与瀬宿
| 与瀬宿跡周辺(JR相模湖駅) | |
| 街道 | 甲州道中(日本橋より10番目) |
|---|---|
| 所在地 | 神奈川県相模原市緑区与瀬 |
| 旧国名 | 相模国津久井郡 |
| 江戸起点 | 14里28町(約58 km) |
| 隣の宿場 | 小原宿 - 与瀬宿 - 吉野宿 |
| 家数 | 114軒(天保14年) |
| 人口 | 566人(天保14年) |
| 本陣 | 1軒(坂本家) |
| 脇本陣 | 0軒 |
| 旅籠 | 6軒 |
与瀬宿(よせしゅく)は、江戸時代に甲州道中に設けられた宿場で、現在の神奈川県相模原市緑区与瀬付近に位置した[1]。江戸時代には相模国津久井県与瀬村に属し、東隣の小原宿とともに甲州道中の宿場として機能した[1]。現在の与瀬は、JR東日本中央本線の相模湖駅周辺にあたる[2]。
概要と名称の由来
与瀬宿は相模国津久井郡に属し、相模川沿いの山間部、小仏峠を控えた難所に位置する。慶長年間(1596年〜1615年)頃にはすでに集落としての基盤があったとされる[3]。
地名の由来については、高尾から与瀬・吉野へかけての地名が京都近郊(洛外)の八瀬や大原などの地名に酷似していることから、これらを模して名付けられたという伝承があり、江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』や近代以降の文献にも「京都の八瀬・大原にちなむ」旨が記録されている[3][4][5][6]。俗に近隣の小原宿と合わせて「よせをはら」とも称され、地域内に「清水」姓が多いことからも京都清水寺との縁起が想起されていたとする記述も見られる[6]。
また、鎮守である蔵王権現(現・與瀬神社)が大和国吉野から勧請されたことに由来して「吉野」「与瀬」「小原」などの地名が模されたとする説もあり、『新編相模国風土記稿』等では前大僧正隆辨が詠んだとされる和歌(相模御嶽山納歌)もあわせて紹介されている[3][6]。ただし、これらを直接裏付ける確定的な一次史料が現存しているわけではない。
歴史
宿場の機能(片継ぎ制度)
与瀬宿の東隣には小原宿があり、両宿は約2キロメートルしか離れておらず、同じ与瀬村内に位置していた[1]。
甲州道中では、近接する両宿が人馬の継立業務を方向別に分担する「片継ぎ」の仕組みが採られていた[1][7]。
- 下り(江戸方面から甲府方面): 小原宿が継立を担当し、与瀬宿を通過して吉野宿まで荷物を継ぎ送った[7]。
- 上り(甲府方面から江戸方面): 与瀬宿が継立を担当し、小原宿を通過して小仏宿まで荷物を継ぎ送った[7]。
このように、両宿はそれぞれ異なる方向の継立業務を担い、隣接する宿場同士で甲州道中の交通を支えていた[8]。
与瀬宿絵図
元禄5年(1692年)、与瀬村の名主・問屋役を務めた坂本家に関係する「与瀬宿絵図」が作成された[1]。この絵図には、宿場の範囲や水路、街道に面した敷地の間口、家々の所有者や役職、年貢負担の有無、伝馬役の分担などが記されており、当時の町並みや宿場運営を知ることができる。絵図の西端には慈眼寺も描かれている[1]。
絵図を伝えた坂本家は甲斐武田氏の旧臣とされ、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後に与瀬へ移住し、慶長元年(1596年)頃に屋敷を構えて地子免除を受けた旧家であり[3]、代々与瀬村の名主や問屋役、本陣として宿場を取りまとめる中心的役割を担った[1]。
同絵図に記された与瀬宿の家屋は103軒で、このうち39軒が馬役、50軒が人足役を担っていた[1]。宿場には幕府役人らの通行に備え、公的な荷物や文書を運ぶ人足と馬を確保することが求められていたが、名主の家など14軒と店借り10人は伝馬役の負担から除かれていた[1]。
