モスクワ大公国
| モスクワ大公国 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| Великое княжество Московское | |||||
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16世紀はじめのモスクワ大公国 | |||||
| 公用語 | ロシア語 | ||||
| 首都 | モスクワ | ||||
| 大公 | |||||
| 1263年 - 1303年 | ダニール・アレクサンドロヴィチ | ||||
| 1533年 - 1547年 | イヴァン4世 | ||||
| 面積 | |||||
| 1505年 | 2,500,000km² | ||||
| 変遷 | |||||
| 建国 | 1263年 | ||||
| ツァーリ国家の宣言 | 1547年10月22日 | ||||
| 通貨 | ルーブル | ||||
| 現在 |
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モスクワ公国(モスクワこうこく)、後にモスクワ大公国(モスクワたいこうこく、 ロシア語: Великое княжество Московское マスコフスカエ・ヴェリーカエ・クニャージェストヴァ)として知られ、モスコビア[1][2][3](ラテン語: Moscovia)の名でも知られる国家は、当初はウラジーミル・スーズダリ大公国内の分領公国であり、その後1480年までジョチ・ウルス(金帳汗国)の支配下に置かれていた[4]。ジョチ・ウルスの臣下として初代の公(かつ初代モスクワ市の公)となったのは、アレクサンドル・ネフスキーの16歳の息子ダニール・アレクサンドロヴィチであった。1480年にウグラ河畔の対峙を経てジョチ・ウルスから独立したモスクワ国家の初代統治者となったのは、イヴァン3世である。
概要
すでに11世紀半ばには、古代キーウ国家、すなわちルーシにおいて、独立した諸公国・諸地方への分裂の兆しが現れ始めていた。新たな公国が次々と誕生し、この時期の主要な封建国家として、ザレーシエ(ウラジーミル・スーズダリ大公国)、ハールィチ・ヴォルィーニ、トゥーロフ・ピンスク、チェルニーヒウ、ポロツク、スモレンスクの各公国、ならびにノヴゴロド・プスコフの両共和国が挙げられる。
人口の流入はロストフ・スーズダリ地方の発展に寄与した。地方の諸公は、大公位を巡る激しい争いを繰り広げるようになる。ユーリー・ドルゴルーキー公によってドミトロフ、コストロマなどの新都市が建設された。1169年、アンドレイ・ボゴリュブスキーの治世下において、ザレーシエの諸地方はルーシから独立を獲得し、その軍勢はキーウ・ルーシを略奪、アンドレイ・ボゴリュブスキーは自らをキーウ大公から独立した君主であると宣言した。フセヴォロド3世の治世には、新たな封建中心地が次々と出現し、ザレーシエの分裂が進行した。13世紀に入ると、その内部からペレヤースラウ、ロストフ、スーズダリ、ヤロスラヴリ、トヴェリ、モスクワなどの諸公国が誕生した。
モスクワの初代分領公となったのは、アレクサンドル・ネフスキーの息子ダニール・アレクサンドロヴィチであり、彼は1277年にハーンのヤルルィク(ジャルリグ、勅許状)を授かった。1330年代以降、ザレーシエの諸公は、稀な例外を除いて、貢納徴収権を認めるハーンのヤルルィクの保持者となった。モスクワ諸公の支配地の更なる拡大とタタールのバスカクを通じた権力の中央集権化に伴い、彼らは15世紀末までに自らの拠点から統一されたモスクワ大公国の中心地を作り上げることに成功した。
非公式のモスクワ側の資料によれば、アレクサンドル・ネフスキーが息子ダニールに遺したモスクワの支配権は、ハーンであったメングティムルによってウラジーミル大公国から分離され、16歳のダニール・アレクサンドロヴィチが新設されたモスクワの公座に据えられたという。
歴代君主
戦争
議論
モスクワ公国はもとは北東ルーシの小公国であった[5]。従って、元来はキーウの公権力よりはノヴゴロド公国(ノヴゴロド・ルーシ)の公権力を受け継ぐ国家で、君主の称号でも、あるいは対外的な文書においても、北東ルーシを指して「モスクワはルーシの後継者」であると表現していた。住民についても元来はキーウ系の住民ではなく、現地の東スラヴ人とフィン人の融合した独自の民族・文化・社会慣習をもっていた。これに、後代になってキーウ・ルーシの内紛やモンゴルのルーシ侵攻などから逃げてきたキーウからの難民が加わった。
