コルコスン (丞相)
コルコスン(モンゴル語: Qorqosun、? - ?)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた高官の一人。皇太子チンキムの腹心の部下で、チンキムが実質的に朝廷を掌握した時期に中書右丞相(中書省の実質的な長)の地位にあったことで知られる。
『元史』などの漢文史料での表記は和礼霍孫や火魯火孫など。
生涯
前半生
コルコスンの生涯を記した列伝・墓誌銘は存在せず、その出自についてはほとんど不明である[1]。出身部族/氏族も不明で、広い意味での「モンゴル人(蒙古人)」であったことくらいしか分からない[1]。
1260年代前半にクビライが帝位継承戦争に勝利すると、「至元」と改元された1264年より新たな国家体制の整備が進められるようになった。その一環として、1268年(至元5年)には中書省からの要請で起居注が設置され、コルコスンと独胡剌が翰林侍制・兼起居注官とされた[2]。1273年(至元10年)には会同館を兼領するようになり[3]、1278年(至元15年)には翰林学士承旨に抜擢されてクビライより「宰相・将帥を任用する際、儒臣・老臣と協議せよ」と諭されている[4]。このようにして、コルコスンは漢人・儒学者官僚の集う官署を束ねる立場となった[5]。
一方で、コルコスンはただ官僚を束ねる立場にあっただけでなく、「方技」と称される異能の士を統括する役も担っていた[6]。1275年(至元12年)5月にはクビライにより「方技」の田忠良とコルコスンに山陵に居座る叛兵の偵察を行う事が命じられ、両名が山陵に接近すると叛兵に包囲されてしまった[6]。包囲は三日に及んだが、田忠良は夜陰に乗じて敵に気づかれることなく撤退し、コルコスンより「神」と称されたとの逸話がある[7][6]。さらに1280年(至元17年)2月には「秘術」を有し鬼を使役するとされる高和尚とともに北辺に赴いたとの記録もある[8][5]。
また、同1280年(至元17年)11月には倶藍(クイロン)・馬八(マアバル)・闍婆(ジャワ)・交趾(ヴェトナム)からの使者への対応にも携わっている[9][10]。
司徒府の設立
1281年(至元18年)10月20日の上奏によって秘書監・太史院・司天台を合併し、更に会同館・集賢院を領する翰林国史院を統合し、新たに司徒府という官署が設けることが同月11月25日に決定された[11]。この司徒府の長官となったがコルコスンで[12]、司徒府設置の主目的は「冗官の削減」にあったとされる。司徒府は史料によっては「丞相府」とも称されるなど既存の中書省・尚書省に匹敵する官署と位置づけられていたが、その背景にはアフマド一派が統括する尚書省への対抗という意図があったのではないかと考えられている[1]。更に、司徒府設立のちょうど翌日に皇太子チンキムが朝廷に帰還しており、後のアフマド暗殺事件の経緯からみても、司徒府設立はチンキムの主導によるものであったと指摘されている[13]。
また司徒府設立の上奏の同日には揚州・隆興・鄂州・泉州の4省に蒙古提挙学校官各2員を置くことも定められている[14]。その他、この頃問題となっていた全真教の放火・道蔵経偽造の審問を行ったとの記録もある[15][16]。
アフマド暗殺事件
1282年(至元19年)3月17日、皇太子チンキムがクビライとともに北方に巡幸すると、大都に残留した丞相のアフマド・ファナーカティー暗殺が王著・高和尚らによって行われた。これを知ったクビライは激怒し、枢密副使のボラト、司徒のコルコスン、参政のアリーらを大都に派遣し、同月22日にコルコスンらによって王著・高和尚・張易らは事件の首謀者として処刑された[17][18]。なお、ペルシア語史料の『集史』では暗殺事件の処理を行ったのはジャライル部のアントンとするが、この頃アントンは捕虜であったため、コルコスンの事跡をアントンの名で記録したものと考えられている[19]。
