ビリー・ネルソン
| ビリー・ネルソン | |
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『フリー・ユア・マインド...』中ジャケットイラストの元となった写真(裏焼き)。1972年ビルボード誌より。 上段向かって左からバーニー・ウォーレル、タル・ロス、ティキ・フルウッド。下段左ビリー・ベース、エディ・ヘイゼル。 | |
| 基本情報 | |
| 出生名 | ウイリアム・ネルソン・ジュニア |
| 別名 | ビリー・ベース |
| 生誕 |
1951年1月28日 |
| 死没 | 2026年1月31日(75歳没) |
| ジャンル |
ファンク ソウル サイケデリック・ロック サイケデリック・ソウル |
| 担当楽器 |
ベース・ギター ギター |
| 活動期間 | 1967年 - 2026年 |
| レーベル | |
| 共同作業者 |
ファンカデリック パーラメント |
ビリー・ネルソン(Billy "Bass" Nelson、本名ウィリアム・ネルソン・ジュニア(William Nelson, Jr.)、1951年1月28日 - 2026年1月31日)はアメリカ合衆国のミュージシャンでベーシスト、ギタリスト。ニュージャージー州プレインフィールド生まれ。ファンカデリック(P-ファンク)のオリジナルベーシスト。「ファンカデリック」の命名者でもある[1]。
来歴
ビリーは、ステュワート・ブラザーズというゴスペルグループのギタリストの父の子として生まれた。彼はスクールバンドでトランペットを吹いていたが、父はビリーにギターを買い与え、ギターを弾くようになった。
1958年5月30日、7歳のビリーはジョージ・クリントンと出会い、彼の床屋で床掃除をしたり、床屋の客のために歌を歌ったり踊ったりする仕事をするようになった。また10歳の時、近所に住む1歳年上のエディ・ヘイゼルに出会い、彼にギターを教えてもらったり、セッションをするようになった[2]。
ジョージはザ・パーラメンツという名のドゥーワップグループを率いていたが、1966年頃よりこのグループのバックバンドでギタリストとして演奏するようになった。1967年、レヴィロット[3]から出した「(アイ・ウォナ)テスティファイ "(I Wanna) Testify"」がヒットするとザ・パーラメンツにはライブ出演の依頼が殺到し、ツアー向けのバックバンド結成が急がれた。一連のショーで共演ギタリストの演奏を目の前にしたビリーは、エディをグループに誘い自身はベースを手にした[4]、ジェームス・ジェマーソンを師として[5]。
1967年の終わり頃には、このバックバンドはビリーがベース、エディがギター、そしてフィラデルフィアでのツアーで出会ったティキ・フルウッドのドラムを中核として構成された。そして1969年の夏から秋にかけて、タル・ロスがサイド・ギター、バーニー・ウォーレルがキーボードとして参加/加入し[6]、いわゆる「オリジナル・ファンカデリック」が完成した[7][8]。
当初、ビリー、エディ、ティキらによるバックバンドには名前がなかったが、ビリーはそのスタイル(ファンク)を反映し、当時盛り上がりを見せていたサイケデリックな音楽シーンとのつながりを示すために、ファンカデリックという名前を考案した[9]。そして、ジョージはこのバンドをファンカデリックと名付けた[注 1]。
一方で、1968年レヴィロットとの契約上の問題からジョージは「ザ・パーラメンツ」の名を使用できなくなり、同年、バックバンドのファンカデリックを前面に出してウェストバウンドと契約し[10]、1970年ファンカデリックとしての1stアルバム『ファンカデリック(旧題: ファースト・アルバム)』を発表。同年、訴訟終了後のザ・パーラメンツを「パーラメント」へと改称し[注 2]、その1stアルバム『オズミウム』をインヴィクタス[注 3]から発表した。さらにファンカデリック2ndアルバム『フリー・ユア・マインド...』も同年発表され、続く1971年発表の3rdアルバム『マゴット・ブレイン』を含め、これらにビリーは参加している[2]。しかし、同年10月[11]、ジョージとの金銭トラブルからバンドを脱退した[6]。
その後、彼はコモドアーズやボニー・ポインター、フィッシュボーン等と、また、ジョニー・テイラー、ジャーメイン・ジャクソン、ライオネル・リッチー、スモーキー・ロビンソン、レニー・ウイリアムス[注 4]等とも共演しレコーディングを行った[要出典][注 5]。特にテンプテーションズとは、エディとのタッグで制作した1975年の「シェイキー・グラウンド」[12][注 6]が、ビルボード・ソウル・シングル・チャート同年No.1ヒットとなった[2]。
