ボラト
ボラト(Болад、? - 1313年4月15日)は、モンゴル帝国及びその後継国家(大元ウルス、フレグ・ウルス)に仕えたモンゴル人。日本語書籍での表記はボラド、ボロトとも。
前半生では大元ウルスのクビライに仕えていたが、後にフレグ・ウルスに移住してアルグンからオルジェイトゥに至る歴代君主に仕えた。フレグ・ウルスにおいては大元ウルス・東アジア情勢について情報提供を行っており、特にペルシア語史書『集史』の編纂事業に大きく寄与したことで知られる[1]。
生涯
出自
『集史』によると、祖父のブルキ・バウルチはモンゴル部ドルベン氏の出身で、チンギス・カンの正后ボルテに仕える百人隊長であったという[2][3]。ボラト自身も早くよりクビライの親衛隊(ケシクテイ)となり、1248年(戊申)にはクビライの命を受けて張徳輝の下で学んだとの記録もある[4][5]。
1260年にクビライが即位を宣言して以後も重用され、帝位継承戦争が終結した1264年(至元元年)には、投降したアリクブケ派の審問に参加している[6]。帝位継承戦争の終結後はクビライによる新政権(=大元ウルス)の体制整備が本格的に進行し、ボラトは1269年(至元6年)正月より劉秉忠・許衡・徐世隆らとともに朝儀の制定に携わっている[7][8][5]。
大司農時代
ボラトは1270年(至元7年)には御史中丞に任命されたが、同年中に張文謙とともに司農司の設置をクビライに建言した[6][5]。これを受けて新設された司農司は同年12月1日に名称を大司農司と改められ、その長官たる大司農にはボラトが任命された[6][5][注釈 1]。当時中書省の長(右丞相)であったアントンはボラトが御史中丞と大司農を兼任することに難色を示したが、組織を跨った兼務にはブルト・カヤの前例があるとして退けられた[5]。具体的な記録はないものの、1272年(至元9年)から始まる先農・先蚕の祭祀にも大司農たるボラトが携わっていたとみられる[注釈 2]。また、1271年(至元8年)8月には至元6年より2年半の準備期間を経て、「大元」の国号の制定とあわせてボラトらが制定に携わっていた朝儀が完備されるに至った[11]。
1272年(至元9年)冬には後に『農桑輯要』と呼ばれる農業書の編纂が提言され、認められている[12]。これはまさに大司農司の試行期間が終わろうとする時期のことであり、年が明けて大司農司の継続は1273年(至元10年)3月に正式に認められたため、同年8月の『農桑輯要』の出版はその紀年出版物としての側面もあった[12][注釈 3]。また至元9年末には秘書監の設立、安西王アナンダの分封、皇太子(チンキム)冊立などが立て続けに行われており、大司農司の継続決定もクビライ即位後の新体制整備の総仕上げの一環であった[12]。また『事林広記』には1273年(至元10年)2月にボロトが上奏を行ったとの記録があるが、この記事は版本によっては収録されていない[14]。
1275年(至元12年)、ボラトは御史大夫に昇格となり、副官の張文献も司農卿兼御史中丞に昇進した[15]。さらにこれにあわせ、従来の巡行勧農司の職務が提刑按察司に移行し、按察司は勧農政策も兼ねることとなった[15][16]。ところが、同年9月には建国の功臣たる「四駿」ボオルチュの子孫のウズ・テムルが御史大夫に抜擢され、更に1276年(至元13年)12月には提刑按察司が廃止されるに至った[15]。張文献の反対によって1277年(至元14年)正月には一時按察司が復活するも、張文献自身が昭文館大学士に転任となり、さらにボラトも御史大夫の地位を失って枢密副使・兼宣徽使・領侍儀司に転任となる[17][15]。大司農司の組織そのものは存続し、ボラトも大司農の肩書を失ったわけではないが、御史台との連携を失った大司農司は「抜け殻同然」と評される状態にあった[15]。そして同年8月には大司農司が司農司に格下げとなり、『元史』百官志は司農司がこの年に廃止になったと伝える[15]。ボラトの枢密副使時代の事績としては、1281年(至元18年)7月2日に「若い馬を屠殺すること」に関して呈文を出した記録が『元典章』に所収されている[18]。
『銭唐遺事』巻9厳光大「祈請使行程記」によると、ボラト率いる枢密院が旧南宋朝廷の護送を行い、1276年(至元13年)4月6日にはその返礼として趙良弼は表敬訪問を受けている[19]。
チンキム政権期
