マラーの死

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『マラーの死』
フランス語: La Mort de Marat
英語: The Death of Marat
作者ジャック=ルイ・ダヴィッド
製作年1793
種類油彩
寸法165 cm × 128 cm (65 in × 50 in)
所蔵ベルギー王立美術館、ブリュッセル

『マラーの死』(マラーのし、仏: La Mort de Marat, Marat Assassiné, 英: The Death of Marat)は、フランス新古典主義の画家ジャック=ルイ・ダヴィッドがフランス革命の指導者ジャン=ポール・マラーの死を描いた油彩画である。フランス革命を描いた有名な絵画の1つで、1793年7月13日にシャルロット・コルデーに暗殺されたマラーが、浴槽に横たわっている場面を描いている。

ダヴィッドは、ルイ16世の治政下から革命期、帝政期を通じて活躍した新古典主義の代表的な画家として知られているが、1792年に国民公会議員に選出され、政府が企画した革命祭典において中心的な役割を果たした[1]革命政府「公認の画家」でもある[2]。

題材となった事件

1973年7月13日、山岳派の指導者の1人ジャン=ポール・マラーは山岳派がパリの自宅で暗殺された下手人はノルマンディ地方出身の小貴族の女性シャルロット・コルデーで、ジロンド派議員の話に共感し、連邦主義の反乱(フランス語版)を支持してマラー暗殺を決意したのだった[3]。犯行後、彼女は現場に到着した議員らの執り成しによって民衆の報復を免れた[4]。投獄され、弁護人を付けてもらいつつ裁判を受けた後、死刑宣告を受けた[5]。犯行の動機についてコルデーは尋問の際、このいわゆる人民の友は九月虐殺と議会からのジロンド派追放について責任があり、彼は全王国に内戦の火をつけ、独裁者になることを欲していたと答えた[6]。

彼女の犯行に対し、世論の意見は割れた。サン=キュロットは、当時の女性観から逸脱した政治的な暴力を行使したコルデーを非難し、穏健派は彼女を髪粉を施した反革命的な金髪の処女として描いた。また、マラーの死の知らせを受け、ブルターニュ地方の連邦派やパリのいくつかのセクションが彼への敵意を表明する一方、その遺骸は崇拝の対象となり、サン=キュロットの活動家、とりわけ「革命的共和女性公民クラブ」によって聖なる偶像に変わっていった。一方、サン=キュロットの指導者と山岳派は儀式的なものよりも政治的なものの継承に力を注いだ[5]。マラーは議員ではあるが政治的な主張は過激で、パリのサン=キュロットからも支持と共感を得ていた人物だった。いわば議会と民衆運動の接点に立ってたのだが、そのマラーが亡くなったことで政治的な位置関係が変化していた[3]。

この事件によって、革命が脅かされていると受け止めた人々は、山岳派が指導する議会を守ることで団結しようとした[3]。コルデーの犯罪は最終的に、彼女が属していた貴族、彼女に近かったジロンド派、彼女の性別である女性に対する弾圧を正当化したのであり、サン=キュロットと国民公会議員たちを、彼らの間にあった対立にも関わらず、敵に対してひとつにまとめあげたのだった[7]。

ダヴィッドの政治観

革命期におけるダヴィッドはジャコバン・クラブと行動を共にし、芸術の改革に力を注いできたが、革命家としての活躍もめざましいものであった[1]。

ダヴィッドが革命および政治に参加した直接の動機は、平等で安定した芸術活動の確保のためであったと見られている。旧来のパトロンであった王族や貴族が不利な立場に傾く中、巨大な絵画の制作費はとてもダヴィッド個人で賄えるものではなく、革命を新たなパトロンとしたいダヴィッドと革命を記念するものを高名な画家に描いてもらえることを歓迎した議会が手を組んだ形であった。一方で、平等に対する志向といった革命の理念に通じるものを彼は持ち合わせており、ゆえにこそ以後の積極的な政治活動に繋がっていった[8]。マラーやロベスピエールらと並んで有名な山岳派の一員でもあったダヴィッドは、国民公会美術館部の副官としてルイ16世の死刑に一票を投じ、一般治安委員会委員を務め、そこで大勢の人々に刑を宣告し禁固し、最終的には「尋問部」を統括していた。彼はまた公教育委員会の一員でもあった[9]。1791年8月12日、美術コミューンの請願が国民議会で審議された際には、「すべての芸術家に開かれた展示の場を設けてほしい」と主張し、結果、外国人を含むすべての芸術家はアカデミー会員であろうとなかろうと、等しく彼らの作品をルーヴルの一部で展示することが認められた[1]。

