プレニポテンシャリー

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プレニポテンシャリー
欧字表記 Plenipotentiary[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 牡[1]
毛色 栗毛[1]
生誕 1831年[1]
死没 1854年2月21日[2]
父 Emilius[1]
母 Harriet[1]
母の父 Pericles[1]
生国 イギリス[1]
生産者 Stanlake Batson[3]
馬主 Stanlake Batson[3]
競走成績
勝ち鞍 ダービーステークス(1834年)
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プレニポテンシャリー[4][5][注釈 1](Plenipotentiary、1831年[1][3] – 1854年2月21日)は、イギリスの競走馬、種牡馬である。1834年にニューマーケット競馬場でデビューし、2戦目では後の2000ギニーステークス勝ち馬となるグレンコーを破った。5月に22頭立てで行われたダービーステークスを勝った後、9月にはドンカスター競馬場のセントレジャーステークスにも挑んだが、騎手が「まるで石のように動かない」と形容するほど状態が悪く、11頭中10着と惨敗を喫した。

1835年、ニューマーケット競馬場で数戦走った後、アスコットゴールドカップへの出走が予定されていたが、前日になって回避となり、そのまま競走馬を引退した。種牡馬としてはポテンシャ、ポイズンの2頭のクラシック競走勝ち馬などを出したが、成績は期待外れであったとされる。

誕生

1831年、ケンブリッジシャーのジョッキークラブ会員であったスタンレイク・バトソンのもとで生産される[7]。

父エミリウス (Emilius) は1823年のダービーステークス勝ち馬で[8]、引退後はリドルズワースのトーマス・ソーンヒルのもとに繋養され、種牡馬として人気を博した[7]。プレニポテンシャリーの他には、同じくダービーを制したプライアム (Priam) や、オキシジェン (Oxygen、オークス) 、マンゴー (Mango、セントレジャー) などのクラシック競走勝ち馬を送り出し[9]、1830年と1831年には英愛リーディングサイアーに輝いている[10]。

母ハリエット (Harriet) もプレニポテンシャリーの誕生前から既に活躍馬を出していて、産駒にはカットン (Catton) との間に生まれたミクスベリー (Mixbury) や、オークス3着のレヴェリー (Revely) などがいる[11]。なお、プレニポテンシャリーの実の父はエミリウスではないとの主張もあり、ソーンヒルの義理の息子は、母ハリエットに交配されたのはマーリン (Merlin) という名の種牡馬だと語っていた[7]。

プレニポテンシャリー自身は体高15ハンド2.5インチ、その馬格は「カブリオレの車軸の間に入るに充分」とも評される程で、その大きさとたくましい筋肉、そして肉付きの良さから、調教中はいつも“太った雄牛”のようであったという[12]。2歳時には出走はしなかったものの[7][注釈 2]、同年の10月にはブックメーカーによる翌年のダービー勝ち馬予想に30対1のオッズで登場しており、その際はミクスベリーの半弟と紹介されている[13]。

競走馬時代

1834年(3歳時)

デビュー - ダービーステークス

グレンコー
リドルズワースステークスでは相手馬を“ミンチ肉”にしたと評されたが、プレニポテンシャリーとの2頭立てで行われたスウィープステークスでは敗戦を喫した[14]。その後はクラシック初戦の2000ギニーを制している[15]。

1834年、ニューマーケット競馬場のクレイヴン開催で行われた50ポンドのスウィープステークスでデビューすると、同じエミリウス産駒の牡馬に2馬身の着差をつけて勝利を飾った[16][3]。次戦はその2日後、100ポンドのスウィープステークスであったが、この競走は2頭立てで行われ、相手はリドルズワースステークスをキャンターで制していたグレンコー (Glencoe) であったため、両馬の対戦は大きな注目を集めた[16]。