モスクワは国力を蓄えるに従い、15世紀末以降(キーウ府主教座がモスクワに遷座したことだけを理由に)キーウ・ルーシの相続人を自称し始めた[5]。とりわけ帝政時代のロシアの史学はこうした見方を無意識のうちに引き継いだ。これに対し、ウクライナでは19世紀のフルシェフスキー(ウクライナ人民共和国の初代大統領)などの研究により、キーウ・ルーシの継承国家はウクライナ西部を中心としていたハールィチ・ルーシであるという事実が知られ始め、フルシェフスキーはそれを記した論文を執筆した[6]。
こうした二つの見方の対立はソ連の研究史において表面上はやや緩和されたが、モスクワはソ連を牛耳っていたため、ソ連の公的権力はモスクワを後継国家とする見方を優先していた。「相続人」をめぐる問題は両国のアイデンティティと関わるがゆえに、双方の見方はソ連崩壊後にナショナリズムと結び付き鋭く対立した。
ロシアによるクリミアへの侵攻やウクライナへの全面侵攻をめぐっては、ロシア政府がウクライナに対する領土的主張を正当化するため、キーウ・ルーシの歴史的遺産を政治的に利用しているとの批判がある。ウクライナの歴史家セルヒー・フロメンコは、ロシアがウクライナへの侵略を正当化するため、キーウ・ルーシの歴史を自国のものとして独占的に取り込もうとしていると批判している[5]。
なお、この問題はロシアやウクライナ、ベラルーシに限定された問題ではない。中世後期よりヤギェウォ朝のポーランド王国もまたルーシの相続人を自認した。近世に入ると、ポーランドはキーウを含めたかつてのキーウ・ルーシの領域の大半をキーウ県として領有することとなり、またリトアニア大公国との制度的同君連合であるポーランド・リトアニア共和国によって上記ハールィチ・ルーシおよびリトアニア・ルーシの正当な継承権を獲得、将来的にはモスクワの領域もポーランドの版図に加えられるべきであると主張していた(ポーランド・ロシア戦争)。しかし、ソ連の影響力のもと、ポーランドの主張は影を潜め(加えて、第二次世界大戦後に、国境線が西方に移動したことに伴い、ポーランドではもっぱらピャスト朝の相続人であることが強調されるようになった)、ソビエト連邦の崩壊に伴いウクライナが再独立すると、ポーランド・ウクライナ関係に配慮することが定着し、ルーシをポーランド領とする主張はなりを潜めたが、ポーランド人の間ではルーシを未開の辺境地帯と捉える傾向は定着している。[要出典]
一方、ウクライナこそがキーウ・ルーシの正統な継承国である事実[5]は同国の再独立により国際的にも広く知られることになった。「ルーシ」という固有名詞は元々キーウ・ルーシ、すなわち現在のウクライナがルーツであるため、2023年3月には(「ルーシ」という名称にちなんでモスクワが自称している国名である)「ロシア」の呼称を「モスコビア(モスクワ)」に変更するよう求める請願書に署名が集まった[7]。
カール・マルクスは、著書『18世紀の秘密外交史』の中で、次のように述べている[8]。
「モスクワ大公国発祥の地は、ノルマン人時代の輝かしき栄光の大地ではなく、モンゴルによる奴隷制という血塗られた沼地であった。そして現代のロシアは、モスクワ大公国が変化したものに過ぎない。」
トリビア
モスクワ大公国では、郵便局は「ヤマニ(ямами)」と呼ばれ、郵便事業は「ヤムスカヤ・ゴンバ(ямская гоньба)」と呼ばれていた[9]。「ヤマニ」はモスクワ土着の言葉でもスラヴ語派の言葉でもなく、タタール語で「道」を意味する[9]。現代のモスクワにヤムスカヤという名前の通りが数多くあるのは、この言葉に由来している[9]。ドイツの外交官Z・ヘルベルシュタインは、御者であればノヴゴロドからモスクワまで3日で移動できたと書き遺している[9]。
脚注
- ↑ “Grand Principality of Moscow | medieval principality, Russia | Encyclopedia Britannica”. 2015年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月25日閲覧。
- ↑ 「Московия」『ブロックハウス・エフロン百科事典: 全86巻(本編82巻と追加4巻)』(ロシア語)、サンクトペテルブルク: ブロックハウス・エフロン、1890年 - 1907年。
- ↑ 『モスコビア』 - コトバンク
- ↑ ЗОЛОТАЯ ОРДА КАК ПРЕДТЕЧА РОССИЙСКОЙ ИМПЕРИИ, А. Ш. Кадырбаев Archived 2014-10-12 at the Wayback Machine.
