー大司教であるランフランクスは、多くのアングロ・サクソン系聖人の神聖さを否定した。エドワードの崇敬は生き残ったものの、「田舎じみた」ものと見なされ、シャフツベリーのように彼を称える特別な理由がある施設でのみ祝われるマイナーな地位に格下げされた。彼の崇敬は中世後期に復活したが、そのほとんどは国の南半分に限られていた。彼は、プランタジネット朝がより武勇に優れた人物である聖ゲオルギオスを好むようになるまで、イングランドの国民的聖人の一人と見なされていた。エドワードはイングランド宗教改革を生き延びたが、祝日にのみ思い出される控えめな存在となった[127]。
3月18日のエドワードの祝日は、現在もイングランド国教会の祈祷書の祝日暦に記載されている[128]。歴史学者のフランク・バーロウは、犯罪に対する民衆の強い嫌悪感が、不快な若者を王家の殉教者へと変貌させたと評している[129]。歴史学者のトム・ワトソンは、「聖性や王としての資質を全く示さず、脚注にすら残らないはずだった鼻持ちならないティーンエイジャーにしては、彼の崇敬は驚くほど長く続いている」と述べている[130]。
エドワードの遺骨を巡る論争
シャフツベリー修道院は1539年に修道院解散され、その建物はほぼ完全に解体された。1930年から1932年にかけて、アマチュア歴史家のジョン・ウィルソン=クラリッジ(John Wilson-Claridge)が修道院の廃墟で発掘調査を行った。発掘に関する報告書が発表されることはなかったが、彼は北側の翼廊でエドワード殉教王の遺骨を発見したと主張した。この発見は、今世紀最大の歴史的発見の一つとして『タイムズ』紙で称賛された[131]。1963年、遺骨は法医学者のトーマス・ストウェルによって調査され、ビュルトフェルスの記述にある殺害状況と一致する負傷を負った17歳から19歳の若者のものであると結論づけられた。ストウェルは、遺骨がエドワード殉教王のものであることに合理的な疑いの余地はないと結論づけた[132]。加えて、遺骨の一つに対して放射性炭素年代測定が行われ、適切な年代のものであることが判明した[133]。歴史家たちによるストウェルの所見に関する記述では、通常、大英博物館 の骨考古学者であるドン・ブロスウェルによる反論が言及される。ブロスウェルは遺骨を調査し、それはより年長の男性のものであり、損傷はおそらく死後のものであると結論づけたとされるが、彼の調査報告書が発表されることはなかった[134]。
ウィルソン=クラリッジは遺骨を引き取るよういくつかの教会と交渉したが、遺骨を聖人の真正な遺骸(relics)として安置し、崇敬するという彼の要求に同意する教会はなかった[135]。1980年、ウィルソン=クラリッジは、彼の言葉を借りれば「神の摂理(divine providence)」によって、在外ロシア正教会(ROCA)の会員であるポブジョイ氏(Mr Pobjoy)に出会った。同教会は、ウィルソン=クラリッジの条件で遺骨を受け入れることに同意した[136]。ウィルソン=クラリッジの弟は、遺骨はシャフツベリーに戻されるべきであると主張して、遺骨がROCAに渡ることに強く反対した。この紛争は『タイムズ』紙への投書を通じて議論され、その中には、遺骨がロシア正教会に渡ることに反対したケインズによる、「いかなるサクソン人も、そのような運命を辿るに値したはずがない」というものも含まれていた。1988年、高等法院の審問により、遺骨はこの目的のために設立されたROCAのブルックウッドの聖エドワード殉教者教会に渡されることが決定した[137]。歴史家たちは、ブルックウッドの教会にある遺骨がエドワード殉教王のものであることに対して非常に懐疑的である。その理由は、979年にシャフツベリーに運ばれた遺体がおそらくエドワードのものではなかったことと、1931年に発見された遺骨がおそらく当時の人々が彼のものと信じていたものではなかったことの両方に起因している[138]。
エドワード殉教王に捧げられた教会


エドワード殉教王に捧げられた教会として以下の複数の同盟の教会が挙げられる。
脚注
注釈
- ↑ 勅許状のS番号は、歴史家ピーター・ソーヤーによるアングロ・サクソン時代のイングランドにおける勅許状の目録における番号であり、Electronic Sawyerでオンライン公開されている。
- ↑ フェルとリッジヤードは、この『受難』がおそらくゴセリンによって書かれたと考えているが、ポール・ヘイワードはその可能性を「極めて低い」としており、「この作品にはゴセリンの著作を特徴づける圧倒的な感性や独特の語彙がほとんど見られない」と主張している[6]
- ↑ 太守(エアルドルマン)は王に次ぐ世俗貴族の第2位の階級である。彼らは国王の地方代表として広大な地域を統治し、戦闘の際には地方徴集兵を率いた[16]。
- ↑ 歴代王たちが統治に際して、アゼルスタン太守の助言に頼っていたと言われたことから、彼は「ハーフ=キング(半王)」として知られていた。彼は957年に太守の座から引退し、長男のエゼルウォルド(エルフスリス王妃の最初の夫、962年没)が後を継いだ。エゼルウォルドの死後は末弟のエゼルウィン[要リンク修正]がイーストアングリア太守となった[17]。
- ↑ 12世紀の歴史書『リーベル・エリアンシス (イーリーの書)』は、後にエドガーが、オルドマーとエアルデがハットフィールドの土地を自分に遺贈し、その土地をイーリー修道院に与えたと主張したと記している。エドガーの死後、アゼルスタン太守の息子たちは、エドガーが強制的に土地を放棄させたのだと主張した。彼らは修道院から土地を取り戻すために訴訟を起こし、勝利した。[25]
- ↑ アン・ウィリアムズはこのコンセンサスに異を唱え、エドワードはウルフスリスの息子であり、したがってエディスの弟(共通の父母を持つ弟)であったのではないかと示唆している。彼女は、エドガーが尼僧を誘惑したというオズバーンの告発から彼を解放するために、エセルフリーダという存在が捏造されたと考えている[26]。
- ↑ 歴史家の間では、ウルフスリスの地位について意見が一致していない。ロザリンド・ラヴは彼女を側室と呼んでいるが[31]、ポーリン・スタッフォードは彼女を妻として認め、バーバラ・ヨークもこれを擁護している[32]。
- ↑ エルフヘレの兄弟エルフヘアは遺言の中で、エルフスリスを「gefædera」(同じ子供の親と代父母の関係を示す言葉)と呼んでいる。彼はエルフスリスと彼女の息子たち、すなわち「年長の貴公子(ætheling)」と「年少の貴公子」へ遺贈を行っているが、エドワードへの言及はない。[41]
- ↑ 『アングロサクソン年代記』の写本は、慣例としてASC AからASC Fの記号で分類される[51]。
- ↑ 歴史家のデイヴィッド・ダムヴィルはエドワードが殺害されたのは979年3月18日であると主張しているが、ほとんどの歴史家は978年としており[77]、レヴィ・ローチは978年が正しいことに疑いの余地はほとんどないとしている[78]
- ↑ 中世ラテン語学者のマイケル・ラピッジは、キリストの裏切りに関する聖書の記述と、ビュルトフェルスによるエドワードの死の記述の類似性は、彼がそれを捏造した可能性を示唆していると主張しているが[80]、ヨークはこれに同意しておらず、ローチもビュルトフェルスの記述を信頼しない理由はほとんどないと考えている[79]
- ↑ D版とE版は、他の版には見られない北部特有の関心事に関する資料を含んでいるため、合わせて北部編承本(northern recension)として知られている[81]。
出典
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