グレンコー陣営は鞍上のジェームズ・ロビンソンに対し、プレニポテンシャリーを打ち負かすため非常に速いペースで走るよう指示を出した[17]。ロビンソンは指示通り全速力で走らせたものの、最終的にはプレニポテンシャリーが圧倒し、グレンコーに4馬身の着差を付けて勝利した[17]。ロビンソンは「私は指示通りに最初の半マイルを全力で走らせました。しかし振り向くと、大きな雄牛がキャンターで駆けているのが見えたのです」と語っている[17]。

その後、プレニポテンシャリーは5月29日に行われたダービーステークスに出走する[18]。ダービーは22頭立てで争われ[18]、同馬は9対4のオッズで1番人気となった[19]。次いでシレイリー (Shilelagh) が11対4、ブバスティス (Bubastes) が8対1、グレンコーが11対1と続いた[18][20]。エプソム競馬場にはここ数年で最も多くの、そして上流の客が集まったと伝えられている[21]。レースは中々始まらず[22][注釈 3]、5回のフライングを繰り返した後にスタートが切られた[21]。プレニポテンシャリーは最初に飛び出したが、同じく良いスタートを切ったグレンコーが他馬を先導したのとは対照的に、鞍上のパトリック・コノリーによって抑えられたため、同馬の数頭後ろに位置取った[21][22][注釈 4]。そして、コーナーに差し掛かったところでコノリーが拍車をかけて、4番手あたりまで順位をあげ、更に直線でグレンコーらを抜き去ると、最後は後続に2馬身差をつけて楽勝した[23]。2着にはシレイリーが、先頭を走っていたグレンコーはさらに半馬身差の3着であった[24]。

セントレジャーステークス
タッチストン
1番人気のプレニポテンシャリーが沈む中、脚部不安を抱えながらもセントレジャーステークスに勝利した[25]。

ダービー後の1戦は、6月10日にアスコット競馬場で行われたセントジェームズパレスステークスで、ここではダービー勝ち馬のハンデとして7ポンド余計に背負っての勝負が予定されていたが[18]、グレンコー含む17頭すべてが棄権したため単走となった[26]。プレニポテンシャリーは競馬場をキャンターで駆け、少額の賞金850ポンドを手にした[24]。

そして、9月にはドンカスター競馬場で行われたセントレジャーステークスに出走する[27]。ここでも10頭のライバル相手に11対10のオッズで1番人気となった[28]。しかし観衆の前に登場した同馬は、ダービーのときとは明らかに異なっており、ほとんどギャロップできず「競走馬というより豚のようだ」と評される有様であった[28]。そのため、プレニポテンシャリーに賭けた客も他馬に賭け金を分散しはじめた[28]。本番での走りも悪いもので、序盤で既に負けは決まり、進むにつれてどんどん遅れていった[29]。パーティザン (Partisan) 産駒の牝馬1頭がはるか後方にいたため最下位は免れたが、タッチストン (Touchstone) の10着に終わった[28]。

この惨憺たるパフォーマンスについては、体調管理の不備や、スタートが悪かったなど様々な理由が語られた[30]。また、薬物が投与されたと断言する者も少なくなかった[30]。その他、鳥に驚いて負傷したというのも存在した[31]。プレニポテンシャリーは装鞍や騎乗時に突進したり噛みついたりと、非常に手間取る馬であったが、この日は馬房で丸太のように横たわっており、鞍を着けるために何度か蹴って立ち上がらせる必要があった[30]。また、コースに向かう途中に何度もつまづいた[30]。コノリーが言うには、プレニポテンシャリーは「まるで石のように動かない」状態であったという[32]。

1835年(4歳時)

1835年4月22日のサブスクリプションプレート(John Frederick Herring Jr.画)
先頭を走るプレニポテンシャリー。後ろにクリアウェル(手前)、ロザリーと続く。

