| 州 | |
|---|---|
| 県 | |
| 地域 | プネント |
| コマルカ | セグリアー |
| 司法管轄区 | イェイダ |
| 面積 | 212.3 km² |
| 居住地区数 | 8 |
| 標高 | 155m |
| 人口 | 139,834 人 (2012年[1]) |
| 人口密度 | 658.66 人/km² |
| 自治体首長 (2011年) |
アンジェル・ロス・ドゥミング(PSC-PM) |
| 守護聖人 | Sant Anastasi |
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北緯41度36分50秒 東経0度37分32秒 / 北緯41.61389度 東経0.62556度座標: 北緯41度36分50秒 東経0度37分32秒 / 北緯41.61389度 東経0.62556度
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リェイダ(カタルーニャ語: Lleida IPA:[ˈʎɛjðə])またはレリダ(スペイン語: Lérida)は、スペイン・カタルーニャ州リェイダ県のムニシピ(基礎自治体)。リェイダ県の県都であり、セグリアー郡の中心都市である。主要産業は70%以上の従業者がいるサービス業であり、次いで製造業が盛んである。住民呼称はlleidatà/-tana(イェイダタ・イェイダタナ)。カタツムリ料理が有名な美食の街として知られる。
リェイダは、その始まりから征服者の字訳による異なる地名を持つ。イベリア人にはイルティルタ(Iltirta)、ローマ時代はイレルダ(Ilerda)、イスラム時代はラリダ(Larida)、中世にはレイダ(Leyda)であった。その後スペイン語での名称レリダで呼ばれることが長く続いたが、現在の自治体の正式名称はカタルーニャ語のリェイダである。
1978年7月、スペイン中央政府より、カタルーニャ州政府に対して、自治体の名称変更を可能にする王令2115/1978が与えられ[2]、1980年6月自治体名称をLéridaからLleidaに変更することが決せられた[3]。1992年6月には同自治体を県都とする県名の変更がスペイン国会で承認された[4]。



