與瀬神社

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與瀬神社
與瀬神社
所在地 神奈川県相模原市緑区与瀬1392
主祭神 日本武命
別名 與瀬大権現、与瀬蔵王権現、与瀬の権現様
例祭 4月13日
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與瀬神社(よせじんじゃ)は、神奈川県相模原市緑区与瀬に鎮座する神社である。祭神は日本武命で、古くは「與瀬大権現」「与瀬蔵王権現」などと称され、地元では「与瀬の権現様」とも呼ばれてきた[1]。

歴史

創建伝承

神奈川県神社庁の由緒によれば、『新編相模国風土記稿』などには、古くは相模川北岸にあった社を現在地に移したことが記されている[1]。

神社の伝承では、ヤヨとキヨという2人が相模川の御供岩付近で漁をしていた際、網に神体がかかり、これを祠に祀ったことが起源とされる。その後、村に悪疫が流行したため、神体を清浄な現在地に遷したと伝えられている[1]。

『津久井郡神社誌』にも創立伝承が記されている。同書によれば、与瀬宿に住む「八与さん」と「喜与さん」という2人が相模川で鮎漁をしていたところ、網に金色に輝く神像がかかった。2人は神像を持ち帰って祠を建てたが、その後、宿で疫病が流行した。神像を不浄の地に祀ったことが原因だと告げられたため、清浄な熊野神社の境内に遷したところ、疫病が鎮まり、宿の鎮守神として崇敬されるようになったという [2] 。

近世以降

江戸時代には石段や神輿などが整えられた。境内には元号の銘がある石段が残り、宝暦年間には江戸の商人から神輿が寄進された[1]。

1904年(明治37年)2月、火災により拝殿をはじめとする社殿が焼失した[1][3]。『津久井郡神社誌』によれば、火災後に人々が灰の中から御神体を探したものの見つからず、ヤヨとキヨの遠孫とされる石井十郎が一人で灰をかき分けて探し続け、錦の袋に入った御神像を発見したという。その瞬間、石井は精神恍惚となったと記されている [4] 。

なお同書には、御神体は古来誰も目にしたことがなく、見た者は目がつぶれるという伝承が残されている。かつて別当寺であった慈眼寺の住職が片目を覆い拝観した際にも、見ていた方の目がたちまち見えなくなったとされる[4]。

その後、氏子や崇敬者による復興が進められ、1914年(大正3年)に本殿が建立され、拝殿は1949年(昭和24年)に再建された[1][3]。

社殿

『津久井郡神社誌』には、本殿、拝殿、覆殿、神楽殿、額殿、神輿舎、随神門が記載されている。また、同書によれば、境内地は神社有地で、氏子数は約500戸であった[3]。

相模原市の文化財保存活用地域計画では、與瀬神社本殿(蔵王権現社)が近世の建造物として掲載されている。また、同計画では、甲州街道沿いの宿場町の歴史文化を扱う「さがみはら歴史文化物語4」の構成要素に位置づけられている[5]。

境内

境内には熊野神社や平安神社のほか、近代以降の戦争に関する記念碑がある[1][6]。

『津久井郡神社誌』には、境内神社として熊野神社、御霊神社、菅原神社、平安神社が記載されている。御霊神社については西京御霊神社と同体とされ、菅原神社の祭神は菅原道真、平安神社には英霊75柱が祀られていると記されている[3]。

従軍紀念碑は1935年(昭和10年)3月10日に与瀬町在郷軍人会と与瀬町男女青年団によって建立された。相模原市の調査資料によれば、碑には五稜郭戦役、西南戦役、日清戦争から満州事変までの従軍者の氏名が刻まれている[6]。

境内には1957年(昭和32年)4月建立の殉国英霊之碑もあり、相模原市の調査では、碑の裏面は刻字が読み取りにくいものの、第二次世界大戦の戦没者78名が記されているとされる[6]。

祭礼

毎年4月13日に春季例大祭が行われる。地元では「権現様のお祭り」として親しまれ、神輿渡御が祭りの見どころとなっている[7]。

例大祭で使用される神輿は、宝暦10年(1760年)に江戸麹町の商人8人から奉納されたものとされる[7]。神輿は拝殿を出た後、社殿の周囲を3周し、約50段の急な石段を下る。「ヤヨー、キヨー」という掛け声とともに神輿を担いで石段を下る様子が、例大祭の特徴として紹介されている[7]。

神輿渡御では、神社から甲州街道沿いを通り、相模湖畔の御供岩まで巡行する。相模原市立博物館によると、御供岩は、與瀬神社の神体が相模川で漁をしていた際に網にかかったという伝承に関係する場所である。元の岩は相模ダム建設によって湖底に沈み、現在はその一部が湖畔に移されている。祭りでは御供岩にも注連縄が巻かれ、神輿が同所まで担がれた後、神社へ戻る[8]。

