中條金之助

ウィキペディアから、無料の百科事典

中條 金之助(ちゅうじょう きんのすけ、1827年7月12日(文政10年6月19日) - 1896年(明治29年)1月19日)は、江戸時代後期の旗本。諱は景昭先端、

生涯

御小姓組中條市右衛門景利の子として生まれる。弘化3年(1846年)、19歳で跡継ぎのいなかった旗本中條銀一郎の養子となり、家督を継いだ。

幼少より剣術に励み、心形刀流、千葉周作の玄武館(北辰一刀流)、斎藤弥九郎の練兵館(神道無念流)、桃井春蔵の道場という幕末江戸三大道場で修業した。なかでも北辰一刀流の玄武館で最も長く学び、千葉周作の次男・千葉栄次郎を直接の師とした。山岡鉄舟とは若年から親しく、ともに剣術修業に励んだ。中條は「もっとも長く修業したのは玄武館、直接の師は千葉栄次郎先生でした」と回想している。 剣術以外にも柔術に秀でており、後に講武所柔術教授方頭取となる戸塚彦介に師事して戸塚派楊心流を学び目録を得た。明治時代に千葉市の胤重寺に建てられた戸塚派楊心流門人碑には数多くいる目録門人の中で一番最初に名前が刻まれている。

嘉永7年(1854年)より13代将軍徳川家定に仕え、家中の武士たちに武術を指南する剣術・柔術世話心得などを歴任する。安政2年(1855年)、幕府が講武所を開設すると剣術世話心得、柔術取世話心得に就任した[1]。中條は、直心影流十五代の野見鍾次郎源安平と交流があった。野見は幕府講武所の剣術世話心得を務めた剣術家であり、両者は幕末の武術教育や警衛活動に関係していた。

文久2年(1862年)、尊皇攘夷論者・清河八郎の発案で、発足した浪士組で親友の山岡鉄舟とともに取締役になる。[2]その後、新徴組支配を歴任。この頃、窪田清音が門弟である江戸の天才刀工・源清麿から贈られた刀を懇望し、清音より譲り受けている[3][4]。

慶応3年(1867年)、将軍・徳川慶喜が大政奉還後、慶喜の身辺を危ぶんだ勝海舟らが慶喜を警護するために精鋭隊を発足、当代一流の剣客として精鋭隊の頭に抜擢される。野見鍾次郎源安平は新政府軍(東征大総督)から「徳川慶喜の上野寛永寺での謹慎が、本当に偽りのない恭順(降伏の意思)であるか」を確かめる見聞役に任命されており、上野に赴いた際、警戒する彰義隊士らと一触即発の危機に陥ったが、山岡鉄舟や高橋泥舟らの護衛によって無事に慶喜の真意を新政府側に伝え、江戸無血開城への流れへと繋げている。野見の略伝には、中條について「中條金之助が君の事を頻りに慕ひて居る」との記述があり、二人の親しい関係がうかがえる。また、中條から野見に宛てた書簡も収録されており、個人的な交流が確認できる[5]。江戸開城の際には仲間と共に江戸城内で自決するつもりであったが勝海舟の説得で思いとどまったとされる。慶応4年(1868年)の上野戦争については、明治27年刊『彰義隊戦闘之始末』に、中條らの一隊が坂上から官軍に一斉射撃を加えたとする記述があり、戦闘への関与がうかがえる[6]。

江戸城から水戸に退く時、精鋭隊の一員として慶喜とともに下る。徳川慶喜や、徳川宗家を継いだ徳川家達が駿府(静岡)へ強制的に移住されることになると、中條は慶喜に従い精鋭隊とその家族200人とともに駿府へ移住した。 武士としての俸禄を失った旧幕臣たちが生活再建を迫られるなか、明治2年(1869年)7月、徳川家達の許可を得て、金谷以南の原野を「金谷原開墾方」として牧之原荒野の開墾を開始。中條、大草高重、其の他18名を幹事として、約250戸の元幕臣たちが牧之原へ転住し、1,425町歩の開墾を始めた[7]。荒蕪地を切り開き、茶園を造成する仕事は困難を極め、資金の工面にも苦労した。中條自身の借金願いも史料として残されている。鎖国政策から一転開国をした新政府は、外貨獲得の輸出品として、生糸と茶に注目しており、山岡鉄舟、勝海舟の提言もあって茶の生産を決める。当時、42歳の組頭の中條は、この開墾組織を運営していくにあたって多くの仲間をまとめ、さまざまな取り決めや仕組みを作成しながら開墾を進めていった。明治4年(1871年)頃の開墾地は200町歩であったのが、明治10年(1877年)には500町歩に増加、牧之原開墾を成功に導いた。

明治7年(1874年)には神奈川県令の就任依頼があったが、「一旦山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木の肥やしになるのだ」と辞退。明治29年(1896年)1月19日、77歳で亡くなる。種月院に埋葬、勝海舟が葬儀委員長を務めた。昭和63年(1988年)、島田市により中條金之助景昭像、顕彰碑が建てられた。

山岡鉄舟との関係

山岡鉄舟との親交は深く、若いころは中條が鉄舟に剣術上の助言を与えることもあった。明治26年刊『山岡鉄舟伝』は、中條を「旗本有名の剣士にして、且つ篤行家なり」と評している[8]。 中條は明治維新後の剣術について、山岡鉄舟がさらに技量を高めたのに対し、自分は生活のために修業を続けられなかったと振り返っている。この回想には、旧幕臣が直面した生活環境の変化がよく表れている。『山岡鉄舟伝』によれば、中條は維新後、駿州金谷原に退き、仕官せず、農作業に従事して清貧を守った。耕作中にも短袴を着用し、武士としての威儀を保っていたという。剣術家として名声を得ながら、新しい時代には自ら鍬を執って生きたのである[9]。

脚注

  1. ↑ 安藤直方「講武所」
  2. ↑ 大森曹玄『山岡鉄舟』
  3. ↑ 『生誕200年記念 清麿』P. 94
  4. ↑ 石垣辰雄『鹿嶋神伝直心影流極意』p28
  5. ↑ 石垣辰雄『鹿嶋神伝直心影流極意』p35、1935年
  6. ↑ 篠沢七郎 著『彰義隊戦闘之始末』,p20,重栄社,明27
  7. ↑ 岩波文庫『海舟座談』p. 127-128
  8. ↑ 『明治の群像 第10』p77,三一書房、1969年、「大地に潜みかくれた幕臣剣客――中條金之助」
  9. ↑ 佐倉孫三『山岡鉄舟伝』普及舎、1893年

参考文献

  • 『幕末明治剣客剣豪総覧』(別冊歴史読本04) 新人物往来社、1999年
  • 安藤直方「講武所」(東京市史外篇3)
  • 大森曹玄『山岡鉄舟』(春秋社)
  • 『海舟座談』(岩波文庫)
  • 『生誕200年記念 清麿』(佐野美術館)
  • 『静岡市史編纂資料. 第6卷』
  • 田中惣五郎著『近代日本官僚史』P23(東洋経済新報社)
  • 農業土木学会誌, 第 64 巻、第 7~12 号(農業土木学会)

関連項目

外部リンク