テルミドール9日のクーデターの後、ロベスピエール派と見做され更送となった[10]。ブリュメール18日のクーデターについて聞いた時は、「そうか、私はいつも自分たちが共和主義者でいることができるほど徳をそなえていないと思っていたものだが……少なくとも私は画布の上で私の祖国愛を示すことにしよう」と語ったという[11]。

《マラーの死》をはじめとしたこの頃描かれた絵画は、いずれも政治事件を題材に描かれており、革命のプロパガンダとも言われるが、実際は政府の注文というよりもダヴィッドの自発的な意志という傾向が強い[1]。本人の演説などからわかるように、彼は革命の急進的な部分に関心と共感を寄せていた。一方で、後にナポレオンの首席画家となるものの、ナポレオンの政治的・軍事的活動になんらかの見解を抱いていた形跡は見られない[12]。

様式

マラーの左手に握られた手紙の拡大。「1793年7月13日、マリー=アンヌ・シャルロット・コルデーより、市民マラー様へ、私は、たいへん不幸な女でございます。それだけでもあなた様の庇護をもとめる資格のある者でございます[13] (Il suffit que je sois bien malheureuse pour avoir droit a votre bienveillance)」とある。

国民公会でマラーの追悼演説が行われた際、市民ギローが「絵筆を取りたまえ。君が描くべきもう一枚の絵がある」と言い、ダヴィッドが「よし、引き受けよう」と答え、絵の制作が決まった[14]。

重篤な皮膚病のため[15]、マラーは入浴しながら仕事をするのを習慣としており、彼が使う浴槽には小さな机が備え付けてあったという[2]。暗殺事件が起きる前夜、ダヴィッドは偶然マラーを尋ねており、浴槽に浸かるマラーの姿に愛着を抱いていたと推測されている[16]。画家は遺体を検分した上で制作に臨んだ。後にダヴィッドは「彼の冷たい体が浴槽の中にあった。手には羽根ペンを、もう一方の手にはインクに浸したままの紙を握っていた。頭は傾いて、そのまま息絶えていた」と記録している[15]。

縦165センチメートル、横128センチメートルの油彩作品である[15]この絵は、請願者を装った女性に文書を渡されたマラーがそれに署名しようとした瞬間、コルデーが凶行に及んだ場面を描いている。そのような状況は、威厳さと壮麗さを備えた絵画の主題にはなりにくいように思える。しかしダヴィッドは、警察記録にも細かく当たった上で、この出来事を英雄的な場面として描きだすことに成功した[2]。

マラーの姿は理想化されている[17]。ダヴィッドはギリシャやローマの彫刻を研究し、筋肉や筋骨をどのようにあらわせば高貴な美しい姿になるかを知っていた。効果を高めるため、不必要なものはすべて省略する単純化の手法も、古典美術から学んでいた[2]。ダヴィッドは、君主制とカトリック教会に長く関連付けられてきた神聖なイメージを、新しいフランス共和国に取り込もうとしていた。彼は、革命の殉教者たるマラーの顔や身体を、キリスト教の殉教者を連想するような柔らかで温かな光で描いた[17]。全体の構図はキリスト教美術の「ピエタ」や「キリストの埋葬」を意識したものと多くの美術史家が指摘している[15]。