伝馬役の負担は住民の生活にも影響を与えた。宝暦10年(1760年)の文書には、馬役が人足役よりも負担が大きいことを考慮し、人足役を「一つ分」、馬役を「二つ分」として計上する取り決めが記されている[1]。また、与瀬宿と小原宿では伝馬役負担に関連して一部の屋敷地が地子免除の対象となっていたが、甲州道中の宿場でこうした免除が行われた例は全国的にも限られていた[1]。
天保年間の宿場の規模
天保14年(1843年)の『甲州道中宿村大概帳』によると、与瀬宿の宿内家数は114軒、人口は566人であった。本陣は坂本家が務める1軒のみで脇本陣はなく、問屋が1軒、旅籠が6軒存在した[1]。
二瀬越え
与瀬宿から西隣の吉野宿へ向かう経路には、甲州道中の本道のほかに「二瀬越え(ふたせごえ)」と呼ばれる船路の近道があった[1]。この経路は与瀬村から相模川を挟んで対岸に位置する勝瀬集落を通り、再び川を渡って吉野宿へ至るもので、川を二度渡ることからその名が付いた[1]。
浮世絵師の初代歌川広重は、天保12年(1841年)に甲府方面へ向かう際、この近道を通った[1]。広重の道中記には、与瀬宿の「角屋」という茶屋の脇から本道を離れ、船で相模川を二度渡ったことや、この経路が本道より約20町(約2.2キロメートル)短かったことが記されている[1]。
また広重は、渡し船の船頭に川の名を尋ねたところ「さくら川」と教えられたことも記録している。富士山の雪解け水で増水した様子や雪の花が桜に似ていることから地元の人が「桜川」と呼んでいたというエピソードは、当時の風物や旅人が得た情報を伝える貴重な記録となっている[1]。
安政5年(1858年)刊行の『五海道中細見記』にも「悪は止せ、善は吉野の二たせごえ」といった言葉遊びを交えた歌と共に二瀬越えが紹介されており、広く知られた近道であったことがうかがえる[1]。なお、この近道の一部は、昭和22年(1947年)に完成した相模ダムによって形成された相模湖の湖底に沈んでいる(後述)[1]。
災害
元禄12年(1699年)、暴風により与瀬宿と小原宿で家屋が倒壊した。復旧のため、両宿では代官所から金19両2分を借り入れた記録が残されている[9]。
昭和22年(1947年)には与瀬宿で大火が発生し、本陣が焼失した[9]。
明治時代以降
明治13年(1880年)、明治天皇が巡幸の際に与瀬宿本陣で休憩したことが伝えられている[10]。本陣の建物は現存していないが、その跡の近くには「明治天皇與御跡小休阯碑」と刻まれた石碑が残されている[10]。
明治34年(1901年)には、現在のJR東日本中央本線の与瀬駅が開業した[2]。駅名は昭和31年(1956年)に相模湖駅へ変更された[2]。宿場としての役割が失われた後も、鉄道駅の開設によって、この地域は交通の拠点としての性格を引き継いだ。
與瀬神社と地域の信仰
与瀬には、古くから「与瀬の権現様」と呼ばれてきた與瀬神社がある。同社は、古記録である『新編相模国風土記稿』などによれば、もとは相模川北岸にあった社を現在地に移したものとされ、「與瀬大権現」と称された[11]。同社の由緒には、御神像の台座に室町時代の享禄年間(1528年 - 1532年)の年号があったと記されている[11]。
同社の縁起には、ヤヨとキヨという二人が相模川の御供岩で網を打ったところ、神体が網にかかって引き上げられたため、これを祠に祀ったという伝承がある。その後、村里に疫病が流行したことから現在地に遷座したと伝えられている[11]。
神奈川県神社庁は、與瀬神社について民間信仰によって祀られ伝えられてきた神社と説明している[11]。御祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)で、現在も厄除け、開運、子供の健康祈願などの信仰を集めている[11]。同社は明治37年(1904年)の火災で社殿を焼失したが、大正3年(1914年)に本殿が再建された[11]。
史跡・文化財
宿場関連の遺構と現状