1835年の春、ニューマーケット競馬場のクレイヴン開催で復帰する[33]。この時にはセントレジャー前の調子を取り戻しており[31]、初戦のクレイヴンステークスでは凄まじいペースとなるも、プレニポテンシャリーには通用せずナンセンス (Nonsence) に1馬身の着差をつけて楽勝した[34]。次戦のサブスクリプションプレートは半マイル強のコース[注釈 5]での実施とあって、プレニポテンシャリーが短距離でも力を出せるのか、大きな関心を集めた[34]。対戦馬のクリアウェル (Clearwell)[注釈 6]、ロザリー (Rosalie) ともに短距離でのスピードに定評があったが[36]、レースはプレニポテンシャリーが「半分のスピードも出さない」まま、3馬身差で勝利した[34]。競走馬として最後の "出走" は、同開催のポートステークスで、対戦相手が棄権したため単走に終わった[34]。

その後はアスコットゴールドカップへ出走し、グレンコーやセントレジャーで2着に入ったブラン (Bran) との対戦が予定されていたが[37]、レース前日になって回避が決まった[38]。回避の理由について、バトソン自身は「不調によるもの」と表明したが[39]、バトソンが硬い馬場を走らせることで馬を危険に晒したくなかったためとも云われている[38]。直前の決定には怒りの声が上がり、調教師のジョージ・ペインは、安全のため速やかにアスコットを離れるよう同業者からの助言を受けた[39]。プレニポテンシャリーはその後二度とレースに出走せず、引退して種牡馬となった[40]。

種牡馬時代

引退後はリントン近郊のリンバーハースト・ロッジに繋養され、25ギニーの種付料で種牡馬としてのキャリアをスタートさせた[41]。産駒からはポテンシャ (Potentia)、ポイズン (Poison) の2頭のクラシックホースが出ており、前者は1841年の1000ギニーステークスを、後者は1843年のオークスステークスにそれぞれ勝利した[7][35]。また、アメリカ合衆国に渡った産駒もいて、その1頭であるアンバサダー (Ambassador) は同地でアラバマステークスなど多くのレースを制し、引退後は種牡馬としても活躍した[7]。同じくヘラルド (Herald) も競走馬として活躍し、後に種牡馬となると、産駒からは母系A1の系図上で重要な位置を占めるヘラルドリー (Heraldry) を出している[7][注釈 7]。

しかしながら、種牡馬としては期待外れと評されており[7][注釈 8]、"The Sporting review" は同馬について「スタッドブックよりも〔レーシング〕カレンダーの方が優れている」と述べている[42]。1854年2月21日、アクスブリッジのデンハムで死亡した[2]。23歳没[2][42]。死因は″事故 (accident)”とされている[42]。晩年は、安値でハーフブレッドの牝馬相手に種付けをしていた[7]。

評価

プレニポテンシャリーはその美しさと競走能力から人々に愛された[7]。"The New Sporting Magazine" はデビュー戦での走りについて、「プレニポテンシャリーが示した並外れた美しさ、サイズ、そして競走馬としての完成度は、見た人すべての賞賛を得るほど際立っており、ニューマーケットや他の競馬場でこれまでに見られた中でも最上級に素晴らしい競走馬であることは間違いない」と述べている[43]。また、騎手のサム・チフニーは、ダービー2着のシレイリーをプライアムよりも優れていると評したが、プレニポテンシャリーについては、同世代の競走馬に比べ1ストーン抜けた存在だと語ったという[21]。

1886年5月、英紙 "The Sporting Times" は、100名の競馬関係者に対し、19世紀最高の競走馬10頭を挙げてもらうアンケートを実施した[44]。結果は同年7月にランキング形式で発表され、プレニポテンシャリーには15名からの投票があり、全体18番目にランクインした[44][注釈 9]。