1281年(至元18年)10月20日、「農政院」という組織が新たに設置され、更に同日に中書省と同格の「司徒府」が新設されコルコスンがその長となった[20]。「農政院」については断片的な記述しかないが、前後の経緯から見てボラトが長であったのではないかと推測されている[20]。司徒府や農政院の設立にはこの頃皇太子チンキムが国政への関与を強めていたことが背景にあると考えられており、『集史』はノムガンが帰還した至元18年頃から3年間、チンキムが「君主(pādshāh)」の地位にあったと伝えている[21]。
更に1282年(至元19年)3月にはチンキムの最大の政敵であったアフマド・ファナーカティーの暗殺事件が起こったが、諸史料は暗殺事件の後処理を行ったのがコルコスンとボラトであったと明記する。同年6月25日にはコルコスンからの提言によって司徒府と農政院は廃止されるが、このころのボラトの動向は定かではない[20]。宮紀子はチンキムが政権を掌握したこの時期の記録は後の朝廷内でタブー視されており、意図的に記録が抹消されていることを指摘している[22]。
1283年(至元20年)はチンキム政権の全盛期であったが、実権を取り返そうとするクビライとの対立が水面下で進行していた。この年4月、ボラトとイーサー・ケレメチの二人は突如としてイランのフレグ・ウルスに派遣されることとなった[20]。イラン覇権の理由については全く記録がないものの、モンゴルには政争に破れた功臣を「外交使節」として追放・助命する慣習があり、宮紀子はボラトがチンキム派の中心人物であることからクビライより排除されたものと推定する[23]。
なお、1283年(至元20年)正月には農政院に代わる務農司という組織(従三品)が新設されさらに同年11月に司農寺と改められた上でテケが赴任している[24]。平行して1284年(至元21年)11月にはコルコスン以下の大臣が辞任し、アントンを中心とする新体制が発足した。同時期に皇太子チンキムも死去しており、チンキムが国政を掌握する体制から新体制に移行する中で、テケは1285年(至元22年)に司農寺をかつての大司農司と改めており、事実上のボラトの後任となった[22]。
イランへの到着後
フレグ・ウルスに移住したボラトはアルグンからオルジェイトゥに至る6人もの君主に仕えることとなるが、王一丹はその期間を①アルグンからバイドゥまでの治世、②ガザンの治世、③オルジェイトゥの治世の三期間に分類している[25]。ボラトとイーサーがイランに至った時の事は『集史』にも記載があり、「アルグン・カンがアッラーンの勝利の庁(Sarāy-i Mansūriya)に到った時、ボロト丞相、イーサー・ケレメチ、その他の使臣たちがカアンの御許より到着した……」と記されている[26][25]。イーサーはこの後大元ウルスに帰還するが、ボラトは終生東方に帰還することなく、イランの地で一生を終えることとなる。なお、ボラトと入れ替わるようにケレイという人物がイランから大元ウルスに派遣され、ボラトとは逆に西方に帰還することなく東方で一生を終えている[27]。
フレグ・ウルスに仕えるようになったボラトは、まず地方行政に携わるようになる[25]。まずMajmaʻ al-Ansābによると、アルグンはボラトをカラヒタイ朝の間接支配下にあったケルマーン地方に派遣し、ボラトの仲介によってカラヒタイ朝の第3代当主クトゥブッディーン・ムハンマドの娘パーディシャー・ハトゥンとアルグンの息子ガイハトゥ、パーディシャー・ハトゥンの弟のジャラールッディーン・ソユルガトミシュとモンケ・テムルの娘のクルドゥジン・ハトゥン、それぞれの婚姻が成立したという[28]。また『ムイーン史選』には、ロレスターンのハザーラスプ朝のユースフ・シャーが息子のアフラースィヤーブをアルグンの下に派遣した際、ボラト丞相はアフラースィヤーブの資質を賞賛し、そのためにユースフ・シャーの没後にアフラースィヤーブは引き続きロレスターンの支配者(ハーキム)に任命されたという[29]。このようにアルグンは早くからボラトを高官として信任しており、晩年にはMalik Jalār al-dīn Simnānīの処刑をボラトに命じたとの記述が『集史』に見える[29]。
アルグンの没後、ガイハトゥ(キハト)が即位するとサドルッディーン・ザンジャーニーが重用されるようになり、サドルッディーン・ザンジャーニーは財政再建策の一環として大元ウルスで流通していた紙幣(交鈔)の導入を検討した[30]。この時、ボラト丞相が大元ウルスにおける紙幣(交鈔)発行体制にかかる情報を提供したと伝えられ、ヒジュラ暦693年10月19日(1294年9月12日)よりまずタブリーズにて紙幣が発行されるに至った[1]。また、ガイハトゥがボラトに大元ウルスでの金銀細工について尋ねたとの逸話もある[31]。