かつての与瀬宿は、JR中央本線相模湖駅周辺から、その南側を並行して走る現代の国道20号沿い(西側の与瀬神社下付近にかけて)の一帯に位置していた[1][9][2]。現在の与瀬は、相模湖駅前を中心に市街地や国道20号、中央自動車道などが整備され、かつての宿場の街並みそのものは大きく変貌しているが、街道沿いには往時を伝える標柱や石碑などの遺構が点在している[9]。
ダム建設に伴う景観の変容
昭和15年(1940年)に着工し昭和22年(1947年)に完成した相模ダムによって、神奈川県初の人造湖である「相模湖」が誕生した。このダム建設に伴う湛水により、与瀬宿周辺の景観や地域構造は大きく変容した。
主な文化財・歴史資料
与瀬地区およびその周辺には、往時の歴史や地域の信仰を今に伝える文化財や歴史資料が残されている。
- 坂本家文書(与瀬宿絵図など): 代々名主・問屋役を務めた坂本家に伝わる古文書群。元禄5年(1692年)の「与瀬宿絵図」をはじめ、宿場運営の実態や伝馬役の負担状況を記録した貴重な歴史資料として保管・研究されている(神奈川県立歴史博物館等に所蔵)[1]。
- 與瀬神社(蔵王権現社): 与瀬の鎮守であり、相模原市の文化財保存活用地域計画において近世の重要建造物・構成要素に位置づけられている[9]。明治37年(1904年)の火災後に再建された本殿(大正3年建立)などを備え[11]、国道20号やJR中央本線を見下ろす高台に鎮座している。
- 小原宿本陣(隣接地区): 東隣の小原宿には、神奈川県内で唯一現存する本陣建築である「小原宿本陣」(神奈川県指定重要文化財)が残されている[9]。与瀬宿の本陣が大火で焼失したのに対し、両宿の一体的な交通・歴史文化を今日に伝える貴重な遺構となっている[9]。
関連項目
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 神奈川県立歴史博物館「相模国津久井県与瀬村名主・問屋役坂本家文書 与瀬宿絵図」
- 1 2 3 4 5 相模原市立博物館「博物館収蔵資料紹介~鉄道に関する資料」
- 1 2 3 4 雄山閣編輯局 編『大日本地誌大系 第40巻 新編相模国風土記稿 第5巻』雄山閣、1932-1933年(昭和7-8年)、346-347頁
- ↑ 尾島知之 編『高尾から小仏峠へ』みどりや書店、1930年(昭和5年)、38頁
- ↑ 河田楨『一日二日山の旅』木耳社、1978年3月、258頁
- 1 2 3 長谷川「多摩御陵を周る地名考」『武蔵野』第9巻第5号、武蔵野文化協会、1927年5月、24-25頁
- 1 2 3 公益財団法人神奈川県市町村振興協会「隣宿と一体となり流通を支えた 小原宿」『協会だより』第30号。
- ↑ 神奈川県企画調査部県史編集室 編『神奈川県史 資料編 9 近世 6』神奈川県、1974年、260頁
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 相模原市『相模原市文化財保存活用地域計画』2025年
- 1 2 3 相模原市立博物館「令和6年度歴史分野実習~1日目~」
- 1 2 3 4 5 6 7 神奈川県神社庁「與瀬神社」
参考文献
- 神奈川県立歴史博物館「相模国津久井県与瀬村名主・問屋役坂本家文書 与瀬宿絵図」。
- 児玉幸多校訂『近世交通史料集 6 日光・奥州・甲州道中宿村大概帳』吉川弘文館、1972年。
- 相模原市『相模原市文化財保存活用地域計画』2025年。
- 神奈川県神社庁「與瀬神社」。
- 雄山閣編輯局 編『大日本地誌大系 第40巻 新編相模国風土記稿 第5巻』雄山閣、1932-1933年(昭和7-8年)。
- 尾島知之 編『高尾から小仏峠へ』みどりや書店、1930年(昭和5年)。
- 長谷川「多摩御陵を周る地名考」『武蔵野』第9巻第5号、武蔵野文化協会、1927年5月。
- 河田楨『一日二日山の旅』木耳社、1978年3月。
- 神奈川県企画調査部県史編集室 編『神奈川県史 資料編 9 近世 6』神奈川県、1974年。