P-ファンクに関しても、ファンカデリックの1975年のアルバム、『レッツ・テイク・イット・トゥー・ザ・ステージ』収録の「ベター・バイ・ザ・パウンド」でベースを弾き、エディの1stソロアルバム『ゲーム・デームス・アンド・ギター・サングス』、パーレットの1stアルバム『プレジャー・プリンシプル』にも参加する等、単発的には関わっていた。
1992年12月23日、盟友のエディが亡くなる。
翌1993年、O.G.ファンク名義で初のソロアルバム『アウト・オブ・ザ・ダーク -エディ・ヘイゼルに捧ぐ』を発表した[注 7]。
1994年以降、彼はパーラメント-ファンカデリックのさまざまなツアー・ラインナップで活動した[注 8]。
同年11月、P-ファンク日本公演の際に同行した彼は、河地に話している[13]。
| この7年くらい、またPファンクに戻りたいと考えていたんだ[注 9]。・・・なんとか折り合いをつけてやっていけるんじゃないかと思ったのさ。・・・やっぱり音楽をやりたいんだ。・・・エディの分も、俺はやるよ。戻ってきたからには、追い出そうたって、今度はそう簡単にはいかないぜ。 |
また、P-ファンクの影響下にある420ファンク・モブ[14]やサンズ・オブ・ファンクともツアーを行った。
1997年、パーラメント-ファンカデリックのメンバーとして、ロックの殿堂入りを果たした。
2026年、誕生日の3日後の1月31日、75歳で死去。[15]
レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーは追悼の意を表している。
「彼のベースプレイは、最もハードで、最もダーティで、最もファンキーだ。誰にも真似できない、紛れもないもの。一音一音が、樫のように力強く、猛ったオスの象のようでもあり、爆弾そのものだ。・・・」[16]。
ディスコグラフィー
リーダー・アルバム
O.G.ファンク
- アウト・オブ・ザ・ダーク -エディ・ヘイゼルに捧ぐ Out Of the Dark (ポリスター、1993)
- ビリーのソロアルバム。バーニーやジェローム・ブレイリーも参加している。
代表的参加アルバム、曲等
この節の加筆が望まれています。 |
P-ファンク関係
エディ・ヘイゼル
- ゲーム・デームス・アンド・ギター・サングス Game, Dames & Guitar Thangs (Warner Brothers, 1977)
- 「ラヴ・イズ・サムシング Love Is Something」(1977)
- ブライズ・オブ・ファンケンシュタイン名義で、ジョージ・クリントン・アンド・ザ・Pファンク・オール・スターズ / P・イズ・ザ・ファンク P Is The Funk (Pヴァイン、PLP-6552/3、1993)で発表。上記『ゲーム・デームス・・・』時に作成。
- パープル・ヘイゼル Rest In P (P-Vine, 1994)
- エディの死後発表された未発表曲集
ローズ・ウイリアムス、ジョージ・クリントン・アンド・ザ・ファン"ケ"デリックス[17]
- 「Whatever Makes My Baby Feel Good」 (FUNKEDELIC RECORDS、1968)
- プロモシングル盤。後のファンカデリックでバッキング[注 10]。
ファンカデリック
- ファースト・アルバム Funkadelic (Westbound, 1970)
- フリー・ユア・マインド Free Your Mind...And Your Ass Will Follow (Westbound, 1970)
- マゴット・ブレイン Maggot Brain (Westbound, 1971)
- レッツ・テイク・イット・トゥー・ザ・ステージ Let's Take It to the Stage (Westbound, 1975)
- 「Better By the Pound」に参加。
- 45回転のファンカデリック Music For Your Mother: Funkadelic 45s (Westbound, 1993)
- ライブ 1971 LIVE Meadowbrook, Rochester, Michigan, 12th September 1971 (Westbound, 1996)
- トイズ TOYS (P-VINE, 2008)
パーラメント
- Osmium+7 (invictus, 1970。ウルトラ・ヴァイヴ, 2018)
ルース・コープランド
- セルフ・ポートレイト+3 Self Portrait+3 (invictus, 1970。ウルトラ・ヴァイブ, 2013)