- 1 2 3 4 “ウクライナがルーシの真の継承者である理由”. Ukraїner (2024年8月13日). 2026年10月20日閲覧。
- ↑ ミハイロ・フルシェフスキー (2002). “Звичайна схема «русскої» історії й справа раціонального укладу історії східного слов'янства” (ウクライナ語). Твори. 1. リヴィウ: Світ. pp. 75–82
- ↑ “「ロシア→モスコビア」検討を 呼称巡る請願でウクライナ大統領”. 時事ドットコム. 2023年4月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月6日閲覧。
- ↑ “Глава IV. // Карл Маркс”. 2013年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年4月25日閲覧。
- 1 2 3 4 Детская энциклопедия: для среднего и старшего возраста. Том: 7 Из истории человеческого общества / Гл.редакция: Д. Д. Благой, В. А. Варсанофьева, Б. А. Воронцов-Вельяминов, П. А. Генкель и др.; гл. редактор: А. И. Маркушевич; научн.редакторы: С. Д. Сказкин, М. В. Нечкина, Н. П. Кузин, А. В. Ефимов, А. И. Стражев, А. Г. Бокщанин;, зам. Гл.редактора: П. А. Мичурин. — Изд. Академии педагогических наук РСФСР, Москва 1961, С: 621 (с.:254)
参考文献
- В. П. Крижанівський. Московського великого князівства дипломатія // ウクライナ外交百科事典: У 2-х т./Редкол.:Л. В. Губерський (голова) та ін. — К.:Знання України, 2004 — Т.2 — 812с. ISBN 966-316-045-4
- М. Карамзін, «Історія государства Російського» т.4
- В. И. Сергеевич, «Лекции, исследования и заметки по истории русского права»
- В. И. Сергеевич, «Русские юридические древности»
- М. Ф. Владимирский-Буданов, «Обзор истории русского права»
- Н. Станкевич, «О причинах постепенного возвышения Москвы» («Учен. Зап. Моск. Унив.», 1834年);
- В. Вешняков, «О причинах возвышения М. княжества» (СПб., 1851年);
- С. М. Соловьев, «Взгляд на историю установления госуд. порядка в России до Петра Вел.» («Сочинения», СПб., 1882年);
- Н. И. Костомаров, «Начало единодержавия в России» («Монографии», т. XII и «Вест. Европы», 1870年 г., 11 и 12);
- П. В. Полежаев, «М. княжество в первой половине XIV в.» (СПб., 1878年);
- И. Е. Забелин, «Взгляд на развитие М. единодержавия» («Истор. Вест.», 1881年, № 2, 3 и 4);
- Д. Я. Самоквасов, «Главнейшие моменты в госуд. развитии древней Руси и происхождение М. государства» («Варшавские Унив. Известия», 1886年, № 1 — 3);
- Д. Я. Самоквасов, «Происхождение М. государства» (там же, 1886年, № 3);
- М. А. Дьяконов, «Власть М. государей» (1889年); Градовский, «История местного управления в России» (СПб., 1868年);
関連項目
外部リンク
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