イベリア人の一部族、イレルガテス(en:Ilergetes)の町イルティルタ(Iltirta)があった。インディビルとマンドニオという戦士の名が有名で、彼らはカルタゴと同盟しローマに抵抗した。紀元前215年に事態は決定的となった。ハンニバルの弟ハスドルバルがローマ軍の前に破れたエブロ川の戦いは、まさにこの地で起きた。カルタゴの同盟者であったイベリア人はこの年以降ローマに従属するようになった。
紀元前195年、コンスルのマルクス・カトーによって、イレルガテス、ラケタニ、アウセタニの諸部族が起こした暴動は征圧された。
第二次ポエニ戦争の敗戦は、ローマ文明との同化をもたらした。紀元前49年、ユリウス・カエサルはグナエウス・ポンペイウスに対するゲリラ戦をしていたイルティルタを解放した(イレルダの戦い)。ローマ人によってイレルダ(Ilerda)の名に変えられ、属州ヒスパニア・タラコネンシスの一部となった。この土地は歴史的にも地理的にも重要であった。町はセグラ川(エブロ川第一の支流)の右岸にあり、セグラ川とシンカ川の合流地点の上流に位置していた。
残っている資料が乏しいために、375年から716年までの西ゴート時代は暗黒時代とされている。
714年、イベリア半島全体と同じように、イレルダはイスラム教徒によって攻撃された。716年または719年にイレルダはイスラム軍に降伏した。後に、アラゴン地方の有力者フォルトゥンが自らの勢力維持のために改宗してイスラム教徒になり、イレルダの服従に協力した。
フランク王ルイ聖王が901年にラリダを略奪した。しかし802年から809年の間に自分の領土を取り戻すことになるアル=レリディは、わずか数日でラリダを奪還した。これらの小さな小競り合いは、最終的には移住を強いられることになるモサラベたちへの困難な取り扱いを引き起こした。
9世紀になるとコルドバのアミールへの忠誠を誓うふりをしながらも、タイファ王国が成立した。ラリダ最後の王は、1102年にムラービト朝によって廃位されたスレイマーンであった。
1149年、ラリダはバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世とウルジェイ伯エルメンゴル4世が率いるキリスト教軍によって征服された。
1246年、アラゴン王ジャウマ征服王がリェイダにパエリア(現在の自治組織の基礎となる)を授けた。1332年、ハイメ2世はイェイダにサン・ミゲル祭の市場を開く特権を与えた。
1297年、ローマ教皇ボニファティウス8世の教書のために、有名なヘネラル・エストゥディ(General Estudi)がジャウマ2世によって創建された。これはアラゴン王国最古の大学で、1717年にフェリペ5世がカタルーニャの大学廃止を命じるまで存続した。
その後の数世紀、戦争と疫病の流行でリェイダの後退が決定的となり、1640年から1652年の戦争ではそれが最高潮に達した。リェイダは廃れ、フェリペ5世は廃墟と化した中にリェイダを見つけた。最終的に、1714年の新国家基本法によってイェイダはその司法権と大学を失った。18世紀の間、リェイダはその重要性や都市の大きさを取り戻した。カルロス3世時代には新大聖堂が建てられた。
19世紀初頭、ナポレオン戦争やスペイン独立戦争でイェイダは新たな侵略を受けた。旧大聖堂は1797年以降の流行(18世紀末にフランス革命思想がカタルーニャへ広まったため)で閉じられた。旧大聖堂は兵舎に変えられた。鉄道が敷かれたのは1860年だった。
2007年時点でセグラ川には7つの橋が架かっており、うち4つが自動車橋、1つが鉄道橋、2つが歩道橋である。リェイダにはサッカークラブとしてUEリェイダがあり、バスケットボールクラブとしてリェイダ・バスケットがある。
| リェイダの人口推移 1900-2010 |
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| 出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[5]、1996年 - [6] |
自治体首長はPSC-PM(Partit dels Socialistes de Catalunya-Progrés Municipal、カタルーニャ社会党を中心とした連合体)のアンジェル・ロス・ドゥミング(Àngel Ros Domingo)[7]で、自治体評議員は、PSC-PM:15、集中と統一(CiU):6、カタルーニャ国民党:6となっている(2011年5月22日の自治体選挙結果、得票順)[8]
首長当選者:ロレンソ・パラシン・アドレイ(PSC) |
首長当選者:ピラール・ディアス・ロメーロ(PSC) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
首長当選者:ピラール・ディアス・ロメーロ(PSC) |
首長当選者:ピラール・ディアス・ロメーロ(PSC) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リェイダはイェイダ司法管轄区に属し、同管轄区の中心自治体である[24]。

リェイダは地中海性気候であるが、エブロ川谷に位置するため大陸性の特徴を持つ。冬は湿度が高く非常に寒い。夏は暑く、雨の不足や夏の干ばつを伴う。その年によって、冬は0℃以下、夏は40℃以上を記録するのは不思議なことではない。冬の間セグラ川谷で発生する霧が特徴である。

リェイダは古くから交通の要所として栄え、バルセロナ、タラゴナといった地中海都市に加え、バル・デ・ボイやアンドラ公国といったピレネー山脈の山岳リゾートへのアクセスが非常に良い。フランスにも近いことから、ピレネー山脈を越えトゥールーズなどへの旅行も容易である。
自動車専用道路A-2と高速道路AP-2がマドリード、バルセロナ、サラゴサを結んでいる。現在ウエスカ方面を結ぶ高速道路を新たに建設中。
リェイダ・ピリネウス駅(Estació de Lleida Pirineus)にはスペイン高速鉄道(AVE)が通っており、マドリードからグアダラハーラ、カラタユー、サラゴサ、リェイダ、タラゴナを結んでいる。この鉄道は2008年にバルセロナまで開通した。また同駅にはカタルーニャ公営鉄道の路線Lleida-Pobla de Segur[リェイダ・ポブラデセグー]もある。現在、リェイダ近郊線として新たに3路線を敷設するプロジェクトがあり、バラゲーなどと接続する予定。

2010年、西カタルーニャとアンドラ公国の主要空港として、リェイダ=アルガイア空港がオープン。チャーター便の他、地中海都市パルマ・デ・マヨルカへの定期便を運航している。街の中心地から15km北に所在する。

市内バス23路線の他、夜間バスや観光バスがある。
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