競走成績

出走日 競馬場 競走名 着順 着差 1着馬 /(2着馬) 出典
1834.4.15 ニューマーケット スウィープステークス 1着 2馬身 (Colt by Emilius[績 1]) [3][45]
4.17 ニューマーケット スウィープステークス 1着 4馬身 (Glencoe) [17][46]
5.29 ニューマーケット ダービーステークス 1着 2馬身 (Shilelagh) [24][20]
6.10 アスコット セントジェームズパレスステークス 1着 単走 [47]
9.16 ドンカスター セントレジャーステークス 10着 Touchstone [28][27]
1835.4.20 ニューマーケット クレイヴンステークス 1着 1馬身 (Nonsence) [34][48]
4.22 ニューマーケット サブスクリプションプレート 1着 3馬身 (Clearwell) [34][49]
4.24 ニューマーケット ポートステークス 1着 単走[績 2] [34][50]
  1. ↑ 2着馬に馬名はなく、“エミリウス産駒の牡馬”の意。
  2. ↑ The New Sporting Magazine Vol.9 (1835b, p. 13)では "received the forfeits"(違約金を受け取った)の記載。

血統表

Plenipotentiaryの血統(出典[§ 1])
父系 オーヴィル系<ベニングブロー系<エクリプス系 [§ 2]
父
Emilius
1820 鹿毛
父の父
Orville
1799 鹿毛
Beningbrough King Fergus
Herod Mare
Evelina Highflyer
Termagant
父の母
Emily
1810 栗毛
Stamford Sir Peter
Horatia
Whiskey Mare Whiskey
Grey Dorimant
母
Harriet
1819 青毛
Pericles
1809 黒鹿毛
Evander Delpini
Caroline
Precipitate Mare Precipitate
Firetail
母の母
Selim Mare
1812 栗毛
Selim Buzzard
Alexander Mare
Pipylina Sir Peter
Rally
母系 (F-No.) 6号族  (FN: 6-b) [§ 3]
5代内の近親交配 Highflyer 4×5×5×5×5、Sir Peter 4×4、Eclipse 5×5、
Herod 5×5、Countess 5×5 [§ 4]
出典
  1. ↑ JBISサーチ[51]
  2. ↑ Thoroughbred Bloodlines、netkeiba.com[52]
  3. ↑ JBISサーチ[51]
  4. ↑ JBISサーチ[51]