- アイ・アム・ホワット・アイ・アム+2 I AM WHAT I AM+2 (invictus, 1970。ウルトラ・ヴァイブ, 2018)
- 両アルバムとも、ファンカデリックメンバーが多く参加[注 11]。
パーレット
- プレジャー・プリンシプル Pleasure Principle (Casablanca, 1978)
フレッド・ウェズリー・アンド・ザ・ホーニー・ホーンズ・フィーチャーリング・メイシオ・パーカー
- Say Blow By Blow Backwards (Atlantic, 1979)
- 「Half A Man」に参加。
P-ファンク以外
ビル・ドゲット
- Honky Tonk Popcorn (KING、1969。STARDAY-KING RECORDS, 2012)
- 「Sassy B」、「Wet & Satisfied」にエディとともに参加。
ジャクソン5
- 「I'll Bet You」(Motown, 1970)にファンカデリックのメンバーと参加。
コモドアーズ
- マシン・ガン Machine Gun (Motown, 1974)
- 「I Feel Sanctified[注 12]」に参加。
チェアマン・オブ・ザ・ボード
- Skin I'm In (Invictus, 1974)
テンプテーションズ
- A Song For You (Gordy, 1975)
- 「Shakey Ground」にエディとともに参加。
- Wings Of Love (Gordy, 1976)
- 「Sweet Gypsy Jane」、「Sweetness In The Dark」、「Up The Creek (Without A Paddle)」、「China Doll」に参加[注 15]。
ボニー・ポインター
- Bonnie Pointer 2 (Motown, 1979)
- 「Free Me From My Freedom (Tie Me To A Tree, Handcuff Me)」にエディとともに参加[注 16]。
フィッシュボーン[注 17]
- サイコティック・フレンズ The Psychotic Friends Nuttwerx (Hollywood, 2000)
- 「Shakey Ground」でフリーとともにベースを弾く。
その他、フリーダ・ペイン Band Of Gold ('70)のバックも務めていた模様。
参考文献
- リッキー・ヴィンセント『ファンク -人物、歴史そしてワンネス』宇井千史訳、ブルース・インターアクションズ、1998年。ISBN 4-938339-39-0。
- 河地依子『P-FUNK』河出書房新社、2011年。ISBN 978-4-309-27246-7。
- ジョージ・クリントン、ベン・グリーンマン『ファンクはつらいよ -ジョージ・クリントン自伝』押野素子訳、丸屋久兵衛監修・解説、DU BOOKS、2016年。ISBN 978-4-907583-50-7。
関連項目
脚注
注釈
- ↑ ジョージ・クリントンの発言「俺としては、自分がこの名前を最初に考えついたと思っているが、それに異論を唱える者が二、三人いるかもしれない」(クリントン(2016)p.90)。
- ↑ ジョージはレヴィロットとの訴訟が終わっても、ミソの付いた「ザ・パーラメンツ」との呼称を使わず、「パーラメント」と改名した(クリントン(2016)p.108)。
- ↑ プロデューサージェフリー・ボーエンはルース・コープランドと最初の結婚をし(河地(2011)pp.38-41。クリントン(2016)pp.107-109)、後にボニー・ポインターとも結婚。チェアマン・オブ・ザ・ボードやテンプテーションズの下記アルバム等もプロデュースしている。
- ↑ タワー・オブ・パワーのリード・ヴォーカル。
- ↑ その他、ローズ・ストーン(スライの妹)の『ローズ(ローズ・バンクスとして)』(Motown、1976)にも参加している記録もある。
- ↑ エアロスミスが『ミュージック・フロム・アナザー・ディメンション!』(2012)、日本盤デラックス・エディションのボーナストラックでカヴァー。
- ↑ 日本盤、湯浅学によるライナーノーツには、「エディ入りO.G.ファンクは、エディがこの世を去る直前に2曲」がビル・ラズウェルにより録音されている、とあるが。
- ↑ 「1994年にP-Funkがピッツバーグに来たとき、俺はP-ファンクの面々とセッションしたんだ。ジョージは、俺が昔の曲を演奏するのをすごく気に入ってくれて、ツアーに同行してほしいと頼んできた。それで、俺は10年の間一緒にツアーしたんだ。」(2010年の'Bass Player'誌インタビュー再掲)“bassplayer | Features By Chris Jisi (Feb 6, 2026)” (英語). GuitarWorld. 2026年9月5日閲覧。。