コルコスンらが大都に入ってから10日後、コルコスンは中書省部・御史台・枢密院・翰林院等の高官を招集し、アフマドの財産処理策が協議された[20]。さらにその6日後、コルコスンは中書右丞相(中書省の長官)の地位に就き[21]、最初の事業としてモンゴル文字(蒙古畏吾児)で記された『通鑑』を刊行した[22][20]。これによってコルコスンは朝廷を代表する宰相の地位に至ったが、背景には長年の宿敵であったアフマドを排除した皇太子チンキムの後ろ盾があり、チンキムは右丞相に就任するコルコスンに「汝が中書省に就任したからには、誠に国のため民を利するためならば、制度の拡張を恐れるな。もし(これに反対して)妨害・阻撓を行う者がおれば、私が支え守ろう」と語ったという[23][24][20]。
一方、コルコスンが中書右丞相の地位に就いたことで「尚書省への対抗」という司徒府の存在意義がなくなり、逆に「濫官(無用の官)」の増加が問題となった。そこで6月25日、コルコスン自らが司徒府及び農政院の廃止を進言し[25]、これによって司徒府は廃止となって翰林院等の官署が復活した[26][27][28]。なお、同6月中には接収されたアフマドの邸宅がコルコスンに与えられ[29]、8月には真定以南の旱魃対策で食料庫を開き救済を行っている[30]。
晩年
1283年(至元20年)頃がコルコスン=チンキム政権の絶頂期で、この年正月には中山府の奸民薛宝の処刑が行われた[31]。1284年(至元21年)正月には大明殿での行事を右丞相のコルコスンが主導して玉冊玉宝をクビライに奉った[32]。
しかし、チンキムに政事の実権を握られた形となっていたクビライは巻き返しを図り、盧世栄を事実上のアフマドの後任として新たに起用した。この年10月にはコルコスンらは科挙の復活を検討していたが[33]、11月に突如としてコルコスンら中書省の高官は一斉に職を辞し、ちょうど同年初頭に捕虜の身から開放されていたアントンが中書右丞相に返り咲いた[34][19][35]。『元典章』には当時龍興路で起こっていた旧南宋領での軍器所持の問題と絡めて、同年10月6日よりコルコスンが江南にされたことが記されている[36][37]。
コルコスンの最期については記録がなく、定かではない。
失脚後
コルコスンの失脚後、朝廷ではクビライが実権を取り戻していき、かつてコルコスン政権下で廃止された泉府司が1285年(至元22年)に復活されるなど、アフマド存命の時代への回帰が図られた[38][39]。このような動向への失意からか、チンキムも同1285年中に死去している。
近年、チンキムが実権を有していた期間の記録が意図的に削除されていることが指摘されており[35]、コルコスンの列伝が存在しないことや、『集史』においてコルコスンの事跡がアントンの事跡に置き換えられていることもチンキムの腹心の部下であったことが関係しているものと考えられている[40][1]。
一方で、『国朝文類』巻11にはコルコスンの業績を讃えた「丞相和理霍孫贈謚制」が所収されており、「至元之大政」を刷新したこと、死後は保德恊謀佐理功臣・太師・開府儀同三司の地位を追贈され、齊魯国公に追封され、文忠と諡されたことが記される[41]。これに関連して『元史』巻174には「もとの宰相アントン・バヤン・コルコスン・廉希憲らに諡を贈った」との記述があり、実際にアントンとバヤンは1303年(大徳7年)~1304年(大徳8年)に諡されているため、「丞相和理霍孫贈謚制」が作成されたのもこのころとみられる[1]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 5 櫻井 2000, p. 116.