ガザンの治世
ガザンの治世で特筆されることは、ラシードゥッディーンによる『集史』の編纂で、ボラト丞相は主に大元ウルス(=東アジア)方面の情報提供者としてこれに携わった[32]。『集史』冒頭の編纂過程を記した箇所には、編纂のための調査対象者として、特に「イーラーンとトゥーラーンの将軍たるイェケ・ノヤン、世界諸国の管理者ボラト丞相」の名を挙げている[33]。 [34]。軍事面においても、『集史』や『五族譜』の記述によると、ボラトはガザンに直属する1万の親衛隊(ケシクテイ)を率いる親衛万人隊長に任命され、特にその中核たる1千のケブテウル(kebte'ür)を指揮していたという[32]。
またガザンの治世中には再びケルマーン地方で内乱が起こり、ガザンはクトブッディーンの孫であるムハンマド・シャーがキルマーンを統治させていたが、クトブッディーンの外孫であり、有力者アミール・ノウルーズの婿でもあったスユク・シャーがこれに服さず、ムハンマド・シャーと権力を争ったため、ケルマーンの政局は再び混乱に陥った[35]。そこでガザンはクトルグシャー、サティルミシュ、ボラト丞相ら5人を「大ジャルグ(yārghū-yi buzurg)」に任命し、紛争の解決を命じた[36]。『五族譜』でボラトは「ジャルグのアミール(amīr-i yārghū)」と称されているのは、まさにこのような経歴が背景にあったものと考えられている[36]。
オルジェイトの治世
ガザン・ハン没後に地位を継承したオルジェイトにも引き続きボラトは重用され、『ワッサーフ史』によるとオルジェイトの即位式でクトルグシャー、チョバンらとともに即位式では側近くに仕えていたとされる[37]。即位直後のオルジェイトにとってクトルグシャー(序列1位)、チョバン(序列2位)、ボラト(序列3位)が重臣中の重臣であったことは周知の事実であり、『オルジェイトゥ史』では「オルジェイトゥのアミール一覧」の中で「第三位。偉大なるアミール、カラヒタイ(qawm=部族の語がないため、生まれでなく出身地を指す)出身のボラト丞相」の名が挙げられている[38][37]。
ヒジュラ歴704年8月21日(1305年3月19日)、オルジェイトゥとイリンチンの娘クトルグシャーの婚姻が行われた際には、ボラトがオルジェイトゥ側の代理人(wakir)を務めたという[39][37]。更に1306年のギーラーン出兵でクトルグシャーが死去すると、繰り上がりによってボラトがオルジェイトの臣下の序列第二位となった[37]。
ヒジュラ歴712年6月(1312年10月)にオルジェイトゥはシリア遠征を開始したが、この時北方の抑えとしてジョチ・ウルスとの国境である「アッラーンとクラ川の河岸の守護」にボラトを任命した[40][41]。しかし『オルジェイトゥ史』によると、ヒジュラ歴712年12月17日(1313年4月15日)にボラトはアッラーンの冬営地のユルトで死去したという[42][43]。
なお、『オルジェイトゥ史』にはボラト没後のヒジュラ歴713年9月15日(1314年1月3日)にボラトの息子のピール・ハーミドがヤサウルの娘のシャー・マリクを娶ったとの記載がある[44][41]。
脚注
注釈
- ↑ オゴデイの時代からモンゴル人子弟の教育に携わり、後にクビライの顧問として迎え入れられた姚枢は『種蒔直説』『士農必要』というった農業書の編纂も行っており、これらの著作は『農桑輯要』編纂にも利用されている。この点に基づき、宮紀子はボラトが名目上のトップでありつつも、具体的な大司農司の諸政策の実現にも寄与していたのは姚枢ではないかとする説を提唱している[9]。
- ↑ 傍証として、至元10年には孔子を祀る服色について意見書を出したとの記録がある(『儒学典礼』巻1)[10]。
- ↑ なお、『元史』巻14世祖本紀では至元23年に『農桑輯要』頒行の記載があるため、古くは至元10年は初稿完成の年であって正式な出版年は至元23年とする説があった。しかし宮紀子は王磐の記述などにより、至元10年には既に秘書監の興文書において版木に刻され、提刑按察司等の官庁に派遣されていることを指摘している[13]。
出典
- 1 2 宮 2018, p. 17.