- ↑ 「ファンカデリックのオリジナル・メンバーのビリー・ベースもLAに住んでいるんだが、あいつにプレイさせないと人殺しすらしかねない。チビだがすごく恐ろしい男で"(こわもてのハスラー風の声で)俺がこのグループを作ったんだぜ! 俺は演奏する権利があるんだ!!"って言うだろう。奴を黙らせるには一曲演らせなきゃならない(笑)」。「ミュージック・マガジン(1989年11月号)」ジョージ・クリントンインタヴュー(聞き手: 橘正雄)p.43。
- ↑ 後に、ファンカデリックの5th(1973)では"Can't Stand the Strain"と改題され、パーラメント2nd(1974)では同名のまま、全く別の曲調で再演されている。
- ↑ ルース・コープランドのバック・バンドとしてスライの前座で一緒にツアーを回っていた折に、ラリー・グラハムのスラップ奏法を見よう見まねで習得したという(河地(2011)p.71)。
- ↑ ビルボード・ソウル・シングル・チャートで1974年のNo.12。1976年にワイルド・チェリーがカバーしている(『プレイ・ザット・ファンキー・ミュージック』#B-2、Epic)。
- ↑ 1973年、先行シングルカット。
- ↑ ジェネラル・ジョンソンが紹介している。「・・・。バーナード・ウォーレル、ザ・ファンタスティック・キーボード・プレイヤー。オン・ベース、ビリー・ベース。ユー・ノー。」
- ↑ スライやファミリー・ストーンメンバーも参加。ラスティ・アレンとの弾き分けは未確認。
- ↑ ただビリーはボーエンと合わず、直前に袂を分かっていた記録もある。
- ↑ フィッシュボーン・アンド・ザ・ファミリーフッド・ネクストペリエンス名義。
- ↑ 1970年から1980年にかけて、モータウンやインヴィクタス/ホット・ワックスで、ライター/ミュージシャンとして活動。
出典
- ↑ “P-Funk star Billy Bass Nelson dies at age 75” (英語). SoulTracks (2026年2月1日). 2026年8月30日閲覧。
- 1 2 3 “Billy "Bass" Nelson | Biography & History” (英語). AllMusic. 2026年8月30日閲覧。
- ↑ “The Revilot Records Story” (英語). 2026年8月30日閲覧。
- ↑ Rob Bowman (1992) (英語). Music For Your Mother. ライナー・ノーツ。 Westbound、2WBCD-1111。
- ↑ 河地『P-FUNK』(2011)p.88
- 1 2 Rob Bowman (1996) (英語). Live: Meadowbrook, Rochester, Michigan – 12th September 1971. ライナー・ノーツ。 Westboud、WBCD-1117。
- ↑ 河地(2011)pp.28-36
- ↑ クリントン『ファンクはつらいよ』(2016)pp.71-76
- ↑ Colin Larkin, ed (1997) (英語). The Virgin Encyclopedia of Popular Music (Concise ed.). Virgin Books. pp. 497-498. ISBN 1-85227-745-9
- ↑ “Funkadelic | Biography & History” (英語). AllMusic. 2026年8月30日閲覧。
- ↑ 河地(2011)p.42
- ↑ ヴィンセント『ファンク』(1998)p.177
- ↑ 河地(2011)pp.255-256
- ↑ “420 Funk Mob” (英語). Nashville Scene (2009年12月31日). 2026年8月30日閲覧。
- ↑ “Parliament-Funkadelic Founding Bassist Billy Bass Dead at 75” (英語). Ultimate Classic Rock (2026年2月1日). 2026年2月1日閲覧。。
- ↑ “flea333” (英語). instagram. 2026年9月22日閲覧。
- ↑ 河地(2011)pp.32-33
- ↑ 鈴木啓志 (2012). Skin I'm In. ライナー・ノーツ。 ウルトラ・ヴァイヴ、CDSOL-8813。オリジナルは1974年発売。