- ↑ 『元史』巻6世祖本紀3,「[至元五年冬十月]乙未、享于太廟。中書省臣言『前代朝廷必有起居注、故善政嘉謨不致遺失』。即以和礼霍孫・独胡剌充翰林待制兼起居注」
- ↑ 『元史』巻8世祖本紀5,「[至元十年九月]壬寅、勅会同館専居降附之入覲者。以翰林学士承旨和礼霍孫兼会同館事、以主朝廷咨訪、及降臣奏請」
- ↑ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十五年]五月癸未朔、詔諭翰林学士和礼霍孫、今後進用宰執及主兵重臣、其与儒臣老者同議」
- 1 2 櫻井 2000, p. 111.
- 1 2 3 櫻井 2000, p. 112.
- ↑ 『元史』巻203列伝90方技田忠良伝,「田忠良字正卿、其先平陽趙城人……[至元十二年]五月、車駕清暑上都、遣使来召曰『叛者浸入山陵、久而不去、汝与和礼霍孫率衆往視之』。既至、山陵如故、俄而叛兵大至、囲之三匝、三日不解。忠良引衆夜帰、敵殊不覚、和礼霍孫以為神、白其事于帝、賜黄金十両」
- ↑ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年]二月乙亥、張易言『高和尚有秘術、能役鬼為兵、遥制敵人』。命和礼霍孫将兵与高和尚同赴北辺」
- ↑ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年]十一月己亥朔、翰林学士承旨和礼霍孫等言『倶藍・馬八・闍婆・交趾等国倶遣使進表、乞答詔』。従之、仍賜交趾使人職名及弓矢鞍勒。降詔招諭爪哇国。……庚戌、命和礼霍孫柬汰交趾国使、除可留者、余皆放還」
- ↑ 宮 2018, p. 789.
- ↑ 櫻井 2000, pp. 104–107.
- ↑ 『元史』巻178列伝65王約伝,「王約字彦博、其先汴人……至元十三年、翰林学士王磐薦為従事、丞旨火魯火孫以司徒開府、奏授従仕郎・翰林国史院編修官、兼司徒府掾」
- ↑ 櫻井 2000, p. 114.
- ↑ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年冬十月]壬子、用和礼霍孫言、於揚州・隆興・鄂州・泉州四省、置蒙古提挙学校官各二員。以翰林学士承旨撒里蛮兼領会同館・集賢院事、以平章政事・枢密副使張易兼領秘書監・太史院・司天台事、以翰林学士承旨和礼霍孫守司徒」
- ↑ 『至元弁偽録』巻5,「[至元十八年]……自道德経外、宜悉焚去。臣等同辞以聞。上曰『道家経文、伝訛踵謬非一日矣。若遽焚之其徒未必心服。彼言水火不能焚溺。可姑以是端試之。俟其不験焚之、未晩也』。遂命枢密副使孛羅守司徒和礼霍孫等、諭張宗演祁志誠李徳和杜福春等。俾各推択一人佩符入火自試其術。四人者奏言……」
- ↑ 宮 2018, p. 409.
- ↑ 『元史』巻223列伝120阿合馬伝,「中丞也先帖木児馳奏世祖、時方駐蹕察罕脳児、聞之震怒、即日至上都。命枢密副使孛羅・司徒和礼霍孫・参政阿里等馳駅至大都、討為乱者。壬午、誅王著・高和尚于市、皆醢之、并殺張易」
- ↑ 櫻井 2000, pp. 112–113.
- 1 2 櫻井 2000, p. 115.
- 1 2 3 櫻井 2000, p. 113.
- ↑ 宮 2018, p. 486.
- ↑ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年]夏四月辛卯、勅和礼霍孫集中書省部・御史台・枢密院・翰林院等官、議阿合馬所管財賦、先行封籍府庫。丁酉、以和礼霍孫為中書右丞相、降右丞相瓮吉剌帯為留守、仍同僉枢密院事……己酉、刊行蒙古畏吾児字所書通鑑。以和礼霍孫為右丞相詔天下」
- ↑ 『元史』巻115列伝2裕宗伝,「十八年正月……盗知阿合馬所畏憚者、独太子爾。因偽為太子夜入京城、召而殺之。及和礼霍孫入相、太子曰『阿合馬死於盗手、汝任中書、誠有便国利民者、毋憚更張。苟或沮撓、我当力持之』」
- ↑ 片山 1983, p. 44.