マラーが左手に持つ紙にコルデーの名が見えるが、彼女自身の姿は描かれていない。この絵をよく見ると、マラーが最期の息を引き取ったとき、コルデーやその他大勢が、まだ近くにいたことを示している(コルデーは逃亡しようとしなかった)。つまりダヴィッドは、殉教の恐怖以上のものを記録しようとしている[18]。この絵には複雑な配色や手の込んだ短縮法はまったく見当たらない。派手さはなく、むしろ簡素で厳粛でさえある。しかしだからこそ、公共の福利のために殉教者の運命に甘んじた、ひとりの慎ましい「人民の友」を記念する、感動的な作品となっている[2]。

浴槽の台の上には「À Marat, David.(マラーへ、ダヴィッドより)」という献辞が刻まれている[15]。

発表後

ポール・ボードリーの描いたシャルロット・コルデー。1860年画。
ムンク作『マラーの死』2点のうちの1つ。1907年。

詩人シャルル・ボードレールはこの絵について、「崇高なマラーは、浴槽から片腕をたらし、最後のペンを無気力に握り胸には冒漬の傷を受けて、いましがた最期の息をひきとったところである。…痛ましい凄惨に息づ くドラマがそこにある。…この絵には、低俗下劣なものはなにひとつない。…自然のように非情ではあるが、理想の香りのすべてを所有している。…ここには、優しいものと悲痛なものが同時に存在している。部屋の冷たい空気の中に、冷たい壁の上に、冷たく忌わしい浴槽のまわりに、ひとつの魂が飛翔している」と評した[19]。

《マラーの死》は評判を呼び、ダヴィッドの監督のもと数点のレプリカが制作されることとなった[20]。原画は現在、ナポレオン失脚後に亡命を余儀なくされた画家が、静かに余生を過ごした街ブリュッセルにあるベルギー王立美術館に、1886年の遺族の申し出により展示されている。ダヴィッドの弟子により描かれた複製の正確な数は明らかではないが、そのうちの何枚かが現存しており、ディジョン、ランス、ヴェルサイユの美術館などで見ることができる。血痕と水痕の残る本物の手紙も現存しており、現在は第29代クロフォード伯爵ロバート・リンゼイが所有している[21]。

マラーの死から年月を経た後も、多くの画家が彼の死を描いている。事件に関する見方は、時代によって変化しており、シャルロットが神話化されるとマラーは悪魔化されるといった具合に、この殺害事件の2人の立役者は逆の役割を与えられてきた[22]。恐怖政治と呼ばれる時期が始まる前に亡くなったマラーは[23][3]、自らは誰の血を流したわけでもなかったが[22]、死後に流血を好む狂人、死刑執行人たちと殺人者たちに崇められる殺人の喧伝者であるとされ[24]、その一方で犯罪者であるコルデーは犠牲者ということになった[22]。

文化的な影響

脚注

  1. 1 2 3 4 貴傳名2004
  2. 1 2 3 4 5 ゴンブリッチ2019、P.485
  3. 1 2 3 4 山崎2018、P.171
  4. ↑ ビアール2023、P.192-193
  5. 1 2 マルタン2026、P.529
  6. ↑ ビアール2023、P.27
  7. ↑ マルタン2026、P.530
  8. ↑ 阿部
  9. ↑ Wildenstein, pp 43-59
  10. ↑ マルタン2026、P.650
  11. ↑ 鈴木1991、P.170
  12. ↑ 鈴木1991、P.177-178
  13. ↑ ガリーナ・セレブリャコワ 著、西本昭治 訳『フランス革命の女たち(上)』岩波新書、1973年、42頁。
  14. ↑ 鈴木2020、P.189
  15. 1 2 3 4 5 https://museum-box-jp.com/blog/david-death-marat
  16. ↑ 鈴木1991、P.127
  17. 1 2 Smarthistory, David's Death of Marat, accessed 28 December 2012]
  18. ↑ Vaughan, William; Helen Weston (2000). Jacques-Louis David's 'Marat'. Cambridge University Press. pp. 16–17. ISBN 0-521-56337-2
  19. ↑ 清水1985
  20. ↑ https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/16032
  21. ↑ The Earl of Crawford has the largest collection of French revolutionary manuscripts in Scotland.
  22. 1 2 3 ビアール2023、P.176
  23. ↑ 山崎2018、P.175
  24. ↑ ビアール2023、P.140

参考文献

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