- ↑ 志茂 2013, p. 902.
- ↑ 宮 2018, pp. 790–791.
- ↑ 『元史』巻163列伝50張徳輝伝,「是年夏、徳輝得告、将還、更薦白文挙・鄭顕之・趙元徳・李進之・高鳴・李槃・李濤数人。陛辞、又陳先務七事、敦孝友・択人才・察下情・貴兼聴・親君子・信賞罰・節財用。世祖以字呼之、賜坐、錫賚優渥。有頃、奉旨教冑子孛羅等」
- 1 2 3 4 5 宮 2018, p. 332.
- 1 2 3 王 2015, p. 70.
- ↑ 『元史』巻67志18礼楽1制朝儀始末,「世祖至元八年秋八月己未、初起朝儀。先是、至元六年春正月甲寅、太保劉秉忠・大司農孛羅奉旨、命趙秉温・史杠訪前代知礼儀者肄習朝儀。……秉忠及翰林太常奏曰:『今朝儀既定、請備執礼員』。有旨、命丞相安童・大司農孛羅択蒙古宿衛士可習容止者二百餘人、肄之期月」
- ↑ 『元史』巻7世祖本紀4「[至元七年二月]丙子、帝御行宮、観劉秉忠・孛羅・許衡及太常卿徐世隆所起朝儀、大悦、挙酒賜之」
- ↑ 宮 2018, p. 339.
- ↑ 宮 2018, p. 333.
- ↑ 宮 2018, p. 95.
- 1 2 3 宮 2018, p. 335.
- ↑ 宮 2018, p. 341.
- ↑ 宮 2018, p. 88.
- 1 2 3 4 5 6 宮 2018, p. 342.
- ↑ 『元史』巻8世祖本紀5「[至元十二年夏四月]丁卯、以大司農・御史中丞孛羅為御史大夫。罷隨路巡行勧農官、以其事入提刑按察司。括諸寺闌遺人口」
- ↑ 『元史』巻9世祖本紀6「[至元十四年二月]丁亥……以大司農・御史大夫・宣徽使兼領侍儀司事孛羅為枢密副使、兼宣徽使、領侍儀司事」
- ↑ 高橋ほか 2017, pp. 56–59.
- ↑ 宮 2018, p. 671.
- 1 2 3 4 宮 2018, p. 343.
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- 1 2 3 王 2015, p. 71.
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- 1 2 3 4 王 2015, p. 77.
- ↑ 大塚ほか 2022, pp. 49–50.
- ↑ 大塚ほか 2022, p. 109.
- ↑ 大塚ほか 2022, p. 272.
- 1 2 王 2015, p. 78.
- ↑ 大塚ほか 2022, p. 279.
- ↑ 王 2015, pp. 78–79.
- ↑ 大塚ほか 2022, p. 289.
参考資料
- {{Cite book|和書|author=[[大塚修]ほか|title=カーシャーニー オルジェイトゥ史──イランのモンゴル政権イル・ハン国の宮廷年代記|publisher=名古屋大学出版会|date=2022-09-30|isbn=978-4815810993|ref=CITEREF大塚ほか2022}}
- 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年7月4日。ISBN 978-4130210775。
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