- ↑ 櫻井 2000, pp. 107–108.
- ↑ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年]五月……癸未、給大都抜都児正軍夏衣。和礼霍孫言、省部濫官七百十四員、其無過者五百八十一員姑存之。……[六月己酉]以阿合馬居第賜和礼霍孫。壬子、申勅中外百官立限決事。癸丑、従和礼霍孫言、罷司徒府及農政院」
- ↑ 櫻井 2000, p. 109.
- ↑ 宮 2018, p. 343.
- ↑ 櫻井 2000, p. 117.
- ↑ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年]八月……辛亥、併淄莱路田・索二鎮、仍於駅台立新城県治。大駕駐蹕龍虎台。江南水、民飢者衆。真定以南旱、民多流移。和礼霍孫請所在官司発廩以賑、従之」
- ↑ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年春正月]乙丑、高麗国王王賰遣使兀剌帯貢㲲布線紬等物四百段。和礼霍孫言『去冬中山府奸民薛宝住為匿名書来上、妄効東方朔書、欺罔朝廷、希覬官賞』。勅誅之。又言『自今応訴事者、必須実書其事、赴省・台陳告。其敢以匿名書告事、重者処死、軽者流遠方。能発其事者、給犯人妻子、仍以鈔賞之。又阿合馬専政時、衙門太冗、虚費俸禄、宜依劉秉忠・許衡所定、併省為便』。皆従之」
- ↑ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元]二十一年春正月乙卯、帝御大明殿、右丞相和礼霍孫率百官奉玉冊玉宝、上尊号曰憲天述道仁文義武大光孝皇帝、諸王百官朝賀如朔旦儀、赦天下」
- ↑ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年冬十月]丁卯、和礼霍孫請設科挙、詔中書省議、会和礼霍孫罷、事遂寝」
- ↑ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年十一月]辛丑、和礼霍孫・麦朮丁・張雄飛・温迪罕皆罷。前右丞相安童復為右丞相、前江西榷茶運使盧世栄為右丞、前御史中丞史枢為左丞、不魯迷失海牙・撒的迷失並参知政事、前戸部尚書拝降参議中書省事。勅中書省整治鈔法、定金銀価、禁私自回易、官吏奉行不虔者罪之」
- 1 2 宮 2018, p. 488.
- ↑ 『元典章』巻35兵部2,「至元二十一年十一月拠龍興路所申……十月初六日欽奉聖旨、楊㧾攝奏、将来有南人毎執把着軍器、行有奉聖旨問火魯火孫丞相您在前禁約着来麻俺……」
- ↑ 宮 2018, p. 756.
- ↑ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十二年八月]己未、詔復立泉府司、秩従二品、以答失蛮領之。初、和礼霍孫以泉府司商販者、所至官給飲食、遣兵防衛、民実厭苦不便、奏罷之。至是、答失蛮復奏立之」
- ↑ 宮 2018, p. 722/789.
- ↑ 片山 1983, p. 45.
- ↑ 『国朝文類』巻11丞相和理霍孫贈謚制,「閻復、北方間氣、寔生命世之材。黄閣清風、蓋出登瀛之選。英霊之巳徃、当䘏典之崇頒。故光禄大夫中書右丞相和理霍孫、𣲖接元勲、慶鍾全德。早躡鰲峯之首、誕披雲漢之章。開闢賢関為司徒、而敷五教更張化。瑟位家宰以統百官。恢掦累丗之洪休、新美至元之大政。掄才如崔祐甫之広、潔已有張忠定之剛。著績熈朝、旣闡文眀之治。䟽封列国、宜居礼義之郷。可贈保德恊謀佐理功臣・太師・開府儀同三司、追封齊魯国公、謚文忠」