脚注

注釈

  1. ↑ プレニポ (Plenipo) の略称で呼ばれることもある[6]。
  2. ↑ 草間 (1971, p. 140) によれば、19世紀にダービーステークスを制した競走馬のうちデビューが3歳であったのは、プレニポテンシャリー含め12例あった。
  3. ↑ Tattersall (1850, p. 82) は「フライングが何回あったかは数えていないが、ヨブでさえも我慢できないほどの回数であったことは確かである」と述べている。
  4. ↑ The Australian紙によると、プレニポテンシャリーの前にグレンコー、イントリガー (Intriguer) 、ダリウス (Darius) 、パリス (Paris) 、ブラザートゥケイト (brother to Kate) 、ストラドバリー (Stradbally) がいた[21]。
  5. ↑ ニューマーケット競馬場の Two yrs old Course (T.Y.C.) 。Weatherby (1835, p. liv) によれば、距離は5ハロンと136ヤード。
  6. ↑ 1833年の2000ギニー勝ち馬[35]。
  7. ↑ アンバサダー、ヘラルドともに母馬が受胎中に輸入されている[7]。
  8. ↑ Taunton (1887, p. 153) は種牡馬時代について「大きな成功を収めることはできなった」と述べる。一方 Thoroughbred Bloodlines は「一定の成果を挙げた」と評している。
  9. ↑ 1位は65名が投票したグラディアトゥールであった[44]。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 “Plenipotentiary(GB)”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2026年5月31日閲覧。
  2. 1 2 3 Weatherby (1857), p. vii.
  3. 1 2 3 4 5 “Plenipotentiary (GB)”. Thoroughbred Bloodlines. 2024年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年6月18日閲覧。
  4. ↑ 今井 (1990), p. 299.
  5. ↑ 草間 (1971), p. 140.
  6. ↑ American Turf Register and Sporting Magazine Vol.10 (1839a), p. 123.
  7. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 “Emilus”. Thoroughbred Heritage. 2026年6月7日閲覧。
  8. ↑ American Turf Register and Sporting Magazine Vol.10 (1839b), p. 193.
  9. ↑ American Turf Register and Sporting Magazine Vol.10 (1839b), p. 194.
  10. ↑ “Leading Sires of Great Britain and Ireland”. Thoroughbred Heritage. 2026年4月18日閲覧。
  11. ↑ Taunton (1887), p. 151.
  12. ↑ Taunton (1887), pp. 150–151.
  13. ↑ The New Sporting Magazine Vol.6 (1833), p. 71.
  14. ↑ Tattersall (1850), pp. 79–80.
  15. ↑ “Glencoe”. Thoroughbred Heritage. 2026年6月15日閲覧。
  16. 1 2 Tattersall (1850), p. 79.
  17. 1 2 3 4 Tattersall (1850), p. 80.
  18. 1 2 3 4 The New Sporting Magazine Vol.7 (1834b), p. 290.
  19. ↑ “John Frederick Herring, Jun. (1815-1907), Plenipotentiary, a chestnut Racehorse with P. Conolly up, at Six Mile Bottom, Newmarket” (英語). Christie's. 2026年6月10日閲覧。
  20. 1 2 Weatherby (1835), pp. 49–50.
  21. 1 2 3 4 5 “The Oaks and Derby”. The Australian (1834年11月7日). 2026年6月13日閲覧。
  22. 1 2 Tattersall (1850), p. 82.
  23. ↑ Tattersall (1850), pp. 82–83.
  24. 1 2 3 Tattersall (1850), p. 83.
  25. ↑ “Touchstone”. Thoroughbred Heritage. 2026年6月18日閲覧。
  26. ↑ Whyte (1840), p. 329.
  27. 1 2 Weatherby (1835), pp. 171–172.
  28. 1 2 3 4 5 “THE GREAT ST. LEGER STAKES”. The Australian (1835年3月6日). 2026年6月14日閲覧。
  29. ↑ Taunton (1901), p. 175.
  30. 1 2 3 4 Tattersall (1850), p. 84.
  31. 1 2 Temple Bar Vol.76 (1886), p. 488.
  32. ↑ Tattersall (1850), pp. 84–85.
  33. ↑ Whyte (1840), p. 331.
  34. 1 2 3 4 5 6 7 Whyte (1840), p. 332.
  35. 1 2 “(#87) John Frederick Herring Jr. 1815-1907, Race for the Subscription Plate at Newmarket 22nd April 1835 between Plenipotentiary, Clearwell and Rosalie” (英語). Sotheby's. 2026年6月21日閲覧。
  36. ↑ The New Sporting Magazine Vol.9 (1835a), pp. 50–51.
  37. ↑ Whyte (1840), pp. 332–333.
  38. 1 2 American Turf Register and Sporting Magazine Vol.7 (1835), p. 17.
  39. 1 2 Whyte (1840), p. 333.
  40. ↑ Taunton (1887), p. 153.
  41. ↑ American Turf Register and Sporting Magazine Vol.10 (1839b), p. 125.
  42. 1 2 3 The Sporting review Vol.31 (1854), p. 307.
  43. ↑ The New Sporting Magazine Vol.7 (1834a), pp. 5–6.
  44. 1 2 3 Morris & Randall (1988), p. 83.
  45. ↑ Weatherby (1835), p. 16.
  46. ↑ Weatherby (1835), p. 18.
  47. ↑ Weatherby (1835), p. 56.
  48. ↑ The New Sporting Magazine Vol.9 (1835b), pp. 9–10.
  49. ↑ The New Sporting Magazine Vol.9 (1835b), p. 11.
  50. ↑ The New Sporting Magazine Vol.9 (1835b), p. 13.
  51. 1 2 3 “5代血統表 Plenipotentiary(GB)”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2026年6月17日閲覧。
  52. ↑ “Plenipotentiary の血統表”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ. 2026年6月17日閲覧。

参考文献

外部リンク