神輿の保存と祭りの継承には、與瀬神輿保存會裸神會が取り組んでいる。同会は、若い担ぎ手の参加を促し、地域の祭りを継承することを目的に発足した[7]。

このほか、8月1日には夏祭が行われる。神奈川県神社庁の由緒本文では、この祭礼を「湖浄祭」と表記している一方、同ページの祭礼一覧では「夏祭」としている[1]。同日には、相模湖湖上祭花火大会も開催される[9]。

奉納芸能・社宝

例大祭では境内において神楽の奉納や車上囃子の巡行が行われる[10][11]。また、社宝として神奈川県内最大級とされる直径約2メートルの大太鼓が伝わっており、この大太鼓を中心とした組太鼓「権現太鼓」が例大祭や8月1日の湖上祭などで披露されている[11]。

与瀬神楽

与瀬神社には古くから御神楽が奉納されており、関東一円で行われている「神代里神楽」に類するものである[12]。大拍子、笛、太鼓の伴奏に合わせて、老若男女の神からおかめ、火男に至る登場人物が一切無言で舞い踊るパントマイム形式の仮面無言劇となっている[12]。

従来の里神楽は、古来より伝わる相模の神楽師と武州八王子方面の交流によるものであったが、現在のものは、八王子の小泉太夫の手によって伝えられた[12]。神楽の奉納に使用される装束、面、道具類も数多く保存されている[12]。

現行の曲目は全二十数座からなり、代表的な曲目として以下のものが伝わっている[12]。 - 神楽三番叟 - 天乃岩戸 - 大蛇退治 - 菩薩上手 - 天乃返矢 - 幽顕分界 - 三穂ヶ崎御遊 - 天孫降臨 - 熊曽征伐 - 東夷征伐 - 海山幸易 - 三輪神杉 - 入幡山 - 産屋 - 稲荷山 - 神明種蒔 - 神剣幽助 - 珠とり ほか

関連寺院

与瀬神社の参道入口付近には、高野山真言宗の寺院である慈眼寺(じげんじ、山号:金峯山)が隣接している。慈眼寺は天正年間に頼源阿闍梨により開創されたと伝わり、明治初期の神仏分離に至るまで与瀬蔵王権現(与瀬神社)の別当寺であった[3][13]。神仏習合の時代には、慈眼寺が神社の管理や祭祀を直接担っていたが、1872年(明治5年)の神仏分離令により与瀬神社と分離した[3]。

所在地

神奈川県相模原市緑区与瀬1392[1]

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 “與瀬神社”. 神奈川県神社庁. 2026年10月11日閲覧。
  2. ↑ 浜野寿雄 (1985-12). 津久井郡神社誌 : 記念篇・神社篇・神道篇・神秘篇 (3版 ed.). 石楯尾神社社務所. p. 152-153
  3. 1 2 3 4 5 6 浜野寿雄 (1985-12). 津久井郡神社誌 : 記念篇・神社篇・神道篇・神秘篇 (3版 ed.). 石楯尾神社社務所. pp. 150–151
  4. 1 2 浜野寿雄 (1985-12). 津久井郡神社誌 : 記念篇・神社篇・神道篇・神秘篇 (3版 ed.). 石楯尾神社社務所. p. 155-156
  5. ↑ “第7章 さがみはら地域遺産の一体的・総合的な保存・活用”. 相模原市. 2026年10月11日閲覧。
  6. 1 2 3 “第24回企画展「相模原の村々と明治期の戦争」”. 相模原市. 2026年10月11日閲覧。
  7. 1 2 3 4 “與瀬神輿保存會裸神會 『粋』な神輿渡御を披露”. タウンニュース (2025年4月3日). 2026年10月11日閲覧。
  8. ↑ “「写真で見る相模原~昭和・平成の生活と民俗~」(No.75・伝説④ 石や岩の伝説)”. 相模原市立博物館 (2021年9月29日). 2026年10月11日閲覧。
  9. ↑ “さがみ湖湖上祭花火大会”. 相模原市. 2026年10月11日閲覧。
  10. ↑ “「与瀬神社例大祭」が開催されます”. 相模原市. 2026年10月11日閲覧。
  11. 1 2 “相模湖与瀬神社”. 歴史の浪漫街道. 2026年10月11日閲覧。
  12. 1 2 3 4 5 津久井郡文化財調査研究会編 (1993-03). 津久井郡文化財 民俗編. 津久井郡広域行政組合. p. 94
  13. ↑ 『津久井郡神社誌』および『相模湖町史』の慈眼寺・与瀬神社に関する項。

参考文献

  • 浜野寿雄『津久井郡神社誌 : 記念篇・神社篇・神道篇・神秘篇』第3版、石楯尾神社社務所、1985年12月。
  • 津久井郡文化財調査研究会 編『津久井郡文化財 民俗編』津久井郡広域行政組合、1993年3月。

外部リンク